学位論文要旨



No 113783
著者(漢字) 李,みん珍
著者(英字)
著者(カナ) イ,ミンジン
標題(和) 賃金決定制度と所得政策に関する日韓比較研究
標題(洋)
報告番号 113783
報告番号 甲13783
学位授与日 1998.06.08
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第214号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 庄司,興吉
 東京大学 教授 似田貝,香門
 東京大学 教授 稲上,毅
 東京大学 教授 上野,千鶴子
 東京大学 助教授 松本,三和夫
内容要旨

 本論文は、日本と韓国の賃金決定制度を分析し、両国の賃金決定制度と所得政策の違いとその違いをもたらしたマクロ政策形成構造や労使関係制度の相異を明らかにしようとするものである。

 日本では第一次オイルショック後労組の実質賃金重視の賃上げ方針転換、労組の賃上げ自制の代わりとして政策・制度改善要求に対する政府の積極的対応、さらには三者協議の場としての産労懇の機能強化などによって「日本型所得政策」が実現していく中で、賃金決定が企業別賃金交渉の枠を越えて企業間・産業間調整メカニズムによって高度に調整される、集権的賃金決定が行われている。

 韓国で政府の賃金決定への介入は1969年以来続いてきた。1970年代後半は労働市場の逼迫状況の下で企業間のスカウト競争の過熱による賃金浮上のため政府の賃金ガイドラインによる調整が効かなくなったものの、1980年代半ばまで重要な賃金決定要因として作用した。しかし、1987年6月の「民主化宣言」以降、労組の交渉力が増大した状況においては、政府の賃上げガイドライン政策や労使頂上組織間の賃金合意によっては企業別交渉が調整されない、分権的賃金決定が行われている。

 日本と韓国の賃金決定制度の違いはマクロ・経済パフォーマンスに反映され、日本では名目賃金の低率上昇、低インフレが実現しているのに対し、韓国では名目賃金の高率上昇、インフレの上昇が見られている。こうした違いは、第1に、金属産業の労組が賃金自制を行い、金属産業の労使が国際競争力を確保しうる賃金決定を行うかどうか、第2に、マクロ・コーポラティズム的政策形成メカニズムが制度化されているかどうか、第3に、内部労働市場が発達しているかどうか、第4に、ローカル労組の賃上げ圧力を弱める企業内労使関係制度が形成されているかどうか、などに起因する。

 以上の日本と韓国の比較分析結果から、結論として、第1に、分権化された賃金決定制度より集権化された賃金決定制度が賃金安定や低インフレをもたらす、第2に、企業レベルの制度が賃金コスト・インフレを抑制する所得政策制度の機能を遂行するという議論は、韓国のように企業別交渉を調整するメカニズムが働かない場合には支持できない、第3に、賃金凍結ないし賃金規範を押し付ける国家の所得政策は国家と市場を媒介する制度の不在、あるいは制度的弱さの証拠であるとの議論は韓国の所得政策に当てはまる、第4に、企業内労使関係制度が賃金決定や名目賃金の上昇に大きな影響を与える、第5に、日本の集権化された賃金決定制度は企業規模別賃金格差の改善に寄与する制度ではない、などに触れることができる。

審査要旨

 本論文は、労使関係の焦点をなす賃金決定制度と所得政策について、固有の理論枠組のもとに日本と韓国の実態を比較検討し、そこからいかなる知見が引き出されうるかを論じたものである。

 全体は6章からなり、第I章序論で最近のこの分野における理論的到達水準をふまえて日本と韓国とを比較検討することの意義を述べたうえで、第II章でそのための理論モデルを整理し、賃金決定制度が集権的であるか分権的であるかと所得政策の型とが、その国の経済パフォーマンスを規定する重要な要因であることを指摘する。そのうえで、第III章では戦後日本の経過と実態を「所得政策なき、高度に調整された分権的賃金決定制度」の形成過程として、また第4章では1960年代以降韓国の経過と実態を度重なる政府介入にもかかわらず結果した「非調整的企業別交渉」として叙述したうえで、第V章でこうした相違をもたらした両国の労使関係政策・制度と労働市場構造を比較検討している。

 その要点は、(1)高度成長以後の日本の労使関係政策が内需主導型成長を前提にした非抑制的なものであったのにたいして、民主化以前からの韓国のそれは輸出志向型経済成長を志向した抑圧的なものであったこと、(2)日本では協議型のマクロ・コーポラティズムが形成されたのにたいして、韓国ではネオ・コーポラティズム形成の試みが失敗に帰していること、(3)日本では内部労働市場がよく機能し労働力の階層化も企業内部で行われたのにたいして、韓国では企業にたいする外部労働市場からの圧力が圧倒的に強く働き続けてきたこと、(4)それらの結果としてローカル・レベルでは、低い分権的圧力と雇用優先的賃金決定行動が支配的な日本にたいして、韓国では高い分権的圧力のもと「生計費保障的」賃金決定行動が優勢であり続けてきたこと、などである。

 これらをふまえて第VI章要約と結論で、著者は、同じ企業別交渉制度であっても、なんらかの意味で「集権的」な調整制度がなければ賃金安定と低インフレの方向には働かず、この意味で日本と韓国との比較は、一見同じように見える制度が背景となる労働市場など社会構造の相違によってまったく異なった帰結を生み出す具体的なケースである、などとして引き出される知見を整理している。こうした知見は、これまで日本的あるいは東アジア的などとして一様であるかのように見られがちであった制度や政策の、社会構造との関連における機能や効果の差を具体的事例の検討をつうじて明らかにしたものとして、学界に大きな貢献をなすものであろう。

 このように本論文は、日本と韓国との賃金決定制度と所得政策を明確な理論枠組と事実経過に基づいて比較検討し、これまで正確に把握されていなかった両国の相違を明らかにすることをつうじて、この分野にいくつかの注目すべき知見を加えたものである。未開拓部分の多い分野であるため著者自身発見をまだ十分に定式化しえていない面もあるが、それはこれからの研究の過程でしだいに改善されていくであろう。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(社会学)の学位を授与するに値すると判定する。

UTokyo Repositoryリンク