生物の有する自己復元能力の現れである再生現象は、古くから多くの研究者により観察され、その機構に関する魅力的なモデルが提唱されている。しかし、.その分子機構は未だ明らかにされず、近年の進展著しい発生分子生物学の研究の中でも残された研究領域といえる。 再生能力を有する多細胞生物の中でも、昆虫は単なる傷口の修復や周辺細胞の再分化にとどまらず、形態を完全に再構築するという高次の再生能を示す。完全変態昆虫の肢原基(将来成虫の肢を構築する幼虫組織)は肢各部の位置情報を保持しながら分化が完了しておらず、分化に伴う影響を受けずに位置情報の回復機構にアプローチできる優れた再生研究の材料である。本学位論文著者は、修士課程において昆虫ステロイドホルモンである20-hydroxyecdysone(20-HE)が低濃度でセンチニクバエの成虫原基断片の傷口の修復をin vitroで誘導すること、更に切除した領域内に局在していた位置情報を担う遺伝子であるwinglessが融合した傷口部位に再発現し、円周方向の位置情報の回復が再現されることを示した。これは組織再生をin vitroで再現した初めての例であり、再生現象に人為的な操作を加え、その機構を解析することが可能となった。 この論文は、この再生系を用いて、再生誘導に関する昆虫ホルモンの関与を解析し、また複雑な再生現象の素過程についてその相互依存関係を解明したものである。本論文は序と総括を含み5章より構成される。 2章では、ホルモンによる肢原基再生の制御機構について報告している。通常発生過程においては、20-HEの成虫構造への分化誘導活性は別の昆虫ホルモンである幼若ホルモン(JH)により抑制される。この知見と試験管内では20-HEにより再生が進行する事実を鑑みて、in vitroの再生に与えるJHの影響を検討した。その結果、10-3MでJHを再生系に添加すると、20-HEの再生誘導活性は完全に抑制された。この結果は肢原基の再生が20-HEによる正の制御の他に幼若ホルモンによる負の制御を受ける可能性を指摘したものであり、評価できる。 3章では、再生現象でみられる3つのステップ、即ち傷の修復、位置情報の回復、細胞増殖の関連を解析している。まず、組織の再生においては、細胞増殖によって失われた細胞群を補充することは必要不可欠であり、実際にin vitroにおける再生も傷口周辺の細胞増殖を伴うものであることを示した。更にDNA polymerase阻害剤Aphidicolinをin vitro再生系に添加し、その影響を解析した結果、原基断片の形態変化に影響はなく、傷の修復の進行が認められる一方で、wingless遺伝子の再発現が認められなくなった。これは即ち、細胞増殖が傷の修復には不要である一方で位置情報の回復には必須であることを示している。これらの結果、特に位置情報の回復と細胞増殖との関係に関する結果は、再生現象を説明する2つのモデルのうち、極座標モデルが成虫原基の再生を説明するスキームとして有効であることを意味しており、発生生物学上の大きな論点に一つの解答を与えた点で大変重要な知見をもたらすものであるといえる。 4章では、成虫肢原基近位領域に発現する新規遺伝子1L1の同定を報告している。今まで、位置情報の回復を前後背腹軸の決定に関する遺伝子を用いて解析してきたが、近遠軸に関する分子基盤を説明する分子はほとんど解析されていない。再生特異的発現を示す遺伝子を解析する過程で肢原基の外縁部(肢近位領域)に局在して発現する1L1遺伝子を発見した。この遺伝子の解析は本論文では完了していないが、およそ5kbにわたる解析で新規な遺伝子であることが予想されており、今後の解析により、原基の分化に関して新たな知見をもたらすことが期待される。 以上、本研究は、in vitroの成虫原基再生系を用いて、再生誘導に関する昆虫ホルモンの関与を解析し、また複雑な再生現象の素過程について解明し再生モデルにおける論点に解答を与えた初めてのものであり、高い独創性に基づく研究といえる。発生生物学の進展に寄与するところは大きく、博士(薬学)の学位に相当するものと判断した。 |