学位論文要旨



No 113723
著者(漢字) 枝川,義邦
著者(英字)
著者(カナ) エダガワ,ヨシクニ
標題(和) 大脳皮質視覚野長期増強に対するセロトニンの作用
標題(洋)
報告番号 113723
報告番号 甲13723
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第842号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 桐野,豊
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
内容要旨

 脳神経の働きは遺伝的なプログラムによってすべて決定されているのではなく、生後の環境に応じて大きく変化する。この性質は「可塑性」と呼ばれ、外界の環境変化にうまく適応するのに役立つと考えられる。長期増強(LTP)は神経活動に依存したシナプス伝達可塑性の1例である。LTPは海馬で最初に発見されたが、近年様々な他の脳部位でも観察されることが明らかとなってきた。大脳皮質視覚野におけるLTPには、海馬LTPには見られない「感受性期」が存在する。即ち、視覚野LTPは生後の発達段階のある特定の時期においてのみ観察される。眼が開いてしばらくの間は外界に適応するために視覚情報に対する可塑性が存在するが、ある一定の期間を経ると可塑性が消失し、獲得した性質がその後保持されるものと考えられる。このように視覚野LTPは発達に伴う可塑性の変化を研究するのによいモデルであり、その調節因子を解明することによって脳の可塑性の本質に迫れるものと思われる。

 視覚野LTPの感受性期形成に関わる因子が多数想定される中で、私は神経伝達物質のセロトニン(5-HT)に着目した。過去、視覚野において発達段階で一過性に5-HT神経線維群が出現するなど5-HTと視覚野の発達を暗示する報告例はあったが、可塑性との関連性は明らかになっていない。本研究において、私は初めて視覚野LTPに対する5-HTの作用について検討し、5-HTが感受性期を左右する因子の一つであることを見いだした。

1.視覚野LTPの発達に伴う変化と内在性5-HTの関与

 網膜より発せられた興奮性の神経線維は、視床にある外側膝状体を通り視覚野4層で一度シナプスを介した後、2/3層へ投射している。視覚野2/3層のシナプスにおけるLTPは、視床からの神経線維束である白質層、視覚野4層のどちらを刺激しても誘導される。視覚野LTPに見られる感受性期は、切片標本を用いたin vitroの系においても、白質層を刺激した場合に再現される。そこで、雄性Wistar系ラット(2〜6週齢)の脳から視覚野を含む切片(400m厚)を作成し、白質層刺激(Fig.1A)または4層刺激(Fig.1B)により誘発される集合電位を2/3層から細胞外記録し比較した。LTPの誘導は100Hz,1sの条件刺激を2回与えること(tetanus)で行った。生後2〜3週齢では白質層と4層のいずれを刺激した場合もLTPが観察されたが、生後5〜6週齢では4層刺激によってのみLTPが誘導された(Fig.1C)。白質層刺激によるLTPの誘導が発達に伴い特異的に低下することが確認された。

 発達に伴うLTPの変化と5-HTの関連性を探る目的で、まず、高速液体クロマトグラフィー(HPLC)により視覚野5-HT含有量を測定したところ、3〜6週齢で発達に伴い5-HT含有量の増加が認められた。また、5週齢ラットのスライスに5-HT受容体拮抗薬methysergide(50M)を灌流適用すると、白質層刺激によるLTPが増大した。これらの結果より、発達に伴い5-HT神経支配が増強することによってLTPが抑制される可能性が考えられたので、5-HT神経毒5,7-DHTの側脳室内投与によりLTPの低下が解除されるかどうかを検討した。5,7-DHTによる5-HT作動性神経の破壊は、抗5-HT抗体陽性細胞の消失と5-HT含有量の減少により確認された。5,7-DHT投与ラットより作成したスライスでは、5週齢であっても白質層刺激でLTPが誘導された(Fig.2)。以上の結果より、5-HT作動性神経の寄与が増加することによってLTPが抑制されることが示唆された。

2.5-HTによるLTP抑制の機序2.1.視覚野LTPに対する5-HTの効果と5-HT受容体の関与

 4層刺激によるLTPは少なくとも2〜6週齢で変化しなかった(Fig.1C)。そこで、外来性に5-HTを与えることによって4層刺激によるLTPが変化するかどうかを検討した。5-HT(10M)を灌流適用すると、通常のシナプス伝達に変化は認められなかったが、tetanusによるLTPの誘導がほぼ完全に抑制された(Fig.3)。この5-HTのLTP抑制作用は濃度依存的であり(0.1-10M)、5-HT1受容体拮抗薬pindolol(10M)または5-HT2,7受容体拮抗薬ritanserin(10M)によって拮抗されたが、5-HT3,4受容体拮抗薬MDL72222(10M)によっては拮抗されなかった(Fig.4)。また5-HTと同様に、5-HT1A受容体作動薬8-OH-DPATと5-HT2受容体作動薬DOIはそれぞれ濃度依存的(0.1-10M)にLTPの誘導を抑制した。8-OH-DPATのLTP抑制効果はpindolol(10M)で拮抗され、DOIのLTP抑制効果はritanserin(10M)により拮抗された。以上の結果より、5-HTが視覚野LTPを抑制することが確認されたとともに、その作用は5-HT1A、5-HT2両受容体を介することが明らかとなった。

2.2.5-HTのLTP抑制作用におけるGABA作動性神経の関与

 5-HTのLTP抑制作用にGABAを神経伝達物質とする抑制神経系が関与する可能性について検討した。スライスにGABAA受容体拮抗薬bicuculline(BMI,10M)を灌流適用してGABAによる抑制を遮断すると、シナプス電位は増大したが、灌流前後の入力・出力相関に変化はなくtetanusによりLTPが誘導されたので、この条件下でLTPの誘導に対する8-OH-DPATとDOIの効果を検討した。GABA作動性神経を遮断した状態でも、8-OH-DPAT(10M)はLTPを抑制したが、DOI(10M)はLTPを抑制しなかった(Fig.5)。以上の結果より、5-HT1A、5-HT2受容体を介したLTP抑制にはそれぞれ異なった機序が関与していること、特に5-HT2受容体を介したLTP抑制はGABA作動性神経を介することが示唆された。

まとめ

 本研究において、私はラット大脳皮質視覚野LTPの感受性期と5-HTの関連について研究し、以下のことを明らかにした。(1)白質層刺激によるLTPは生後5〜6週齢で消失する。(2)発達に伴い視覚野5-HT含量は増加する。(3)白質層刺激によるLTPの消失は、5一HT作動性神経神経破壊により回復する。(4)5-HTは5-HT1A、5-HT2両受容体を介してLTPを抑制する。(5)5-HT2受容体を介したLTP抑制には、GABA作動性神経が関与している。以上より、5-HTは視覚野LTPの感受性期の終結を決定する因子の一つであると考えられた。本研究は、特定の神経伝達物質が発達に伴う可塑性の消失に関与することを示した例であり、今後の脳の可塑性の研究に大きく寄与するものと思われる。

Fig.1 白質層刺激と4層刺激で誘導されるLTPの発達に伴う変化Fig.2 5-HT神経毒5,7-DHT投与ラットにおいて誘導されるLTP(白質層刺激)Fig.3 4層刺激で誘導されるLTPに対する5-HTの抑制効果 (薬物は太線の時間に適用した)Fig.4 5-HTのLTP抑制作用に対する5-HT受容体拮抗薬の影響5-HT:5-HT 10M,PIND:pindolol 10M,RIT:ritanserin 10M,MDL:MDL72222 10M.**P<0.01vs control,#P<0.05 vs 5-HT(Tukey’s test)Fig.5 GABA作動性神経を遮断した状態でのLTPに対する8-OH-DPATとDOIの効果の比較
審査要旨

 脳神経の働きは遺伝的にすべてが決定されているのではなく、生後の環境に応じて大きく変化する。この性質は「可塑性」と呼ばれ、外界の環境変化にうまく適応するのに役立つと考えられる。長期増強(LTP)は神経活動に依存したシナプス伝達可塑性の一例である。大脳皮質視覚野におけるLTPには海馬LTPには見られない「感受性期」が存在し、生後の発達段階のある特定の時期においてのみ観察される。眼が開いてしばらくの間は外界に適応するために視覚情報に対する可塑性が存在するが、ある一定の期間を経ると可塑性が消失し、獲得した性質がその後保持されるものと考えられる。このように視覚野LTPは発達に伴う可塑性の変化を研究するのによいモデルであると考えられる。

 視覚野LTPの感受性期形成に関わる因子が多数想定される中で、本研究では神経伝達物質のセロトニン(5-HT)に着目した。過去には5-HTと視覚野の発達を示唆する報告例があったにも拘わらず、可塑性との関連性は明らかになっていない。本研究において、視覚野LTPに対する5-HTの作用について検討し、5-HTが感受性期を左右する因子の一つであることを見い出した。

 視覚野2/3層のシナプスにおけるLTPは、白質層、視覚野4層のどちらを刺激しても誘導される。そこで、ラット(2〜6週齢)の脳から視覚野を含む切片を作成し、白質層刺激または4層刺激により誘発される集合電位を2/3層から細胞外記録し比較した。生後2〜3週齢では白質層と4層のいずれを刺激した場合もLTPが観察されたが、生後5〜6週齢では4層刺激によってのみLTPが誘導された。白質層刺激によるLTPの誘導が発達に伴い特異的に低下することが確認された。

 発達に伴うLTPの変化と5-HTの関連性を探る目的で、まず、HPLCにより視覚野5-HT含有量を測定したところ、3〜6週齢で発達に伴い5-HT含有量の増加が認められた。また、5週齢ラットのスライスに5-HT受容体拮抗薬methysergideを灌流適用すると、白質層刺激によるLTPが増大した。これらの結果より、発達に伴い5-HT神経支配が増強することによってLTPが抑制される可能性が考えられたので、5-HT神経毒5,7-DHTの側脳室内投与によりLTPの低下が解除されるかどうかを検討した。5,7-DHTによる5-HT作動性神経の破壊は、抗5-HT抗体陽性細胞の消失と5-HT含有量の減少により確認された。5,7-DHT投与ラットより作成したスライスでは、5週齢であっても白質層刺激でLTPが誘導された。以上より、5-HT作動性神経の寄与が増加することによってLTPが抑制されることが示唆された。

 4層刺激によるLTPは少なくとも2〜6週齢で変化しなかったので、外来性に5-HTを与えることによって4層刺激によるLTPが変化するかどうかを検討した。5-HT(10M)を灌流適用すると、通常のシナプス伝達に変化は認められなかったが、LTPの誘導がほぼ完全に抑制された。この5-HTのLTP抑制作用は濃度依存的であり(0.1-10M)、5-HT1受容体拮抗薬pindololまたは5-HT2,7受容体拮抗薬ritanserinによって拮抗されたが、5-HT3,4受容体拮抗薬MDL72222によっては拮抗されなかった。また、5-HT1A受容体作動薬8-OH-DPATと5-HT2受容体作動薬DOIもそれぞれ濃度依存的(0.1-10M)にLTPの誘導を抑制した。8-OH-DPATのLTP抑制効果はpindololで拮抗され、DOIのLTP抑制効果はritanserinにより拮抗された。以上より、5-HTが視覚野LTPを抑制することを確認し、その作用は5-HT1A、5-HT2両受容体を介することが明らかとなった。

 次に、5-HTのLTP抑制作用にGABAを神経伝達物質とする抑制神経系が関与する可能性について検討した。スライスにGABAA受容体拮抗薬bicucullineを灌流適用しGABA作動性神経を遮断した条件下でも、8-OH-DPATはLTPを抑制したが、DOIはLTPを抑制しなかった。以上の結果より、5-HT1A、5-HT2受容体を介したLTP抑制にはそれぞれ異なった機序が関与していること、特に5-HT2受容体を介したLTP抑制はGABA作動性神経を介することが示唆された。

 以上の結果より、5-HTは視覚野LTPの感受性期の終結を決定する因子の一つであると考えられた。本研究は、特定の神経伝達物質が発達に伴う可塑性の消失に関与することを示した例であり、今後の脳の可塑性の研究への貢献が大きく、博士(薬学)に値すると判断した。

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