学位論文要旨



No 113709
著者(漢字) 大橋,一晶
著者(英字)
著者(カナ) オオハシ,カズアキ
標題(和) ミツバチ働き蜂の行動変化にともなう下咽頭腺細胞の機能転換に関する研究
標題(洋)
報告番号 113709
報告番号 甲13709
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第828号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 名取,俊二
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 助教授 鈴木,利治
 東京大学 助教授 今井,康之
内容要旨

 ミツバチは女王蜂と働き蜂、雄蜂からなるコロニー社会を形成し、棲息している。社会性昆虫であるハナバチ科の中でも、特に高度に発達した社会システムを持ち、その働き蜂は、羽化後の日齢にともない育児(羽化後3-10日;内勤蜂)から採餌(羽化後14-30日;外勤蜂)へと行動が変化(分業)するという特徴をもつ。その際、働き蜂には行動変化に適した生理状態の変化が生じる。私は修士課程において、働き蜂の頭部分泌器官である下咽頭腺がその主要な蛋白として、内勤蜂では3種類のローヤルゼリー蛋白(50,56,64kDa蛋白)、外勤蜂では花蜜を分解するための-グルコシダーゼを発現することを、これらの蛋白を精製し、その性状解析を行うことにより明らかにした。

 ミツバチ働き蜂の分業とそれにともなう生理状態の変化は、変態という形態形成期を終えた成虫(adult)で見られること、進化の最終段階で獲得された形質と考えられることから、その解析は細胞生物学上、興味深い知見をもたらすと期待される。

 今回私は、下咽頭腺蛋白群のcDNAクローニングと発現解析を行うことにより、働き蜂の分業にともなう下咽頭腺の機能転換は単一な細胞レベルで生じていること、またその機能転換は単に加齢によるのではなく、コロニーの状況に依存して生じることを明らかにしたので以下に報告する。

1.下咽頭腺蛋白の構造決定と、働き蜂の行動変化にともなう遺伝子発現変化1,2)

 最初に、ローヤルゼリー蛋白と-グルコシダーゼのcDNAを単離し、その構造を解析した。その結果、3種類のローヤルゼリー蛋白は相互に約60%の相同性を示し、ファミリーを構成すること、また-グルコシダーゼはショウジョウバエのマルターゼと推定される遺伝子産物と約50%の相同性を示すことが分かった。

 次に、働き蜂の行動変化にともなう遺伝子発現の変化を、ノザンブロット解析により調べた。その結果、ローヤルゼリー蛋白のうち50kDa蛋白と64kDa蛋白遺伝子は内勤蜂特異的に発現するが、56kDa蛋白遺伝子は内勤蜂と外勤蜂の両方に発現すること、-グルコシダーゼ遺伝子は外勤蜂特異的に発現することが分かった。また、今回新たにcDNAを単離したアミラーゼとグルコースオキシダーゼの遺伝子も外勤蜂特異的に発現した。従って、50kDaと64kDaのローヤルゼリー蛋白と糖代謝酵素群は転写レベルで発現調節されるが、56kDa蛋白は翻訳レベルで調節される可能性がある。以上の結果から下咽頭腺は、働き蜂の行動変化にともない、ローヤルゼリー蛋白から糖代謝酵素へと遺伝子発現の様式が転換することが分かった。

2.下咽頭腺の遺伝子発現の細胞レベルでの解析2)

 下咽頭腺は約12個の分泌細胞が集まってできた分泌腺が多数、導管につながった構造を持つ。下咽頭腺の機能転換が同一細胞内で生じるのか、別々の細胞で生じるのか調べる目的でin situハイブリダイゼーション法によりこれらの遺伝子の発現部位を調べた。その結果、64kDa蛋白遺伝子は内勤蜂の下咽頭腺において全ての分泌腺で、また分泌腺を構成する全ての分泌細胞で発現が認められた。同様に、-グルコシダーゼ遺伝子は、外勤蜂の下咽頭腺において全ての分泌細胞に発現することが分かった。さらに、内勤蜂と外勤蜂の両方で遺伝子が発現していた56kDa蛋白については、内勤蜂と外勤蜂の下咽頭腺それぞれについて全ての分泌細胞に発現が検出された。

 DAPI染色の結果では、内勤蜂と外勤蜂で分泌腺を構成する細胞数はほとんど変わらず、分業の過程で新たな分泌細胞が発生した可能性は低い。以上の結果から下咽頭腺は、働き蜂の行動変化にともない同一の細胞が異なる遺伝子を発現することが示された。すなわち下咽頭腺では働き蜂の行動変化にともない、単一な細胞レベルで機能転換が起きることが明らかとなった。

3.コロニーの状況に依存した下咽頭腺細胞の機能転換の可塑性

 通常のコロニーでは働き蜂の行動変化は羽化後の日齢にともなって起きるため、下咽頭腺細胞の機能転換が、働き蜂の行動変化によるのか、単に日齢の経過によるのかは不明である。そこで、この点について検討する目的で、日齢の進んだ働き蜂に育児を強いた場合の下咽頭腺細胞の分化状態を調べてみた。

 女王蜂をコロニーから取り除き働き蜂の卵の産卵を止めると、働き蜂の一部が雄蜂の卵を産卵し始める。女王蜂を除去して約50日後には、通常なら外勤蜂になる日齢の働き蜂と、雄蜂の幼虫からなるコロニーが形成された。そこで、経時的に採集した働き蜂の下咽頭腺の蛋白発現のパターンをSDS-電気泳動および、50kDa蛋白と-グルコシダーゼに対する抗体を用いたイムノブロット解析により調べた。

 その結果、これら日齢の進んだ働き蜂でも内勤蜂に特有な蛋白発現パターンが観察されること、内勤蜂の発現パターンを示す働き蜂の割合は、通常群と同じく全体の8-9割に維持されることが分かった。このことは、若い働き蜂が存在しない状況では、日齢が進んだ働き蜂の下咽頭腺が雄蜂幼虫を育てるために内勤蜂型に維持されることを示している。以上から、下咽頭腺細胞の機能の変化が、単に日齢によるのではなく、コロニーの状況に依存することが明らかとなった。

4.まとめと考察

 本研究で私は、ミツバチの下咽頭腺細胞が、内勤蜂から外勤蜂への行動変化にともなって単一の細胞レベルで機能転換を起こすことを初めて示した。動物細胞が機能転換する例としては、再生時における細胞の脱分化と再分化が挙げられるが、下咽頭腺細胞の機能転換は行動変化にともなう点、細胞の脱分化や新生によらない点で全く新しいタイプの移行様式と考えられる。この形質が昆虫の中でも最も進化したミツバチで発見されたことは、動物細胞の分化の可塑性という問題において、新しい可能性を提示するものと思われる。

 今後は、働き蜂の分業や下咽頭腺の機能を制御する体液性因子の探索、同定、また、細胞機能の転換の分子機構の解明が重要な課題であると考えられる。

謝辞

 項目3は、玉川大学(佐々木正己先生、中村純先生)とJST(笹川浩美先生)との共同研究としておこないました。実験のためにミツバチの巣箱を薬用植物園に置かせてくださった、本学の折原裕先生に感謝いたします。

参考文献1.Ohashi,K.et al.(1996)Biochim.Bioplrys.Res.Commun.221,380-385.2.Ohashi,K.et al.(1997)Eur.J.Biochem.249,797-802.
審査要旨

 ミツバチは高度な社会システムを持つ社会性昆虫であり、働き蜂は羽化後の日齢にともない、育児(羽化後3-10日)から採餌(羽化後14-30日)へと行動が変化する。その際、働き蜂には行動変化に対応した生理状態の変化が生じる。例えば、働き蜂の頭部分泌腺である下咽頭腺は、内勤蜂では3種類のローヤルゼリー蛋白(50,56,64kDa蛋白)をmajorに発現するが、外勤蜂では代わりに-グルコシダーゼをmajorに発現する。働き蜂の分業とそれにともなう生理状態の変化は、コロニーを形成する成虫(働き蜂)に見られる点でミツバチに固有な、興味深い現象である。

 本論文では、下咽頭腺蛋白群のcDNAクローニングと発現解析を行うことにより、働き蜂の分業にともなう下咽頭腺の機能転換が単一な細胞レベルで起きること、また、その転換が単に加齢によるのではなく、コロニーの状況に依存して起きることを証明している。

1.下咽頭腺蛋白の構造決定と、働き蜂の行動変化にともなう遺伝子発現の変化

 最初にこれらの下咽頭腺蛋白のcDNAを単離し、その構造と働き蜂の行動変化にともなう遺伝子発現の変化を調べた。その結果、3種類のローヤルゼリー蛋白は互いに構造が類似し、ファミリーを構成することが分かった。また、50kDaと64kDaのローヤルゼリー蛋白遺伝子は内勤蜂特異的に発現し、-グルコシダーゼ遺伝子は外勤蜂特異的に発現することが示された。加えて、今回新たにcDNAを単離したアミラーゼとグルコースオキシダーゼの遺伝子も外勤蜂特異的に発現することが判明した。従って、働き蜂の行動変化にともない下咽頭腺では、ローヤルゼリー蛋白群から糖代謝酵素へと遺伝子発現のモードが大きく転換することが明らかになった。

2.下咽頭腺の遺伝子発現の細胞レベルでの解析

 下咽頭腺は約12個の分泌細胞が集まってできた分泌腺がブドウの房のように多数、導管につながった構造を持つ。下咽頭腺の機能転換が同一の細胞で起きるのか、別々の細胞で起きるのか調べる目的で、in situハイブリダイゼーション法によりこれらの遺伝子の発現部位を調べた。その結果、50kDaのローヤルゼリー蛋白遺伝子は内勤蜂の下咽頭腺の分泌腺を構成する全ての分泌細胞で発現していた。同様に、-グルコシダーゼ遺伝子は、外勤蜂の下咽頭腺の全ての分泌細胞に発現することが分かった。以上の結果、下咽頭腺は働き蜂の行動変化にともない、同じ細胞が異なる遺伝子を発現することが示された。

3.コロニーの状況に依存した下咽頭腺細胞の機能転換の可塑性

 次に、下咽頭腺細胞の機能転換が単に働き蜂の日齢の経過によるのか、あるいはコロニーの状態の変化に依存して起きるのか調べる目的で、日齢の進んだ働き蜂に育児を強いた場合の下咽頭腺細胞の分化状態を調べてみた(玉川大学とJSTとの共同研究)。

 女王蜂をコロニーから取り除き、働き蜂の卵の産卵を止めると、働き蜂の一部が雄蜂の卵を産卵し始める(偽女王蜂の出現)。その結果、通常なら外勤蜂になるはずの日齢の進んだ働き蜂と、雄蜂の幼虫からなるコロニーが形成された。そこで、経時的に採集した働き蜂の下咽頭腺の蛋白パターンをSDS-電気泳動とイムノブロット解析により調べた。その結果、日齢の進んだ働き蜂にも、内勤蜂型の蛋白発現パターンを示す個体が多く観察され、その割合は、通常群と同じくコロニー全体の8〜9割に維持されていることが分かった。このことは、若い働き蜂が存在しない状況では、日齢が進んだ働き蜂の下咽頭腺の分化状態が、雄蜂幼虫を育てるために内勤蜂型に維持されることを示唆している。以上の結果、下咽頭腺細胞の細胞機能は、単に日齢によるのではなくコロニーの状況に依存して調節されることが明らかとなった。

 以上本研究は、ミツバチの下咽頭腺細胞が、内勤蜂から外勤蜂への行動変化にともなって単一な細胞レベルで機能転換を起こすこと、コロニーという集団の環境変化に依存して、その細胞機能が調節されることを初めて示したものであり、動物細胞の分化の可塑性という問題において、新しい視点を提供するものである。

 本研究は、細胞生物学、社会生物学などの領域において寄与するところが大きく、博士(薬学)の学位に相当すると判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54660