学位論文要旨



No 113719
著者(漢字) 山口,芳樹
著者(英字)
著者(カナ) ヤマグチ,ヨシキ
標題(和) NMRによる免疫グロブリン糖鎖の構造生物学的研究 : 糖鎖の安定同位体標識法の開発とその応用
標題(洋)
報告番号 113719
報告番号 甲13719
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第838号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 海老塚,豊
 東京大学 教授 佐藤,能雅
 東京大学 教授 今井,一洋
内容要旨 【序】

 免疫・発生・分化など、生命現象を理解する上で糖タンパク質の機能発現メカニズムを解明することは重要である。そのためには、糖タンパク質に結合している状態の糖鎖の高次構造、運動性、ペプチド鎖との相互作用様式を原子レベルで明らかにすることが必要である。しかしながら、糖タンパク質を対象とする高次構造解析の方法論は著しく未開拓な状況にある。私は、こうした状況を打破するために、水溶液中における糖タンパク質不均一系の高次構造解析を行うためのNMRの方法論を開拓することを研究目的とした。糖タンパク質のNMR解析においては、糖鎖とポリペプチド鎖に由来する膨大な数のNMRシグナルの重なり合いがスペクトルを著しく複雑化し、従来の方法では解析が極めて困難もしくは不可能である。従って、糖タンパク質の糖鎖部分を選択的に安定同位体標識する方法を確立し、糖鎖のNMR情報を選択的にとりだすことが必須である。本研究では、代表的な糖タンパク質である免疫グロブリンG(IgG)を対象に、糖鎖の安定同位体標識法を確立し、糖鎖に由来するNMRシグナルの体系的な帰属法を開発した。題材としたIgGのFc領域には一対の糖鎖(Fig.1)が普遍的に結合しており、この糖鎖はエフェクター機能の発現に重要な役割を果たしている。本研究で確立した安定同位体利用技術を応用し、Fcに結合している状態の糖鎖の動的高次構造解析を行った。

Fig.1 マウスIgGのFc領域のAsn-297に結合している糖鎖の構造
【I】糖鎖の安定同位体標識法を利用したNMR解析手法の確立

 上記の目的を実現するために、特定の部位を選択的に安定同位体標識した糖鎖前駆体を高標識率・高収率にて化学合成する方法を検討し、それらを培養細胞の代謝経路あるいはin vitroにおける糖転移反応を利用して効率的に糖タンパク質に導入する方法を確立した。こうして糖鎖に安定同位体標識した糖タンンパク質試料に多核NMR測定を行うことによって、糖鎖に由来するNMRシグナルを選択的に観測・帰属することが可能となった。以下に、具体的な方法を述べる。

(1)安定同位体標識した糖鎖前駆体の合成

 特定部位が安定同位体標識された単糖は、市販されていないかもしくは極めて高価であるため入手が困難である。従って、安価な原料を用いて目的部位に高度に13C、5N、17O等が濃縮された単糖を高収率で合成する方法を確立することが必要であった。例えば、GlcNの13C・15N標識体はD-arabinose、[15N]benzylamine、[13C]NaCNを原料にシアノヒドリン法によって合成した。

(2)メタボリックラベリング法

 マウスハイブリドーマを[1-13C]Glcを含む無血清培地中で培養することによって産生されたIgG2bのFcフラグメントの1H-13C HSQCスペクトルをFig.2Aに示す。Fcに結合している糖鎖に存在する8つの残基のアノメリック位に由来するシグナルが全て観測されている。しかしながら、その化学シフトはFcから切り出した糖ペプチドのものとは有意に異なっていた(Fig.2B)。これらのシグナルを帰属するために、GlcNAc、Man、Fucの残基タイプ別に糖鎖の安定同位体標識を行った。例えば、[1-13C]GlcNを用いメタボリックラベリングを行うことによって、GlcNAc残基に由来するシグナルのみを選択的に観測することが可能となった(Fig.2C)。

Fig.2 1H-13C HSQCスペクトルのアノメリック領域(A)[1-13C]GlcにてメタボリックラベリングしたFc(B)[1-13C)Glcにてメタボリックラベリングした糖ペプチド(C)[1-13C]GlcNにてメタボリックラベリングしたFc
(3)In vitroラベリング法

 糖鎖非還元末端の残基を特異的に標識・帰属するためにin vitroの酵素的糖転移反応の条件を検討した。[1-13C]Galを2段階の酵素反応によって糖ヌクレオチドに導いた後、ガラクトシルトランスフェラーゼを用いてFc結合糖鎖の非還元末端に導入した。このFc試料の1H-13C HSQCスペクトル中にはMan (1-3)分枝とMan (1-6)分枝の両非還元末端に位置する2つのGal残基に由来するシグナルのみが観測された(Fig.3A)。また、ガラクトシルトランスフェラーゼの反応性が両分枝間で異なることを利用してMan (1-3)分枝側のGal残基のみに選択的に13C濃縮した試料を調製し、これを用いて2つのGal残基由来のシグナルを位置特異的に帰属することに成功した(Fig.3B)。

 更に、[U-13C]Glcを用いて糖鎖の炭素原子を均一に13C標識したFcを調製し、HCCH-COSY、HCCH-TOCSYなどの測定法を適用することによって、アノメリックシグナルを起点にして糖鎖中の他の部分に帰属を拡張した。以上の戦略に基いて帰属の確定した糖鎖由来のシグナルを用いて、Fcの糖鎖の動的高次構造解析を行った。

【II】糖鎖シグナルをプローブとしたFcの動的高次構造解析(1)糖鎖とペプチド鎖との相互作用

 Fcに結合している糖鎖の非還元末端のGal残基に着目して解析を行った結果、Gal-6’由来のシグナルはGal-6のシグナルと比較して著しく線幅が増大していた(Fig.3A)。更に、Gal-6’由来のシグナルはIgGのサブクラスによって異なる化学シフトを与えた。従って、Gal-6’はペプチド鎖と相互作用することによって運動性が抑制されていることが明らかとなった。

Fig.3 [1-13C]Galを用いたin vitroラベリングにより、(A)Gal-6とGal-6’を共に13C濃縮したFc、(B)Gal-6のみを13C濃縮したFcの13C NMRスペクトル
(2)Glycoformの変化に伴うFcの高次構造変化

 Gal-6’とペプチド鎖との相互作用がFcの高次構造に及ぼす影響を調べるために、

 -ガラクトシダーゼによるGal残基の除去、あるいはガラクトシルトランスフェラーゼを用いたGal残基の付加を行ったFcを調製して、NMRを比較解析した。その結果、Man (1-6)分枝のコンフォメーションに有意な変化が認められた。

 さらに、ペプチド主鎖のアミド基を15N標識したFcを用いてNMR解析を行った結果、Phe-243を含むペプチド鎖の局所にも高次構造変化が誘起されることが判明した。慢性関節リウマチ患者のIgG糖鎖では、非還元末端のGal含量が減少していることが報告されている。本研究で明らかにしたGal-6’の除去に伴うFcの局所構造の変化はリウマチ疾患との関連を考える上で興味深い。

【III】結語

 IgGを題材として、糖タンパク質糖鎖のNMR解析法を確立することができた。この方法論はIgG以外の様々な糖タンパク質にも適用可能であり、さらに糖タンパク質と糖鎖認識分子との分子間相互作用の研究にも応用することができる。

審査要旨

 糖タンパク質の機能発現メカニズムを解明するためには、糖タンパク質に結合している状態の糖鎖の高次構造、運動性、ペプチド鎖との相互作用様式を原子レベルで明らかにすることが必要である。しかしながら、糖タンパク質を対象とする高次構造解析の方法論は著しく未開拓な状況にある。こうした状況を打破するためには、水溶液中における糖タンパク質不均一系の高次構造解析を行うためのNMRの方法論を開拓しなければならない。本研究では、代表的な糖タンパク質である免疫グロブリンG(IgG)を対象に、糖タンパク質糖鎖の選択的な安定同位体標識法を確立し、糖鎖に由来するNMRシグナルの体系的な帰属法を開発した。さらに、本研究で確立した安定同位体利用技術を応用し、IgGのFc部分に結合している糖鎖の動的高次構造解析を行った。

1、糖鎖の安定同位体標識法・NMRシグナルの帰属法の確立

 糖タンパク質の糖鎖部分に選択的な安定同位体標識を施すために、まず特定の部位が高度に安定同位体標識された糖鎖前駆体を化学合成する方法を検討した。その結果、安価な原料を用いて、様々な安定同位体(13C、15N、17O)にて標識された糖鎖前駆体をグラム量にて合成することに成功した。このように化学合成した糖鎖前駆体を用い、

 (1)糖タンパク質発現系の細胞内糖代謝

 (2)糖転移酵素を用いたin vitro糖転移反応

 を利用することによって、効率的に糖タンパク質糖鎖を安定同位体標識する方法を確立した。こうして得られた標識糖タンパク質試料に対して様々な多核NMR測定を行うことにより、糖鎖に由来するNMRシグナルを選択的に観測し、一義的に帰属することを可能とした。

2、糖鎖シグナルをプローブとしたFcの動的高次構造解析

 帰属の確定した糖鎖由来のシグナルを用いて、Fcに結合している糖鎖の動的な高次構造解析を行った。糖鎖の非還元末端に位置しているGal残基に着目して解析を行った結果、Gal-6’由来のシグナルはGal-6のシグナルと比較して著しく線幅が増大していた。更に、Gal-6’由来のシグナルは、ペプチド鎖由来のNOEピークが観測された。従って、Gal-6’はペプチド鎖と相互作用することによって運動性が抑制されていることが明らかとなった。さらに、Gal-6’とペプチド鎖との相互作用がFcの高次構造に及ぼす影響を調べるために、Gal残基の除去、あるいはGalの付加を行ったFcを調製して比較解析した結果、糖鎖の局所(Man (1-6)分枝)において有意な化学シフト変化が認められた。同様な実験をペプチド鎖を標識したFcに関しても行った結果、Phe-243やVal-262を含む局所に有意な化学シフト変化が認められた。これは、Gal残基の除去により、糖鎖のみならずペプチド鎖も局所構造が変化したことを示している。慢性関節リウマチ患者由来のIgG糖鎖では、Gal含量が減少していることが報告されているため、本研究で明らかになったGal-6’の除去に伴うFcの局所構造の変化はリウマチ疾患との関連を考える上で興味深い。

 このようにIgGを題材として、糖タンパク質糖鎖のNMR解析法を確立し、糖鎖シグナルをプローブとした糖鎖の動的高次構造解析を行うことができた。本研究にて確立した方法論は、IgG以外の様々な糖タンパク質にも一般に適用可能であり、さらに糖鎖と糖鎖認識分子との分子間相互作用の研究にも応用することが可能である。従って、本研究は博士(薬学)の学位を授与するに値するものと認めた。

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