学位論文要旨



No 113767
著者(漢字) 山本,利義
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,トシヨシ
標題(和) イノシトールリン脂質3キナーゼ阻害薬ワートマニンを用いた受容体刺激を介するMAPキナーゼ活性化経路の解析
標題(洋)
報告番号 113767
報告番号 甲13767
学位授与日 1998.04.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(薬学)
学位記番号 博薬第849号
研究科 薬学系研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 堅田,利明
 東京大学 教授 嶋田,一夫
 東京大学 助教授 漆谷,徹郎
 東京大学 助教授 久保,健雄
 東京大学 助教授 櫨木,修
内容要旨

 Erk(extracellular signal-regulated kinase)は細胞増殖の制御において重要な役割を果たしているプロテインキナーゼであり、様々な増殖因子が細胞内のこの酵素の活性を上昇させる。このとき、増殖因子刺激は低分子量GTP結合蛋白質Rasを介して、図1に示す一連の酵素の活性化をひきおこし、最終的にErkの活性化を導くと考えられている(MAPキナーゼカスケード)。今回、私は、イノシトールリン脂質3キナーゼ(以下、PI3-kinase)の阻害薬として知られるwortmanninが増殖因子刺激によるErkの活性化を抑制するという現象を発見し、その作用特性と機構に関して以下のような知見を得た。

wortmanninにより阻害されるErkの活性化

 CHO(Chinese hamster ovary)細胞を血小板由来増殖因子PDGF-BBで刺激すると3〜5分を最大とする濃度依存的なErkの活性上昇が見られた。しかし、あらかじめwortmanninで処理した細胞においては、PDGFによるErkの活性化はほぼ完全に抑制されていた。このwortmanninの作用は、MAPキナーゼカスケード(図1)のメンバーであるMEK1,MEK2およびRasの活性化阻害を伴うものであった(図2)。一方、活性化型変異Ras(G12V-Ras)を発現させたCHO細胞においては、ErkおよびMEK1,MEK2の恒常的な活性化が観察されたが、この恒常的活性化はwortmanninによる影響を受けなかった(図3)。また、無細胞系におけるErk,MEK1,MEK2の活性をwortmanninが直接阻害することはなかった。従って、wortmanninはRasの上流(PDGF刺激からRasに至る経路)に対して作用しているものと考えられた。

図1MAP-Kinaseカスケード図2PDGFによるMAP-kinaseの活性化とwortmanninによる抑制図3活性化型Ras発現によるMEK2活性化
wortmanninの作用点の解析

 wortmanninは、この薬物が細胞内のPI3-kinase活性を阻害する濃度で、PDGFによるRas,MEK,Erkの活性化を抑制した。また、PI3-kinase阻害薬として知られるLY294002もPDGFの作用を抑制した。これらの結果は、PDGFがPI3-kinaseの活性化を介してRasの活性を制御しているという可能性を示すものである。そこで、PI3-kinaseの役割をより直接的に検討する目的で、活性型変異PI3-kinase(iSH2-p110)を細胞に発現させ、その作用を検討した(図4)。iSH2-p110の発現は、PI3-kinaseによる制御が示唆されているAktの恒常的活性化をひきおこし、このiSH2-p110の効果はwortmanninによって完全に抑制された。しかし、Rasによって調節されるMEK1,MEK2はiSH2-p110の発現によって活性化されることはなかった。また、PDGFによるMEK1,MEK2の活性化は、dominant negativeに機能するPI3-kinase変異体を発現させた細胞においても観察された。さらに、PDGFの作用とこれに対するwortmanninの阻害効果は、PI3-kinaseを活性化できないような変異PDGF受容体を過剰に発現させた細胞においても観察されるものであった。これらの結果はRasの活性化を阻害するwortmanninの作用が、PI3-kinaseの阻害とは独立したものであることを示すものであった(図5左)。

図4 活性化型PI3K発現による影響
Ras活性化複合体に対するwortmanninの作用

 一般にPDGFなどのチロシンキナーゼ型受容体刺激はGDP/GTP交換促進因子Sosを細胞膜に移行させることによってRasの活性化を促すと考えられている。この移行は、通常、アダプター分子であるGrb2と会合したSos(Grb2/Sos複合体)が、直接あるいは間接的に、受容体分子と結合することによっておこる。PDGFの場合には、自己チロシンリン酸化をおこした受容体がまずSHP-2(チロシンホスファターゼ)と結合し、さらにここにGrb2/Sos複合体が結合するという機構が広く認識されている(図5右)。CHO細胞をPDGFで刺激すると、実際にSHP-2のチロシンリン酸化の増大と、抗Grb2抗体免疫沈降画分への移行が観察された。しかし、これらの変化はwortmannin処理を行っても観察された(図6)。また、抗SHP-2免疫沈降画分のチロシンホスファターゼ活性もwortmanninによって阻害されることはなかった。EGF受容体刺激は、PDGFとは異なり、受容体分子とGrb2/Sos複合体との直接の会合を引き起こすことによりRasの活性化を導くことが知られている。wortmanninは、このEGFによるErkの活性化を阻害しないことから、Sos自体の活性に対しても作用しないものと考えられた。以上の結果から、PDGF受容体刺激は、現在広く認識されているSHP-2を介したものとは異なる機構でRasを活性化しており、wortmanninはこの未知の機構に対して作用しているものと考えられた。

 CHO細胞をPDGFで刺激したときのRas,MEK,Erkの活性化はwortmanninによってほぼ完全に抑制される。しかし、Swiss3T3細胞においては、wortmanninは低濃度のPDGFの作用を効率的に阻害するものの、高濃度のPDGFで刺激したときのErkの活性化には大きな影響を与えなかった(PDGF用量作用曲線の高濃度へのシフト)。Swiss3T3細胞のPDGF受容体数はCHO細胞に比べて多く、そのためwortmannin非感受性経路を経たErkの活性化が見られると考えられる。CHO細胞においてもPDGF受容体を過剰に発現させたところwortmanninによっては阻害されないErkの活性化現象が観察された。同様の効果は、PI3-kinaseを活性化できない変異PDGF受容体の過剰発現によっても観察された。これらの結果から、Erkの活性化機構にはwortmannin感受性、非感受性の2種類が存在し、PDGFはwortmannin感受性の機構をより効率的に活性化していることが推測された(図5下)。

図5 PDGF刺激におけるRasの活性化機構図6 SHP-2とGrb2との複合体生成
まとめ

 wortmanninはPI3-kinaseを阻害する濃度においてPDGF受容体刺激によるErkの活性化を阻害する作用を示した。しかし、このwortmanninの作用はPI3-kinaseの阻害の結果とは考えにくいものであった。wortmanninの作用はRasの活性化阻害に基くものであったが、Ras活性化因子Sosの活性や、SHP-2を介したRas活性化機構はwortmanninによる影響を受けなかった。PDGF受容体刺激は、今回阻害されたwortmannin感受性機構を、既知の機構よりも効率よく活性化しうることが推測された。

審査要旨

 様々な細胞増殖因子の受容体刺激によって活性化されるMitogen-activated protein kinase(MAPキナーゼ、別名Extracellular signal-regulated kinase;Erk)は、転写因子をリン酸化するプロテインキナーゼであり、細胞の増殖において重要な役割を果たしている。このErk活性化に至る経路には、低分子量GTP結合蛋白質Rasで活性化される一連のキナーゼカスケード(MAPキナーゼカスケード)が介在している。「イノシトールリン脂質3キナーゼ阻害薬ワートマニンを用いた受容体刺激を介するMAPキナーゼ活性化経路の解析」と題した本論文では、イノシトールリン脂質3キナーゼ(以下、PI3-K)の阻害薬として知られるワートマニンが、増殖因子刺激によるErkの活性化と細胞増殖を抑制するという興味ある現象を見出し、受容体刺激からMAPキナーゼの活性化に至るシグナル伝達の新しい経路を提唱している。

受容体刺激を介するErk活性化のワートマニンによる阻害

 CHO(Chinese hamster ovary)細胞において、血小板由来増殖因子(PDGF)刺激によるErkの活性化はワートマニンの前処理で完全に抑制され、この時、MAPキナーゼの上流に位置するキナーゼMEK1,MEK2およびRas活性化も阻害された。一方、CHO細胞に活性化型変異Ras(G12V)を発現させると、ErkおよびMEK1,MEK2の恒常的な活性化が観察されたが、この活性化はワートマニンで阻害されなかった。また、無細胞系におけるErk,MEK1,MEK2の活性は、ワートマニン添加で直接阻害されなかった。すなわち、ワートマニンはRasの上流(PDGF受容体からRas活性化に至る)経路に対して抑制作用をもつことを明らかにした。

ワートマニンの作用点の解析

 ワートマニンは、この薬物が細胞内のPI3-K活性を阻害する濃度で、PDGFによるRas,MEK,Erkの活性化を抑制すること、また他のPI3-K阻害薬も同様の抑制作用をもつことから、PDGFがPI3-Kの活性化を介してRasの活性を制御すると考えられた。そこで、PI3-Kの役割を明らかにする目的で、活性型変異体PI3-K(iSH2-p110)を発現させた結果、PI3-Kによる制御が示唆されているプロテインキナーゼAktが恒常的に活性化され、このiSH2-p110aの効果はワートマニンによって完全に抑制された。しかし、Rasによって調節されるMEK1,MEK2は、iSH2-p110の発現によって活性化されなかった。また、PDGFによるMEK1,MEK2の活性化は、dominant negativeに機能するPI3-K変異体を発現させた細胞においても観察された。さらに、PDGFの作用とワートマニンの阻害効果は、PI3-Kを活性化できないような変異PDGF受容体を過剰に発現させた細胞においても観察された。これらの結果から、Rasを活性化へと導く経路を阻害するワートマニンの作用は、PI3-Kの阻害とは独立していることが明らかにされた。

Ras活性化複合体形成に対するワートマニンの作用

 一般にPDGFを含むチロシンキナーゼ型受容体刺激は、RasのGDP/GTP交換促進因子Sosを細胞膜に移行させてRasを活性化すると考えられている。この移行は、アダプター分子Grb2と会合したSos(Grb2/Sos複合体)が、直接あるいは間接的に、受容体分子と結合することに起因する。PDGF受容体の場合には、自己チロシンリン酸化受容体がまずチロシンホスファターゼSHP-2と結合し、さらにここにGrb2/Sos複合体が結合するという機構が広く提唱されている。CHO細胞をPDGFで刺激すると、実際にSHP-2のチロシンリン酸化の増大と、SHP-2/Grb2複合体形成が観察された。しかし、これらの変化はワートマニン前処理下でも観察され、また、抗SHP-2免疫沈降画分のチロシンホスファターゼ活性もワートマニン非感受性であった。PDGFとは異なり、EGF受容体はGrb2/Sos複合体と直接会合してRasを活性化するが、ワートマニンはこのEGFによるErkの活性化を阻害しないことから、Sos自体の活性に対しても作用しないものと考えられた。以上の結果から、PDGF受容体刺激は、現在広く認識されているSHP-2を介した経路とは異なる機構でRasを活性化し、ワートマニンはこの未知の機構に対して抑制作用をもつことが明らかにされた。

 以上を要するに本論文は、先にPI3-Kの阻害薬として知られたワートマニンが、PDGF受容体刺激によるErkの活性化をRasの上流で阻害することを見出している。しかしながら、このワートマニンのRas活性化阻害作用はPI3-K阻害によるものとは考え難く、PDGF受容体刺激からRasの活性化へと導く新たなワートマニン感受性経路が本論分で提唱されている。これらの成果は、今後の新たな細胞内シグナル伝達経路の解明と新規のワートマニン標的蛋白質を探索する上で有益な知見であり、博士(薬学)の学位として十分な価値があるものと認められる。

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