Erk(extracellular signal-regulated kinase)は細胞増殖の制御において重要な役割を果たしているプロテインキナーゼであり、様々な増殖因子が細胞内のこの酵素の活性を上昇させる。このとき、増殖因子刺激は低分子量GTP結合蛋白質Rasを介して、図1に示す一連の酵素の活性化をひきおこし、最終的にErkの活性化を導くと考えられている(MAPキナーゼカスケード)。今回、私は、イノシトールリン脂質3キナーゼ(以下、PI3-kinase)の阻害薬として知られるwortmanninが増殖因子刺激によるErkの活性化を抑制するという現象を発見し、その作用特性と機構に関して以下のような知見を得た。 wortmanninにより阻害されるErkの活性化 CHO(Chinese hamster ovary)細胞を血小板由来増殖因子PDGF-BBで刺激すると3〜5分を最大とする濃度依存的なErkの活性上昇が見られた。しかし、あらかじめwortmanninで処理した細胞においては、PDGFによるErkの活性化はほぼ完全に抑制されていた。このwortmanninの作用は、MAPキナーゼカスケード(図1)のメンバーであるMEK1,MEK2およびRasの活性化阻害を伴うものであった(図2)。一方、活性化型変異Ras(G12V-Ras)を発現させたCHO細胞においては、ErkおよびMEK1,MEK2の恒常的な活性化が観察されたが、この恒常的活性化はwortmanninによる影響を受けなかった(図3)。また、無細胞系におけるErk,MEK1,MEK2の活性をwortmanninが直接阻害することはなかった。従って、wortmanninはRasの上流(PDGF刺激からRasに至る経路)に対して作用しているものと考えられた。 図1MAP-Kinaseカスケード図2PDGFによるMAP-kinaseの活性化とwortmanninによる抑制図3活性化型Ras発現によるMEK2活性化wortmanninの作用点の解析 wortmanninは、この薬物が細胞内のPI3-kinase活性を阻害する濃度で、PDGFによるRas,MEK,Erkの活性化を抑制した。また、PI3-kinase阻害薬として知られるLY294002もPDGFの作用を抑制した。これらの結果は、PDGFがPI3-kinaseの活性化を介してRasの活性を制御しているという可能性を示すものである。そこで、PI3-kinaseの役割をより直接的に検討する目的で、活性型変異PI3-kinase(iSH2-p110)を細胞に発現させ、その作用を検討した(図4)。iSH2-p110の発現は、PI3-kinaseによる制御が示唆されているAktの恒常的活性化をひきおこし、このiSH2-p110の効果はwortmanninによって完全に抑制された。しかし、Rasによって調節されるMEK1,MEK2はiSH2-p110の発現によって活性化されることはなかった。また、PDGFによるMEK1,MEK2の活性化は、dominant negativeに機能するPI3-kinase変異体を発現させた細胞においても観察された。さらに、PDGFの作用とこれに対するwortmanninの阻害効果は、PI3-kinaseを活性化できないような変異PDGF受容体を過剰に発現させた細胞においても観察されるものであった。これらの結果はRasの活性化を阻害するwortmanninの作用が、PI3-kinaseの阻害とは独立したものであることを示すものであった(図5左)。 図4 活性化型PI3K発現による影響Ras活性化複合体に対するwortmanninの作用 一般にPDGFなどのチロシンキナーゼ型受容体刺激はGDP/GTP交換促進因子Sosを細胞膜に移行させることによってRasの活性化を促すと考えられている。この移行は、通常、アダプター分子であるGrb2と会合したSos(Grb2/Sos複合体)が、直接あるいは間接的に、受容体分子と結合することによっておこる。PDGFの場合には、自己チロシンリン酸化をおこした受容体がまずSHP-2(チロシンホスファターゼ)と結合し、さらにここにGrb2/Sos複合体が結合するという機構が広く認識されている(図5右)。CHO細胞をPDGFで刺激すると、実際にSHP-2のチロシンリン酸化の増大と、抗Grb2抗体免疫沈降画分への移行が観察された。しかし、これらの変化はwortmannin処理を行っても観察された(図6)。また、抗SHP-2免疫沈降画分のチロシンホスファターゼ活性もwortmanninによって阻害されることはなかった。EGF受容体刺激は、PDGFとは異なり、受容体分子とGrb2/Sos複合体との直接の会合を引き起こすことによりRasの活性化を導くことが知られている。wortmanninは、このEGFによるErkの活性化を阻害しないことから、Sos自体の活性に対しても作用しないものと考えられた。以上の結果から、PDGF受容体刺激は、現在広く認識されているSHP-2を介したものとは異なる機構でRasを活性化しており、wortmanninはこの未知の機構に対して作用しているものと考えられた。 CHO細胞をPDGFで刺激したときのRas,MEK,Erkの活性化はwortmanninによってほぼ完全に抑制される。しかし、Swiss3T3細胞においては、wortmanninは低濃度のPDGFの作用を効率的に阻害するものの、高濃度のPDGFで刺激したときのErkの活性化には大きな影響を与えなかった(PDGF用量作用曲線の高濃度へのシフト)。Swiss3T3細胞のPDGF受容体数はCHO細胞に比べて多く、そのためwortmannin非感受性経路を経たErkの活性化が見られると考えられる。CHO細胞においてもPDGF受容体を過剰に発現させたところwortmanninによっては阻害されないErkの活性化現象が観察された。同様の効果は、PI3-kinaseを活性化できない変異PDGF受容体の過剰発現によっても観察された。これらの結果から、Erkの活性化機構にはwortmannin感受性、非感受性の2種類が存在し、PDGFはwortmannin感受性の機構をより効率的に活性化していることが推測された(図5下)。 図5 PDGF刺激におけるRasの活性化機構図6 SHP-2とGrb2との複合体生成まとめ wortmanninはPI3-kinaseを阻害する濃度においてPDGF受容体刺激によるErkの活性化を阻害する作用を示した。しかし、このwortmanninの作用はPI3-kinaseの阻害の結果とは考えにくいものであった。wortmanninの作用はRasの活性化阻害に基くものであったが、Ras活性化因子Sosの活性や、SHP-2を介したRas活性化機構はwortmanninによる影響を受けなかった。PDGF受容体刺激は、今回阻害されたwortmannin感受性機構を、既知の機構よりも効率よく活性化しうることが推測された。 |