学位論文要旨



No 113722
著者(漢字) 池谷,裕二
著者(英字)
著者(カナ) イケガヤ,ユウジ
標題(和) てんかん様過剰神経活動による海馬神経回路の異常形成
標題(洋)
報告番号 113722
報告番号 甲13722
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第841号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
内容要旨

 海馬歯状回の顆粒細胞からCA3野錐体細胞に投射する苔状線維は、機能的および構造的に高い可塑性を示す神経軸索であり、記憶、学習等の脳高次機能への関与が示唆される神経回路を形成する。一方、てんかん等の中枢神経系疾患では苔状線維が異常投射することも示されており、苔状線維の疾患への関与も示唆されている。苔状線維は中枢神経系では例外的に生後に形成される神経組織であるが、これまでの苔状線維に対する研究は、主に既に形成された線維に対して行われており、形成中の苔状線維に焦点を当てた研究は少ない。そこで本研究では、まず苔状線維の形成過程をin vitroで観察できる実験系を確立し、苔状線維の神経回路形成に対する神経活動の影響を検討した。また、ここで得られた成果をもとにin vivoにおいても研究を試みた。

1.海馬切片の組織培養を用いた検討

 ラット苔状線維は主に生後第2週目に形成される。そこで生後6日齢のラットから得た海馬切片を組織培養した。苔状線維-CA3野錐体細胞シナプスにおける誘発電位の大きさと培養日数の関係を図1に示した。苔状線維は培養下で徐々に形成され、培養11日目程度で記録される誘発電位の大きさは定常状態に達した。しかし、てんかん様神経発射を誘発するGABAA受容体阻害薬picrotoxinの存在下で培養した場合、誘発電位の増大は抑制され、11日以上培養しても十分に大きな電位を記録することができなかった。同様の結果は、自発神経発射を誘発するその他数種の薬物を用いても得られ、これらの作用は電位感受性ナトリウムチャネル阻害薬tetrodotoxinにより抑制された。また、既に形成された苔状線維シナプスに対してはpicrotoxinの影響は見られなかったが、これを一度切断し再び形成する過程はpicrotoxinにより阻害された。一方、Schaffer側枝-CA1野シナプスの誘発電位に対しては、picrotoxinは何ら影響を及ぼさなかった。以上の事実から、過剰な神経活動は発達中の苔状線維に対してこの形成を阻害することが明らかとなった。

 picrotoxinの存在下で培養しても苔状線維は正常に伸展することが、神経トレーサーDilを用いた検討により確認された。さらに、propidium iodideで染色した結果、picrotoxinの適用による神経細胞死は観察されなかった。以上のことからpicrotoxinによる苔状線維の形成阻害はシナプス形成が阻害された結果であると考えられた。

図1 苔状線維の形成に対するpicrotoxinの阻害作用A,刺激及び記録の部位。B,CA3野誘発電位の典型例。C,最大誘発電位の大きさの時間経過。picrotoxin処置により誘発電位の増大は抑制された(n=3-7)。DiV:days in vitro。

 そこで、苔状線維の終末を選択的に検出するTimm染色法を用いて培養海馬切片を染色した(図2)。苔状線維の終末は通常CA3野明瞭層(SL)および歯状回門(DH)に認められるが(図2A)、picrotoxin処置した海馬切片においては明瞭層におけるTimmシグナルは減弱し、代わってCA3野多形細胞層(SO)および歯状回分子層(ML)が陽性となった(図2B)。この結果により、苔状線維は、過剰な神経活動を伴った条件下では、正常な標的とシナプスを形成せずに、てんかん患者脳で認められるものと同様な異常神経回路を形成することが明らかとなった。そこでこの実験系を用いて、picrotoxinの作用を阻害する薬物を探索した結果、L型電位感受性カルシウムチャネル阻害薬nicardipineがその良い候補となることを見いだした(図2C)。Timm染色における各シグナルの強度を纏めた図2Dに示すように、nicardipineはpicrotoxinによる明瞭層のシグナル低減を有意に抑制した。nicardipineの同様の作用は、CA3野誘発電位の記録においても確認され、picrotoxin存在下で阻害された苔状線維の形成が、nicardipineにより機能的にも回復することが明らかとなった。

図2 苔状線維の形成に対するpicrotoxinの阻害作用海馬切片を培養8日目にTimm染色した。これにより苔状線維の終末は濃色のシグナルとして検出される。A-Cはそれぞれ、無処置スライス、picrotoxin 50 M存在下またはpicrotoxin 50Mとnicardipine 10 Mの共存在下で培養したスライスをTimm染色したもの。各群におけるシグナルの強度をDに纏めた。picrotoxinにより減弱した明瞭層のシグナルはnicardipineにより有意に回復した。SL:明瞭層、SO:多形細胞層、DH:歯状回門、ML:分子層。 *P<0.05,**P<0.01 vs Control,#P<0.05 vs Picrotoxin,Tukey’s test(n=4)。
2.歯状回顆粒細胞の単離培養を用いた検討

 組織培養下で観察されたpicrotoxinおよびnicardipineの作用機構を詳細に検討することを目的として、生後3日齢のラット海馬より歯状回を摘出し神経細胞を単離培養した。本培養では顆粒細胞が優位であり、従って苔状線維のシナプスを観察することができる。培養7日目に、蛍光色素FM1-43陽性シナプス数を共焦点顕微鏡下で計測した(図3)。慢性的な脱分極状態を誘導するために30mMのK+(high K+)を含有する培地で顆粒細胞を培養したところ、通常の約2倍のシナプスが形成された。この結果から、過剰な脱分極下では、苔状線維のシナプス形成は異常に亢進されることが示され、これが組織培養の研究で観察された現象の基礎機構を担っていると考えられた。この実験系においてもnicardipineはhigh K+培地によるシナプス形成促進効果を阻害した。そこで本現象をさらに薬理学的に検討した。high K+の効果は、カルシウム/カルモジュリン依存性キナーゼの阻害薬KN-93 5 Mで抑制されたが、カルシウム依存性キナーゼの阻害薬calphostin C30nMによっては影響を受けなかった。以上の結果を踏まえると、L型電位感受性カルシウムチャネルを通して流入したカルシウムイオンがカルシウム/カルモジュリン依存性キナーゼを活性化するカスケードが、苔状線維の異常なシナプス形成に重要な役割を担っていることが示唆された。なお、nicardipine及びKN-93は通常の培地で観察されるシナプス形成には影響を与えなかった。従って、これらの薬物は異常なシナプス形成のみを選択的に阻害することが明らかになった。

図3 high K+培地によるシナプス形成促進効果に対する各薬物の作用顆粒細胞を30mM K+存在下で7日目培養し、FM1-43陽性の蛍光斑点を計数した。high K+によるシナプス増加はnicardipine 3 M及びKN-93 5 Mにより有意に抑制されたが、calphostin C 30 nMによっては影響を受けなかった。**P<0.01 vs control in Normal K+,##P<0.01 vs control in High K+,Tukey’s test(n=8)。
3.pilocarpineてんかんモデルマウスを用いた検討

 新生児期から幼児期にかけてのてんかんは、学習及び認知等の脳高次機能の重篤な障害を遺存する。生後早期は海馬の組織構造学的な発生時期に相当するため、小児てんかんに見られる後遺症が、海馬の発達異常に由来している可能性が想定される。これまでのin vitroにおける検討から、てんかん様神経活動による苔状線維の異常形成をnicardipineが抑制することが示された。そこで、小児てんかんのモデル動物を用いてnicardipineの作用を検討した。14日齢の幼若マウスにpilocarpine 200 mg/kgを単回腹腔内投与し重積発作を誘導した。約一ヶ月後に海馬を摘出しTimm染色を行ったところ、苔状線維のCA3野多形細胞層への異常投射が確認された。この現象は、nicardipine 2 mg/kgを14日齢以降連日投与したマウスでは観察されなかった。なおnicardipineはpilocarpineが誘発する発作および脳波の変化には影響を与えなかった。

 同マウスの空間学習能力を、自発的岐路交替運動を指標として評価した。図4Aに示したY字型迷路内を探索するマウスにおいて、連続した3回のアーム選択で各アームを1回ずつ選択する確率を測定した。pilocarpineを処置したマウスでは岐路交替運動の達成率が有意に低かったが、これはnicardipineの連投により完全に回復した。nicardipineの同様の効果は、モリスの水迷路およびステップスルー試験を用いても確認された。以上のことから、nicardipineは、てんかんの後遺症として観察される記憶、学習機能の低下を改善することが明らかとなった。

図4 pilocarpineてんかんモデルマウスにおける学習障害に対するnicardipineの改善作用A,自発的岐路交替運動の観察に用いた装置の概略図。B,生後14日齢でpilocarpine 200 mg/kgを投与したマウスの成熟後に観察される自発的岐路交替運動の空間記憶障害は、nicardipine 2mg/kgの連投により有意に改善された。なお図中の波線は岐路交替運動の無作為レベルを示している。*p<0.05 vs Saline+Vehicle、#P<0.05 vs Pilocarpine+Vehicle,Tukey’s test (n=10)。
纏括

 苔状線維の発達過程をin vitroで観察できる実験系を確立し、過剰神経活動により苔状線維の正常な発達が阻害され、異常な神経回路が形成されることを初めて明らかにした。苔状線維が形成する神経回路は、記憶、学習に重要な神経系であるため、この現象が小児てんかん患者の予後に見られる学習、認知障害の基礎機構であると考えられた。更に、この実験系においてnicardipineが異常な神経回路の形成を抑制することを見出した。また、nicardipineの有効性はin vivoにおいても示された。本研究で確立されたモデルは、より詳細な神経回路の形成機構の解明に有用な実験系として期待される。

審査要旨

 海馬苔状線維は、高次な可塑性を示す神経軸索であり、記憶・学習等への関与が示唆される海馬神経回路を形成している。苔状線維は中枢神経系では例外的に生後に形成される神経組織であるが、これまでの苔状線維に対する研究は主に既に形成された線維に対して行われており、形成中の苔状線維に焦点を当てた研究は少ない。本研究では、まず苔状線維の形成過程をin vitroで観察できる実験系を確立し、さらに苔状線維の神経回路形成に対する神経活動の影響を検討した。また、得られた成果をもとにin vivo研究を行った。

1.海馬切片の組織培養を用いた検討

 生後6日齢のラットから得た海馬切片を組織培養した。苔状線維は、本培養下で徐々に形成され、培養11日目程度で形成を終了した。しかし、てんかん様神経発射を誘発するGABAA受容体阻害薬picrotoxinの存在下で培養した場合、苔状線維の正常な形成が阻害された。そこで、苔状線維の終末を選択的に検出するTimm染色法を用いて培養海馬切片を染色した。苔状線維の終末は通常CA3野明瞭層および歯状回門に認められるが、picrotoxin処置した海馬切片においては明瞭層におけるTimmシグナルは減弱し、代わってCA3野多形細胞層および歯状回分子層がTimm陽性となった。この結果により、苔状線維は、過剰な神経活動を伴った条件下では、正常な標的とシナプスを形成せずに、てんかん患者脳で認められるものと同様な異常神経回路を形成することが明らかとなった。さらに、この異常な神経回路を持った海馬の性質を検討し、歯状回顆粒細胞層の興奮性が恒常的に上昇していることを見いだした。

 この実験系を用いて、picrotoxinの作用を阻害する薬物を探索した結果、L型電位感受性カルシウムチャネル阻害薬nicardipineがその良い候補となることを見いだした。

2.歯状回顆粒細胞の単離培養を用いた検討

 組織培養下で観察されたpicrotoxinおよびnicardipineの作用機構を詳細に検討することを目的として、生後3日齢のラット海馬より歯状回を摘出し神経細胞を単離培養した。本培養では顆粒細胞が優位であり、従って苔状線維のシナプスを観察することができる。培養7日目に、蛍光色素FM1-43陽性シナプス数を共焦点顕微鏡下で計測した。慢性的な脱分極状態を誘導するために30mMのK+(high K+)を含有する培地で顆粒細胞を培養したところ、通常の約2倍のシナプスが形成された。この結果から、過剰な脱分極下では、苔状線維のシナプス形成は異常に亢進されることが示され、これが組織培養の研究で観察された現象の基礎機構を担っていると考えられた。この実験系においてもnicardipineはhigh K+培地によるシナプス形成促進効果を阻害した。なお、nicardipineは通常の培地で観察されるシナプス形成には影響を与えなかった。従って、この薬物は異常なシナプス形成のみを選択的に阻害することが明らかになった。

3.pilocarpineてんかんモデルマウスを用いた検討

 新生児期から幼児期にかけてのてんかんは、学習及び認知等の脳高次機能の重篤な障害を遺存する。生後早期は海馬の組織構造学的な発生時期に相当するため、小児てんかんに見られる後遺症が、海馬の発達異常に由来している可能性が想定される。そこで、小児てんかんのモデル動物を用いてnicardipineの作用を検討した。14日齢の幼若マウスにpilocarpineを単回腹腔内投与し重積発作を誘導した。一ヶ月後に海馬を摘出しTimm染色を行ったところ、苔状線維のCA3野多形細胞層への異常投射が確認された。この現象は、nicardipineを14日齢以降連日投与したマウスでは観察されなかった。なお、nicardipineはpilocarpineが誘発する発作および脳波の変化には影響を与えなかった。

 同マウスの空間学習能力を、自発的交替運動試験、水迷路試験およびステップスルー試験を用いて評価した。Pilocarpineを処置したマウスでは学習能力が低下していたが、これはnicardipineの連投により完全に回復した。

 要約すると、苔状線維の発達過程をin vitroで観察できる実験系を確立し、てんかん様過剰神経活動により苔状線維は異常な神経回路を形成することを初めて明らかにした。さらにnicardipineが異常な神経回路の形成を抑制することを見出した。nicardipineの有効性はin vivoにおいても確認した。L型カルシウムチャネル遮断薬がてんかんの後遺症や慢性化に対する予防薬となりうることを示した。以上本研究はシナプス形成過程を解析する実験手法を確立しただけでなく、てんかんの病態およびその後遺症の形成過程、さらには新しい治療薬開発の方向性を示したものであり、博士(薬学)に値すると判断した。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54663