本論文には、ヘパラン硫酸に特異的なエンド型のグリコシダーゼ(ヘパラナーゼと総称される)の中で、ヒト大腸癌細胞の産生するものの性質を明らかにする、という研究の結果が述べられている。ヘパラン硫酸はヘパラン硫酸プロテオグリカンの糖鎖部分であり、ウロン酸とグルコサミンの繰り返し構造を基本とする高分子である。不均一な硫酸化とエピマー化によって、一つのポリマーの中に多様な糖鎖構造が存在することが知られている。このような糖鎖の非常に限られた配列のみを加水分解する可能性を秘めたヘパラナーゼは、糖鎖に対する制限酵素として位置づけられる可能性がある。一方、ヘパラン硫酸の断片は細胞外マトリックスの成分として、また種々の増殖因子の共働因子としての機能を持ち、特定の構造を持つ断片を生じるヘパラナーゼの作用は、これらの生理活性糖鎖を生成する過程としても注目される。本研究では、これまで解析の進んでいなかった上皮系細胞のヘパラナーゼとして、ヒト大腸癌細胞が産生するものが見いだされ、ユニークな基質特異性が明らかになった。本論文は、第1章:蛍光ヘパラン硫酸分解を用いたヘパラン硫酸分解酵素活性測定法の確立とヒト大腸癌細胞由来のヘパラン硫酸分解酵素の基質特異性の検討、第2章:ヘパラン硫酸分解酵素を産生する大腸癌細胞の特性、第3章:他の上皮系細胞のヘパラン硫酸分解酵素活性、という三つの部分からなる。 第1章では、ヘパラン硫酸のウロン酸の一部をフルオレセインアミンで標識したフルオレセインアミン標識ヘパラン硫酸が作製され、これを基質として用いてゲル浸透クロマトグラフィーによってHPLCにて分子量の変化を測定するという活性測定法が確立された。ヘパラン硫酸分解活性、基質特異性、基質の構造類似体による阻害について、異なる細胞由来の酵素が比較さた。メラノーマ細胞、血小板、上皮系の大腸癌細胞では異なる特性を持ち、分解産物の分子量に違いがあることが明かとなった。ヘパラン硫酸のグルコサミンのアミノ基や水酸基の硫酸基(N硫酸、O硫酸)を脱着した誘導体の分解様式から、ヘパラン硫酸鎖の硫酸基の分布に関する酵素の基質特異性が異なることが明かにされた。すなわち、ヘパラン硫酸のグルコサミン残基のアミノ基に置換した硫酸基を除いたもの、水酸基とアミノ基の両方に置換した硫酸基を除きアミノ基をアセチル化したもの、水酸基の硫酸基を除去したままで、アミノ基を硫酸化したものに対する分解活性を比較した。メラノーマ細胞由来の酵素はいずれの誘導体も分解したが、大腸癌細胞由来の酵素は水酸基とアミノ基の両方に置換した硫酸基を除きアミノ基をアセチル化したものをほとんど分解しなかった。すなわち、メラノーマ細胞由来の酵素は大腸癌細胞由来のものと異なり、硫酸基に対する要求性が低いことが示された。また大腸癌細胞由来酵素の分解産物中にメラノーマ細胞由来酵素の切断部位が存在することも分かった。ヘパラン硫酸上にメラノーマ細胞由来酵素の切断部位が大腸癌細胞由来酵素のそれより多く存在するために、大腸癌細胞由来酵素の分解産物の方が高分子量だったのではないかと考えられた。大腸癌細胞とメラノーマ細胞のヘパラン硫酸分解酵素に対する、種々のヘパリン誘導体による阻害効果を比較すると差異があることが示された。 第2章では、ヘパラン硫酸分解酵素を産生する大腸癌細胞と産生しない大腸癌細胞の間に、どのような違いがあるかが述べられている。フローサイトメトリーによって抗ヘパラン硫酸抗体の細胞表面への結合性をしらべたところ、蛍光標識ヘパラン硫酸を分解できる細胞は抗ヘパラン硫酸抗体との反応性が高かった。ヘパラン硫酸分解酵素を産生している細胞では、結果としてヘパラン硫酸プロテオグリカンの断片が培養上清中に放出されていた。更に、これらの細胞は、内皮細胞がin vitroで産生するマトリックス中のヘパラン硫酸を分解することが判明した。また、これらの細胞が基底膜を浸潤する際にこの酵素が関与することが示された。 第3章では、種々の上皮系癌細胞のヘパラン硫酸分解酵素活性が、蛍光ヘパラン硫酸を用いて測定された。多くのヒト腎癌細胞、喉頭癌細胞、卵巣癌細胞などの活性を比較すると、卵巣癌細胞のうち3種類の細胞に分解活性が認められ、腫瘍細胞の挙動とヘパラン硫酸分解活性との間に関連があるという可能性が示された。 これらの研究成果はプロテオグリカンの分解機構を通した、細胞認識と細胞交通の制御の理解に新しい視点をもたらすものである。また、糖鎖の持つ多様な情報性が、いかなる機構で生物学的に重要な細胞現象に変換されるかという、糖鎖生物学の中心的な課題に一つの解答を与えるものである。そのような意味で腫瘍学及び糖鎖生物学に資するところが大である本論文の提出者は博士(薬学)の学位を受けるに十分であると判断した。 |