本論は三島由紀夫の初期小説を対象に物語論的・文芸学的な分析を通じて、その小説の構造的、文体な特徴を捉え、そのしくみを解明しようとする試みである。論文は七つの部分によって構成されている。つまり、序説、第一章(十一の節)、第二章(五つの節)、第三章(八つの節)、第四章(九つの節)、結語および論文に附属する注・附属資料から成る。 序説では、本論の三島由紀夫の小説の構造的な特徴を捉え、そのしくみを解明しようとする目標に達成するためには、必要とする考察範囲と方法、手順を述べ、それらの根拠と理由を論じた。 第一章では、三島由紀夫十三歳のとき、本名平岡公威で学習院の学内同人雑誌『輔仁会雑誌』に発表された最初の作品「酸模(すかんぼう)」を分析した。分析において、物語の構造分析の理論(ロラン・バルトのモデル)を参照にして、まず「酸模」の構造のレベルで分析を行い、物語単位を獲得する。次に物語の叙述のレベルを考察し、さらに語りの状態の考察を経由して、物語の構造における「中核的機能体」を獲得する。そういう考察を踏まえてから、物語の「指標」を確定し、最後には「指標」を物語の根源である「生きた隠喩」(ポール・リクールの概念)として捉える。それはつまり、「酸模」を物語たらしめ、その物語に秘められている「刑務所」、「病的な憧憬」、「男」と「墓標」という四つの構造的な根茎隠喩のことである。このように分析を行うことによって得られた様々な特徴と四つの生きた隠喩の構造的な要素を、本論の物語分析における仮説的なモデルとする。 そしてその仮説的モデルの有効性を検証、補強するために、第二章において、同じく同人雑誌『輔仁会雑誌』に発表された「座禅物語」、「鈴鹿鈔(すずかしょう)」、「暁鐘聖歌(ぎょうしょうせいか)」、「館」、「彩繪硝子(だみえがらす)」の作品に適用して考察をした。その結果、それぞれの作品に程度の差こそあれ、「酸模」において獲得した構造的なモデルの有効性が検証されたのである。 そして第三章では、全国文芸誌『文芸文化』に、初めて三島由紀夫というペンネームで連載した「花ざかりの森」を対象として、上記の構造分析のモデルを演繹して考察を進めたが、ここでは、「酸模」においての様々な特徴と生きた隠喩がほぼ実現されただけではなく、さらに叙述のレベルにおいて、豊富な修辞的な技法が巧みに多用されてきたことが確認された。 第四章では、同じく「酸模」で獲得した構造分析のモデルを、日本の文壇で作家である三島由紀夫の地位を不動にさせたデビュー作『仮面の告白』に適用して演繹的考察を行ったが、まさにここにおいては、原型的なモデルの諸要素および四つの根茎隠喩がすべて漏れなく反復されているだけでなく、さらに拡張され、生成されて現れていることが観察されたのである。 上記の分析を通じて発見され、明らかにされたのは、三島由紀夫の初期小説には、一貫して独自の構造的、文体的な特徴があることである。その独自の構造的、文体的な特徴とは、物語言説における高度の形式化、技巧化と、四つの構造的な根茎隠喩による物語の集約化、生成化、組織化ということである。 そういった初期小説の根本的な要素を見極める鍵は、まさに「酸模」に表出された構造的な要素、四つの根茎隠喩なのである。その初期小説のいずれにも程度の差こそあれ、「病的な、憧憬」といったような夢想の世界が展開され、その夢想する世界には必ず「男」が現れ、そして物語の帰結には死を意味する「墓標」が出現し、そしてこの世界に対して否定的な存在で、「刑務所」と喩えられた現実社会が介在している。これらの根茎隠喩がその初期小説の物語世界の源泉となり、幾多の形式的、文体的諸技巧がそのために駆使され、そのために組織され、またそのために解きほぐされる。またその根茎隠喩によってそれらの初期小説の世界観が定められ、文学的に人間を凝視する立場が定位されている。言い換えれば、この四つの根茎隠喩は、ことに「花ざかりの森」(「花ざかりの森」においては根茎隠喩である「刑務所」が明確な形で表出されていないが、小説全体が「刑務所」と、対立した「病的な、憧憬」という夢想の世界だと考えられる)と『仮面の告白』において、見事に表出され、それぞれの物語がほぼこの四つの根茎隠喩に帰結、集約され、またそれらを源泉にして組織され、語られ、物語の根本構造として機能しているのである。 そしてこの最初から表出された世界――夢想、男、死対刑務所と喩えられた物語世界は、最初から拮抗した形で現れているが、その二つの拮抗した世界の対立の度合いは、初期の作品において程度の差があれ、とりわけ「花ざかりの森」と『仮面の告白』において激しく、しかも顕著に表出されている。したがってまさにその拮抗関係が根源的な要因として存在しているがゆえに、「花ざかりの森」、『仮面の告白』においては、既定の文学のジャンル、様式などがずらされるだけでなく、既成の恋愛観、人生観、戦争観、死生観などのような美意識、価値観、イデオロギー、宗教ないし人間の存在自体が転倒され、はぐらかされ、ずらされ、逸脱し、そこに大量な逆説、アイロニー、背理といった言説が産出され、恰も別の深遠なる厖大かつ複雑に組織された世界が比喩として構築されていると考えられる。三島由紀夫の初期小説、ある意味ではその文学全体がこの二つの世界の拮抗、対立することをきっかけとして延々と産出された言説であると言える。その言説においては現実世界が刑務所と喩えられ、夢想、男、死といったような要素とそれにまつわる諸々のことがらが、そっくりそのまま現実世界として置き換えられる。そうすることによって現実社会は、はぐらかされ、ずらされ、転倒されるようになる。 したがってこの独自の構造的な特徴ないし、しくみは、日本の近代文学にはかつてなかった新たなバリエーションが加えられたと言え、かつまた文学的に人間を凝視するという行為においては、他に取って代わることのできない特異な芸術的な立場が呈示されたと見なすことができる。 ところが、この高度の一貫性、組織性、構造性は、三島自身が十三歳の時から高度な形式的な技巧、しくみをすみずみまで作品中に計算して、後々に書かれるであろう作品までも配慮して仕掛けたとはとても考えられない。しかし、作品自体の構造的な特徴は、いみじくもそれを明確に表しているのである。その意味で三島文学は、文学という人間の創造する行為が逆に作者をその論理の中にからめ取っていったのか、それとも作者として文学を創造するにおいて、<構造>が彼をそうせざるを得なかったのかというような、人間と文学、言語との関係をめぐる根本的な過程(構造主義の命題)をあらためてわれわれに突きつけているのである。ことにその構造的な特徴に現れている、過剰なまでの形式への傾斜は、われわれの持っているだろう写実的な文学観に対して疑問を投げかけているのである。このように三島由紀夫の初期の小説は、まさしくそうした仕組みがあってはじめてその内容が成り立ち、そしてわれわれ読者はそのしくみを把握することによってはじめてより客観的、明確にその小説の<構造>を認識することが可能になるのである。 したがってもし、三島由紀夫の文学に取り組もうとするならば、その読者にとっては、まずこの独自の構造的な特徴を捕捉し、承認することが要請される。 もちろん、本論における分析、考察は、単に構造的、文体な特徴を捉えることにつとめ、しくみを解明するという限定の中において行われたので、その四つの根茎隠喩の意味と意味されることとの間に発生する関係性の総体については、一切問わないことにした。というのも、それはすでに物語論的なアプローチの範囲を超え、作品と作者の心理、精神分析、無意識の解釈、さらには歴史的な意味、思想的な解釈といったような、意味を問い、意味づけ、価値判断をするという読者側の領域へ踏み出すことになるからである。したがって三島由紀夫の作品の解釈という批評、研究のためには、本論はしくみの解明という側面から一つの客観的な根拠を提供できたと言える。 |