学位論文要旨



No 113797
著者(漢字) ドゥーグル ジョン リンズィー
著者(英字) Dhugal J.Lindsay
著者(カナ) ドゥーグル ジョン リンズィー
標題(和) 海洋食物網の構造研究への安定同位体比法の応用
標題(洋) Applications of the Stable Isotope Technique in Marine Food Web Studies
報告番号 113797
報告番号 甲13797
学位授与日 1998.07.13
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1954号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 水圏生物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 川口,弘一
 東京大学 教授 大和田,紘一
 北海道大学 教授 南川,雅男
 東京大学 助教授 西田,周平
 東京大学 助教授 渡邊,良朗
内容要旨

 近年安定同位体比、特に15Nを用いて食物網の構造を解明する方法が確立されつつある。一般に動物の13C、15N含量はその餌の13C、15N含量に比べ一定の割合で高くなる。食物連鎖上で栄養段階が一つ増すごとに13Cが0〜2‰、15Nは3〜4‰上昇することが知られている。また異なる同位体比をもつ1次生産者がベースとなっている生態系ではそれに対応した同位体比のシフトがさらに高次の生産者間に見られる。これまでの海洋生物の安定同位体比研究のほとんどは沿岸域を中心に進められてきた。沿岸域は全海洋の約3%を占めているに過ぎないが、そこには、複雑な生物過程、海洋物理過程が存在し、そこでの食物網の構造も時空間的にダイナミックに変化し、安定同位体比法によるデータの解釈を困難にしている。また安定同位体比法の長所や限界に関する基礎的な知見さえ明確にされていないまま、研究が進められているのが現状である。そこで、本研究はいくつかの異なる海洋生態系でケーススタディを行い、それぞれの生態系内での食物網の構造解析における安定同位体比法の有効性を明らかにすることを目的とした。また、各種生物における安定同位体比の個体差、体組織毎の差、フォルマリン標本の利用の可能性、分析標本の脱脂の影響等を明らかにし、この技法を確立するための基礎的な知見を得た。

1.相模湾のシラス漁場内の食物網

 1993年7月より1994年4月にかけて相模湾湾奥部のシラス漁場内において、ほぼ毎月の標本採集を行い、食物網の中でのカタクチイワシ(Engraulis japonica)の仔魚から成魚への成長に伴う栄養段階の変化を安定同位体比法を用いて明らかにした。

成長に伴う安定同位体比の変化

 シラス漁場内でのシラスの成長に伴う栄養段階のシフトを解析した。シラスが標準体長14mmから30mmに成長する間、食物段階が0.5段階上昇すること、さらに標準体長30mmから80mmになるまでに栄養段階は0.3-0.5段階高くなることが明らかとなった。カタクチイワシの栄養段階のシフトは、仔魚期には変態期以後の稚魚期より約5倍速く行われる。これにより、稚魚期より仔魚期において、栄養段階がより高位の餌生物へのシフトが速く行われることが明らかとなった。

安定同位体比の季節変化

 カタクチイワシの15Nは夏期にピークを見せ、秋期に低下し、冬期に最低に達し、そして春期に入ると再び上昇し始めることが解った。この変化は栄養塩濃度が高く、光合成速度が低い冬期に1次生産者の植物プランクトンの15Nが低くなり、春から夏に高くなるという知見と対応している。つまりシラスの15Nの季節変化はシラスの食性が変動するのではなく、1次生産者の15Nの変化が食物網に反映されたことによるものだと考えられる。また8月にシラスの15Nに急激な低下が見出された。これは台風時期に漁場内に多量に流入する河川水に含まれる大気起源の軽い窒素(自然、または人間活動によるNO3-,NH4+及びNOx)が植物プランクトンに取り込まれ、それが食物連鎖内を循環したことによると考えられる。これらの変化が1ヶ月以内に起こったり、回復したりすることから判断すると、漁場内へ軽い窒素が流入して、植物プランクトンに取り込まれ、動物プランクトンを通じてシラスの15Nを変化させる迄に要する時間は3〜4週間以内と推定される。体長範囲の異なるシラスの15Nの値が同じような季節変化のパターンを示したことから、シラスの生態系内での栄養段階には季節による明瞭な変化がないことが明らかとなった。

競争者

 1994年3月に採集された標準体長21mmのマイワシのシラス(マシラス)の15Nは同時に採集された同じ体長のカタクチシラスの15Nの値とほぼ同じであった。しかし両者が28-29mmに成長する間にマシラスの15Nがカタクチシラスの15Nよりも2.4‰高くなることが明らかとなった。このことはマシラスがカタクチシラスより初期発育段階において早く高い栄養段階に移動することを示している。マイワシの資源量増加に伴いマシラスが春期に出現し始めると春期に漁獲ピークのあったカタクチシラスが激減するという現象があるが、カタクチシラスの餌サイズのシフトをめぐる競争力がマシラスより低いことに起因している可能性がある。

2.相模湾の中・深層生態系の食物網

 相模湾中央の定点において中・深層性マイクロネクトン群集を中心とした食物網の構造を安定同位体比法を応用して解析した。深度によって生物の安定同位体比がどのように変化するのかを調べた知見がなく、また深海生物の生態学的な情報とその安定同位体比とを結び付けて検討した例も極めて少ない。粒状有機物の安定同位体比は深度によって異なってくる現象が知られているので、生物の生息深度によって、その生物の安定同位体比が変化する可能性が考えられる。そこで、相模湾では昼夜とも中・深層に生息する生物(非上昇種)と、日周鉛直移動を行い夜間100m以浅の表層に浮上する生物(鉛直移動種)がいることが知られており、それらの安定同位体比の特徴を明らかにし、さらに表層の食物網との関連についての知見を得た。

非上昇種

 相模湾に普遍的に優占して生息するオニハダカ属魚類3種を対象に安定同位体比の特徴を調べた。ユキオニハダカは300-500m層、ハイイロオニハダカは500-700m層に分布の中心をもつ。生息深度の最も深いオニハダカは小型個体は500-700m層、大型個体は1000-1500m層に分布の中心がある。またどの種類も成長に伴い深い層に分布するようになる。1994年5月14日及び1995年5月25日の相模湾中央の定点で採集された同じ体長の三種類の15Nを比較したところ、ユキオニハダカが6.6-8.0‰、ハイイロオニハダカが7.5-10.0‰、オニハダカが10.5-12.0‰という値を示し、生息深度が深くなるにつれて高い値を示した。13Cはわずかに低下するが、顕著な変化を示さなかった。日周鉛直移動を行わず、深層に生息する他の魚類及びエビ類、またはかいあし類の安定同位体比を測定したところ、ほとんどの種はオニハダカと同様に高い15N(9.6-12.4‰)を示していた。

鉛直移動種

 魚類・エビ類・イカ類を含む日周鉛直移動種は安定同位体比の値により13Cが低い種と、13Cが高い種で二つのグループに分けられた。具体例として、魚種の成魚では、13Cの低い第一グループにはヒロハダカ(昼間300-350m層、夜間30-60m層に生息;15N10.0‰、13C-18.5‰)とクロシオハダカ(昼間300-450m、夜間100m以浅層;15N10.1〜10.6‰、13C-18.0〜-18.1‰)が入り、13Cが高い第二グループにはセンハダカ(昼間300-400m層、夜間50m以浅層;10.1‰、-16.5‰)、ゴコウハダカ(昼間300-450m層、夜間100m以浅層;9.2‰、-17.0‰)、そしてキュウリエソ(昼間50-150m層、夜間0-100m層;11.4‰、-16.3‰)が含まれた。

 全体的なパターンとしては、非上昇種のマイクロネクトンの15Nは深度と共に増えること、日周鉛直移動種が13Cの値により二つのグループに分けられること、そして500m以深に分布の中心をもつ非上昇種に関しては物質輸送の視点から見た食物網における位置は種類を問わず、かなり類似していることが明らかとなった。

プランクトン

 1995年5月24日に相模湾中央の定点で採集した736-1185mのサイズレンジのプランクトンの値の昼間と夜間での差を深度別に比較した。0-50m層以深の層では昼間のプランクトンのバイオマス(乾重量)は夜間より高く、そして50-600mの各層における昼間の15Nは夜間の15Nより低く、冬期に蓄積した軽い窒素を引き継いでいる鉛直移動種が昼間を50m以深の層で過ごしていることを反映していた。0-2m層における736-1185mの動物プランクトンの15Nが10.8‰という高い値を示しており、全体的なパターンとして表層から900m層までは深度と共にプランクトンの15Nが低下していた。これは4月28日に当研究海域で始まった赤潮現象により栄養塩のほとんどが吸収され、分解後またすぐに吸収されるという循環を経て、低栄養塩下で重い同位体の吸収率が高まり、植物プランクトンを始めとする表層生態系の生物の15Nが高くなったことによると考えらる。またその影響を一番強く受けたのは表層のプランクトンであり、900mまで深度と共に15Nが低下したのは、より浅い層に生息するプランクトンがより速くその影響を受けていたためと考えられた。

粒状有機物

 粒状有機物の13Cは深度と共に低下した。一方、15Nは深度と共に増加したが、100m層でピークを示し、200m層では減少していた。C/N比及び15Nが100m層でピークを示していたこと、100m層に密度躍層が形成されていたことから、上から沈降してきた粒子の一部がこの密度躍層で溜まり、軽いNがより速く分解されたためにこのパターンを示したと解釈された。

3.安定同位体比法の検討

 生物における安定同位体比の個体差やフォルマリン標本の利用の可能性等を検討し、以下の結果を得た。

 (イ)同種内の値の個体差を調べることにより、各個体毎の摂餌特性、摂餌履歴の情報が得られる可能性を示した。

 (ロ)安定同位体比法を用いて食物網の解析を行う際、大型生物に関しては筋肉部分を用い、小型生物に関しては生体全体を用いることが多いので、何種類かの魚類で筋肉部分の値と体全体の値を比較し、従来の研究では大型魚種の食物段階が高く評価されていた可能性を指摘した。

 (ハ)フォルマリン標本の利用の可能性を検討し、15Nの測定には利用できるが、13Cに関しては利用できないことを明らかにした。

 (ニ)標本の脱脂処理により、15Nの測定値が不安定になることを確認し、13C測定に関しては脱脂処理を行うべきであるが、15N測定においては非脱脂標本を用いなければならないことを明らかにした。

審査要旨

 近年安定同位体比、特に15Nを用いて食物網の構造を解明する方法が確立されつつある。本論文は2つの異なる海洋生態系でケーススタディを行い、それぞれの生態系内での食物網の構造に関する新知見を得ることにより安定同位体比法の有効性を明らかにしている。また、各種生物における安定同位体比の個体差、体組織毎の差、フォルマリン標本の利用の可能性、分析標本の脱脂の影響等を明らかにし、この技法の確立に大きく貢献している。その概要は以下の通りである。

1.相模湾沿岸食物網内でのカタクチイワシの位置

 1993年7月より1994年4月にかけて相模湾湾奥部のシラス漁場内において、ほぼ毎月の標本採集を行い、食物網の中でのカタクチイワシ(Engraulis japonicus)の仔魚から成魚への成長に伴う栄養段階の変化を安定同位体比法を用いて明らかにした。

 成長に伴う安定同位体比の変化:シラス漁場内でのシラスの成長に伴う栄養段階のシフトを解析した。シラスが標準体長14mmから30mmに成長する間、食物段階が0.5段階上昇すること、さらに標準体長30mmから80mmになるまでに栄養段階は0.3-0.5段階高くなることを明らかにした。

 カタクチイワシの栄養段階のシフトは、仔魚期には変態期以後の稚魚期より約5倍速く行われる。

 安定同位体比の季節変化:カタクチイワシの15Nは夏期にピークを見せ、秋期に低下し、冬期に最低に達し、そして春期に入ると再び上昇し始める。この変化は1次生産者の植物プランクトンの15Nの季節変化と対応している。つまりシラスの15Nの季節変化はシラスの食性が変動するのではなく、1次生産者の15Nの変化が食物網に反映されたことによるものだということを示した。また8月の台風時期に漁場内に多量に流入する河川水に含まれる大気起源の軽い窒素が植物プランクトンに取り込まれ、それが食物連鎖内を循環し、シラスの15Nに急激な低下が起こることを見いだし、これらの変化が1ヶ月以内に起こったり、回復したりすることから判断すると、漁場内へ軽い窒素が流入して、植物プランクトンに取り込まれ、動物プランクトンを通じてカタクチシラスの15Nを変化させる迄に要する時間は3〜4週間以内と推定している。体長範囲の異なるシラスの15Nの値が同じような季節変化のパターンを示したことから、カタクチシラスの沿岸生態系内での栄養段階には季節による明瞭な変化がないことを明らかにしている。

2.相模湾の中・深層生態系の食物網

 相模湾に於いて昼夜とも200m以深の中・深層に生息する生物(非上昇種)と、日周鉛直移動を行い夜間100m以浅の表層へ摂餌のために浮上する生物(鉛直移動種)の安定同位体比を明らかにし、中・深層生態系の食物網の特徴を推定した。さらに表層生態系の食物網との関連についての知見を得た。

 非上昇種:相模湾に普遍的に優占して生息するオニハダカ属魚類3種を対象に安定同位体比の特徴を調べ、生息深度が深くなるにつれて高い15N値を示すことを明らかにした。13Cはわずかに低下するが、顕著な変化を示さなかった。日周鉛直移動を行わず、深層に生息する他の魚類及びエビ類、またはかいあし類の安定同位体比を測定したところ、ほとんどの種はオニハダカと同程度に高い15N(9.6-12.4‰)を示していた。

 鉛直移動種:魚類・エビ類・イカ類を含む日周鉛直移動種は炭素の安定同位体比の値により13Cが低い種と、13Cが高い種の2つのグループに分けられた。この原因として黒潮分岐流の湾内への流入による外洋域からの中層魚の湾内への運搬の可能性を指摘している。

3.安定同位体比法の検討

 生物における安定同位体比の個体差やフォルマリン標本の利用の可能性等を検討し、以下の結果を得ている。(イ)同種内の値の個体差を調べることにより、各個体毎の摂餌特性、摂餌履歴の情報が得られる可能性を示した。(ロ)安定同位体比法を用いて食物網の解析を行う際、大型生物に関しては筋肉部分を用い、小型生物に関しては生体全体を用いることが多いので、何種類かの魚類で筋肉部分の値と体全体の値を比較し、従来の研究では大型魚種の食物段階が高く評価され過ぎていた可能性を指摘した。(ハ)フォルマリン標本の利用の可能性を検討し、15Nの測定には利用できるが、13Cに関しては利用できないことを明らかにした。(ニ)標本の脱脂処理により、15Nの測定値が不安定になることを確認し、13C測定に関しては脱脂処理を行うべきであるが、15N測定においては非脱脂標本を用いなければならないことを明らかにした。

 以上本論文は、相模湾の沿岸及び中・深層生態系において、食物網の構造やそこにおける生物の食物段階の移動特性を知る上で、安定同位体比法が極めて有効であることを明らかにしている。また安定同位体比法の基礎的研究を通じて、その食物網研究への応用法の確立にも大きく貢献しており、今後海洋生態系の食物網研究に本方法が広く応用され始めることが期待できる。よって審査員一同は、本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた。

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