成熟した中枢神経細胞は一般に分裂増殖しないため、神経細胞を傷害から保護し生存を維持する因子の解明は非常に重要な課題である。ストレス蛋白質の一つであるHSP70は、最も豊富で保存の良いHSP70ファミリーに属し、ストレスによって一過性に細胞質に誘導される唯一のサブタイプである。中枢神経細胞の傷害にHSP70が保護的な機能を持っているのかどうか、傷害に対する神経細胞の抵抗性の差に関与しているのかどうかといった疑問に対して今までの全動物と分散培養系を用いた検討では明確な結論が出されていない。そこで神経細胞の立体配置を保持しながら細胞外環境を容易にコントロールできる切片培養に注目した。切片培養ではin vivoに非常に近い状態で比較的容易に遺伝子発現のコントロールを行うことが可能であり、in vivoとin vitroの限界にブレークスルーをもたらすと思われる。本研究では、培養海馬切片にアンチセンスオリゴヌクレオチドを適用することにより、神経細胞の生存とHSP70発現の関連、傷害の部位差とHSP70発現の関連について以下のような詳細な検討を行った。 まず培養海馬切片における生存評価系としてPI、FDAの取り込みを同時に検出する実験系を確立し、グルタミン酸曝露により虚血と同様に部位依存的な傷害(CA1野>CA3野>歯状回)が起こること、あらかじめ熱ショックをかけておくと傷害が有意に抑制されることを確認した。免疫蛍光染色および二重染色の手法を用いて熱ショックによりHSP70が神経細胞、グリア細胞の両者に誘導されることを確認した。さらに熱ショックの保護作用にはHSP70の発現が必須であることをアンチセンスを用いて明らかにした。以上の結果はグルタミン酸によって引き起こされる神経細胞死に対してHSP70が保護的な効果を持つことを示している。 次にCA1野に選択的な傷害を引き起こすN-methyl-D-aspartate(NMDA)、CA3野に選択的な傷害を引き起こすカイニン酸、歯状回に選択的な傷害を引き起こすコルヒチンを用いて、海馬各部位の傷害に対する熱ショックの効果とHSP70の関連についても同様に検討した。各部位の傷害に対して熱ショックは保護的に作用したがHSP70の関与の程度が異なった。NMDAとカイニン酸による傷害に対する熱ショックの保護効果にはHSP70の発現は必須であったが、コルヒチンに対してはHSP70に加えて他の防御機構も働いていることが示唆された。以上の結果よりHSP70がメカニズムの異なる神経傷害にも保護的に機能すること、興奮毒性による傷害に対しHSP70が強い保護作用をもつことを示した。 熱ショックによるHSP70の発現はCA3野、歯状回に比較してCA1野が有意に弱く、各部位のストレス応答に差があることが明らかになったので、グルタミン酸によるHSP70の発現を確認したところ、CA3野、歯状回に発現が認められた。アンチセンスを用いて確認した結果、CA3野での発現は傷害に対する抵抗性と相関しており、歯状回で観察された抵抗性にはHSP70以外の防御機構が関与していることが示された。同様の結果は部位選択性傷害物質であるNMDAやカイニン酸を用いても確認された。以上の結果は海馬神経細胞のストレス応答には部位差があること、興奮毒性に対する錐体細胞間の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関しており、歯状回顆粒細胞の抵抗性にはHSP70とそれ以外の防御機構が関与していることを示している。 最後に培養海馬切片に光生理学的手法を適用し興奮伝播を指標に神経機能に対する作用を検討した。歯状回からCA3野を経てCA1野に伝わる興奮性の伝播はグルタミン酸曝露によってほとんど消失したが、熱ショックによりほぼ完全に回復した。これらの知見はHSP70の保護機能が神経回路の機能的保護にも寄与していることを強く示唆している。 本研究により、HSP70が興奮毒性に対し強い保護作用を持つこと、興奮毒性に対する錐体細胞の抵抗性の差はHSP70発現の差に強く相関していること、HSP70は興奮毒性以外の機構を介した神経傷害に対しても保護的に機能することが明らかとなった。これらの結果はHSP70が興奮毒性を介した傷害や疾患に対する内在性防御因子として大変有力な候補物質であることを示唆しており、中枢神経変性疾患の発症機構解明や治療薬開発に新たな手がかりを与える研究であり、博士(薬学)の学位に値すると判断した。 |