近年安定同位体比、特に15Nを用いて食物網の構造を解明する方法が確立されつつある。本論文は2つの異なる海洋生態系でケーススタディを行い、それぞれの生態系内での食物網の構造に関する新知見を得ることにより安定同位体比法の有効性を明らかにしている。また、各種生物における安定同位体比の個体差、体組織毎の差、フォルマリン標本の利用の可能性、分析標本の脱脂の影響等を明らかにし、この技法の確立に大きく貢献している。その概要は以下の通りである。 1.相模湾沿岸食物網内でのカタクチイワシの位置 1993年7月より1994年4月にかけて相模湾湾奥部のシラス漁場内において、ほぼ毎月の標本採集を行い、食物網の中でのカタクチイワシ(Engraulis japonicus)の仔魚から成魚への成長に伴う栄養段階の変化を安定同位体比法を用いて明らかにした。 成長に伴う安定同位体比の変化:シラス漁場内でのシラスの成長に伴う栄養段階のシフトを解析した。シラスが標準体長14mmから30mmに成長する間、食物段階が0.5段階上昇すること、さらに標準体長30mmから80mmになるまでに栄養段階は0.3-0.5段階高くなることを明らかにした。 カタクチイワシの栄養段階のシフトは、仔魚期には変態期以後の稚魚期より約5倍速く行われる。 安定同位体比の季節変化:カタクチイワシの15Nは夏期にピークを見せ、秋期に低下し、冬期に最低に達し、そして春期に入ると再び上昇し始める。この変化は1次生産者の植物プランクトンの15Nの季節変化と対応している。つまりシラスの15Nの季節変化はシラスの食性が変動するのではなく、1次生産者の15Nの変化が食物網に反映されたことによるものだということを示した。また8月の台風時期に漁場内に多量に流入する河川水に含まれる大気起源の軽い窒素が植物プランクトンに取り込まれ、それが食物連鎖内を循環し、シラスの15Nに急激な低下が起こることを見いだし、これらの変化が1ヶ月以内に起こったり、回復したりすることから判断すると、漁場内へ軽い窒素が流入して、植物プランクトンに取り込まれ、動物プランクトンを通じてカタクチシラスの15Nを変化させる迄に要する時間は3〜4週間以内と推定している。体長範囲の異なるシラスの15Nの値が同じような季節変化のパターンを示したことから、カタクチシラスの沿岸生態系内での栄養段階には季節による明瞭な変化がないことを明らかにしている。 2.相模湾の中・深層生態系の食物網 相模湾に於いて昼夜とも200m以深の中・深層に生息する生物(非上昇種)と、日周鉛直移動を行い夜間100m以浅の表層へ摂餌のために浮上する生物(鉛直移動種)の安定同位体比を明らかにし、中・深層生態系の食物網の特徴を推定した。さらに表層生態系の食物網との関連についての知見を得た。 非上昇種:相模湾に普遍的に優占して生息するオニハダカ属魚類3種を対象に安定同位体比の特徴を調べ、生息深度が深くなるにつれて高い15N値を示すことを明らかにした。13Cはわずかに低下するが、顕著な変化を示さなかった。日周鉛直移動を行わず、深層に生息する他の魚類及びエビ類、またはかいあし類の安定同位体比を測定したところ、ほとんどの種はオニハダカと同程度に高い15N(9.6-12.4‰)を示していた。 鉛直移動種:魚類・エビ類・イカ類を含む日周鉛直移動種は炭素の安定同位体比の値により13Cが低い種と、13Cが高い種の2つのグループに分けられた。この原因として黒潮分岐流の湾内への流入による外洋域からの中層魚の湾内への運搬の可能性を指摘している。 3.安定同位体比法の検討 生物における安定同位体比の個体差やフォルマリン標本の利用の可能性等を検討し、以下の結果を得ている。(イ)同種内の値の個体差を調べることにより、各個体毎の摂餌特性、摂餌履歴の情報が得られる可能性を示した。(ロ)安定同位体比法を用いて食物網の解析を行う際、大型生物に関しては筋肉部分を用い、小型生物に関しては生体全体を用いることが多いので、何種類かの魚類で筋肉部分の値と体全体の値を比較し、従来の研究では大型魚種の食物段階が高く評価され過ぎていた可能性を指摘した。(ハ)フォルマリン標本の利用の可能性を検討し、15Nの測定には利用できるが、13Cに関しては利用できないことを明らかにした。(ニ)標本の脱脂処理により、15Nの測定値が不安定になることを確認し、13C測定に関しては脱脂処理を行うべきであるが、15N測定においては非脱脂標本を用いなければならないことを明らかにした。 以上本論文は、相模湾の沿岸及び中・深層生態系において、食物網の構造やそこにおける生物の食物段階の移動特性を知る上で、安定同位体比法が極めて有効であることを明らかにしている。また安定同位体比法の基礎的研究を通じて、その食物網研究への応用法の確立にも大きく貢献しており、今後海洋生態系の食物網研究に本方法が広く応用され始めることが期待できる。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。 |