学位論文要旨



No 113779
著者(漢字) 山本,淳子
著者(英字)
著者(カナ) ヤマモト,ジュンコ
標題(和) リヒャルト・ヴァーグナーの『未来の芸術作品』と反ユダヤ主義 : 十九世紀後半のドイツ文化における一現象
標題(洋)
報告番号 113779
報告番号 甲13779
学位授与日 1998.05.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第179号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 杉橋,陽一
 東京大学 教授 猪口,弘之
 東京大学 教授 義江,彰夫
 東京大学 助教授 長木,誠司
 九州産業大学 教授 高辻,知義
内容要旨

 リヒャルト・ヴァーグナー(Richard Wagner,1813-83)が独自のライトモティーフ技法や無限旋律等を駆使して文学と音楽の緊密に融合した画期的な総合芸術作品「ドラマ」(Drama)を創造し、近代ヨーロッパの芸術界に大きな刺激と革新をもたらしたことは周知の事実であるが、彼の劇作品は単に形式面での種々の芸術ジャンルの総合というだけにとどまらず、内容的に世界の様々な知を集積、総和したという観がある。そこにはギリシャ神話・悲劇、ゲルマン神話・伝説、シェイクスピア(William Shakespeare,1564-1616)劇をはじめ、ショーペンハウアー(Arthur Schopenhauer,1788-1860)、フォイエルバッハ(Ludwig Feuerbach,1804-72)の哲学、プルードン(Pierre Joseph Proudhon,1809-65)の社会思想、さらに進化論、人種論など多方面にわたる世界認識が結集され、それらを基盤にして確立された作者自身の世界観が開示されている。一芸術作品の容量の限界と可能性に挑むような、ほとんど革命的ともいうべきその内容の濃密度は、我々を圧倒すると同時に当惑させ、また次々と新しい作品解釈及び舞台演出を生み出す所以になっているが、作者の後半生に成立した作品の中には他の無数の諸要素に混じって、反ユダヤ主義的要素が内包されているものがある。

 自らの理想とする「ドラマ」、即ち「未来の芸術作品」(das Kunstwerk der Zukunft)という概念を提示した際、「世界精神」(Weltseele)を具えた自由で芸術的な人間になるべく人類の再生を謳っていたヴァーグナーが、自作の中で異種の人間・民族に対し、厳しい排他的態度を示しているのは、一見甚だしい矛盾のように見える。だが彼のそうした姿勢や論調は、人類の普遍性を探究しつつ自民族を世界発展の最大の担い手として自認するゲルマン至上主義的な同時代ドイツの知的風潮に即したものとして捉え、説明づけることは可能で、また従来の芸術及び社会のあり方を根本から覆し、新たな規範を打ち立てようとする彼の強烈な改革への意志そのものを、ルター(Martin Luther,1483-1546)以来のプロテスタント精神の名残として理解することもできよう。その場合には、時代精神を越え出ようとしながら一方でその時代精神、あるいは三百年来の伝統的気質を背負っている十九世紀ドイツの一芸術家像が浮かび上がってくる。ところでヴァーグナーの劇作品におけるこの二面性、即ち、世界主義的要素と併存する反ユダヤ主義的要素の分析を通して、つまりそれを一つの現象もしくは反照として、十九世紀後半のドイツ人一般が共有していたアンバランスな精神構造-他の西欧諸国との緊張関係の中で全人類的な視点をもちつつ内向し、民族意識を極端に高め、自己崩壊に繋がるほどの異文化摩擦・衝突を来してゆく精神構造-の片鱗を窺い知ることはできないだろうか。この双方をいわば合わせ鏡のようにして、それぞれの姿をよりよく見るということは果してできないものだろうか。

 本論ではこのような意図のもとに、まず芸術家ヴァーグナーが反ユダヤ観を標榜するに至った経緯を確認した後、彼の舞台作品に現れた反ユダヤ的思想の検証に移り、そこから改めてヴァーグナー芸術、そしてそのような芸術作品を創出しえた十九世紀後半のドイツの文化的土壌における精神性について考察したい。ヴァーグナーの反ユダヤ主義というテーマに関しては、従来彼の特殊な一個性として認めながらも舞台作品との関連性を否定する向きが多かったが、ここでは実際に彼の劇作品に焦点を当てて、音楽面における解釈を交えながら同問題を追究したい。その際論証する作品は、彼が初めて世間に反ユダヤ的持説を明示した論文『音楽におけるユダヤ性』(Das Judentum in der Musik,1850)の発表以降に成立した三作品、即ち、『ニーベルングの指環』(Der Ring des Nibelungen)『ニュルンベルクのマイスタージンガー』(Die Meistersinger von Nurnberg)『パルジファル』(Parsifal)である(台本完成は順に一八五二、六二、七七年。総譜完成は順に一八七四、六七、八二年)。『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)は一八五七年にその台本が、五九年にその総譜が完成しており、上記の条件を満たすが、この作品は政治・経済・文化・宗教を超越した一組の男女の究極の恋愛を描いたもので、そこに作者の反ユダヤ観が混入する余地はなかったと思われるので、例外として当議論の対象から除外することにする。なお、ヴァーグナーの反ユダヤ問題に関しては、その影響史や舞台演出史をも含めた多角的研究が望ましいことは言うまでもないが、それにはさらに長大な時間と多大な労力が必要であるから、本論ではその端緒を開くつもりで、あえて十九世紀後半のドイツにおける時代精神との関わりという観点に限定した論考を行うことにする。

 ヴァーグナーは生涯に劇作品の創作と並行して数多くの論述を著し、それらの幾つかにおいて徹底した反ユダヤ思想を展開したが、舞台作品の中ではことごとく明言を避け、自らの反ユダヤ観を慎重に仄めかすにとどめている。それは芸術性の重視からというよりもむしろ作品の上演実現を優先させるという実際的な理由があったためではないかと推測されるが、元々作中でその所在がぼやかされ曖昧な状態に置かれている反ユダヤ主義的要素を客観的に実証するのは容易なことではなく、それについてはこれまで既にパウル・ベッカー(Paul Bekker,1882-1937)、アドルノ(Theodr W.Adorno,1903-69)、そして今日ではツェリンスキ-(Hartmut Zelinsky,1941-)といった一部の論者によって数々の批判的論判が行われたが、確たる証拠に基づく完全な立証は未だになされていない。しかしある筋道に沿って、ヴァーグナーが暗示していることや連想させていることを丹念に拾い集めてみると、払拭できない多くの疑問が残り、そこにユダヤ人に対する作者の終始一貫した主張が表明されているように思われてならないのである。

 上述の三作品にはいずれも、強欲で、不正な所有・掠奪を行い、他者を愛する能力に欠け、神聖な世界を腐敗させる「悪魔」(Damon)的な人物が登場するが、これこそまさに作者が『音楽におけるユダヤ性』その他の著作において痛烈に批判した、人類の敵対者としてのユダヤ人像を具現するものであり、それが作中及びこれらの作品間で、いわばライトモティーフのように繰り返し出現し、観念連合を引き起こすことにより、観客の脳裏に一つのイメージを植え付けているように考えられる。

 ヴァーグナーの劇作品に現れた反ユダヤ的思想の検討を通していえることは、ヴァーグナー及び彼の芸術にとってユダヤ人問題が決して副次的意義をもつにとどまるものではない、ということである。作者の「理念」(Idee)あるいは世界観の発露であるところの「ドラマ」は「未来の人類」(die Menschheit der Zukunft)のための一理想社会を描出するが、彼の反ユダヤ主義とは、この理想社会を構築するために有害な存在である「悪魔」を駆除しようとする主張に他ならなかった。

 こうした排他的傾向は一面において確かに時代精神の現れとして見ることができよう。十九世紀初頭、神聖ローマ帝国の崩壊(一八〇六年)、解放戦争(一八一三年)を経て、自国創建へ向け民族意識を高揚させたドイツ民族は、普仏戦争(一八七〇〜七一年)における勝利、ドイツ帝国設立(一八七一年)を機に、それまで若い民族として古い伝統を誇るロマン民族に対し抱き続けてきた積年の劣等感を完全に振り解き、揺るぎない自信を把持しようとしていた。自民族の理想的アイデンティティを民族学、言語学、生物学方面の研究上に探索しながら、彼等は一つの生物学的人種論を捏ね上げ、他民族に対するアーリア人種、ゲルマン民族、特にドイツ民族の優位を力説し始める。このとき自民族と対照的にその劣等性を際立たせられたのがセム人種であり、ユダヤ民族であった。ドイツ統一か実現した一八七〇年代の政治的・社会的に不安定な時期において、「反ユダヤ主義」(Antisemitismus)という概念が生まれ、奇しくもこれと同年、ベルリン大学の歴史学教授トライチュケ(Heinrich von Treitschke,1834-96)によって「ユダヤ人は我々ドイツ民族の災いである」(Die Juden sind unser Ungluck)という有名な所見が表明されたことは、単なる偶然ではあるまい。

 それらを顧慮すると、ヴァーグナーの「未来の芸術作品」は極めて理想主義的な時代精神を母体として誕生したものであることに変わりはないが、他方、ヴァーグナーは自らの世界観の伝達という点において世人に少なからぬ影響力があり(本人はそれを自覚し、心に適う共同体を創立したいとさえ思っていた)、またその伝達方法は優れた現実性に裏打ちされていた。彼は劇作品の中で反ユダヤ主義的要素を他の無数の諸要素内に混在させ、一種の保護膜でこれを被うばかりでなく、前述したようにそれ自体は暗示するにとどめ、観客が観念連合するのに任せたのである。これはおそらくラウベ(Heinrich Laube,1806-84)がいみじくも指摘した通り「自己保存衝動」(Selbsterhaltungstrieb)によるものと思われるが、この手法こそは、まさにその曖昧さや両義性を「深い」と感受し、そうあることを欲するような時代の嗜好性に合致するものであった。ヴァーグナーの「未来の芸術作品」とは、このように理想主義的な時代精神から生まれながら、同時にそれを敏感に探知し、牽引し、その要求に応えるという現実主義的側面をも備えていたことが推察される。

審査要旨

 リヒャルト・ヴァーグナーの音楽家としての偉大さ、なかんづく「トリスタンとイゾルデ」における半音階的和声の大胆な導入などによって西洋音楽の伝統的な調性の根本をも揺るがし、シェーンベルク以降の無調音楽への途を切り開く結果になったこと、また「輝かしい世界精神を備えた自由で芸術的な人間」のための「未来の芸術作品」をめざして、「ライトモチーフ」や「無限旋律」などによってオペラを音楽技法の点でも大きく革新し、きわめてユニークかつ優れた「総合芸術作品」を次々に創造したこと等々、その大きな功績についてはいまさら多言を要しない。彼の後世に対する影響は、いわゆるクラシック音楽の範囲にとどまらず、文学を含む諸芸術、さらには現代思想の広範な領域にも及んでいる。その諸メディアの融合ということでは、今後もしばらくアクチュアリティを失わないだろう。

 しかし他方、この巨匠ヴァーグナーが同時に、『音楽におけるユダヤ性』等の著作において激越で挑発的な反ユダヤ主義的言辞を弄してきたことは、「ヴァーグナーというケース」を、良くも悪くも今日でもアクチュアルにしている。熱狂的なワグネリアンでもホロコーストのあとで、ナイーヴに「巨匠(マイスター)」ヴァーグナーの挑発的な言辞を共有するわけにゆかないからである。

 本論文は、ヴァーグナーのオペラ作品-ことに後期の「楽劇」-を解読しながら、彼の反ユダヤ主義がいかに作品のなかに浸透しているかを綿密に跡付けた仕事であるが、毀誉褒貶の激しいヴァーグナー作品を、その反ユダヤ主義というネガティヴな側面において、可能な限り客観的に示そうとした点に大きな学問的功績が認められる。反ヴァーグナー派は、ヴァーグナーの楽劇からホロコーストまでまっすぐな一本道が通っていると主張し、方やヴァーグナーを崇拝するあまり、彼にまつわるネガディヴな一切に耳を貸したくないとする人々もある。こうした極端な対立のなか、本論文で著者は、ヴァーグナーの悪名高い「音楽におけるユダヤ性」などの論文を傍らに置きつつ、作品に形象化されているものから、イデオロギーとの併行関係を解読してゆくのだが、過剰な読み込みに陥らぬようつとめる著者の禁欲的な態度は称賛に値する。こうした態度に貫かれた仕事の全体は、日本におけるヴァーグナー学への着実な貢献になるとともに、もっと広い範囲で冷静なヴァーグナー理解の役立つものと期待される。ヴァーグナー理解がどうしても一方的な讃仰の方に傾きがちな日本で、方法上の慎重さに裏打ちされた本論文の示すところは、冷静な見直しを迫ることになるだろう。

 本論文の「序文」では、まず研究史を振り返りつつ概括的な問題提起をおこないながら、同時に、著者がドイツ留学中大いに影響をこうむったミュンヘン大学のハルトムート・ツェリンスキーが主張するように、反ユダヤ主義はヴァーグナー作品の核をなしている、とするのは同調しがたいとしている。

 因みにツェリンスキーは著者に少なからぬ影響を与えている。1980年前後、このミュンヘンのドイツ文学者は、ヴァーグナーと反ユダヤ主義との結びつきに関して、舌鋒鋭い論調で多くの論攷を矢継ぎ早に発表して、戦後ドイツの「過去の克服」の問題圏のなかですでにヴァーグナーの禊ぎは終わったとするワグネリアンたちの逸夢に水を差し、ことに「パルジファル」に関して激しい論争を巻き起こした。著者はこうしたツェリンスキーの仕事に慎重な修正を加えつつ、さらに対象の分節化・精密化をはかっている。

 さて本論の第一章「ヴァーグナーと反ユダヤ主義」において、まず伝記的なデータをたどりながら、その第一節では「ヴァーグナーの革命志向とユダヤ人問題の結びつき」の問題にアプローチしている。第二節では、「コージマの《日記》に見られるヴァーグナーの反ユダヤ観発展の諸相と同時代のドイツにおける反ユダヤ主義」、第三節では、「ヴァーグナーとユダヤ人との交友」という局面を取り上げている。

 著者は、普仏戦争以後、従来の宗教的反ユダヤ主義とは質的に一線を画される反ユダヤ主義が、トライチュケやマルなどの端緒的な人物から始まって、ドイツ帝国においてすさまじい勢いで広がるさまを略述しながら、グレーゴア=デリンやツェリンスキーと同様大部のコージマの日記に主として因りながら、ヴァーグナーおよびコージマ、さらには友人など、彼の周辺にいた人々の反ユダヤ主義について検証している。

 この検証の中で指摘されているように、ヴァーグナーがパリ滞在時代に世話になった、当時のオペラ作家の大物マイヤーベーアはユダヤ人であるが、彼とヴァーグナーとの関係は、少なくとも生活的にきわめて追い込まれたヴァーグナーの側からするとマゾヒスティックな卑屈なものになった。二人のこの奇妙な権力的関係が、ヴァーグナーの演じる役割は逆転しつつもヴァーグナーの弟子格のユダヤ人たちとの関係において反復された、という資料調査に基づく指摘はきわめて示唆的である。後の大成したヴァーグナーが周囲に多くの崇拝者を集めたなかで際立っていたユダヤ人たち、つまりカール・タウジヒ、ヨーゼフ・ルービンシュタイン、ヘルマン・レーヴィの三人に対する彼の態度は、パリにおける窮状きわまった彼のそれを、強制的に反復させるものであったからである。こうした点で著者の分析は実証的にたしかで、信頼に値する。

 「ヴァーグナーの舞台作品に見られる反ユダヤ思想」と題された第二章では、「ニーベルングの指輪」「ニュルンベルクのマイスタージンガー」「パルジファル」のヴァーグナー晩年の三つの作品において、反ユダヤ主義が、どのように表現されているか、具体的にさぐっている。この章は著者がもっとも力を込め記述したものであることは、記述に割いたページ数が優に全体の半分を超えるという量的なアンバランスにも現れているが、しかし何といっても、ひとつひとつの論証に込められた説得力がその証左となっている。たとえば、作品のなかで登場人物のベックメッサーがユダヤ人であることは決して明示的に示されることのない「マイスタージンガー」が、にもかかわらず、そのもっとも奥底で反ユダヤ主義的であることは、上演に際しての「アーリア人」観客の反応からもはっきりすると、著者はコージマの日記の記述から証明しているのである。この作品の1868年ミュンヘン初演は大成功だったが、翌年『音楽におけるユダヤ性』の増補再版が出されて、たとえばマンハイム上演の際スキャンダラスな騒ぎのもちあがったことが、コージマの日記に報告されているからである。またこれは、多大な時間を要する誠実な作業なくしては考えられぬ記述である。

 そして「『未来の芸術作品』と十九世紀後半のドイツ精神」と題された終章において著者は、主としてニーチェのヴァーグナー批判によりながら、ヴァーグナー最晩年の「見ながら沈黙をつづける」という表現に見られる姿勢が、外部世界にコミットすることなく芸術作品自体によって影響を行使しようという、ヴァーグナーの意識的な「両義性」のあらわれであり、このあいまいさのなかに反ユダヤ主義が力をふるう根拠があると結論づける。結論部に当たる第三章は、量的にもっとあってしかるべきと思われるが、しかし内容的には筋の通ったものである。第二章で展開された反ユダヤ主義の実例調査において明らかになったように、いかに状況証拠の点では彼が濃厚な反ユダヤ主義的意味づけをおこなっていても、作品のなかでヴァーグナーは直接的な反ユダヤ主義表現をきわめて慎重に避けており、著者は、こうしたことがヴァーグナーの意識的な戦略であることを、ヴァーグナー自身のことばや、後年徹底的な批判者となったニーチェを援用しつつ明らかにしているので、全体の論理構成の観点からは首尾一貫したものであることが分かる。

 ヴァーグナーに関心をもつ多くの者をただちに感情的に興奮させてしまう反ユダヤ主義と彼との関係という対象を、確実な手捌きで冷静に実証的に論証したことは、いうまでもなく著者の大きな手柄であるが、審査委員会では、彼女に対しいつくかの注文も出された。楽劇のあらすじを紹介する必然性があったとすれば、その叙述の方法にもっと意を用いるべきではなかったのか、とか、あるいは、ドイツ語文献の解釈に関して、細部にはなお不充分な箇所もあったなどの指摘もあった。

 しかしこうした瑕疵も従来の研究より一歩でも先に進もうとする意欲のあらわれであって、本論文の学問的貢献をいささかも減じるものではない。決して読みやすいものではないヴァーグナーの著作や数千ページにおよぶコージマの日記などに取り組んだとき発揮された著者の積極的な努力によって、そうした欠点ももただちに克服されるものと確信している。

 以上、審査委員会は本論文の総合的な評価に上に立って、本論文を「博士(学術)」の学位を授与するに十分な業績であると判定する。

UTokyo Repositoryリンク