学位論文要旨



No 113765
著者(漢字) テレングト,艾特
著者(英字)
著者(カナ) テレングト,アイトル
標題(和) 三島由紀夫初期作品における構造と根茎隠喩 : 「酸模」から『仮面の告白』まで
標題(洋)
報告番号 113765
報告番号 甲13765
学位授与日 1998.04.23
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第177号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 川本,皓嗣
 東京大学 教授 小林,康夫
 東京大学 教授 小森,陽一
 東京大学 助教授 斎藤,兆史
内容要旨

 本論は三島由紀夫の初期小説を対象に物語論的・文芸学的な分析を通じて、その小説の構造的、文体な特徴を捉え、そのしくみを解明しようとする試みである。論文は七つの部分によって構成されている。つまり、序説、第一章(十一の節)、第二章(五つの節)、第三章(八つの節)、第四章(九つの節)、結語および論文に附属する注・附属資料から成る。

 序説では、本論の三島由紀夫の小説の構造的な特徴を捉え、そのしくみを解明しようとする目標に達成するためには、必要とする考察範囲と方法、手順を述べ、それらの根拠と理由を論じた。

 第一章では、三島由紀夫十三歳のとき、本名平岡公威で学習院の学内同人雑誌『輔仁会雑誌』に発表された最初の作品「酸模(すかんぼう)」を分析した。分析において、物語の構造分析の理論(ロラン・バルトのモデル)を参照にして、まず「酸模」の構造のレベルで分析を行い、物語単位を獲得する。次に物語の叙述のレベルを考察し、さらに語りの状態の考察を経由して、物語の構造における「中核的機能体」を獲得する。そういう考察を踏まえてから、物語の「指標」を確定し、最後には「指標」を物語の根源である「生きた隠喩」(ポール・リクールの概念)として捉える。それはつまり、「酸模」を物語たらしめ、その物語に秘められている「刑務所」、「病的な憧憬」、「男」と「墓標」という四つの構造的な根茎隠喩のことである。このように分析を行うことによって得られた様々な特徴と四つの生きた隠喩の構造的な要素を、本論の物語分析における仮説的なモデルとする。

 そしてその仮説的モデルの有効性を検証、補強するために、第二章において、同じく同人雑誌『輔仁会雑誌』に発表された「座禅物語」、「鈴鹿鈔(すずかしょう)」、「暁鐘聖歌(ぎょうしょうせいか)」、「館」、「彩繪硝子(だみえがらす)」の作品に適用して考察をした。その結果、それぞれの作品に程度の差こそあれ、「酸模」において獲得した構造的なモデルの有効性が検証されたのである。

 そして第三章では、全国文芸誌『文芸文化』に、初めて三島由紀夫というペンネームで連載した「花ざかりの森」を対象として、上記の構造分析のモデルを演繹して考察を進めたが、ここでは、「酸模」においての様々な特徴と生きた隠喩がほぼ実現されただけではなく、さらに叙述のレベルにおいて、豊富な修辞的な技法が巧みに多用されてきたことが確認された。

 第四章では、同じく「酸模」で獲得した構造分析のモデルを、日本の文壇で作家である三島由紀夫の地位を不動にさせたデビュー作『仮面の告白』に適用して演繹的考察を行ったが、まさにここにおいては、原型的なモデルの諸要素および四つの根茎隠喩がすべて漏れなく反復されているだけでなく、さらに拡張され、生成されて現れていることが観察されたのである。

 上記の分析を通じて発見され、明らかにされたのは、三島由紀夫の初期小説には、一貫して独自の構造的、文体的な特徴があることである。その独自の構造的、文体的な特徴とは、物語言説における高度の形式化、技巧化と、四つの構造的な根茎隠喩による物語の集約化、生成化、組織化ということである。

 そういった初期小説の根本的な要素を見極める鍵は、まさに「酸模」に表出された構造的な要素、四つの根茎隠喩なのである。その初期小説のいずれにも程度の差こそあれ、「病的な、憧憬」といったような夢想の世界が展開され、その夢想する世界には必ず「男」が現れ、そして物語の帰結には死を意味する「墓標」が出現し、そしてこの世界に対して否定的な存在で、「刑務所」と喩えられた現実社会が介在している。これらの根茎隠喩がその初期小説の物語世界の源泉となり、幾多の形式的、文体的諸技巧がそのために駆使され、そのために組織され、またそのために解きほぐされる。またその根茎隠喩によってそれらの初期小説の世界観が定められ、文学的に人間を凝視する立場が定位されている。言い換えれば、この四つの根茎隠喩は、ことに「花ざかりの森」(「花ざかりの森」においては根茎隠喩である「刑務所」が明確な形で表出されていないが、小説全体が「刑務所」と、対立した「病的な、憧憬」という夢想の世界だと考えられる)と『仮面の告白』において、見事に表出され、それぞれの物語がほぼこの四つの根茎隠喩に帰結、集約され、またそれらを源泉にして組織され、語られ、物語の根本構造として機能しているのである。

 そしてこの最初から表出された世界――夢想、男、死対刑務所と喩えられた物語世界は、最初から拮抗した形で現れているが、その二つの拮抗した世界の対立の度合いは、初期の作品において程度の差があれ、とりわけ「花ざかりの森」と『仮面の告白』において激しく、しかも顕著に表出されている。したがってまさにその拮抗関係が根源的な要因として存在しているがゆえに、「花ざかりの森」、『仮面の告白』においては、既定の文学のジャンル、様式などがずらされるだけでなく、既成の恋愛観、人生観、戦争観、死生観などのような美意識、価値観、イデオロギー、宗教ないし人間の存在自体が転倒され、はぐらかされ、ずらされ、逸脱し、そこに大量な逆説、アイロニー、背理といった言説が産出され、恰も別の深遠なる厖大かつ複雑に組織された世界が比喩として構築されていると考えられる。三島由紀夫の初期小説、ある意味ではその文学全体がこの二つの世界の拮抗、対立することをきっかけとして延々と産出された言説であると言える。その言説においては現実世界が刑務所と喩えられ、夢想、男、死といったような要素とそれにまつわる諸々のことがらが、そっくりそのまま現実世界として置き換えられる。そうすることによって現実社会は、はぐらかされ、ずらされ、転倒されるようになる。

 したがってこの独自の構造的な特徴ないし、しくみは、日本の近代文学にはかつてなかった新たなバリエーションが加えられたと言え、かつまた文学的に人間を凝視するという行為においては、他に取って代わることのできない特異な芸術的な立場が呈示されたと見なすことができる。

 ところが、この高度の一貫性、組織性、構造性は、三島自身が十三歳の時から高度な形式的な技巧、しくみをすみずみまで作品中に計算して、後々に書かれるであろう作品までも配慮して仕掛けたとはとても考えられない。しかし、作品自体の構造的な特徴は、いみじくもそれを明確に表しているのである。その意味で三島文学は、文学という人間の創造する行為が逆に作者をその論理の中にからめ取っていったのか、それとも作者として文学を創造するにおいて、<構造>が彼をそうせざるを得なかったのかというような、人間と文学、言語との関係をめぐる根本的な過程(構造主義の命題)をあらためてわれわれに突きつけているのである。ことにその構造的な特徴に現れている、過剰なまでの形式への傾斜は、われわれの持っているだろう写実的な文学観に対して疑問を投げかけているのである。このように三島由紀夫の初期の小説は、まさしくそうした仕組みがあってはじめてその内容が成り立ち、そしてわれわれ読者はそのしくみを把握することによってはじめてより客観的、明確にその小説の<構造>を認識することが可能になるのである。

 したがってもし、三島由紀夫の文学に取り組もうとするならば、その読者にとっては、まずこの独自の構造的な特徴を捕捉し、承認することが要請される。

 もちろん、本論における分析、考察は、単に構造的、文体な特徴を捉えることにつとめ、しくみを解明するという限定の中において行われたので、その四つの根茎隠喩の意味と意味されることとの間に発生する関係性の総体については、一切問わないことにした。というのも、それはすでに物語論的なアプローチの範囲を超え、作品と作者の心理、精神分析、無意識の解釈、さらには歴史的な意味、思想的な解釈といったような、意味を問い、意味づけ、価値判断をするという読者側の領域へ踏み出すことになるからである。したがって三島由紀夫の作品の解釈という批評、研究のためには、本論はしくみの解明という側面から一つの客観的な根拠を提供できたと言える。

審査要旨

 本論文は、三島由紀夫(本名、平岡公威 ひらおか・きみたけ、1925-1970)の初期作品の中に、その後の作品において展開される原型的構造と中心的な根茎隠喩との存在を認めようとするものである。三島由紀夫は世界的に広く知られた作家であるが、三島文学の日本における研究は作家論からの研究が大半であって、作品論の観点からの研究は意外に手薄であったのが現状である。テレングト艾特氏はそうした先行研究の動向を踏まえ、西洋の文学理論、特にシークェンスという概念を用い、ポール・リクールの隠喩論を使って作品分析を行なうことで、三島文学の表現上の特質を、きわめて限定された範囲においてだが、具体的に明らかにしようとした。

 本論文は大きく4つの章に分けられている。第1章は、三島由紀夫という筆名をまだ使い始めていない平岡公威が本名で学習院の同人誌『輔仁会雑誌』(昭和13年3月号)に掲載した「酸模--秋彦の幼き思ひ出--」という「処女作」の分析にあてられている。「酸模」は平岡公威が僅か13歳の時に書いた作品であり、筋を持った短編小説というよりは、むしろ、語り手の夢想的な思いを展開した「スケッチ」ともいえるものである。その短編の冒頭には北原白秋の詩「仄かなるもの」がエピグラフとして掲げられ、その詩の夢想的な雰囲気がこの作品全体の雰囲気を暗示している。この作品は、アステリズムといわれる三つのアステリスクによって構成される符号によって形式的に14に区切られているが(新潮社刊全集のテクストにおいて)、それを艾特氏はシークェンスと名付け、それがこの作品の内容的な単位でもあり、そのシークェンスの積み重ねによってこの作品が構成されていると氏は主張する。そこには、リアリズム作品に見られるような、筋の展開という観点からの繋がりだけでなく、夢想というものが必然的に持たざるをえない非現実的な連関も認められると氏は述べるのである。それゆえ、そのシークェンスの中には筋の展開という観点からすれば、中核的なシークェンスが4つあり、それを柱にしてこの作品は展開されているとするのである。そして、重要なことには、三島文学に見られる装飾的な言語使用がすでにその作品の中に見られると指摘する。

 また「酸模」において一貫して使用されている二重カギ括弧も、同じ号の『輔仁会雑誌』に掲載された「座禅物語」において一重カギ括弧が一貫して使用されていることを合わせ考えると、作者がこの作品の夢想的な性格をより明瞭にするがために意図的に使用したと考えられる、と氏は論ずる。

 本論文においてさらに重要なのは、この作品において出てくる、いくつかの主要な隠喩を摘出したことである。この作品においては、夢想を阻むかのように見える「刑務所」という隠喩が出てくる。そしてそこから脱獄してきた「男」という隠喩がある。秋彦はその「男」に惹き付けられるものを感じ、また「男」も秋彦に因縁的な繋がりを感じるのであるが、結局二人は別れざるをえなくなる。この「男」はその後、結局死に、その「墓標」が「刑務所」の外に立てられる。初め悪魔にも擬せられ、しかし秋彦の憧憬の対象となる「男」、そして秋彦の「病的な、憧憬」、「墓標」によって示される<死>、それらは5感に直接感じ取れる現実のイメージというよりはむしろ夢想の中の隠喩であり、そこからさまざまな隠喩が派生していると艾特氏は議論を展開する。

 以上のような「酸模」の分析から、艾特氏は三島由紀夫初期作品における原型を仮定し、その原型的構造、根茎隠喩が後の作品にも見いだされるかを検討するのである。

 第2章は、前章の議論を受けて、分析の対象を「座禅物語」、「鈴鹿鈔」、「暁鐘聖歌」、「舘」、「彩繪硝子」といった、これまでは「習作期」のものと見なされてきた、『輔仁会雑誌』掲載の諸作品に拡げる。アステリズムによる作品分節は、「鈴鹿鈔」、「暁鐘聖歌」でも繰り返されている(全集テクスト)。「舘」においてはアステリズムによる分節はないが、ここでは行あけという形式が採用され、いくつかの単位に作品が分けられていることが指摘される。「彩繪硝子」においてはアステリズムが復活し(全集テクスト)、やはりここでも幾つかの物語単位の積み上げによって作品が構成されていることが確かめられる。根茎隠喩については、「死」という隠喩が作品の意図として大きな意味を持っていることが認められる。特に、「舘」は死をめぐる物語、殺人とそれに伴う快楽の話として解釈できることが述べられる。

 第3章では、いよいよ三島由紀夫が文学者として世に立ち始めた作品、つまり、より広い読者を獲得していた文芸誌『文芸文化』(第39号)に掲載された「花ざかりの森」の分析が行なわれる。ここでも「酸模」のようにエピグラフが本文の前に置かれ、本文は序の巻、その1、その2、その3(上)、その3(下)という構成で展開される。それぞれの章の中では行あけによって、シークェンスが作りだされ、作品が構築されている。その中でも序の巻が扇の要の役割を果たしていて、氏の判断では、以後の部分は序の巻の具体的な変奏曲として展開されるのである。そして、ここでも追憶、過去への夢想が中心的な雰囲気として作品に充満している。そして「酸模」の秋彦の夢想の対象が「男」であったように、「花ざかりの森」において夢想の対象は「祖先」となり、その夢想は、「酸模」の時と同じように、死によって断絶させられてしまうのである。そして、「酸模」では最初と最後に「灰色の家」の刑務所のイメージが繰り返されて、話は円環を閉じているのだが、「花ざかりの森」でも最初と最後に高台から望まれる海が描写されることで話は円環を閉じるように作られているという共通点が指摘される。

 第4章では、三島由紀夫が職業作家としての地位を確立した、書き下ろし長編『仮面の告白』に議論の対象が移る。この作品にも本文の前にエピグラフが付けられているが、今度は以前のものと比べると、極めて長いドストエーフスキの『カラマーゾフの兄弟』の一節が引用されている。その文章はやはり全体の作品の意図を暗示するものである。本文自体は4章に分けられており、その中ではさらに行あけ、そして時にはアステリズムによって、シークェンスが作られている。そして作品全体は、やはり円環を描くように、冒頭の、きらきら光る産湯の水のイメージが最後の、テーブルの上にこぼれて、ぎらぎら光る飲み物というやはり水のイメージに繋げられることで、閉じられるのである。また、この作品では「酸模」に出てきた、夢想の対象であった「男」の隠喩が、「糞尿汲取人」というより具体的な形で反復されていると艾特氏は述べる。そして主人公の「夢想」は対象を変えて、ある時は花電車の運転手に、ある時は松旭斎天勝に、ある時は聖セバスチャンに自らをなぞらえることで繰りかえされるとするのである。ここには「酸模」で表わされていた主人公の夢想的性格がより複雑な形で再現されていると艾特氏は語る。例えば、夢想の一つの延長上に存在する<演技>、<扮装欲>は、『仮面の告白』ではホモセクシュアルの語り手が園子に恋愛をするという演技にも現れていると艾特氏は主張する。そして「酸模」において夢想の世界と対立していた「刑務所」の隠喩は、『仮面の告白』では現実社会としてより複雑化されるのである。そして『仮面の告白』はその時代背景からして当然のことながら、死のイメージに満ちあふれている。結局、艾特氏によれば、『仮面の告白』は「酸模」で表現された文学的原型がより高度化され、より複雑化された作品なのである。

 最後の「結語」で艾特氏は三島由紀夫の初期作品においては一種の「深層構造」があって、そのために以上で議論した作品群は「一個の自律性をもつ言説の組織であり、かつその組織の内部では根茎隠喩を源泉にして尽きせぬ文学的な言説が生産され」ているとするのである。

 ただし、そうした艾特氏の議論は、結局、「酸模」に見られる構造と中心的な隠喩のネットワークを他の作品群の中に何とか見いだそうとしているのであり、その議論の方向性には問題があるという批判が、委員の間から提出された。また、シークェンスという概念も単に形式的な概念なのか、それとも物語内容の単位なのかをはっきりと定義する必要があるだろうという注文が委員から出された。論文の初めで、文学作品の内容と形式は切り離すことができないと断言しているにもかかわらず、時にシークェンスを分類して、重要なシークェンスと装飾的なシークェンスとするのは、全体の構成を無視して、部分を裁断している疑いがあるという意見も出た。

 とはいえ、艾特氏がこれまでの三島研究において行われることの少なかった、構造的な分析を行なったことの独創性、特にほとんど見捨てられて顧みられなかった初期作品群を詳細に分析したことの独創性は委員全員が認めるところであった。そしてそうした初期作品群と「花ざかりの森」、『仮面の告白』とを比較すれば、確かにそこには繰り返し現れる「深層構造」が見られることは否定できぬ事実として立現れてくるのである。また全集本のテクストを底本にしながらも、初出のテクストも参照し、そのコピーを資料として掲げ、その異同を論ずることで、ただ構造分析に留まることなく、三島文学のテクスト生成の現場に読者を案内しえたことは艾特氏の地道な努力の成果であったとして、委員全員が好感を持ったことも併せて述べておきたい。そうした地道な努力により、どのように三島が形式的な統一を作りだしてきたかが明らかになったと言えるからである。

 以上の点を総合的に判断して、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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