学位論文要旨



No 113714
著者(漢字) 榛葉,信久
著者(英字)
著者(カナ) シンバ,ノブヒサ
標題(和) NMRを用いた抗原認識部位の動的立体構造解析
標題(洋)
報告番号 113714
報告番号 甲13714
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第833号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 長野,哲雄
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 福山,透
内容要旨

 免疫グロブリン分子すなわち抗体は、外来からの異物(抗原)を認識し排除する免疫反応の中核を担っている糖タンパク質である。抗体の機能的特徴としては、H鎖およびL鎖の可変領域(VH、VLドメイン)に3箇所ずつ存在するループ領域(H1〜H3、L1〜L3)によって多様かつ厳密な抗原認識を行うことが挙げられる。また、この性質が着目され、さまざまな方面で抗体の活用が試みられている。酵素として機能する触媒抗体もその1つである。

 本研究では、まず、抗体の特異な抗原認識機構について、続いて、抗体による触媒作用の発現機構について解析を行った。解析にはNMRを用い、動的構造の観点から抗原認識部位の様相を露にすることを目的とした。

1.抗DNS-Fvの動的立体構造と結合活性に関する研究【序】

 当研究室において、抗ダンシル(DNS)抗体の抗原認識最小単位Fvフラグメント(VH、VLヘテロダイマー)の作製法が確立され、NMRによる抗原認識機構の解析が進められている。ハプテンとしてDNS基にlysineを縮合させたDNS-Lysを用いて解析を行った結果より、1)抗原認識部位がVHドメインN末端、H1ループおよびH3ループで構成されていること、2)抗原非存在下では抗原認識部位のH3ループにミリ秒オーダーのダイナミックスが存在していることが明らかになっている。本研究では、抗原認識部位におけるダイナミックスと抗原認識機構に関し、NMRおよびストップトフロー法による解析を行った。

【結果・考察】(1)NMRによる抗原結合部位の動的構造解析

 DNS-Lys存在下におけるNOE実験より、H3ループに存在するTyr96(H)とTyr104(H)がDNS-Lys近傍に位置していることが示されている。そこで、抗原結合部位の動的構造を解析するために、Tyr残基側鎖3’,5’プロトンのみが観測可能な標識Fvを調製し、ROESY測定を行った。その結果、DNS-Lys非存在下において、13個のTyr残基中4残基(Tyr91(H)、Tyr96(H)、Tyr97(H)、Tyr104(H))に由来する化学交換ピークが観測された。一方、DNS-Lys存在下ではTyr96(H)、Tyr97(H)、Tyr104(H)由来の化学交換ピークが消失した。Tyr96(H)、Tyr97(H)、Tyr104(H)は、H3ループに存在していることから、1)抗原非存在下において、抗原結合部位には少なくても2種類のコンフォマーが存在し、交換していること、2)DNS-Lys存在下では、その構造多形性が消失すること、が判明した。次に、各コンフォマー由来のシグナル強度比および化学交換ピーク強度の混合時間依存性よりコンフォマー間の交換速度を求めたところ、30.0(s-1)、2.1(s-1)であることが示された。また、DNS-Lys濃度をFvに対してモル比0.5の条件下で測定したNOE実験より、2つのコンフォマーのうち一方がDNS-Lys結合に関与していることが判明した。

(2)ストップトフロー蛍光法によるDNS-Lys認識機構の解析

 ストップトフロー蛍光法によりDNS-LysとFvの結合反応を解析したところ、2相性を示した。さらに、この2分子反応速度のDNS-Lys濃度依存性から、DNS-Lys非存在下において構造異性化が起きていることが示された。また、ストップトフロー蛍光法により得られたコンフォマー間の交換速度はNMRにより求められたものと一致した。

【結論】

 NMRおよびストップトフロー法を用いて抗DNS-Fvを解析した結果、抗原結合部位には2つのコンフォマーが存在し、そのうちの一方がDNS-Lysと結合可能なフォームであることが明らかになった。また、各コンフォマー間の交換速度や結合速度を決定することに成功した。以上、構造多形性と結合活性の関係について定量的に示す新たな解析方法を提示し抗DNS-Fvへ適用することができた。

2.NMRを用いた触媒抗体の抗原結合部位の解析【序】

 本研究で用いた抗体6D9は、遷移状態アナログであるchloramphenicol phosphonate(transition state analogue:TSA)を特異的に認識し、chloramphenicol monoesterをchloramphenicolへと触媒的に加水分解する。触媒抗体6D9の酵素化学的および分子生物学的研究より、1)基質(substrate)と遷移状態アナログ(TSA)の結合定数の差により触媒活性が説明できること、2)His27d(L)が触媒活性に重要な残基であることが示されている。本研究では、NMRを用いて6D9の抗原認識部位の動的立体構造および活性発現機構の解析を行った。

【結果・考察】(1)substrate結合部位、TSA結合部位の同定

 ハプテン非存在下における6D9およびそのsubstrate複合体、TSA複合体のNMR測定を行った。NMRシグナルの経時変化より、短時間(2〜3時間程度)のNMR測定中にはsubstrateが加水分解されないことがわかった。したがって、NMRによりsubstrate複合体の高次構造情報を得ることができると判断した。さらに、substrateまたはTSA添加に伴う化学シフト変化より、substrateおよびTSAの結合部位はともにVH、VLドメインの界面であると結論した。

(2)抗原結合部位の構造多形性

 His残基の主鎖アミド窒素を15N標識した6D9の1H-15N HSQCスペクトルを測定したところ、ハプテン非存在下とsubstrate存在下においてはH3ループに位置するHis97(H)由来のシグナルが観測されなかったが、TSA存在下においては観測された。HSQCスペクトルにおいてシグナルが観測されない1つの要因として、化学交換によるシグナル強度の減少が挙げられる。そこで、cross-polarizationを用いて1H-15Nシフト相関スペクトルを測定したところ、新たにHis97(H)由来のシグナルが観測された。同様な現象は、Tyr100j(H)とTyr32(L)由来のシグナルについても見られた。したがって、substrate存在下においてはH3ループを中心に構造多形性が存在しているが、TSA存在下ではその多形が消失することが判明した。

(3)抗原結合部位に存在するHis27d(L)の微視的環境

 His27d(L)の相互作用様式

 His27d(L)の主鎖アミド窒素シグナルのpH依存性を解析したところ、substrate存在下におけるpKaについてはハプテン非存在下のものと同じ値を示したのに対し、TSA存在下ではpKaが大きく低下することが明らかになり、substrate存在下とTSA存在下においてHis27d(L)が異なる相互作用様式をとることが示された。また、His残基の側鎖イミダゾール環の窒素を15N標識した6D9を調製し側鎖NHシグナルの検出を試みたところ、7個存在するHis残基のうち定常領域に位置するHis199(H)のみがハプテン非存在下およびsubstrate存在下において観測されたのに対し、TSA存在下では新たにHis27d(L)の側鎖NHシグナルが観測された。したがって、TSA存在下においてHis27d(L)の側鎖NHは水素結合を形成していることが示された。

 His27d(L)の互変異性の解析

 中性付近におけるTSA複合体のHis27d(L)のイミダゾール環については、そのpKa値(<4.3)よりdeprotonationフォームをとることが明らかである。しかしながら、His残基のdeprotonationフォームには、1位にプロトンが結合したN1互変体と3位にプロトンが結合したN3互変体が混在している。そこで、C4-HシグナルがC4とNの間のカップリングにより強度変調を受けることを利用して、His残基の互変体を決定するための新たな測定法を開発し、TSA存在下の6D9に適用した。その結果、His27d(L)のイミダゾール環についてはN3互変体をとることが判明した。したがって、TSA存在下においてHis27d(L)のイミダゾール環が水素結合を形成するときには、互変体間の平衡がN3互変体に偏っていることが明らかになった。

【結論】

 NMRを用いて触媒抗体6D9の抗原結合部位を解析することにより、substrate存在下におけるH3ループを中心とした構造多形性がTSA存在下において消失することを示した。また、TSA存在下においてHis27d(L)のイミダゾール環がN3互変体をとり強固な水素結合を形成することを明らかにした。以上の結果より、H3ループを中心とした構造多形性が消失したりHis27d(L)が水素結合を形成すると、遷移状態が安定化され触媒活性が発現されると結論した。今後、このようなNMRにより得られる知見や解析戦略が触媒抗体の活性改善や実用化に結びついていくと考えられる。

審査要旨

 免疫グロブリン分子すなわち抗体は、外来からの異物(抗原)を認識し排除する免疫反応の中核を担っている糖タンパク質である。抗体の機能的特徴としては、H鎖およびL鎖の可変領域(VH、VLドメイン)に3箇所ずつ存在するループ領域(H1〜H3、L1〜L3)によって多様かつ厳密な抗原認識を行うことが挙げられる。また、酵素として機能する触媒抗体などに代表されるように、抗体の性質を利用してさまざまな方面で活用が試みられている。このような抗体分子の機能的特徴やその応用範囲の広さは興味深く、三次元構造解析が盛んに行われてきたが、動的立体構造の観点から解析を行った例はほとんどない。本論文では、まず抗体分子のもつ特異な抗原認識機構について、続いて抗体による触媒作用の発現機構について、NMRによる動的立体構造解析を行っている。

1.抗DNS-Fvの動的立体構造と結合活性に関する研究

 抗体分子の柔軟かつ特異的な抗原認識機構を原子レベルで理解するために、多核種(1H,13C,15N)NMR実験、および速度論的手法により、抗ダンシル(DNS)Fvの抗原結合部位のもつダイナミックスを定量的に捉えるとともに、ダイナミックスと抗原認識の関与について解析を行っている。

 免疫グロブリンの抗原結合部位に多く存在するといわれている、Tyr残基の選択的・高感度なNMR測定を行うために、Tyr残基の3’,5’位芳香環プロトン以外の芳香族アミノ酸を重水素標識したFvを調製したところ、抗原結合部位H3ループに存在するTyr96(H)、Tyr97(H)、Tyr104(H)のNMRシグナルが、抗原非存在下においてそれぞれ2つずつ観測された。したがって、抗原非存在下において抗原結合部位が少なくとも2つ以上のコンフォメーションをとっていることが明らかとなった。さらに、ハプテン結合実験の結果、ハプテンの認識にはH3ループに存在するコンフォメーションのうち一方が関与していることが判明した。次にコンフォメーション平衡の交換速度を求めるために、抗原非存在下における1H-1H NOESYスペクトルにおいて観測される化学交換ピーク強度の混合時間依存性を解析したところ、16S-1の平均交換速度が得られた。ストップトフロー蛍光測定の結果、FvとハプテンであるDNS-Lysの複合体形成過程は2相性を示し、この解析から抗原非存在下における交換速度を算出すると、NMRによって得られた値と一致した。以上より、抗DNS抗体のハプテン認識過程に抗原結合部位H3ループに存在するダイナミックスが影響を与えていることが明らかとなった。

2.NMRを用いた触媒抗体の抗原結合部位の解析

 遷移状態アナログであるchloramphenicol phosphonate(transition state analogue:TSA)を特異的に認識する触媒抗体6D9は、chloramphenicol monoester(substrate)からchloramphenicolへの加水分解反応を促進する。また、6D9の触媒活性についてはsubstrateとTSAの結合エネルギーの差から生じていることが報告されている。本研究では6D9の触媒機構を高次構造的観点から明らかにするため、NMRにより、substrateおよびTSAを用いて抗原結合部位の解析を行っている。

 まず、substrateおよびTSAの結合様式を解析するために、主鎖アミド窒素を15N標識した6D9を用い、substrate存在下およびTSA存在下における1H-15N HSQCスペクトルを比較した。その結果、TSA存在下において観測されたHis97(H)、Tyr100j(H)、Tyr32(L)由来のシグナルが、substrate存在下においては線幅の広幅化により観測されなかった。このシグナルの広幅化は、substrate存在下における抗原結合部位の構造多形性による。したがって、substrate存在下とTSA存在下では抗原結合部位の動的構造に差があることが判明した。一方、部位特異変異実験によりsubstrateとTSAの識別に関与する残基としてHis27d(L)が報告されている。そこで、His27d(L)の相互作用様式を明らかにするため、His残基に対し安定同位体標識を行った。スペクトルを比較したところ、substrate存在下において観測されなかったHis27d(L)の側鎖NHシグナルがTSA存在下において観測され、His27d(L)の側鎖NHが強い水素結合を形成していることが明らかになった。さらに、His残基の互変異性を解析するためのNMR測定法を開発し6D9に適用したところ、TSA存在下のHis27d(L)がN3互変体をとることが判明した。H3ループを中心とした構造多形性が消失したりHis27d(L)が水素結合を形成すると、遷移状態が安定化され触媒活性が発現されると結論された。

 以上、本研究はNMRを用いて抗原結合部位を解析することで、抗体の動的立体構造と機能の相関を示した。本研究で示した抗体の解析手法を応用することにより、さまざまな抗体の抗原認識機構が解明されていくのみならず、抗体の有効利用に向けた方法論が確立されていくと考えられ、博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54661