学位論文要旨



No 113751
著者(漢字) 木村,浩人
著者(英字)
著者(カナ) キムラ,ヒロト
標題(和) イラン北部エルブールズ山脈、上部原生界〜下部カンブリア系の化学層序と生物擾乱
標題(洋) Chemostratigraphy and bioturbation of Vendian-Cambrian successions,Elburz Mountains,North Iran
報告番号 113751
報告番号 甲13751
学位授与日 1998.04.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3462号
研究科 理学系研究科
専攻 地質学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,良
 東京大学 教授 棚部,一成
 東京大学 助教授 大路,樹生
 東京大学 助教授 多田,隆治
 東京大学 教授 歌田,実
内容要旨

 先カンブリア時代末期(ヴェンディアン紀)〜カンブリア紀初頭は生物圏の拡大とエディアカラ動物群(先カンブリア・タイプの動物群)→顕生代タイプの動物群への移行で特徴づけられる。化石記録に見られるカンブリア紀初頭の多細胞動物の急激な進化のメカニズムを明らかにする事を最終目的として、筆者はイラン北部のエルブールズ山脈に分布する先カンブリア系/カンブリア系境界の層序を中心に調査を行っている。以下、本研究で得られた成果の一部を3項目に分けて説明する。

(1)先カンブリア時代末の海洋深層水の表層への流入イベント

 イラン北部の先カンブリア系/カンブリア系境界を含む欠如の無い一連のセクションでは、境界直下(ヴェンディアン最上部)の炭素同位体組成が-8‰の地質時代で最大規模の負異常を示す。この負異常は、イラン北部一帯で見られる(図1)が、既に報告のある他地域の炭素同位体組成変動と生層序により対比した結果、この負異常はグローバル・イベントであることが明らかとなった(図2)。北部イランの負の異常帯は黒色頁岩と植物プランクトン化石の密集を伴い、頁岩中にリン・マンガン・バリウムの顕著な濃集が見出された。

Fig.1.Stratigraphic columns.variations in 13Ccarh(炭酸塩の炭素同位体組成).13Corg(有機物の炭素同位体組成).and concentrations of Mn.P2O5 and Ba in the shale across the Precambrian/Cambrian boundary at Valiabad section.and Dalir section.in Elburz Mountains.Iran.Soltanieh Foemation is subdivided into the Lower Dolomite Member (LD or LDM).the Lower Shale Member (LSM).the Middle Dolomite Member (MD or MDM).the Upper Shale Member(USM).the Upper Dolomite Member (UDM). MN and Atd. represent Manykayan Stage and Atdabanian Stage,respectively. Curves of 13C were drawn using values of both carbonate and organic phases (dark curves).or values of either the former or the latter (light carves)(d13Ccarb-d13Corg=28.9‰).Fig.2.Comparison of 13Ccarb profiles across PC/C boundary.Morocco,Siberia,Oman,Iran(this study)and Northwest Canada are correlated here.Thickness(m)of strata and biostratigraphic markers are represented on the left and right sides,respectively.Correlation of 13C execursions are represented by broken lines.CL:Cloudina(Vendian or possibly lowermost Cambrian.Burns & Matter,1993),ND:Nemakit-Daldynian,TM:Tommotian

 これらの事実は、還元的な深層水の表層への流入で説明される。ヴェンディアン後期は、大陸氷床の痕跡が見られず、地球は温室期にあったとされている(e.g.Brasier et al.,1992)。温室期は緯度による温度勾配が小さいため、海洋循環は停滞する。循環の停滞した海洋では、酸化的な表層水と還元的な深層水から成る成層構造(例:現在の黒海-図3)が発達し、深層水では炭素同位体組成が負に傾き、リン・マンガン・バリウムに富む(by many papers)。この様な深層水が大規模に浅海域に流入すると、リンなどの栄養塩によって植物プランクトンが繁栄し、浅海の堆積物の炭素同位体組成が負に傾き、リン・マンガン・バリウムがそれぞれ、有機物・酸化物・硫化物として堆積物中に濃集する。つまり、ヴェンディアン末期、Cambrian Explosionが起こる直前に、全球規模で還元的な海洋深層水が表層に流入した事を示唆する。

Fig.3.Black Sea depth profiles of selected elements,quoted from previous papers.A dotted line shows the surface-deep water boundary.
(2)先カンブリア時代末の海洋無酸素事変と生物危機

 化石記録に残された最初の多細胞動物群であるエディアカラ動物群は、軟体部の印象化石としてヴェンディアン後期に汎世界的に分布するが、ヴェンディアン末に姿を消す。これは、Cambrian explosionに伴う堆積物の生物擾乱の増大に伴い、その印象が化石として保存されなくなったためで、エディアカラ動物群はカンブリア紀にも生息し、徐々に絶滅したとして一般的に説明されている(e.g.McMenamin1990)。これに対して、エディアカラ動物群は、Cambrian explosion以前に大量絶滅したとする説明も存在する(e.g.Brasier1989)。しかし、先カンブリア時代の化石産出報告は限られており、時代区分も細分化されておらず、生物擾乱の程度に関する研究も行われていないため、この問題は未解決のままであった。

 ヴェンディアン最上部の浅海堆積物に全球規模で見られる炭素同位体の強い負異常は、二酸化炭素に富んだ還元的な深層水(図3)が表層に上昇したことで説明される(第1章)。堆積物に含まれるトリウム/ウランの濃度比は、堆積環境における酸化還元状態を表すが、北部イランの負異常部では、この比が還元的な値を示す(図4)。また、トリウム/ウラン比はヴェンディアン上部〜カンブリア系下部を通じて、炭素同位体組成と強い正の相関を示す。この相関がイラン北部と中国南部(筆者は中国南部の調査も行っている)で共通に見られる事から、先カンブリア系/カンブリア系境界層序の炭素同位体組成は、概ね堆積環境の酸化還元状態を表すと解釈される。従って、ヴェンディアン最上部で全球規模に見られる炭素同位体組成の負異常は、先カンブリア時代の終末に、浅海域が全球規模で還元的になった事(海洋無酸素事変)を示唆する。さらに、筆者はイラン北部の層序の堆積性ラミナの保存状態の解析を行った。そして、イラン北部では、この炭素同位体組成の負異常期に底生生物による堆積物の擾乱が減少した事が明らかになった(図4)。

Fig.4:Stratigraphic columns, variations in preservation degree of synsedimentary laminations in both macro-and micro-scopic scales(Index1:well-laminated through index7: completely homogenized),13Ccarb,13Corg,and Th/U ratios in uppermost Vendian strata at Valiabad and Dalir sections,in Elburz Mountains,North Iran.The transition beds Include the Lower Dolomite Member (LD or LDM),the Lower Shale Member(LSM),and the Middle Dolomite Member (MD or MDM).Cam.represents Cambrian.Most part of the Middle Dolomite Member is Nemakit-Daldnian stage1.(a):Valiabad,(b):Dalir.Curves of 13C were drawn using values of both carbonate and organic phases (13Ccarb-13Corg=28.9‰).

 以上の結果はHypercapniaによる大量絶滅モデル(Knoll et al.,1996)により最も矛盾なく説明される。上述の二酸化炭素に富む還元的な海水は浅海の動物を麻痺させ(堆積物の生物擾乱の減少)、その繁殖活動を抑制する。この様な環境ストレスが、動物の寿命を遥かに上回る地質学的な期間(約100万年の炭素同位体の負異常期、Pelechaty et al.,1996)持続する事により、選択的な動物の絶滅が起こる。エディアカラ動物群は体サイズに対し体表面積を最大化することにより、受動的なガス交換に適応した動物であるが(e.g.Seilacher et al.,1992)、この様な動物は二酸化炭素に富む還元的環境に最も影響を受けやすい。大部分のエディアカラ動物群化石は、ヴェンディアン最上部の炭素同位体組成の負の異常部とその上位の層準からは産出しない(e.g.Narbonne et al.,1994)。これらはの事実は、ヴェンディアン末に大部分のエディアカラ動物群が絶滅し、その後の生態的地位を顕生代タイプの動物群が占めた事を示唆する。

(3)カンブリア紀前期Tommotian初期における大気の酸素分圧増大の認定

 前期カンブリア紀のTommotianは様々な系統の多細胞動物が地質学的短期間(約200万年〜)に化石記録に登場することで特徴づけられ、Cambrian explosionと呼ばれている。これは、前項目で述べたヴェンディアン末の海洋無酸素事変-大量絶滅の約1000万年後に当たる。これまで、多くの動物学者・古生物学者は、現生多細胞動物の生息が生息域の酸素濃度に制約されている事実から、この時代(Tommotian)に大気の酸素分圧が増大したことによりCambrian explosionが起こったと考えている。本研究では地質記録からTommotian前期に大気の酸素分圧増大が実際に起きたことが明らかになった。その増大幅の定量的見積もりも可能である。

 イラン北部のTommotian下部の堆積物の炭素同位体組成は激しく変動し、-1.5‰の負の異常とそれに続く+2‰の正の異常を示す。これらの異常は生層序により、汎世界的に見られることが既に確認されており、北部イランで見られる変動も、汎世界的な変動に対応することが明らかとなっている(Brasier et al.1990)。これらの異常帯に伴って、イラン北部の堆積物には頁岩中のマンガン・リンの濃集と燐酸炎堆積物が見られ、この時期にヴェンディアン末の海洋無酸素事変と同様、マンガンやリンに富む還元的な深層水が浅海域に流入したと解釈される。前章で述べた通り、堆積物中のトリウム/ウラン濃度比は、堆積環境における酸化還元状態を表すパラメータであるが、この値がTommotian基底の炭素同位体組成の負異常部と一部はその上位の正異常部で激減し、0に近い値を示す。このトリウム/ウラン濃度比の減少は、Tommotian初期の浅海域に還元的環境が卓越したことを示す。さらに、この層準の炭素同位体組成は前章で述べたトリウム/ウラン比の正の相関傾向から外れる。言い換えると、実際の炭素同位体組成の分析値は、トリウム/ウラン比との相関から想定される値より、かなり高い値を示す。つまり、低い値をもつ炭素が系外へ移動した事を示唆する。これらの事実は、Tommotian初期に還元的で栄養塩に富む深層水の浅海域への上昇が起こり、光合成(CO2+H2O→CH2O+O2)によって生産された有機物(低い同位体組成値をもつ)が分解・酸化されずに、大気-表層水系から除去された(深層水に移動〜堆積物中に固定)、つまりCO2+H2O=CH2O+O2のバランスが崩れ、大気の酸素分圧が増大した事を示唆する。

審査要旨

 申請された学位論文「イラン北部エルブールズ山脈、上部原生界〜下部カンブリア系の化学層序と生物擾乱」は次の5つの章からなる。

 第1章 イントロダクション

 第2章 岩相層序と堆積環境

 第3章 化学層序

 第4章 生物擾乱

 第5章 議論

 このうち、内容的に骨格をなし、研究成果として特筆すべき部分は第3章である。この章で、炭酸塩岩と有機物の炭素同位体組成の経時変動とその意味付け、トリウム/ウラン比の変動とその意義についての考察がされ、カンブリア紀の変動を引き起こした環境的背景が復元される。第4章は、一部表現に不十分な点もあるが、底棲生物の活動度から、生物圏の拡大、縮小について考察しようとしている。第3章で化学パラメータから明らかにされた海洋環境の変動とは独立に生物進化の実体を明らかにしている。

 先カンブリア時代末期〜カンブリア紀の初頭はエディアカラ動物群から顕生代型動物群への移行と生物圏の拡大によって特徴づけられる。申請者木村浩人は、カンブリア紀初頭の多細胞生物の爆発的進化(カンブリア大爆発)のメカニズムを明かにすることを目的として、イラン北部のエルブールズ山脈において調査を行い、堆積学的、地球化学的検討を行い、カンブリア紀の変動要因の解明に重要な貢献をした。特に重要な研究成果は以下の2点である。

1、先カンブリア時代末期の炭素同位体組成異状の発見

 炭酸塩岩の炭素同位体組成は当時の表層海洋の炭素同位体組成を反映し、従来も海洋における生物生産性の大小をしる手がかりとして多くの研究者に注目されていた。しかしそれらの研究の関心は、カンブリア大爆発を反映する炭素同位体組成の正の異状がいつごろどのように出現したかに集まり、大爆発前の変動には注意が払われていなかった。申請者はイラン北部の先カンブリア時代〜カンブリア紀境界層が連続的に露出するセクションを対象として境界前後になにが起きたかを詳しく検討した結果、カンブリア大爆発の直前に炭素同位体組成が著しく負にシフトすることを見い出した。シフトの大きさ(-8〜-10‰)はこれまでに報告されている顕生代の変動のなかでは最大規模のものである。炭素同位体組成が負にシフトするメカニズムとして2つの可能性が指摘される。第1は、表層海水中での光合成が不活発となり、生物による炭素12の固定量が減少すること、第2は、海洋表層に炭素12に富んだ海水が侵入することである。前者のモデルでは、炭素同位体組成の変動は生物活動の低下(あるいは絶滅)の結果と説明される。申請者は炭素同位体の変動とともに、堆積物中のマンガン、バリウム、リンなどの栄養塩類が増加している事から、海洋の深層から栄養塩と溶存炭素に富み、酸素に欠乏した海水が何らかの理由で表層域に侵入したために起きたとする、第2のモデルを提唱した。この事は、表層の生物群(ここではエディアカラ動物群)にとって致命的な影響を与える事を意味する。申請者は想定される絶滅事件が、それに引き続くカンブリア大爆発を誘因した理由の一つとした。

2、酸化還元電位の変動の復元

 炭素同位体組成の変動から、酸素に乏しい深層水によるエディアカラ動物群の絶滅というシナリオが描かれたが、これまでは、実際に当時の表層海洋の酸化還元電位を直接的に見積もった研究はなかった。申請者は、堆積物中に含まれる砕屑性粒子のトリウム/ウラン比が堆積場の酸化還元電位を反映して大きく変動する事に着目した。つまり、還元的環境ではウランは還元されて難溶性の塩を作るため、堆積物中に固定されトリウム/ウラン比は小さくなる。反対に、酸化的環境ではウランは可溶性の塩を作るため海水に溶け出し、トリウム/ウラン比は大きくなる。申請者は、モリブデン、バナジウムなど酸化還元電位を反映する他の元素についても検討し、イランの研究セクションにおいて、トリウム/ウラン比が当時の海洋の酸化レベルを反映している事を示した。そして、1で示した、炭素同位体組成の負の異状の時期が強い還元環境に対応することを明かにした。

 提出された学位申請論文は、野外調査と標本の堆積学的記載、観察、地球化学的分析に基づいて合理的な推論、議論を行い、斬新でかつ極めて説得的なモデルを提出することに成功した。なお、本論分の一部は松本良、角和善隆、B.Hamdi,H.Zibasseresh、および渡部芳夫との共同研究であるが、論文提出者が主体となって分析および検証を行ったものであり、論文提出者の寄与が十分であると判断する。本研究は単に先カンブリア〜カンブリア紀境界の変動、生物の爆発的進化の要因を示しただけに止まらず、地球化学的手法により過去の地球環境を定量的に復元する方法を確立したという点でも価値が高く、申請者は学問的には十分に博士(理学)の称号を受けるに値すると判断出来る。

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