統計力学での密度行列や量子力学での時間発展演算子のように、物理学のさまざまな量が指数演算子によって記述される。一般に大きな系を扱う時には、これらの指数演算子をTrotter分解して計算することが多い。量子スピン系の研究で用いられる量子モンテカルロ法も、鈴木-Trotter公式に基づいている。さらに、最近導入された指数積公式によれば、元の演算子により近い精密な近似を得ることができる。この利点をいかし、統計力学に限らずさまざまな分野で多くの研究がなされてきている。 指数演算子を近似する際に、元の演算子が持つ対称性を保存するような近似が構成できれば、たいへん有効である。量子力学で時間発展を記述する演算子はユニタリ演算子であり、ユニタリ性を保存する近似を用いれば確率が保存される。指数演算子exp[x(A+B)]を、分割した指数演算子exp(pixA)とexp(pjxB)の積を使ってxの任意の次数まで近似する指数積公式は、元の指数演算子の対称性を保っている。例えば、exp[x(A+B)]をxの2次まで正しく近似する2次近似S2(x)は、で与えられる。 第2章では、指数演算子の積の対数を計算する新しい方法を提唱する。この方法は、さまざまな指数積公式の構造を統一的にとらえる上で有用である。また、第3章では、指数積公式を用いたときの誤差の傾向を調べ、数値計算に応用する上でそれぞれの場合に応じた最適なものの選び方を議論する。第4章、及び、第5章では、ハミルトニアンが時間に依存しない場合、及び、依存する場合について、指数積公式を用いて具体的な物理現象を考察する。 非可換な演算子からなる関数log(exp X1 exp X2…exp XN)を{Xi}の級数に展開したとき、それぞれの項の係数はGoldbergの定理を用いて求めることができる。第2章では、演算子{Xi}を超演算子「内部微分」で置き換えたときにもこの定理が成り立つことに着目し、指数積の対数を交換子で表した式に応用する。これにより、従来の方法と比べはるかに少ない計算量によって指数積の対数を交換子の形で求めることができるようになった。 Goldbergの定理によると、多変数関数log(exp X1 exp X2…exp XN)を{Xi}の級数に展開したときに現れる項の係数C(W)は、 で与えられる。ここで、nは項Wの次数であり、m’はij<ij+1,1jm-1をみたすjの個数である。また、Gs(t)はによって与えられるs-1次の多項式である。さらにと定義すると、係数C(W)とC(W’)の間には関係式C(W’)=(-1)n-1C(W)が成り立つ。この関係式は、級数展開する際の計算量を減らすために有効であることがわかる。すなわち、WとW’でm’が等しいときC(W)=C(W’)であり、かつ、Wの次数nが偶数のときC(W)=-C(W’)が成り立つので、C(W)=C(W’)=0となるからである。 次に、指数演算子の積の対数を交換子を使って表すことを考える。()=log{exp[A1()]exp[A2()]…exp[AN()]}によって定義される演算子()は、微分方程式 をみたす。ここで、内部微分AはAQ=[A,Q]=AQ-QAをみたす超演算子であり、(A)は(A)=[exp(A)-1]/Aによって定義される。式(1)の右辺をについて級数展開すると、演算子()を交換子で表すことができる。Goldbergの定理を式(1)に応用するため、我々は定理を次のように変形した。多変数関数 を{Xi}の級数に展開したときに現れる項Wの係数H(W)は、 で与えられる。また、係数H(W)とH(W’)の間には関係式H(W’)=(-1)nH(W)が成り立つ。これにより、多変数関数h(X1,X2,…,XN)を級数展開し、式(1)を用いて演算子()を交換子で表すことができるようになった。上の方法を用いると、指数積公式を統一的に導くことができるため、指数積公式の構造を明確にする上でたいへん有効である。 第3章では、指数演算子による近似の誤差の傾向を議論する。指数積公式を用いる方法のうち、実際に計算する上で最も有用な近似がどれであるのか必ずしもはっきりしていない。第3章では、種々の近似法を1次元量子XYモデルに用いて補正項を具体的に計算し、そのふるまいを系統的に評価した。特に、補正項のTrotter数依存性を調べ、実際に応用する上でどのような次数の指数積公式が最適であるか考察した。その結果、実行可能な計算量と必要とされる精度から最適な近似法が定まるようすが明らかになった。 まず、指数積公式の近似の構成法を1つ決め、これによりさまざまな次数の近似をつくる。そして、それらの近似について自由エネルギーの相対誤差を比較し、最適な近似を考える。ここで注意すべきことは、指数積公式を用いて高次の近似をつくる際には、次数を上げるにつれ計算量が増えていくことである。例えば、exp[x(A+B)]をxの2m-2次まで正しく近似する2m-2次近似S2m-2(x)の5個の積から2m次近似S2m(x)をつくる構成法では、次数を2つ上げるごとに計算量が5倍に増えていき、Trotter数が同じnであっても、2m次近似では5m-1n個の2次近似S2(x)の積を計算することになる。このため、2次近似の積の数Nmulを一定にして補正項の比較を行う。積の数の増大にともない、4次近似の相対誤差r4は2次近似の相対誤差r2より速く減少し、ある値N2,4で等しくなる。積の数がN2,4より大きくなるとr4の方が小さくなり、4次近似の方が2次近似より有利であることがわかる。このことから、十分大きい積の数について計算できる場合に、高次の指数積公式が有効であるといえる。また、積の数がN4,6のときの相対誤差r4は、N2,4のときに比べおよそ44分の1になっていることから、高い精度を必要とするときに高次の指数積公式が有利になることがわかる。 次に、次数を2つずつ上げていく指数積公式の中で、どのような構成法が最も有効であるか、S4(x)=[S2(px)]lp[S2(qx)]lq[S2(px)]lpの形の4次近似について数値計算を行った。その結果、5個の積からなる近似を用いる方が、3個の積からなる近似より有利であることが確かめられた。また、高次の指数積公式から得られる近似的な自由エネルギーの相対誤差は、低温側でK/n=J/nの関数にスケールされることが厳密に示された。これにより、K/nを小さくとれば十分低温でも高次の指数積公式が有効であることがわかった。 4次近似であるimproved Trotter-like formulaから求めた自由エネルギーの補正項についても、通常の2次近似の補正項と比較した。この結果、温度があまり低くない領域では4次の指数積公式よりも有利であることがわかった。 第4章、及び、第5章では、指数積公式を量子ダイナミクスの研究に応用する。指数演算子の分解の方法は量子系の直接計算において大きな役割を果たしている。第4章では、ハミルトニアンが時間によらない場合について、シュレーディンガー方程式の初期値問題として量子拡散現象を考察する。 初期状態からエネルギーの低い状態へ拡散していくためには、状態の遷移とともにエネルギーの散逸が必要である。第4章では、2準位系にボゾンを結合させたスピンボゾン模型を考え、ボゾン系とのエネルギーのやりとりを取り入れることで状態の拡散を考察する。スピンボゾン模型については、これまでにもさまざまな視点から多くの研究がなされてきている。我々は、指数演算子の分解の方法を用いてスピンとボゾンの状態をミクロに取り扱い、スピンの磁化の時間発展を計算した。そして、ランダムに与えられた振動数をもつボゾンがスピンと相互作用する系を多数考え、それらの平均をとることで状態の拡散を議論した。計算の結果、スピンとボゾンの相互作用がない時には反転しないスピンの磁化が、相互作用を加えると時間とともに指数関数的に減少するようすが見られた。 まず、それぞれのサンプルでスピンの磁化の時間変化を数値計算で求めるためにスピンボゾン模型のハミルトニアン をスピン・ボゾン・相互作用の3つの部分に分割し、時間発展演算子を時間について2次まで正しい指数積公式で近似する。時間発展の数値計算には転送行列法を用いる。ここで、実際の数値計算で扱える状態数には限界があるので、ボゾンのレベルにカットオフを入れエネルギーの低いNcut個のレベルのみを考慮に入れることにする。ボゾン数にカットオフを入れる近似は、スピンとボゾンの相互作用が弱いときによい近似になる。また、4次近似を用いて全エネルギーの保存性を調べた結果、単位時間を100分割して行う計算では、2次近似と同程度の誤差となることがわかった。また、このとき十分な精度が得られたので、第4章では2次近似のみを用いた。 実際にスピンとボゾンの状態の時間発展をミクロに計算し、スピンの磁化の時間変化を異なる相互作用の強さに対して求めた。初期状態としてはスピンが上向きでボゾンがすべて基底状態にある場合をとった。ここではh/0が0.2と小さい場合を考えるので、相互作用がないときスピンは初期状態からほとんど遷移しない。しかし、相互作用を加えていくとスピンは遷移し、磁化は大きく振動するようになることがわかった。 次に、ボゾンの振動数をランダムに与えたサンプルを多数考え、それぞれのサンプルについて独立に時間発展を計算した後、それらの平均からスピンのふるまいを調べた。計算の結果、スピンとボゾンの相互作用がない時には反転しないスピンの磁化が、相互作用を加えると時間とともに指数関数的に減少するようすが見られた。また、拡散した磁化の値はモード数が増えるにしたがい減少することがわかった。 第5章では、ハミルトニアンが時間による場合の例として、変動磁場による状態の非断熱散乱の問題をスピンボゾン模型を用いて考察する。これらの問題では対角化の方法を用いることができないので、指数積公式を使う方法は特に有効である。 有限の速さで外部磁場を変化させた場合、2つのレベルが接近した点で非断熱遷移が起こる。ここでは、外場の初期値(-0)に対応するハミルトニアンの基底状態を初期状態にとり、時間に比例してさまざまな速度で外場を増加させて状態の時間変化を数値計算で求めた。ボゾンのモード数が1のとき、散乱点は十分離れそれぞれの散乱過程は独立であるとみなせるので、磁化のふるまいはLandau-Zenerの公式を用いてよく説明される。外場を2max時間に-0から0まで増加させるとき、エネルギーギャップの大きさEをもつ散乱点を通過する確率はである。一方、ボゾンのモード数が2のとき、ボゾンの振動数を接近させると散乱点が近づき、散乱過程は独立でなくなる。我々は、このような場合について散乱確率からeffectiveなギャップの大きさ△E(eff)を定義した。これにより、磁場を変動させる速さを1つとりeffectiveなギャップの大きさを求めると、どのような変動速度に対してもその値を用いて元のLandau-Zenerの公式によって磁化のふるまいがよく説明されることがわかった。 指数積公式は、ここで計算したような動的ふるまいを調べるために有効である。今後、より複雑な相互作用をもつ系での量子ダイナミクスの研究において、指数積公式が大きな役割を果たすことが期待される。 |