学位論文要旨



No 113726
著者(漢字) 佐藤,薫
著者(英字)
著者(カナ) サトウ,カオル
標題(和) 神経細胞の生存とHSP70発現の関連
標題(洋)
報告番号 113726
報告番号 甲13726
学位授与日 1998.03.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第845号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松木,則夫
 東京大学 教授 長尾,拓
 東京大学 助教授 岩坪,威
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
内容要旨

 成熟した中枢神経細胞は分裂増殖しないため、神経細胞を傷害から保護し生存を維持する因子の解明は非常に重要な課題である。外因的に薬物を投与する場合には薬物自体のターゲッティング、用量や副作用といった問題が常につきまとう。しかし、細胞には元々備わっている内在性の防御因子が存在する。現在までのところ、このような内在性防御因子と傷害との関連について系統だった検討がなされた例はないが、外因的な薬物の投与に伴う諸問題を解消した全く新しいアプローチを提供しうるという点で大変魅力に富んだ課題である。本研究ではこの内在性防御因子の候補物質としてHSP70に注目した。細胞は高温、重金属、放射線といったストレス下においてストレスタンパク質(HSPs)と呼ばれる一連のタンパク質を誘導する。この反応はストレス応答と呼ばれるが、原核細胞からヒトに至るまで非常に良く保存された反応であることから、細胞の生存に欠かせない優れた機構であることが予想される。このHSPsの中で最も豊富でかつ保存の良いファミリーは、構成蛋白質が全て分子量70kDaあたりに存在するためHSP70ファミリーと呼ばれる。HSP70はこのHSP70ファミリーの中でストレスによって一過性に細胞質に誘導される唯一のサブタイプであり、分子シャペロンとしての機能を持つことが酵母や大腸菌などのレベルで明らかになっている。中枢神経系においてHSP70は虚血、痙攣、外傷、またアルツハイマー病といった疾患など、広範な神経侵襲で誘導されていることが報告されているがその生理的な意義は未だ明らかではない。しかしin vivoではHSP70を誘導する軽度のストレスが、次に起こる重篤なストレスに対し保護的に作用するという報告が数多く存在し、in vitroにおいてもHSP70のトランスフェクションなどによりHSP70の保護機能を示す報告が増えてきている。私も修士課程において、培養海馬神経細胞の血清除去による傷害に対する熱ショックの保護作用にHSP70の発現が必須であることを見出した。これらの知見からHSP70は神経細胞の内在性防御因子の有力な候補物質であるといえる。また、一過性の前脳虚血後の海馬においてはCA1野に選択的な細胞死が観察されるが、CA1野のみでHSP70の誘導が起こらないという報告がある。この知見はストレスに対する細胞の抵抗性の差に、ストレス自身によって誘導されるHSP70が関与している可能性をも示唆している。しかし、このような実際の神経傷害に対しHSP70が保護的な機能を持つのかどうか、選択的脆弱性にHSP70が関与しているのかどうかといった疑問に対して、今までの全動物と分散培養系を用いた検討法では明確な結論を出すことができなかった。脳切片培養は神経細胞の立体配置を保持した状態でありながら細胞外環境を容易にコントロールできるという特質を持ち、in vivoに非常に近い条件でアンチセンス、トランスフェクションといった遺伝子発現のコントロールが可能なため、上で指摘したようなin vivoとin vitroの限界にブレークスルーを提供する。さらに電気生理学、分子生物学、薬理学の手法を同時に駆使することもできるため、先に挙げたような内在性防御因子の探索には最適の実験系といえる。そこで本研究では培養海馬切片を採用し、虚血傷害の主要なメディエーターとされるグルタミン酸に曝露することにより虚血様の傷害が起こるかどうかをまず確認し、傷害に対する熱ショックの効果とHSP70の保護機能をアンチセンスオリゴヌクレオチドを適用することにより直接的に検討した。また、海馬各部位に選択的な毒性をもつ複数の薬物を用いて海馬各部位の傷害に対するHSP70の作用についても検討した。さらにこのようなグルタミン酸をはじめとする薬物によって引き起こされる傷害に対する抵抗性の部位差にHSP70が関連しているのかどうかアンチセンスを用いて検討した。最後に熱ショックの保護作用が神経回路も保護しているかどうか光生理学的手法を用いて検討した。

グルタミン酸毒性に対する熱ショックの効果とHSP70の関与

 培養海馬切片のグルタミン酸曝露による傷害を確認し、これに対する熱ショックの効果とHSP70の関与をアンチセンスオリゴヌクレオチドを用いて確認した。まず培養海馬切片における神経細胞の生存評価系として蛍光色素であるPI、FDAの取り込みを同時に検出する系を立ち上げた。グルタミン酸曝露により、虚血と同様に部位に依存的な傷害が観察され、その重篤さはCA1野>CA3野>歯状回の順であった。あらかじめ熱ショックをかけておくとこの傷害は有意に抑制されたが、グルタミン酸曝露の3日前に熱ショックをかけたときに最も強い効果が確認された。培養海馬切片における免疫蛍光染色、2重染色の系を立ち上げ、熱ショックによるHSP70の発現を検討したところ、HSP70は神経細胞、グリア細胞の両者に発現していた。ただし、神経細胞とグリア細胞とでは発現のしかたが大きく異なり、グリア細胞では約1日目が発現のピークであるのに対し、神経細胞では3日目がピークとなり熱ショックの最大効果を得る時間と一致した。熱ショックの効果とHSP70の関与をアンチセンスを用いて検討したところ、熱ショックの神経保護作用にHSP70の発現は必須であった。以上の結果より、グルタミン酸によるin vivoに非常に近い神経細胞死に対してHSP70が保護的な効果を持つことが明らかとなった。

海馬各部位の傷害に対する熱ショックの効果とHSP70の関与

 CA1野に選択的な傷害を引き起こすN-methyl-D-aspartate(NMDA)、CA3野に選択的な傷害を引き起こすカイニン酸、歯状回に選択的な傷害を引き起こすコルヒチンを用いて、海馬各部位の傷害に対する熱ショックの効果とHSP70の関連について上述の実験系を用いて検討した。各部位の傷害に対して熱ショックは等しく保護的に作用したがHSP70の関与の度合いが異なった。NMDAによるCA1野の傷害とカイニン酸によるCA3野の傷害に対する熱ショックの効果にHSP70の発現は必須であったが、コルヒチンに対する熱ショックの効果にはHSP70とその他の何らかの防御機構が働いていることが示された。以上の結果はHSP70がメカニズムの異なる神経傷害にも保護的に機能すること、興奮毒性による傷害に対しHSP70が強い保護作用を持つこと、熱ショックの保護作用にHSP70とHSP70以外の何らかの保護機構の両者が寄与している場合もあることが示された。

海馬の部位依存的な脆弱性とHSP70の関連

 熱ショックによるHSP70の発現を各部位について定量したところ、CA3野、歯状回に比較してCA1野での発現が有意に弱かった。これは各部位のストレス応答に差があることを示している。そこでグルタミン酸によるHSP70の発現を確認したところ、CA3野、歯状回に発現が認められた。このような発現がグルタミン酸毒性に対する抵抗性に関与しているのかどうかをアンチセンスにより検討したところ、CA3野の抵抗性にはHSP70の発現が相関しており、歯状回の抵抗性にはHSP70の発現以外にも関与している防御機構があった。また同様の検討をNMDA、カイニン酸、コルヒチン毒性についても行ったところ、興奮毒性によって錐体細胞に傷害が起こる場合にはCA1野錐体細胞とCA3野錐体細胞の抵抗性の違いにHSP70発現が深く関与しているが歯状回顆粒細胞ではHSP70とそれ以外の何らかの防御機構が働いていることが明らかとなった。また、コルヒチン毒性に対する錐体細胞と歯状回顆粒細胞の抵抗性の差はHSP70の発現だけでは説明することはできなかった。以上の結果より海馬神経細胞のストレス応答には部位差があること、HSP70は程度の差はあるが神経細胞の傷害に対する抵抗性の差に関与していること、興奮毒性に対する錐体細胞間の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関しているおり、歯状回顆粒細胞の抵抗性にはHSP70とそれ以外の何らかの防御機構が関与していることが明らかとなった。

興奮性伝播障害に対する熱ショックの効果

 現在まで、HSP70の保護作用については細胞の生存のみが指標として用いられてきた。光生理学的手法では複数のシナプス伝達を介した興奮性伝播を巨視的に観察できる。そこで、海馬切片培養にこの光生理学的手法を適用し、熱ショックが神経回路を機能的にも保護しているのかどうかについて検討した。コントロールにおいて観察された歯状回→CA3野→CA1野の興奮性の伝播はグルタミン酸の曝露によってほとんど消失したが、前もって熱ショックをかけておくことでこれを抑制することが出来た。この知見はHSP70の保護機能が神経回路の機能的保護にも寄与していることを強く示唆している。

 本研究により、HSP70が興奮毒性に対し強い保護作用を持つこと、興奮毒性に対する錐体細胞の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関していること、HSP70は興奮毒性以外の機構を介した神経傷害に対しても保護的に作用することが明らかとなった。以上の結果はHSP70が興奮毒性を介した傷害や疾患に対する内在性防御因子として大変有力な候補物質であることを示唆している。しかし、実用のためには発現の差をもたらす因子の解明が必要である。また、さらなる検討によりHSP70のターゲットが明らかとなり、応用範囲が広がると共により効率の良い実用が近づくことを期待する。

審査要旨

 成熟した中枢神経細胞は一般に分裂増殖しないため、神経細胞を傷害から保護し生存を維持する因子の解明は非常に重要な課題である。ストレス蛋白質の一つであるHSP70は、最も豊富で保存の良いHSP70ファミリーに属し、ストレスによって一過性に細胞質に誘導される唯一のサブタイプである。中枢神経細胞の傷害にHSP70が保護的な機能を持っているのかどうか、傷害に対する神経細胞の抵抗性の差に関与しているのかどうかといった疑問に対して今までの全動物と分散培養系を用いた検討では明確な結論が出されていない。そこで神経細胞の立体配置を保持しながら細胞外環境を容易にコントロールできる切片培養に注目した。切片培養ではin vivoに非常に近い状態で比較的容易に遺伝子発現のコントロールを行うことが可能であり、in vivoとin vitroの限界にブレークスルーをもたらすと思われる。本研究では、培養海馬切片にアンチセンスオリゴヌクレオチドを適用することにより、神経細胞の生存とHSP70発現の関連、傷害の部位差とHSP70発現の関連について以下のような詳細な検討を行った。

 まず培養海馬切片における生存評価系としてPI、FDAの取り込みを同時に検出する実験系を確立し、グルタミン酸曝露により虚血と同様に部位依存的な傷害(CA1野>CA3野>歯状回)が起こること、あらかじめ熱ショックをかけておくと傷害が有意に抑制されることを確認した。免疫蛍光染色および二重染色の手法を用いて熱ショックによりHSP70が神経細胞、グリア細胞の両者に誘導されることを確認した。さらに熱ショックの保護作用にはHSP70の発現が必須であることをアンチセンスを用いて明らかにした。以上の結果はグルタミン酸によって引き起こされる神経細胞死に対してHSP70が保護的な効果を持つことを示している。

 次にCA1野に選択的な傷害を引き起こすN-methyl-D-aspartate(NMDA)、CA3野に選択的な傷害を引き起こすカイニン酸、歯状回に選択的な傷害を引き起こすコルヒチンを用いて、海馬各部位の傷害に対する熱ショックの効果とHSP70の関連についても同様に検討した。各部位の傷害に対して熱ショックは保護的に作用したがHSP70の関与の程度が異なった。NMDAとカイニン酸による傷害に対する熱ショックの保護効果にはHSP70の発現は必須であったが、コルヒチンに対してはHSP70に加えて他の防御機構も働いていることが示唆された。以上の結果よりHSP70がメカニズムの異なる神経傷害にも保護的に機能すること、興奮毒性による傷害に対しHSP70が強い保護作用をもつことを示した。

 熱ショックによるHSP70の発現はCA3野、歯状回に比較してCA1野が有意に弱く、各部位のストレス応答に差があることが明らかになったので、グルタミン酸によるHSP70の発現を確認したところ、CA3野、歯状回に発現が認められた。アンチセンスを用いて確認した結果、CA3野での発現は傷害に対する抵抗性と相関しており、歯状回で観察された抵抗性にはHSP70以外の防御機構が関与していることが示された。同様の結果は部位選択性傷害物質であるNMDAやカイニン酸を用いても確認された。以上の結果は海馬神経細胞のストレス応答には部位差があること、興奮毒性に対する錐体細胞間の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関しており、歯状回顆粒細胞の抵抗性にはHSP70とそれ以外の防御機構が関与していることを示している。

 最後に培養海馬切片に光生理学的手法を適用し興奮伝播を指標に神経機能に対する作用を検討した。歯状回からCA3野を経てCA1野に伝わる興奮性の伝播はグルタミン酸曝露によってほとんど消失したが、熱ショックによりほぼ完全に回復した。これらの知見はHSP70の保護機能が神経回路の機能的保護にも寄与していることを強く示唆している。

 本研究により、HSP70が興奮毒性に対し強い保護作用を持つこと、興奮毒性に対する錐体細胞の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関していること、HSP70は興奮毒性以外の機構を介した神経傷害に対しても保護的に機能することが明らかとなった。これらの結果はHSP70が興奮毒性を介した傷害や疾患に対する内在性防御因子として大変有力な候補物質であることを示唆しており、中枢神経変性疾患の発症機構解明や治療薬開発に新たな手がかりを与える研究であり、博士(薬学)の学位に値すると判断した。

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