I.序論 均一系金属錯体による触媒反応が有機合成に大きな役割を果たしていることは広く認められているが、そのほとんどは一種類の単核金属錯体を触媒活性種として進行するものであり、基質は単独の金属中心によって活性化、化学変換されるのが通常である。それに対して多核、さらに異核金属錯体上では、基質は複数の金属中心と同時に、あるいは連続的に相互作用することによって、単核錯体とは異なった活性化や変換を受けるものと期待できる。当研究室では、遷移金属に対する硫黄の高い架橋能と結合形成能に着目し、硫黄を架橋原子とするRuの多核錯体の合成と反応性を検討してきた。特に最近、架橋ヒドロスルフィド(SH)配位子を有するRu二核錯体[Cp*RuCl(2-SH)2RuClCp*](Cp*=5-C5Me5)の合成に成功し、この錯体が混合金属クラスター合成のすぐれた前駆体となることを見出している。本研究ではRuと同様に均一系錯体触媒としての様々な活性が知られている9族の貴金属Ir,Rhに着目し、架橋SH配位子を有するIrおよびRhの二核錯体を合成するとともに、それらからの混合金属クラスターの合成、構造および反応性について検討を行った。一方、当研究室ではカルボニル錯体を含む混合金属錯体触媒系の研究を行っており、その検討過程で見出したカルボニル錯体の[Pd(PPh3)4]触媒による配位子置換反応についてもその詳細を検討した。 II.架橋ヒドロスルフィド配位子を有するIrおよびRh二核錯体の合成と変換反応 [Cp*MCl2]2(1:M=Ir,2:M=Rh)に過剰量のH2Sを加え、CH2Cl2中室温で5min反応させることにより、架橋SH配位子を二つ有する錯体[Cp*MCl(2-SH)2MClCp*](3:M=Ir,4:M=Rh)をほぼ定量的に得た(Scheme 1)。また長時間この反応を行うことにより、架橋SH配位子を三つ有するカチオン性錯体[Cp*M(2-SH)3MCp*]Cl(5:M=Ir,6:M=Rh)も得ることができた。錯体3,4,6と、5をNaBPh4でアニオン交換して得られる[Cp*Ir(2-SH)3IrCp*][BPh4]の構造はそれぞれX線解析によって明らかにした。3と4の結晶構造では、Cp*配位子、Cl配位子同士は互いにtrans、また架橋SH配位子はIr2S2の平面に対してantiとなっているが、C6D6溶液中ではSH配位子の配向の異性化によりsyn,antiの平衡混合物(syn:anti=3:2)となる。一方、6は二つの架橋SH配位子がClアニオンと水素結合した結晶構造を持つことが判明した。 Scheme 1 二核錯体3および4はアミンとの反応で、脱HClを伴い四核クラスターへと変換された。すなわち、3および4のTHF溶液に過剰量のNEt3を加え、室温で一夜反応させたところ、それぞれ対応する既知の四核キュバン型クラスター[(Cp*M)4(3-S)4](7:M=Ir,8:M=Rh)が得られた(Scheme 1)。 III.第二、第三周期金属錯体との反応による混合金属三核クラスターの合成 混合金属スルフィドクラスターは金属酵素や水素化脱硫触媒のモデル化合物として、また新しいタイプの均一系錯体触媒として注目されている。本研究で得た錯体3,4の反応性を詳しく検討した結果、これらがIr,Rhを含む混合金属クラスターを合成するための極めてすぐれた前駆体となることを見出した。まず錯体3に対して等モル量の[RuH2(PPh3)4]を室温で48h反応させたところ、異核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Ru(PPh3)Cl2](10)が収率83%で得られるとともに、水素の発生が観測された(Scheme 2)。X線結晶構造解析の結果によれば、10は、48eの三角形のIr2Ru骨格を持っており、その両面にスルフィド配位子が3配位している。Ruまわりはひずんだsquare pyramidalでPPh3がapical位となっているが、溶液中では1HNMRでただ1本のCp*シグナル(1.99)を示すところから、Ru上の構造はフラクショナルであると考えられる。 一方、錯体3に対して等モル量の[RhCl(cod)]2を室温で30h反応させたところ、カチオン性異核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Rh(cod)][RhCl2(cod)](11)が収率91%で得られた(Scheme2)。同様にして4からはRh3S2コアを持つクラスター[(Cp*Rh)2(3-S)2Rh(cod)][BPh4](12)が得られた。クラスター11はBPh4塩へ誘導後COと反応させることにより速やかに[(Cp*Ir)2(3-S)2Rh(CO)2][BPh4]へと変換された。また錯体3を[RhCl(PPh3)3]と50℃で反応させた後NaBPh4と処理したところ、カチオン性異核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Rh(PPh3)2][BPh4](13)が収率79%で得られた。クラスター11および13の構造もX線解析によって明らかにした。Ir2RhS2コアは10のIr2RuS2コアと類似であり、Rh中心はsquare-plannarである。 Scheme2 錯体3を室温で等モル量の[Pd(PPh3)4]と反応させたところ、異核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Pd(PPh3)Cl]Cl(14)が収率70%で生成した。14は10,11,13と類似の三角形のコアを持ち、Pdはsquare-plannarである。また、錯体3は50℃で[PdCl2(cod)],[PtCl2(cod)]と反応し、異核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2-PdCl2](15),[(Cp*Ir)2(3-S)2-PtCl2](16)をそれぞれ収率74%,81%で与えた。錯体15,16はPPh3との反応により14,[(Cp*Ir)2(3-S)2-Pt(PPh3)Cl]を与えるが、一方錯体16は過剰量のPPh3と速やかに反応し、NaBPh4との処理によりジカチオンクラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Pt-(PPh3)2][BPh4]2へと誘導された。 Scheme3IV.第一周期金属化合物との反応による混合金属五核クラスターの合成 錯体3は第一周期金属化合物との反応によって、一連の混合金属五核クラスターを与えることが明らかになった。まず、錯体3,4をTHF中50℃で過剰量のFeCl2・nH2Oと反応させたところ、三核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2FeCl2](17),[(Cp*Rh)2(3-S)2FeCl2](18)をそれぞれ収率90%,41%で得た。クラスター17,18は類似の結晶構造を示し、そのコアは46eで配位不飽和であるが、一方のFe-Ir,Fe-Rh間距離がやや他方より長い非対称な構造である(17:3.006(3),2.880(3)Å;18:2.954(3),2.837(1)Å)。クラスター17はさらにNaBPh4との反応で、混合金属五核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Fe(3-S)2(Cp*Ir)2][BPh4]2(19)へ定量的に変換された。 Scheme4 一方錯体3は室温でCoCl2および[Ni(cod)2]と速やかに反応し、混合金属五核クラスター[(Cp*Ir)2(3-S)2Co(3-S)2-(Cp*Ir)2][CoCl3(NCMe)]2(20),[(Cp*Ir)2(3-S)2Ni(3-S)2(CP*Ir)2][NiCl4](21)を収率60%,46%で与えた。後者の反応では、水素の発生も確認された。またX線解析の結果から、クラスター19-21はそれぞれ78,79,80e構造であることに対応して、19と20が6本の金属-金属結合を持つbow-tie型の分子構造を取っているのに対し、21は2本の金属-金属結合が切れたZ型の金属骨格を取っていることが判明した。本クラスター系は電子構造と分子構造の関係が系統的に比較できる点で極めて興味深い系であるといえる。 V.Pd(0)錯体触媒を用いたカルボニル錯体の配位子置換反応 当研究室では混合金属錯体系の触媒反応挙動、触媒特性についての検討を行い、[PdCl2(PPh3)2]-[Co2(CO)8],[Ru3(CO)12]-[Co2(CO)8]等のカルボニル錯体を含む新しい混合金属錯体触媒を見出している。この検討の過程で、[Pd(PPh3)4](22)が各種カルボニル錯体のPPh3による配位子の置換反応に対して活性な触媒となることを見出した(eq1)。カルボニル錯体の配位子置換反応に対しては[CpFe(CO)2]2,Pd/C,CoCl2,[Pt(PPh3)4]等の遷移金属化合物が触媒となることが報告されているが、22の触媒活性はこれらと比較してはるかに優れている。 各種カルボニル錯体を1mol%の22の存在下にPPh3と反応させた結果を表に示した。IRによる反応追跡の結果では22の触媒活性は[Pt(PPh3)4],[CpFe(CO)2]2,Pd/C,CoCl2と比較して100倍以上であった。また、[Mo-(CO)6],[Fe(CO)5],[CpFe-(CO)2I]などのカルボニル錯体についても良好な収率で対応するモノPPh3置換体が選択的に得られた。 Table 1.Reactions of[W(CO)6]with PPh3a) また、22を用いて不斉炭素を持つプロパルギルアルコールのコバルト錯体[Co2(CO)6(HC≡CCHROH)](23)のPPh3による配位子置換反応を行わせたところ-35℃でも反応は進行し、Rとして芳香族置換基を持つ基質ではジアステレオ選択性の向上ことが判明した。 これらの配位子置換反応の機構に関する知見を得る目的で[Mo(CO)6]を基質とした場合の反応速度の解析を行った。その結果、反応は[Mo(CO)6]とPd濃度に対して1次であり、PPh3濃度には-1次であることから、本反応は配位不飽和なPd錯体とカルボニル錯体の相互作用を含む機構で進行することが判明した(Scheme 5)。またCV測定からはCoCl2触媒などの場合に提案されているような電子移動を含む機構ではないことが示唆された。これらのことから本反応はPd-Moなどの複核錯体の形成を経て進行しているものと考えている。 Scheme 5 |