学位論文要旨



No 113782
著者(漢字) 岸根,敏幸
著者(英字)
著者(カナ) キシネ,トシユキ
標題(和) チャンドラキールティの中観思想
標題(洋)
報告番号 113782
報告番号 甲13782
学位授与日 1998.06.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第213号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 江島,惠教
 東京大学 助教授 丸井,浩
 東京大学 助教授 下田,正弘
 東京大学 教授 天野,正幸
 東京大学 助教授 市川,裕
内容要旨

 本論文は,中観思想史上における位置づけを指向しながら,チャンドラキールティの中観思想を考察したものである.そのための視点として,(a)二真理説,(b)空性論述の方法,(c)実践論との関係,(d)唯識思想批判という四点を設定し,その視点に沿いながら,チャンドラキールティ以前の中観思想との比較を行ないつつ,チャンドラキールティの思想的な特色の解明につとめた.その考察の結果はつぎのようにまとめられる.

1.二真理説

 (1)二真理説は,まず個別の認識主体の差異に重点を置いた構成上の特色と,空性論述に伴う問題を回避する意図で,排斥(badha)の回避という機能をもつ.

 (2)チャンドラキールティにとって世俗とは,否定的なニュアンスが強く,それがヴィチャーラを介在させて世間の営為と交錯する.そのかぎり,世間の営為は世俗と同一視される.この点は,世俗を世間営為と一義的に捉える解釈とは大きく異なる.

 (3)チャンドラキールティは世俗の構造そのものにも注目した.世俗真理を基準とし,それより下位の「世間からして虚偽」と上位の唯世俗を想定したのである.その結果,彼の二真理説は現象世界を定位する理論の様相を呈する.

 (4)チャンドラキールティは勝義を聖者との関わりで捉えようとしている.勝義に関しては聖者の見方に従うべきであるとし,さらに,勝義は仏陀の認識対象であるとしつつも,聖者の勝義をも,それに準じた形で真実と捉えようとしている.

2.空性論述の方法

 (1)ブッダパーリタが推論式を使用していない点を批判するバーヴィヴェーカに対して,チャンドラキールティは反論する.彼は,中観論者の主張非定立という立場から,中観論者本来の空性論述の方法として「プラサンガ論法」(prasanga-apatti)を提唱する.

 (2)ただし,チャンドラキールティは推論式の使用を拒否せず,実際にブッダパーリタの文章を推論式に書き換えてもいる.その推論式の特色は,自らの主張を定立せず,対論者の主張だけで構成される点にあり,プラサンガ論法と同様の構造をもつ.

 (3)チャンドラキールティはバーヴィヴェーカの推論式を批判した.その論点は,バーヴィヴェーカが主張命題に付加した「勝義において」という限定に集中し,世俗のレヴェルに属するものを勝義のレヴェルに持ち込むことを論理学的に問題とする点にある.

3.実践論との関係

 (1)チャンドラキールティは,菩薩となるべき三要因中の大悲を最優先するという独自の視点を提示し,大乗の意義を,大悲などの,従来にない新たな実践論の提示と法無我の詳細な説明に帰する.彼が大悲を強調するのは,中観思想に大乗としての意義を与える意図があったと思われる.さらに,菩薩の三要因を有力な実践理論の一つ十地説と結びつけてもいる.この結合こそが彼の主著Madhyamakavatara(MA)の原理的な基盤となる.

 (2)チャンドラキールティはMA第6章で中観思想を提示する二つの理論を用意する.第一は,般若への止住による止滅の獲得を最終目標とし,そのための方法を,縁起の観察,ナーガールジュナの方法への追従,中観思想の論述という順序を追って提示するものである.第二は,十種の平等性を現前地への移行条件とするDasabhumikasutra(DBh)の記述に注目し,それから中観思想論述の妥当性を引き出すものである.これらの理論から,中観思想の提示をあくまでも実践論的な視座から捉えようとする意図が伺える.

 (3)チャンドラキールティが空性分類説を,MA第6章の大きなテーマとして取り上げた動機としてつぎの二点が推定される.第一は,空性分類説を法無我の詳細な説明と捉える点であり,第二は,十六空性説の中の自相空性で実践論に言及する点である.それは,実践論を空性論的な視座から意識的に捉えようとしたことを意味すると思われる.

4.唯識思想批判

 (1)チャンドラキールティは唯識学派を「認識論者」や「表象論者」と呼び,唯識学派を認識の存在性を主張する一派として位置づけ,唯識思想批判も認識の存在性の問題に限定される傾向にある.これはバーヴィヴェーカが唯識学派を「ヨーガの実践者」と呼び,唯識思想全般をトータルに批判しようとした点と対比される.

 (2)チャンドラキールティは,アーラヤ識の想定を不要と主張するが,その存在を便宜的に認める.ただし,それは真実としてアーラヤ識を説く唯識学派の主張とは異なり,唯識学派の独自性を失わせた形でである.

 (3)チャンドラキールティは唯識思想批判の中心テーマとして唯識無境を徹底的に批判する.というのも,認識の存在性を認めることは,実在論的な発想につながり,かつ,世間的な見方に反することにもなり,二重の意味で容認できなかったからである.

 (4)自己認識説は精緻な理論であるが,チャンドラキールティの批判の仕方はそれとは異質であり,唯識学派の主張とまったく噛み合っていない.彼の批判が異質なのは精緻な理論体系が勝義の指向にとって意味をなさないという発想に立つからと思われる.

 (5)DBhの唯心説は唯識無境の重要な根拠である.チャンドラキールティもその説を中観学派の立場から捉え直す必要があった.彼は唯心を,世間の行為主体と解釈し,さらに,唯識学派の唯心解釈を批判するために,心が物質に対して「主たるもの」と解釈する.

審査要旨

 インド仏教思想史において,ナーガールジュナ(A.D.c.150-250)は『中論』等を著作し「すべてのものは空である」とする空性思想を明確にし,これは後の大乗仏教,とくに中観学派の思想の根幹となった.6-8世紀の中観学派においては,バーヴィヴェーカ(c.490-570),チャンドラキールティ(c.530-600,本論文による)等が,空性思想の体系化,論述方法の検討を行ない,かつ「すべてのものは認識的措定にすぎない」とする唯識思想を展開していた瑜伽行学派と対決した.

 本論文は,チャンドラキールティについて,彼の中観思想を,まず-全体として捉えなおしてその特色を解明し,同時に中観思想史上において定位することを試みたものである.

 〈序論〉においては,チャンドラキールティの思想をその全著作を資料として包括的に研究するという研究の目的,その方法としての四つの視点が提示され,彼の著作・年代の確定がなされる.そして,以下においては,設定された四つの視点の各々について四章が設けられ,彼の思想全般が詳細にわたって分析解釈される.

 〈第1章二真理説〉では,世俗・勝義の二真理について,チャンドラキールティが,認識主体と認識対象との関係性に注目し,世俗から勝義へという移行過程に関し主体的な実践性を重視していることが,「世俗の構造化」という概念設定のもとに摘出される.

 〈第2章空性論述の方法〉は,「空性」について,これを承認しない対論者を目前にして具体的にどういう方法で論述し説得できるのか,その方法に関するチャンドラキールティの考えを分析する.先行するバーヴィヴェーカは,ディグナーガ(c.480-540)によって体系化された仏教論理学に基づき推論式を重視し,一見対論者を無視したかのような「独自の推論」を展開した.それと対蹠的に,チャンドラキールティは独自の主張を積極的に立てることをしない,対論者の主張が論理的に自己崩壊することを示す帰謬論証,すなわち「プラサンガの論法」が対論の現場においてはより有効であると考えていたことを,明らかにする.このようなチャンドラキールティの方法について,例えば,対論者の主張を崩壊させるために推論式の使用を容認していた事実を指摘し,彼は論理学・推論式に無関心だったとする従来の解釈に,新たな修正を求めている.

 〈第3章実践論との関係〉は,チャンドラキールティの主著と目される『中観思想への入門』を資料として,彼が菩薩の実践過程を説く『十地経』を重視していたこと,したがって,認識主体の在り方を実践的な視座から眺めていたことを,指摘する.

 同じく,『中観思想への入門』の第6章の構成に準じたかたちで,瑜伽行学派へのチャンドラキールティの批判が〈第4章唯識思想批判〉において詳細に分析検討されている,

 以上は,本論文の中心的内容であるが,さらに付論として〈付録研究中観思想文献の解析に向けたコンピュータ利用〉が追加されている.これは本論文作成にあたり開発されたコンピュータ利用の実際を開示し,将来における可能性・汎用性への志向を提示したものとして注目される.

 本論文は種々の点で学界に新しい知見を提供し高く評価される.ただし,その趣旨を損なうものではないが,本論文には,原テキストの部分的な誤読等があり,また,チャンドラキールティ以降の中観思想史についての見通しが充分でないなど,なお改善の余地がある.

 以上を総合して,本論文は博士(文学)の学位を授与するに値するものと判断する.

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