学位論文要旨



No 113753
著者(漢字) 藤田,勇
著者(英字)
著者(カナ) フジタ,イサム
標題(和) 臭化リチウム水溶液の水蒸気吸収における表面張力不安定に関する研究
標題(洋)
報告番号 113753
報告番号 甲13753
学位授与日 1998.04.16
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4205号
研究科 工学系研究科
専攻 機械工学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 飛原,英治
 東京大学 教授 庄司,正弘
 東京大学 教授 笠木,伸英
 東京大学 教授 西尾,茂文
 東京大学 教授 松本,洋一郎
内容要旨

 本研究は吸収冷凍機の作動媒体として広く用いられている臭化リチウム水溶液の流下液膜流が水蒸気を吸収する際に示す表面張力不安定を線形安定性理論により解析するものである.

 吸収式冷凍機は,圧縮式冷凍機と異なり熱入力により駆動されるため,他の熱機関からの低温廃熱の利用が可能であり省エネルギー性に優れる.更にオゾン層破壊あるいは地球温暖化の原因物質であるCFCやHCFCを用いないことから地球環境保護の観点からも有望な冷凍サイクルである.その一方,吸収式冷凍機はCOPが小さいことやあるいは装置が大型であるといった経済性の面において解決すべき課題を有している.吸収冷凍機の小型化および高効率化のためには,全体の性能を律速している吸収器の性能向上が必須である.吸収器内部での臭化リチウム水溶液の水蒸気吸収過程は熱移動と物質移動が連成する現象であり複雑である,一般に吸収器では,吸収剤の濃度変化を大きくつける必要があるため吸収剤の流下液膜は層流液膜を用いることが多いが,そのような層流液膜では,冷媒の吸収量が液膜内部での分子拡散に律速されるためかえって大きな吸収量が期待できない.このような問題の解決策として通常行われていることの一つに界面活性剤の添加があげられる.臭化リチウム水溶液にn-octanolといった界面活性剤を添加することにより,表面張力の不均一に起因する対流が発生し,水蒸気の吸収が促進される.しかしながら界面活性剤添加による不安定の発生条件,発生メカニズム,界面活性剤に求められる特性,あるいは伝熱管の最適表面形状等がどのようなものであるのか,工学的に解析あるいは整理が十分なされているとは言い難い.従来の表面張力不安定に関する研究は,表面張力が例えば温度(Thermo-capillary)あるいは濃度(Solute-capillary)といった単一の熱力学的変数に依存する系におけるものが多く,臭化リチウム水溶液の様な二成分系における表面張力不安定(Thermo-Solute-capillary)についてのものはほとんど見る事ができない.二成分系では温度と濃度が気液界面において連成するため,不安定の様相は単成分系と異なることが予想される.従って多成分系における表面張力不安定の発生メカニズムおよび発生条件を明らかにすることは高性能の吸収器を開発していく上で重要な意義を持つものである.更には,吸収式冷凍機という応用を離れても,流下液膜による吸収あるいは凝縮といった系は多くの化学プラントに見られるものであり,流下液膜の不安定性に関する研究は工学上広い応用分野を持つものであるといえる.

 本研究では,吸収式冷凍機における垂直管流下液膜式吸収器を念頭において,壁面を流下する臭化リチウム水溶液が水蒸気を吸収する際に示す表面張力不安定がどのような形態で発現するのか,メカニズムは何か,あるいは発生条件はどのようなものかといった基礎的な知見を得ることを目的とし,以下の課題に取り組むものである.

 1.従来のように表面張力が温度といった単一変数に依存する系(例えばThermo-capillary)に関する理論を,表面張力が温度と溶質の濃度の両者に依存する系(Thermo-solute-capillary)に拡張すること.

 2.1のモデルを用いて臭化リチウム水溶液の水蒸気吸収流下液膜における表面張力不安定の機構と発生条件を明らかにすること.

 3.界面活性剤無添加の場合と添加の場合とで不安定性にどのような違いがあるかを明らかにすること.

 これらの課題に対して本論文では理論と実験の両面から解析を行っている.理論解析では図1に示す様に傾斜平板を流下する液膜流を対象とし,線形安定性理論を用いて解析を行った.表面張力不安定を引き起こす熱力学的な非平衡としては温度と水の濃度を考え,それらが気液界面において水蒸気分圧一定という平衡関係を満たすと仮定した.表面張力の物理モデルとしては,界面活性剤の吸着平衡を仮定し,添加の効果が表面張力の温度および溶媒(水)濃度依存性(∂/∂T,∂/∂c)を変化させるというモデルを用いた.解析は具体的には,流れ場,温度場および濃度場に関する支配方程式と境界条件から線形擾乱方程式を導き,固有値問題として数値的に解いた.擾乱方程式の積分では数値計算上の安定性を確保するためにRiccati変換法を用いている.熱力学的非平衡度が表面張力の不均一性に及ぼす影響を表す無次元数としてマランゴニ数を

 

 と定義し結果を整理した.ここでは表面張力,(0)は平均液膜厚さ,T,cは各々温度と濃度に関する非平衡度である.熱力学的非平衡下に置かれた流下液膜流の不安定性は乱れエネルギーの供給形態から表1に示す三つのモードに分類されることから,本研究では各々の不安定モード(P-mode,S-mode,H-mode)に関して流れと直交する方向(横方向)の微小擾乱に対する不安定性と流れと平行な(縦方向)微小擾乱に対する不安定性を独立に考察した.

図1.解析モデル表1.熱力学的非平衡下におかれた流下液膜流の不安定性

 横方向擾乱に対するP-modeでは,不安定が発生するマランゴニ数の正負が熱移動と物質移動のどちらが現象を支配しているかによって変化し,それらは溶液の非平衡物性あるいは,温度濃度の定常分布のつきかたに依存する事を見出した.物性値変化に対する中立安定線の変化の一例を図2に示す(濃度境界層厚さc=0.1,温度境界層厚さT=1.0).熱移動が物質移動よりも悪い場合(Pr>Sc)にはMa>0において不安定が起きる一方,物質移動が熱移動よりも悪い場合(Sc>Pr)にはMa<0で不安定が起きることを見出した.また温度濃度の定常分布の与え方によっても不安定領域は変化し,濃度境界層が温度境界層に比べて非常に小さいような場合には,Sc>PrであってもMa>0で不安定が発生することを明らかにした.

図2.横力向P-mode不安定

 その他,本研究を通して以下の知見を得た.横方向の擾乱に対する界面変形を伴う長波長不安定(S-mode不安定)では,壁面側の境界条件が重要である事を見出した.等温壁上を流下する液膜では,定常状態における熱伝達と物質伝達のどちらが支配的かに依存せずMa>0において発生する一方,断熱壁面を流下する液膜では,定常状態における熱伝達と物質伝達のどちらが支配的かに依存し,P-mode同様,熱伝達に比べて物質伝達が悪い場合には不安定はMa<0で発生し,物質伝達に比べて熱伝達が悪い場合には逆にMa>0で発生するという結果を得た.

 一方液膜流れ方向の擾乱(縦方向擾乱)に対する不安定性に関しては,界面変形を伴う短波長不安定(P-mode)と界面変形を伴う長波長不安定(S-mode)のいずれも,定常流速が増すに従って発生し難くなる事を見出した.他方,等温流下液膜流でも発生する長波長のH-mode不安定の発現に対しては,S-modeはほとんど影響を与えない事を示した.従って,流下液膜における表面張力不安定は流下方向と直交する方向に発生しやすく,定性的には流れを横方向に構造化する傾向を示すことが予測される.

 以上の理論解析に加えて本研究では静止液膜における水蒸気吸収実験を行い,実際の臭化リチウム水溶液における表面張力不安定と理論との対応付けを行った.二次元赤外線放射温度計を用いて水蒸気吸収時の界面温度分布を計測し表面流との分布関係から不安定が発生する際のMaの符号を決定した.界面活性剤としてn-octanolを100ppm程度添加した場合の不安定は,従来の説明に反して,Ma>0で発生している事を見出した.観察された不安定は長波長のものであり,上述の理論解析におけるS-modeが主に発現している可能性が高いことを示した.

 以上まとめると,本論文では二成分系流下液膜の表面張力不安定に関して線形安定論を用いて理論解析を行い,線形領域における液膜不安定の全体像を描出することに成功した.更に解析結果を臭化リチウム水溶液の水蒸気吸収液膜に適用し,界面活性剤添加によって発生する不安定が理論的にも説明可能なものであることを示した.

図3縦力向P-mode不安定
審査要旨

 本論文では吸収冷凍機の作動媒体として広く用いられている臭化リチウム水溶液の流下液膜流が水蒸気を吸収する際に示す表面張力不安定を線形安定性理論により解析している。

 吸収式冷凍機は,圧縮式冷凍機と異なり熱入力により駆動されるため,他の熱機関からの低温廃熱の利用が可能であり省エネルギー性に優れる。更にオゾン層破壊あるいは地球温暖化の原因物質であるCFCやHCFCを用いないことから地球環境保護の観点からも有望な冷凍サイクルである。吸収冷凍機の小型化および高効率化のためには,全体の性能を律速している吸収器の性能向上が必須であり,そのために界面活性剤が吸収剤溶液に添加されている。臭化リチウム水溶液にn-octanolといった界面活性剤を添加することにより,表面張力の不均一に起因する対流が発生し,水蒸気の吸収が促進される。しかしながら界面活性剤添加による不安定の発生条件,発生メカニズム,界面活性剤に求められる特性,あるいは伝熱管の最適表面形状等がどのようなものであるのか,工学的に解析あるいは整理が十分なされているとは言い難い。本論文では,吸収式冷凍機における垂直管流下液膜式吸収器を念頭において,壁面を流下する臭化リチウム水溶液が水蒸気を吸収する際に示す表面張力不安定がどのような形態で発現するのか,メカニズムは何か,あるいは発生条件はどのようなものかといった基礎的な知見を得ることを目的として研究されている。本論文は6章より成っている。

 第1章は,序論で,研究の背景,従来の研究のまとめ,本研究の目的を記述している。従来の表面張力不安定に関する研究は,表面張力が例えば温度あるいは濃度といった単一の熱力学的変数に依存する系におけるものが多く,臭化リチウム水溶液のような二成分系における表面張力不安定についてのものは見る事ができないこと,二成分系では温度と濃度の変動が気液界面において連成するため,不安定の様相は単成分系の重ね合わせとはならないことが述べられている。

 第2章は,解析モデルと題し,流下液膜の不安定現象を解析するのに用いられた線形安定論の基礎式,境界条件,無次元化手法,表面張力の物性モデルなどが記述されている。傾斜平板を流下する液膜流を対象とし,表面張力不安定を引き起こす熱力学的な非平衡としては温度と水の濃度を考え,それらが気液界面において水蒸気分圧一定という平衡関係を満たすと仮定している。表面張力の物理モデルとしては,界面活性剤の吸着平衡を仮定し,添加の効果が表面張力の温度および溶媒(水)濃度依存性を変化させるというモデルを用いている。基礎方程式は,流れ場,温度場および濃度場に関する支配方程式と境界条件からなり,線形擾乱方程式を導き,固有値問題として数値的解けば良いことが示されている。

 第3章は,線形擾乱方程式の解き方を記述した章である。擾乱方程式をRunge-Kutta法などの通常の方法で積分すると数値計算上の不安定性が発生することを示し,それを回避するためにRiccati変換法を用いている。

 第4章は,流下液膜の線形安定性解析の結果をまとめて示している。横方向擾乱に対する界面変形を伴わないP-modeでは,不安定が発生するマランゴニ数の正負が熱移動と物質移動のどちらが現象を支配しているかによって変化し,それらは溶液の非平衡物性あるいは,温度濃度の定常分布のつきかたに依存する事を見出している。熱移動が物質移動よりも悪い場合(Pr>Sc)にはマランゴニ数Ma>0において不安定が起きる一方,物質移動が熱移動よりも悪い場合(Sc>Pr)にはMa<0で不安定が起きることを見出している。また,横方向の擾乱に対する界面変形を伴う長波長不安定(S-mode不安定)では,壁面側の境界条件が重要である事を見出した。等温壁上を流下する液膜では,常にMa>0において不安定が発生する一方,断熱壁面を流下する液膜では,P-mode同様,熱伝達に比べて物質伝達が悪い場合には不安定はMa<0で発生し,物質伝達に比べて熱伝達が悪い場合には逆にMa>0で発生するという結果を得ている。一方,液膜流れ方向の擾乱(縦方向擾乱)に対する不安定性に関しては,界面変形を伴う短波長不安定(P-mode)と界面変形を伴う長波長不安定(S-mode)のいずれも、定常流速が増すに従って発生し難くなる事を見出している。

 第5章では,静止液膜における水蒸気吸収実験を行い,実際の臭化リチウム水溶液における表面張力不安定と理論との対応付けを行っている。二次元赤外線放射温度計を用いて水蒸気吸収時の界面温度分布を計測し,表面流との分布関係から不安定が発生する際のマランゴニ数の符号を決定している。界面活性剤としてn-octanolを100ppm程度添加した場合の不安定は,従来の説明に反して,Ma>0で発生している事を見出し,観察された不安定は長波長のものであり,上述の理論解析におけるS-modeが主に発現している可能性が高いことを示している。

 第6章では,結論を述べている。

 以上,要するに,本論文では二成分系流下液膜の表面張力不安定に関して線形安定論を用いて理論解析を行い,線形領域における液膜不安定の全体像を描出することに成功した。更に解析結果を臭化リチウム水溶液の水蒸気吸収液膜に適用し,界面活性剤添加によって発生する不安定が理論的にも説明可能なものであることを示している。これらの知見は工学および工業技術の進展に寄与するところが大きい。

 よって,本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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