学位論文要旨



No 113720
著者(漢字) 山本,雅也
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,マサヤ
標題(和) MUC1ムチンの発現制御とその意義
標題(洋)
報告番号 113720
報告番号 甲13720
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第839号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 入村,達郎
 東京大学 教授 井上,圭三
 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
内容要旨

 ムチンは高分子量で糖含量の高い糖蛋白質で、糖鎖のほとんどはセリンまたはスレオニン残基へのO-結合型糖鎖である。アミノ酸の繰り返し構造(タンデムリピート)を持ち、そこに糖鎖が高頻度に付着している。

 MUC1ムチンはヒト腺癌に付随した腫瘍抗原として知られ、血清中のマーカーとして用いられる。癌の進行に伴い発現が上昇すること、そのグリコシレーションに変化がみられることがある。乳癌や膵臓癌などでは、糖鎖のついていないMUC1ムチンコアペプチドが細胞障害性Tリンパ球から攻撃されることから、ワクチンとしての応用が検討されている。一方、大腸癌では、グリコシレーションの進んだMUC1ムチンの異所的な発現がみられる。その発現量は癌の進行度や転移性と相関があり、癌細胞が宿主にとって有害である原因の一端を担っていると考えられている。しかし、MUC1ムチンの発現において、発現の誘導や、グライコシレーションの制御機構について詳細はわかっていない。

 MUC1ムチンの発現の変化を考える時、他の悪性挙動に関係する分子と同様に癌細胞自身の内在的な要因だけでなく、in vivoで実際に癌細胞の置かれている微小環境や治療による薬物などの影響を受けることが予想される。本研究では、こうした要因でMUC1ムチンの発現の変化が起きているのか、また、起こるとすれば、どのようなメカニズムによるのか検討した。まず、癌細胞の微小環境を形成している宿主由来の液性因子について検討した。次に治療による影響として、大腸癌にもっともよく用いられる抗癌剤である5-フルオロウラシルによるMUC1ムチン発現変化への影響と、そのメカニズムの一部を解析した。また、MUC1ムチンの機能として、MUC1ムチントランスフェクタント細胞とヒトリンパ球を用い、MUC1ムチン発現と免疫細胞に対する抵抗性のメカニズムについて解析を試みた。

1)MUC1ムチンの発現を制御する間葉系細胞由来の液性因子a)大腸癌細胞のMUC1ムチンの発現を誘導する宿主由来の液性因子の精製

 ヒト大腸結合組織の培養上清(NCCM:normal colon conditioned medium)中に含まれる液性因子が、大腸癌細胞のMUC1ムチンの発現を誘導し、転写レベルで発現を増強することが明らかにされていた。この因子によるMUC1ムチン誘導活性は、類似の活性をもつ既知のサイトカインに対する抗体で阻害されないことから、新規サイトカインであることが示唆されていた。そこで、この癌細胞のMUC1ムチンの発現を誘導する宿主由来の液性因子は、癌細胞の微小環境を形成する因子のひとつとして重要であると考え、この因子の精製を試みた。

 NCCM 140 mlからQ-Sepharose陰イオン交換カラムクロマトグラフィー、Heparin-Sepharose 4Bカラムクロマトグラフィー、Superose 12ゲルろ過クロマトグラフィーを組み合わせ、活性と相関する分子量約10,000の蛋白を取得した。そのペプチド断片の部分アミノ酸配列を決定したところ、この蛋白が新規の可溶性活性分子であることが示唆された。

b)培養細胞由来のMUC1ムチン誘導液性因子の性状解析

 NCCMは臨床サンプルのため、入手が困難である。今後のcDNAクローニングやMUC1ムチンの誘導因子の性状解析ために、培養細胞でMUC1ムチン誘導液性因子を分泌しているものはないか検討した。正常大腸が分泌しているこの液性因子は、間葉系細胞が分泌している可能性が高いことが知られており、5種のヒト線維芽培養細胞株の培養上清のMUC1ムチン誘導能を測定したところ、いずれの細胞でも活性がみとめられた。以後は、培養が容易なHT1080細胞を用い、培養上清に含まれるMUC1ムチン誘導因子の性質を解析をした。この細胞由来の因子のMUC1ムチン誘導活性は、類似の活性をもつIFN-に対する抗体では阻害されなかった。また、この因子の温度安定性やタンパク分解酵素トリプシンによる影響は、NCCMに含まれる液性因子と同様であった。次に、MUC1遺伝子上流配列にCAT遺伝子接続させたレポータープラスミドを用いて発現制御機構の解析を行った(Fig.1)。HT1080細胞由来の液性因子の応答部位は、MUC1ムチン上流配列-531から-485の間でNCCMと同じシスエレメントで発現が制御されている可能性が高いことがわかった。以上の結果から、ヒト線維芽細胞株の培養上清とNCCMには同一の間葉系細胞由来の未知の液性因子が存在していることが示唆された。

Fig.1 Transcrlptlonal Regulation of the MUC1 Mucin Core Polypeptide Gene:Effects of Soluble Factors and 5-FU
2)5-フルオロウラシル(5-FU)によるヒト大腸癌細胞のMUC1ムチンの発現誘導

 生体内での癌細胞の生育する微小環境で、癌細胞によるMUC1ムチンの産生量に影響するものとして、抗癌剤を考慮する必要がある。そこで、大腸癌治療にもっとも使われる抗癌剤5-FUのMUC1ムチン発現への影響を検討した。

 19種類のヒト大腸癌細胞株を1Mの5-FUで72時間処理し、MUC1ムチンの発現を抗成熟型MUC1ムチンモノクローナル抗体でフローサイトメトリーにより分析した。HT29細胞で強いMUC1ムチンの発現の誘導が見られた。このHT29細胞の5FU処理により誘導されたMUC1ムチンを3種のグリコシレーションの異にするMUC1ムチンに特異的なモノクローナル抗体で解析したところ、抗成熟型MUC1ムチンモノクローナル抗体MY.1E12の結合性が、もっとも顕著に上昇した。MUC1ムチン糖鎖構造が異なっても認識するHMFG-2抗体やコアペプチドのみのMUC1ムチンと反応するMa552抗体の反応は、若干の上昇がみられるのみだった。5-FU処理により発現が誘導されるMUC1ムチンは、高いグリコシレーションを受けていることが示唆された。この結果は、宿主由来の液性因子NCCMにより発現が誘導されたMUC1ムチンと同じ傾向を示した。次に5-FU処理により発現が誘導されるMUC1ムチンの発現制御機構を解析した。ノーザン分析でmRNAの発現の上昇が認められたが、MUC1ムチン遺伝子上流配列よるCATアッセイでは、誘導は見られなかった(Fig.1)。5-FU処理によるMUC1ムチンの発現誘導は、転写の活性化ではなく、mRNAの安定性の変化など他に要因によるものではないかと考えた。この結果から、5-FU処理によるMUC1ムチンの発現制御機構は、宿主由来の液性因子とは異なる可能性が高いと考えた。

3)MUC1ムチン発現細胞の免疫細胞に対する抵抗性獲得の機構

 MUC1ムチンは癌細胞の悪性挙動に影響を与えることが知られている。抗接着分子として知られるMUC1ムチンが免疫細胞との相互作用を阻害することから、免疫細胞に抵抗性を獲得する可能性がある。そこで、MUC1ムチンの発現と免疫細胞に対する抵抗性獲得の機構について、MUC1ムチントランスフェクタント細胞を用いて検討した。

 ヒト赤白血病細胞K562細胞にタンデムリピート22回のMUC1遺伝子を導入して得られた2B4細胞は、ヒトNK細胞に対する抵抗性を獲得していることが知られていた(Fig.2)。これがMUC1ムチンの抗接着性によるかどうか確かめるため、ヒトリンパ球の結合性を比較した。MUC1ムチントランスフェクタント2B4細胞の方が、親株よりヒトリンパ球に結合する細胞は多いことがわかった(Fig.3)。次に、マイトマイシンCにより増殖しなくなった2B4細胞とヒトリンパ球を共培養し、12時間後にトリチウムチミジンを加え、そのリンパ球のDNAへの取り込みを、24時間後測定した。癌細胞を加えるとリンパ球は増殖が誘導されたが、2B4細胞では、リンパ球活性化はK562細胞に比べて有意に低いことが判明した(Fig.4)。このとき、フローサイトメトリーによりアネキシンVのリンパ球表面への結合性を検討したが、差異はみられず、リンパ球がアポトーシスを起こしているわけではないことが示唆された。

 以上の結果から、MUC1ムチン発現細胞の抵抗性が高いのは、この分子がリンパ球の接着を抑制するためではなく、リンパ球の活性化を抑制するためであることが示唆された。

Fig.2 NK Activity of Human Peripheral Blood Lymphocytes against MUC1 Mucln Transfectant CellsFig.3 Binding of Human Peripheral Blood Lymphocytes to K562 Cells and MUC1 Mucin Transfectant CellsFig.4 Effect of MUC1 Mucin Transfectant Cells on Thymidine Incorporation by Lymphocytes
【結語】

 本研究では、癌細胞のMUC1ムチンの発現を誘導する未知のサイトカインの精製をNCCMから試みた。活性と相関する分子量約10,000の蛋白を取得したが、この分子が、活性本体であることは、今後得られた部分アミノ酸配列の合成ペプチドに対する抗体で活性に阻害がかかるかなどの証明が必要である。しかし、今回、NCCMと同様の性質をもつ液性因子が、線維芽細胞の培養上清に含まれていることを示したため、今後の性状解析や遺伝子クローニングを容易にしたと考える。加えて、MUC1ムチンの発現を誘導する液性因子は、NCCMだけでなく、広く間葉系の細胞によりつくられていることが示唆され、正常細胞での役割を解明することも今後重要である。

 また、抗癌剤5-FUによりMUC1ムチンの発現が誘導されることが今回はじめて示された。生体内で癌細胞の微小環境を形成している正常細胞由来の液性因子や、治療による抗癌剤の影響も含め、広い視野でMUC1ムチンの発現制御の問題に取り組んでいることは、この研究の新しい点である。

 この分子の機能は、抗接着作用と考えられていたが、リンパ球の活性化を抑制していることを示した。細胞表面のMUC1ムチンのリンパ球に与える影響として、36時間という短い時間で、K562細胞共培養でリンパ球が活性化されるのに対して、MUC1ムチン発現細胞共培養では、リンパ球の増殖の誘導の度合いが親株より低いという興味ある結果を得た。その機構など、詳細は不明で、今後の免疫学的な解析が必要だと考える。

審査要旨

 本研究は、MUC1ムチンの生合成と機能に関するものである。MUC1ムチンは、ヒト腺癌細胞の主要な表面分子であり、主要組織適合性複合体に非依存的に細胞傷害性Tリンパ球に認識される腫瘍抗原として知られ、一方で癌の進行に伴い発現が上昇するという知見も得られている。悪性腫瘍の生物学的な挙動に関係する分子にしばしば見られるように、腫瘍内に不均一にその発現し、腫瘍細胞の内在的な要因だけでなく、in vivoで実際に腫瘍細胞の置かれている微小環境や治療行為によっても発現が左右される。本研究では、このような外的な要因によるMUC1ムチンの発現変化の機構が追及されている。

 第一の章では、上皮性の腫瘍細胞が浸潤性を獲得すると先ず出会う相手である、間葉系細胞由来の液性因子によるMUC1ムチン発現の誘導機構が研究されている。ヒト大腸癌細胞によるMUC1ムチンの発現を誘導する液性因子の精製が目指された。ヒト大腸結合組織の培養上清から、Q-Sepharose陰イオン交換カラムクロマトグラフィー、Heparin-Sepharose 4Bカラムクロマトグラフィー、Superose12ゲルろ過クロマトグラフィーを組み合わせ、活性と相関する分子量約10,000の蛋白が取得された。そのペプチド断片の部分アミノ酸配列を決定し、新規の可溶性活性分子であることが提案されている。類似の活性因子は、ヒト繊維肉腫細胞HT1080の培養上清にも含まれたが、この性質の検討からヒト大腸結合組織の培養上清由来のものと同一である可能性が示唆された。

 第二の章では、大腸癌治療にしばしば使用される抗癌剤である5-フルオロウラシル(5-FU)によるヒト大腸癌細胞のMUC1ムチンの発現誘導の機構が追及されている。19種類のヒト大腸癌細胞株を1Mの5-FUで72時間処理し、抗MUC1ムチン抗体の結合性を調べると、HT29細胞で強いMUC1ムチンの発現の誘導が見られた。そこで論文提出者は5-FU処理により発現が誘導されるMUC1ムチンの発現制御機構を解析した。ノーザン分析でMUC1ムチンmRNAの発現の上昇が認められたが、MUC1ムチン遺伝子上流配列によるCATアッセイでは、誘導は見られなかった。従って、5-FU処理によるMUC1ムチンの発現誘導は、遺伝子転写の活性化ではない機構によるmRNAレベルの上昇によることが判明した。

 第三の章では、MUC1ムチンを発現している癌細胞が高い悪性度持つ原因の一つとなりうる、免疫抑制作用について考察されている。既に、MUC1ムチンは抗接着分子として腫瘍細胞の免疫細胞との相互作用を阻害することから、自然免疫細胞による認識に対して抵抗性を有すると考えられていた。確かに、ヒト赤白血病細胞K562細胞にタンデムリピート22回のMUC1ムチン遺伝子を導入して得られた細胞は、ヒトNK細胞に対する抵抗性を獲得していた。これがMUC1ムチンの抗接着性によるかどうか確かめるため、ヒトリンパ球の結合性を比較したところ、予想に反してMUC1ムチントランスフェクタント細胞の方が、親株のK562細胞よりヒトリンパ球に結合する細胞は多いことがわかった。トランスフェクタント細胞または親株のK562細胞とヒトリンパ球を共培養するとヒトリンパ球に増殖が誘導された。この活性化は、トランスフェクタント細胞を用いると有意に低いことが判明した。MUC1ムチン発現細胞では、この分子によってリンパ球の接着が抑制されるためではなく、活性化が抑制されるためであると考えられた。

 MUC1ムチンの発現と機能の制御には未知の問題が多い。特に、細胞分化に伴う発現の誘導、プロセシング、細胞表面への輸送、グリコシレーションなどの制御機構に関しては、細胞種による違いもあってほとんど解明されていなかった。またその免疫学的また細胞生物学的な機能に関しても知見は極めて断片的であった。論文提出者の研究は、誘導的な発現の機構を分子レベルで解析するうえで、また免疫学的な機能とこのムチン糖蛋白の構造的なバリエーションとの関連を調べるうえで必須の基礎固めを行ったものと考えられる。これらの成果は腫瘍学、糖鎖生物学、及び免疫学に資するところが大きく、本論文の提出者は博士(薬学)の学位を受けるに十分であると判断した。

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