学位論文要旨



No 113758
著者(漢字) 大黒,弘慈
著者(英字)
著者(カナ) ダイコク,コウジ
標題(和) 貨幣と信用の展開 : 貨幣数量説批判
標題(洋)
報告番号 113758
報告番号 甲13758
学位授与日 1998.04.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第117号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 小幡,道昭
 東京大学 教授 杉浦,克己
 東京大学 教授 柴田,徳太郎
 東京大学 教授 二瓶,剛男
 東京大学 助教授 丸山,眞人
内容要旨

 貨幣数量説は,市場と社会的生産とを独立に存在する二領域として形式的に分離し,逆に,市場の私的性格を介して,社会的生産が変容を被りつつ,事後的にのみ調整が果たされていくという,不均衡を内包した市場の無政府性を,通常は考慮の外におく.

 本稿は,相対的価値形態と等価形態の非対称性を起点とし,貨幣の自己目的性(表象の限界)を経由して,市場の私的・無政府的性格を説く「価値形態論」的視角を,なによりも「貨幣数量説」(表象)批判の拠り所として,貨幣論の段階から強く意識する方途を取る.その際,留意すべき点として,

 第1に,貨幣論で,数量説批判としてマルクスによって主張された「流通必要量」法則は信用貨幣にも同様に貫徹するとされているが,この法則は数量説批判として無効なのか.社会的生産から市場への一方的な規制のみならず,両契機の相互作用のうちにこの「流通必要量」を拡充し,同法則を再解釈していく手立てはないのか.

 第2に,数量説批判の拠り所として「貨幣蓄蔵」の契機はとりわけ重要であるが,これを「社会的貯水池機能」ではない仕方で生かす手立てはないか.貨幣論における「鋳貨準備金」,信用論における「資金」「中央銀行準備金」等に,市場の拡張と収縮,不均衡と均衡を同時に強いる「かなめ」を見いだすことはできないだろうか.

 第3に,貨幣数量説は,さしあたり貨幣価値の決定論として主張されているが,この「機械的・太陽平均説的貨幣価値観」を,流通形態論レベルで批判していく手立てはないか.その際,相対的価値形態と等価形態の非対称性はいかに影響するだろうか.

 これら「流通必要量」「準備金」「貨幣そのものの価値」はいずれも「表象の限界」の確定,つまり「表象批判」に関わっているのだが,更に重要なのは,貨幣論で予め出された概念・法則に固定的に固執するのでもなく,あるいはそれらを反故にして信用論を独自に展開するのでもなく,貨幣論の成果がいかに信用論にまでもちこされ,そこで独自に変容を被りつつも貫徹することになるのか,という貨幣論と信用論との関連が,市場と社会的生産との相互作用という視点からつねに問題にされねばならない,ということである.

 以上の問題意識をふまえ,以下,全体の構成と要約を大まかに示しておく.

第1章「価値形態と貨幣流通-流通根拠の階層性-」

 価値形態論によって商品貨幣説を論証するという通説は,貨幣の金(商品)としての性質,あるいは労働の社会的均衡編成に,流通の根拠を直接求めることを含蓄するが,このような実体的根拠論に対し,流通論レベルでこれを二層に分けて論じる.まず,貨幣の一般的購買力の根拠を「生成の論理」として論じる.ここでは当事者間の絆,協約という共同体的一体感にもとづく直接的「信頼」ではなく,自己の抱く合理的推論と投企的期待とを多少なりとも当てにすることができるという個人的「信頼」と,その結果としての「慣習」に貨幣の起源を求め,貨幣存立の根拠と無根拠との同根をそこで指摘する(メンガー=マルクス).またこれと区別して,貨幣の一般的受領性の根拠を「継続の論理」として論じる.ここでは自覚的「信頼」の省略が,惰性化した信頼のもとに却って貨幣の一般的受領性を強固にするということを「象徴化」という視点から論じる(左右田=マルクス).

補章1「ハイエク『貨幣発行自由化論』をめぐって」

 ハイエクは,中央銀行の単一性にもとづく,恣意的な貨幣把握と外注的な貨幣量操作こそが数量説の本質だとして,デフレ主義的「自由銀行論」を説いたが,これは「理性の限界」という自身の主張に反し,貨幣数量と貨幣価値とを結びつけて即座に判断する超合理的主体を想定すると同時に,数量説的説明原理を踏襲してしまっている.貨幣流通根拠の階層性という第1章の展開を踏まえ,ここでは,「生成の論理」を普遍化し,却って貨幣の価値の不安定をもたらしてしまうハイエク理論の一面性が批判される(4章で再説).

補章2「岩井克人『貨幣論』をめぐって」

 岩井は,貨幣流通の無根拠を暴くために,商品所有者の欲望を必須とする宇野弘蔵の価値形態論解釈を斥けて,貨幣の「自己循環論法」を対置する.しかし流通根拠を全面的に「他者指向性」に還元してしまうことは,その意図に反して,却って貨幣流通の自動的安定性をもたらしてしまう.補章1と同様第1章の応用として,ここでは「継続の論理」を普遍化する岩井「貨幣論」の一面性が批判されると同時に,「方法論」「形而上学批判」「信用」「慣習」「ハイパーインフレ」の諸問題が諸論者との対比のもとに論じられる.

第2章「貨幣蓄蔵と貨幣価値-貨幣価値の安定性-」

 貨幣数量説批判を貨幣価値論のレベルでおこなう.貨幣量から貨幣価値へという数量説の因果関係を問題として,大方の数量説批判は,金の投下労働量が貨幣価値すなわち物価水準を規制し,それが必要な貨幣数量を決めるという逆の因果関係を対置するに留まる.いずれにせよ,機械的に算出された「貨幣価値」概念を前提し,その量的安定を外的要因に,つまり一方は当局による発行量調整に,他方は均衡的な労働編成に求めるにすぎない.双方とも貨幣が貨幣たりえていること,貨幣価値の確実性を内的に探るという方途を放棄しているのであり,本章は,これに対して「価格」でも「価値の規制者」でもない「価値形態」そのもののレベルで,貨幣価値の概念規定と量的安定性を同時に探る.具体的には,ヒルファディングの「社会的に必要な流通価値」の検討から,宇野弘蔵の「価値形態論」とミーゼスの「遡及理論」との対質を通じ,ジンメルの「比例説」からも示唆をえつつ,貨幣価値の本質をその「不可測性」に,量規定を鋳貨形態における不変の「物質性」に即して捉える.

第3章「信用創造と流通必要量-信用貨幣の流通根拠-」(ソーントン『紙券信用論』をめぐって)

 マルクスは,流通論レベルでの貨幣(金・政府紙幣)を支配する「流通必要量法則」が銀行券にも貫徹すると説いているが,これは銀行券を流通手段(通貨性)とのみ見なして,同法則が直線的に銀行券に移植されるということではなく(反・通貨主義),銀行券流通の基礎を手形流通に認め,支払手段(債務性)という信用貨幣の本来の機能に則して,同法則への独自の適応がなされる,というように基本的には捉えなければならない.しかしこれが拙速に「還流法則」に結び付けられると,過剰発行はありえないとして「流通必要量法則」の自動的貫徹が結論されかねない(反・銀行主義).すでに通貨論争以前に,ソーントンは,銀行券の機能・流通領域上の分岐を前提に,銀行券の支払手段機能における流通必要量の「下限」を満たしつつ,流通手段機能における流通必要量の「上限」を越えないように,中央銀行によって銀行券量が適正に調整されることが,銀行券の円滑な流通を条件づけると捉えており,本章ではこれを主題的に論ずる.

第4章「中央銀行と準備-フリーバンキング論批判-」(バジョット『ロンバード街』をめぐって)

 数量説批判というハイエクの意図にもかかわらず,自由銀行主義は貨幣と信用との階層性,信用と実体経済との相互作用を無視することで,通貨主義(数量説)の誤謬を繰り返している.逆に,ハイエクから自由銀行主義(多数準備制)の想源として遇されるにもかかわらず,バジョットは特異な進化観にもとづき.単一発券制から単一準備制へと「信用」が「適用」されるという単一準備制の「自然発生」的特性をこそ強調し,あわせてこうして出現した中央銀行の銀行部準備に,発券制度上の準備と,信用制度上の準備と,国際支払上の準備とが折り重なるという認識を示す.平時からの準備金確保とパニックにおける寛大な貸付というバジョットの原理も,こうした準備金の輻輳性に対する原理的認識の政策的帰結にほかならず,これはまた通貨論争に対する一つの決着である.しかし信用と現実資本の関係,流通必要量と準備の関係を見ておらず,ここにマルクスと対比すべき点を確認する.

第5章「信用論と貨幣論との紐帯-信用創造の限界-」(川合一郎の信用論をめぐって)

 数量説批判の拠り所としては,信用創造を,信用媒介と区別して,現実資本から相対的に独立しつつ現実資本に能動的に働きかけるその形態的特質に即して捉えると同時に,信用創造の限界をどこに見出すかが更に重要である.貨幣資本の運動を孤立させるでもなく,逆に現実資本の運動に埋没させるでもなく,相互の対立的補完性を説くところにこそマルクス信用論の特質があるからである.川合一郎は,「資本にとって必要な信用量」が先行的に生産を拡充しつつ,結果として「流通にとって必要な現金量」が引き出されることで信用創造に限界が画されるという様に,時差を含んだ貨幣と信用との動的な構造に注目するが,これはなおも信用創造の暴走を含蓄する.逆に,信用創造の限界(流通必要量)は,中央銀行準備による規制にこそ求められるべきだが,ここに流通必要量の輻輳に対応して多くの準備機能もまた輻輳し,規制が裁量を伴う点こそ重要であることが確認される.

審査要旨

 本論文は、貨幣数量説批判という視点を軸にして、貨幣論と信用論の関連を独自に再構築せんと試みたものである。ワードプロセッサにより印字されたA4版231頁(400字詰原稿用紙約693枚)からなる論文で、「序論 表象批判としての貨幣数量説批判」、二部構成の本文、および「結論 総括と展望」によって構成されている。この本文は以下の五つの章からなる。

 第1部「貨幣から信用へ」

 第1章「価値形態と貨幣流通-流通根拠の階層性-」

 第2章「貨幣蓄蔵と貨幣価値-貨幣価値の安定性-」

 第2部「信用から貨幣へ」

 第3章「信用創造と流通必要量-信用貨幣の流通根拠-」

 第4章「中央銀行と準備金-フリーバンキング論批判-」

 第5章「信用論と貨幣論との紐帯-信用創造の限界-」

 本論文の内容は要約するとおよそつぎのようになる。

 まず「序論 表象批判としての貨幣数量説批判」では、本論文の背景をなす問題関心と論文全体の構成が示されている。貨幣数量説が繰り返し批判されながら今日にいたるまで時代を貫いて自明視されてきたことの背景には、固有の貨幣観と市場像を宿しているからであると述べ、それは本来、近代と脱近代を射程にすえ思想史的なレベルにまで降り立って考察される必要があることが示唆される。また経済理論の範囲にかぎっても貨幣数量説の全体像を批判するためには、単に狭義の貨幣論の内部で問題を処理するのではなく、貨幣の価値、流通必要量、準備金という問題群を貨幣から信用にいたる展開を通じて考察するという方法が不可避であるとし、こうした観点から本稿全体の梗概が解説されている。

 このような序論をうけ、第1章「価値形態と貨幣流通-流通根拠の階層性-」では、従来の貨幣学説における金属主義と名目主義という二分法が再検討され、貨幣のもつ象徴性の諸契機が分析され、いわゆる紙券流通の根拠をすべて信用論に還元する立場が批判的に考察されている。この章では、マルクスの鋳貨準備金や山口重克氏の商品貨幣説に関する規定が詳細に検討され、そこから「貨幣流通の階層性」という独自の考え方が提示される。すなわち、貨幣が存在しない状況から出発してその生成を追跡する「貨幣生成の論理」と、すでに貨幣が存在するなかで、それが次々と受領されてゆく関係を解き明かす「貨幣継続の論理」とははっきりと区別されるべきものであり、これをいずれか一方の帰着させようとすることは誤りであるとされる。重要なのは両者が支え合う階層関係そのものを明確にしてゆくことであるとして、たとえば明らかな過剰発行に際しては継続の論理は後退し、ふたたび生成の論理が復位するが、その場合でも生成の論理は貨幣のもつ交換できるという性質(交換性)に対する信認に関わるものであり、貨幣素材そのものに対する信頼感のようなものによるものではないというわけである。

 およそ以上のような自説の定式化をふまえて、ハイエクの『貨幣発行自由化論』および岩井克人氏の『貨幣論』が検討され、「流通根拠の階層性」という考え方がもつ意義が確認されてゆく。ハイエクによれば、貨幣数量説的発想の根底には貨幣は単一であるという考え方が存在するが、実は貨幣と貨幣でないものとの間には明確な区別はないという。しかし、たとえば貨幣に対する「国家独占」を廃した場合、貨幣の価値が目まぐるしく変化するなかで、ハイエクの意図に反して、多くの貨幣的なものは貨幣としての資格を事実上失わざるを得ないという。岩井氏は、ハイエクとは逆に、貨幣は他者が受領すると考えるから自分も受領するのであるという貨幣の自己循環論法をとり、事実上継続の論理にすべてを還元する傾向があり、この結果、その意図に反して、貨幣流通の自動的な安定性を主張する結果になっているとしている。

 第2章「貨幣蓄蔵と貨幣価値-貨幣価値の安定性-」では、貨幣流通の継続の論理を基礎にして、貨幣価値の安定性の問題を主題に考察が進められる。貨幣の流通根拠を対象のもつなんらかの有用性に求める立場にたてば、金属貨幣の価値はその素材価値によって与えられるのに対して、紙券の場合それ自身ではほとんど無価値だということになる。金属貨幣から紙券への移行に伴い、貨幣価値の規定に決定的な断絶が生じるわけである。これに対して、本章では金属貨幣の場合も、貨幣そのものとしての価値は素材の価値とは別に規定できるのであり、したがってまた金属貨幣を離れても貨幣価値は同じ原理で規定することができるとされる。その意味で、貨幣価値に関して、金属貨幣と紙券との間に従来考えられてきたような貨幣価値規定の相違のみが強調されるべきではないことになる。このように貨幣価値の安定性を貨幣論次元で明確に捉えることで、貨幣価値そのものの存在を否定し、貨幣数量から物価水準とその反映としての貨幣の購買力がきまるとする貨幣数量説の主張に対して、終始一貫した批判を加える道が開かれるというのが本章の基本的な主張である。

 このような主張は貨幣理論の学説史的な検討を通じて展開されてゆく。まずはじめにヒルファディングの「社会的必要流通価値」の概念が検討される。ヒルファディングは、オーストリア=ハンガリー関税地区における当時の銀の素材価値と銀鋳貨の価値との関係を考察するなかで、貨幣価値がその素材の価値とは区別される安定した価値を付与されるという認識をもっていたことが示される。ついでミーゼスの貨幣価値論に検討を進め、貨幣価値が歴史的に引き継がれた安定性をもちながら、連続的に変動する関係が示される。さらに、ヒルファディングの貨幣論を批判しながら価値形態論における価値概念の拡張を試みた宇野弘蔵の議論が俎上にあげられる。そこでは、貨幣価値を一般商品の価値規定と同様に貨幣素材の生産過程によって規定する通常の規定とは別に、貨幣の流通手段機能の規定を中心に、商品の価値の独立化として貨幣価値を捉える視角が存在することが示される。宇野の場合いわゆる貨幣の価値尺度機能も、実は購買による貨幣の出動のたびに、貨幣商品の価値がそのつど再評価されるわけではなく、貨幣として独立した価値が独自にその役割をはたすことが明らかにされるという。こうして事実上、鋳貨や紙券における貨幣価値もまた、本来の貨幣と異なる価値規定をうけるものではなく、信用貨幣もまたある範囲で貨幣としての諸機能を果たすとされ、第2部の考察に進んでゆく。

 第3章「信用創造と流通必要量-信用貨幣の流通根拠-」では、ソーントン『紙券信用論』の検討を中心に、流通必要貨幣量の概念が拡張されてゆく。マルクス以降、まず金属貨幣の流通を想定し、貨幣価値と商品価値は生産過程を通じともに同じ原理で与えられるものして流通必要貨幣量を定め、この量をこえる貨幣が蓄蔵されるという論理で、貨幣量が物価水準を規定するという貨幣数量説を批判する立場がかたちづくられてきた。だがこのような批判は、信用貨幣が介在してくるとその有効性が問われることになる。信用貨幣は単に金属貨幣の代理物ではなく、支払手段という独自の機能を基礎にしているのであり、この側面を無視して流通必要量の観点から数量説を批判するのでは不十分であることになる。この章では、第1部で明らかにされた信用貨幣もまた独自の安定性を備えた価値をもつ貨幣として、それ自身で貨幣機能を果たすという認識をふまえ、信用貨幣を含む流通必要貨幣量の概念を新たに確定し、この量が一面では準備金に規定されながら、現実には中央銀行の調整を通じて弾力的に維持されてゆく構造が示されることになる。

 本章ではこのような主張が、以下のような手順で明らかにされてゆく。まず、ソーントンが「スミスの原理」に対して加えた批判が検討される。「スミスの原理」というのは、手許現金に代わるかぎりで発行された銀行券は流通必要量に一致し、したがってこの範囲での割引は真正手形割引であり、この銀行券は不断に返済還流が進むために、流通界には流通必要量しか滞留しないというものである。これに対してソーントンは一方で、市場が信用貨幣をともなう貨幣量の自動的な調整を信じる立場にはなかったことが示される。しかしまた他方では、信用貨幣を流通手段の一面に限定してとらえ、銀行券を銀行の金準備と機械的に連動させる立場をも鋭く批判し、準備のもつ多面的な役割を明確にすることで中央銀行による発券の裁量的な管理による適正な流通必要量の維持の必要を提唱していたことが明らかにされる。この点でソーントンは、貨幣量の変動が物価を一方的に規定するという数量説の立場にたつのでもなく、またその裏返しにすぎない、商品価値が流通必要量を一方的に規定するという立場をとっていたのではないとされる。ソーントンでは、信用貨幣のもつ独自の貨幣性が明確に意識され、そのうえで数量説が依拠する機械的な市場観を脱却し、「調整」を通じて適正貨幣量の維持という真の意味での数量説批判の基盤が示されているというのである。

 第4章「中央銀行と準備金-フリーバンキング論批判-」では、前章で示唆された数量説批判の基本的立場が、バジョットの議論に治ってさらに深化される。ここでははじめに、ハイエクの自由銀行論が法貨に対する自生的な民間の要請を無視した議論であり、これに対して、多数準備のメリットを説いた点でハイエクから自由銀行論の想源の一つとされたバジョットが実は単一準備制への歴史的な進化を説いている点が指摘される。バジョットは目的論的な歴史観からはっきりと区別される進化論的観点に立脚し、単一準備制度が「熟慮」によってではなく、多数の特殊な事情の「累積」によって徐々に生成してきたことを明らかにしており、こうして出現したイングランド銀行の銀行部準備金には、発券制度上の準備と、信用制度上の準備と、国際収支上の準備とが折り重なる点に注目している。イングランド銀行に対して、平時からの準備金の確保とパニックにおける寛大な貸付を説くバジョットの原理も、こうした準備金の役割に対する原理的な認識の政策への反映であり、通貨論争の成果をふまえて提示されたバジョットの議論は、人為的に作られたものではない中央銀行に対する信頼の性格を明確にし、そのうえで裁量的な管理のあり方を示すものであったというのである。

 第5章「信用論と貨幣論との紐帯-信用創造の限界-」では、信用貨幣を取り込んだかたちで進められてきた現代的な数量説批判が、信用創造の限界という観点から再検討される。すなわち、貨幣資本の蓄積が現実資本の蓄積に対して及ぼす影響を無視し、貨幣量の変化がもっばら物価水準を騰落させるだけだとみる数量説的な観点を根底から批判するためには、現金貨幣とは異なる機能を果たす信用貨幣の存在を前提に、現実資本と貨幣資本との関連をふまえて、信用創造の限界を明らかにし、流通必要量の概念を明確にする必要があるというのである。この章ではこの点が、流通にとっての現在の必要量と資本にとっての将来の必要量とを区別し、流通必要量の概念を動態的にとらえようとした川合一郎氏の議論の検討を通じて深化されている。そしてこの検討をふまえ、信用論と貨幣論との紐帯が中央銀行の準備金と裁量のうちに次のようにまとめられている。すなわち中央銀行の準備金は、国際支払準備、預金払戻準備、兌換準備などの相矛盾する異なる役割をになった複雑な存在であり、こうした準備金の変化をふまえて中央銀行は信用創造の限界を設定することになる。したがって、信用貨幣の存在をふまえた場合、流通必要量とは固定的な実在量でもなく、また産業の需要に応じて可塑的に形成される信用量でもなく、現実資本の動向を基礎に、金融政策によって間接的に探り当てられるべきものだというのである。

 最後に「結論 総括と展望」では、この論文では貨幣価値に限定して考察がなされいるが、それはさらに価値概念の再検討につながるものであること、また貨幣をめぐる複雑な現象の分析においては、それを単純な要素に分解し本質に還元するのではなく、現象全体を構成するそれぞれの契機の階層的な関連を明確にする方法が必要であることなどが指摘され、こうした方法が経済学原理の再構築に対してもつ意義が展望されている。

 およそ以上のような内容をもつ本論文に対する審査委員会の評価は以下の通りである。

 まず本論文は次のような特徴と学問的意義をもつ。

 1.本論文は、経済原論の体系においてこれまで明示的に主題化されることの少なかった、貨幣論と信用論との関連という問題に焦点をあて、それらを貫いて貨弊の価値、流通必要量、準備金の概念を明確にすることにより、貨幣数量説ないしその基底をなす貨幣観、市場像を総体として批判する方法的枠組みを提示している。これにより、金属貨幣の領域に限定して数量説を批判し、紙券流通の領域ではけっきょく貨幣数量説に近い立場に戻ってしまう、従来からの典型的な貨幣数量説批判の限界が根本的に克服されている。しかも単なる批判にとどまらず、経済原論全体の展開を背景におき、現実資本の蓄積と内的にむすびついた信用貨幣の形成原理、信用創造の限界を掘り下げることにより、通貨数量説がもつ中立的な貨幣観が宿す難点を克服する方途が積極的なかたちで示されている点にこの論文の重要な意義があるといえよう。

 2.本論文では、金属貨幣と信用貨幣とを貫いて統合的に貨幣を捉える視点が示されている。従来明確にされてこなかった、貨幣素材のもつ価値と区別される貨幣としての価値の安定性、貨幣が繰り返し授受される基礎になる貨幣に対する信認の特性などが詳細に分析され、これによって金属貨幣も信用貨幣も貨幣としての「象徴性」を共有している点が一定の説得力をもって説かれている。金貨幣の流通根拠を金の使用価値に求め、銀行券の流通根拠を兌換に求める立場と好対照をなす典型を明示しえたことは本論文の功績である。

 3.本論文は信用貨幣を含む貨幣現象に考察の対象を拡大し、現実資本との関わりをもつ準備金に注目し、しかもそこに相矛盾する役割を見いだすことで、貨幣価値の安定性やあるいは流通必要量の存在が自動的に付与されているものではなく、裁量や調整という契機を介して模索され事後的に現れる性格をもつことを明らかにした点も本論文の重要な成果である。こうして、裁量や調整をつかさどる制度や組織の歴史的な発展が果たす役割が射程におさめられ、貨幣数量説の背景をなす自己調整的な市場像が根底から批判されている点は注目に値する。

 4.本論文は考察方法の点でもみるべきものがある。マルクスの議論を基底におきながら、ハイエク、岩井克人、ミーゼス、ヒルファディング、宇野弘蔵、ソーントン、バジョット、川合一郎など、互いに相対立する数多くの論者の見解を披閲し批判することを通じて、独自の見解を提示する方法がとられている。これは貨幣現象のような複雑な対象を総体として処理することを可能にし、制度的な要因を含んで歴史的に変化する過程を解明するうえで優れた効果を発揮している。こうした学説史的なアプローチを導入することにより、抽象的な演繹理論でも特定の実証分析でも、なお充分に処理しがたい課題の解明に本論文は成功しているといえる。

 しかし、本論文はつぎのような不十分な論点やさらに検討すべき内容を残している。

 1.主として貨幣論をあつかった第1部の考察のうちには、かなり難解な議論が含まれている。とくに貨幣が生成する論理と、貨幣が繰り返し受け取られる論理とが峻別できるとする理論的な根拠は必ずしも説得的なかたちで提示されているとは言い難い。本論文では、二つの論理が歴史的な前後関係をなすものではなく、独自の階層的な関係をもって支えあっている点が強調されているが、このどちらが基本でもないとする関係のあり方はさらに立ち入って説明されるべきであろう。

 2.信用創造を含んだ信用貨幣の量的な限界を、準備金に着目して考察している点は評価できるが、その際繰り返し強調されているマルクスによる準備金の三重の使命に関しては、とくに国際的な支払手段としての役割が充分に検討されているとはいえず、なお疑問が残る。歴史的にはたとえば、国内物価騰貴と為替相場の変動を介して金流出が発生したりするのであるが、こうした多様な過程に関する分析が不十分であり、マルクスやソーントンらの議論に依拠したかたちで、それらの矛盾した性格が記述されているにすぎない面がある。この点は本論文の一つの核心をなす論点である以上、もう少し詳細な考察が求められるところである。

 3.本論文を難解なものとしている理由として、問題を思想史的な背景にまでさかのぼって考察しようとした点があげられる。たとえば冒頭におけるフーコーによる貨幣数量説に対する評価や末尾におけるカント流の理性の不安への論及など、本論文ではさまざまなかたちで考察の対象が単に経済学的な考察だけではすまないことが暗示されている。このこと自体は重要なことではあるが、本論文ではその点が正面から検討されぬまま、ただ随所で示唆されるにとどまっており、考察によってわかった問題とそうでない問題との境界を不鮮明にしている憾みがある。

 本論文は、以上のような問題点を残すとはいえ、その成果を通じて、筆者の自立した研究者としての資格と能力を確認しうるに足るものであり、審査委員会は全員一致で、本論文が博士(経済学)の学位請求論文の合格基準に達しており、同学位授与に値するものであると判定した。

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