学位論文要旨



No 113801
著者(漢字) 角井,信一
著者(英字)
著者(カナ) カクイ,ノブカズ
標題(和) ラット消化管セロトニンの代謝回転に関する研究
標題(洋)
報告番号 113801
報告番号 甲13801
学位授与日 1998.07.22
学位種別 課程博士
学位種類 博士(保健学)
学位記番号 博医第1365号
研究科 医学系研究科
専攻 国際保健学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 脊山,洋右
 東京大学 教授 飯野,正光
 東京大学 教授 牛島,廣治
 東京大学 助教授 斎藤,英昭
 東京大学 助教授 土屋,尚之
内容要旨 研究の背景と目的

 一個体のセロトニン(5-HT)総量の過半を占める消化管の5-HTは、極く一部が腸管神経系由来で、殆どが粘膜層クロム親和性(EC)細胞の巨大プールとして存在する。生理活性物質5-HTの発見から半世紀の今日でも、このプールは,標識5-HTの減衰や5-HT合成阻害剤p-Chlorophenylalanine(PCPA)投与時の5-HTの半減期から、遅い代謝回転(t1/2〜17h)を持つむしろ不活性な存在と見做され、また生理機能の追及も平滑筋収縮の薬理作用などに止まっていた。しかし、代謝回転の様式と動態はまさしく情報伝達物質の位置付けの重要な原点の1つであり、以上の認識の実験的根拠に対しても、5-HT標識の速度と複数プール性やPCPA阻害機構や低特異性・不可逆性などの難点が指摘され、新規の有力なアプローチの登場が期待されていた。一方、消化管固有の5-HT代謝問題では、長軸方向の局所機能分化及び5-HT細胞の異なる構成やEC細胞内5-HT顆粒の内腔・血管側2極偏在などに対し、各局所単位・複数プールの考慮が求められ、5-HTの主要代謝産物5-Hydroxyindoleacetic acid(5-HIAA)の例外的な低値から異例の回転様式が示唆されていて、更に広く、消化管を巡る5-HT及び代謝産物の出納を追及し、懸案の5-HT回転速度の評価と共に、新命題を確立する時期に到っていた。

 本研究は、以上の背景から改めて、消化管の巨大な5-HTプールの代謝回転動態を再検討し各局所固有の特性を探索する目的で開始された。この際当教室で開発した"トリプトファン側鎖酸化酵素(TSO)によるTrp除去を介した特異的な5-HT除去擾乱法"(中丸ら、1992)を消化管5-HT問題に適用し、動的な代謝応答を消化管長軸方向全域の各局所で詳細に調べるアプローチを進めたものである。同時にPCPAの5-HT除去効果についても改めて検討を加えた。また消化管5-HT出納及び組織代謝変換の観点から5-HT回転速度との実験的照合を試み、5-HT系関連物質の血中及び管腔内放出量、或いは対5-HT含量比が極めて低い(1-2%)主要代謝産物5-ヒドロキシインドール酢酸(5-HIAA)を含めた既存及び未知の代謝産物候補物質の含量や代謝特性を複数の手法を用いて調べ、5-HT回転との関連性を深く追及し、消化管局所に於ける5-HTの代謝動態の解明を狙いとした。

実験材料と方法

 [消化管組織の摘出及び抽出]実験前夜、実験中を通して絶食させたSD雄ラット(200-400g)を(a)対照群、(b)TSO群、(c)PCPA群、及び(d)Trp群に分割し、対照群には生理的食塩水(生食)を3ml、TSOは20単位/3ml生食、PCPA(300mg/kg)及びTrp(150mg/kg)は3mlの生食(1%Tween 80)にエマルジョンとし、各々腹腔内投与後、3-120hにわたり経時的に断頭、開腹して胃から直腸までの消化管全域を27分割した連続断片を摘出し、3-5倍量の0.4M過塩素酸/0.15%Na2S2O5(以下PCAと略称)で抽出した。TSO投与群では尾静脈血から循環血中のTrpレベルとTSO活性を経時的にモニターした。また頸静脈からのTSO(7単位)投与も試みた。[血漿5-HTの抽出]一晩絶食したラットの頸動脈又は門脈に麻酔保定下でカテーテルを挿入し、血液を約10min間隔で採取してヘパリン又はEDTA処理(0.5%EDTA・K2)後、遠心分離し、血漿を得てPCA抽出した。[抱合体の酸加水分解]消化管組織のPCA抽出サンプルを嫌気的に95-100℃で20min加熱処理し、5-HT系抱合体産物の加水分解を行った。[抱合体の酵素的加水分解]一部の消化管組織ホモジネート(pH4.5)を、-glucuronidase(G)又は内在G阻害剤saccharo-1,4-lactone(SL)存在下、37℃でインキュベートし、48hまで経時的にサンプルを採取し、各々をPCA抽出した。[管腔内放出量の評価]一晩絶食したラットを麻酔下で開腹し、神経及び血管系を保存したまま十二指腸の両端を結紮後、管腔に挿入したカニューラを通じて37℃に保持した生食を近位末端より0.1ml/minで送液し、遠位末端から灌流液を5min間隔で集めて、PCAで抽出した。[HPLC分析]以上の全抽出生体サンプル中の5-HT代謝関連物質は逆相イオンペアHPLC/ECDシステムにて分離・定量した。

結果と考察

 TSO、PCPA、生食及びTrpを各々投与したラットの消化管組織Trp/5-HT含量の経時変化を詳細に解析した結果、5-HT代謝動態に関する新しい実験的事実が得られた。対照群の組織含量は、揺動性に富むTrpと安定な5-HTの両者の特性が全領域でほぼ共通して見られ、これを基準に各種5-HT除去応答を検討した。TSOの極大量(20単位)生体投与で血中Trpを迅速特異的に枯渇(正常時の1/100以下)させると、絶食下で血中依存の消化管組織Trpレベルは各部位でほぼ一様に、血中レベルに追従して3-6h以内に初期値の10-20%にまで急速に減少し、12-24hまで極小値を維持した。この組織前駆体Trpの変化に応じて5-HTレベルも基本的には低下したが、その経時変化には明確な局所差が見られた。5-HTがマスト細胞に所定量局在する胃では初期減少は迅速であったが、約4割のプールが除去を免れた。十二指腸では3hで約半分、続いて9-12hまでに更に2-3割の5-HTプールが急速に減少した。空腸から回腸になると、徐々に減少速度の低下と残存レベルの増大が顕在化し、大腸各部位でも回腸と同様な傾向が認められた。そしてTSO活性の消失(24-48h)で血中及び組織Trp濃度が復元するにつれて、5-HTレベルも各所で様々な過程を経て、72-120hで可逆的に正常域に帰還した。またこの回復期(48h付近)にTrp負荷を行うと、回腸を除く殆どの部位で5-HT上昇応答が促進され、特に十二指腸領域では初期値の80-90%にまで復元した。以上の結果から、消化管5-HTには前駆体Trp除去に対する除去応答速度の異なる複数プールが各部位に様々な割合で存在する可能性が強く示唆された。特に十二指腸上部に顕著な急速減少・回復の両過程から示される5-HTの回転速度は、先行するTSO投与実験で得られた脳の5-HT回転速度(t1/2〜2h)[中丸ら、準備中]に匹敵し、消化管5-HT代謝回転速度に関する既成概念(t1/2=17h)の再考を強く促した。この高速回転を特徴とする十二指腸領域は、TSO7単位の頸静脈投与によるTrpの部分的除去下でも、唯一例外的に8hで5-HTレベルを半減させたが、その際代謝産物5-HIAAの組織含量には殆ど変化が無く、従ってこの物質は対5-HT量比が1-2%と低いだけでなく代謝的にも極めて不活性なプールであると判明した。一方古典的5-HT枯渇剤PCPA投与下では応答の局所差は概ね消失し、5-HTレベルは日単位で緩やかに減少し続け120hでも有意な復元は無かった。これより、不可逆的かつ緩慢な効果をもたらすPCPAは代謝回転の厳密な計測には不適切な5-HT除去物質であることが再確認された。またTrp単独投与による"正の擾乱"下では上述したTSOでの"負の擾乱"時と好対照を成すような5-HTの鋭い上昇応答は観察されず、5-HT産生細胞のTrp定常濃度が5-HT合成の律速酵素TPHに対してほぼ飽和している可能性も示唆された。

 次いで、このラット消化管5-HTプールの高速代謝回転性と消化管における5-HT出納を血漿5-HTの動静脈差により評価し、両者を対応せしめた。まず麻酔保定条件下で挿管処置した頸動脈又は門脈より連続経時採血を行い、消化管を横切るこれらの動静脈血漿中の濃度差を5-HT系各物質について測定することで、5-HT含有細胞からの血中放出量の間接的定量を試みた。当初各種麻酔条件でヘパリンのみを抗凝血剤に用いた場合、頸動脈5-HTの変動が大きく、かつ5-HTレベルに動静脈差は殆ど見られなかったが、更に別種の抗凝血剤EDTA・K2存在下で遠心分離を行うと全般的に揺動成分は減弱化して、門脈値(21.8±5.8nM,n=17)は不変(ヘパリン単独使用時:24.1±14.3nM,n=67)のまま頸動脈値のみが1桁nMレベル(5.93±2.26nM,n=18)に低下した。これより血漿5-HT濃度は安定して静脈優勢(+約15nM)となり、腸間膜血流量(3ml/min/g組織:Windmueller,et al.1981)と消化管組織総重量(7.67±0.66g)とを乗じて得られる単位時間当たりの放出量(約20nmol:消化管5-HT総量の1/6に相当)計算から、5-HT高速代謝回転(t1/2=3h)仮説の大要が支持された。5-HIAAやTrpについては、個体差要因を排除できる同一ラットからの動静脈採血結果より、それらの濃度差は殆ど無いと判断された。よって主要代謝産物5-HIAAは、代謝的に不活性なだけでなく細胞外排出も乏しい5-HT系プールであると見做され、この点に関しては改めて他の5-HT含有組織一般の代謝動態とは全く異なる認識を必要とした。一方、5-HT系の既知抱合体産物は酸加水分解や酵素的加水分解の各処理で一切検出されなかった。内在G活性が充分発現する条件下(pH4.5)の十二指腸組織ホモジネートを37℃反応に供した際、5-HTの経時変化が過剰量の阻害剤SL添加の有無に拘らず一様であった本研究結果から、過去の論文報告より高濃度を占める可能性を含んだ5-HT-O-glucuronideは皆無であると断定された。同時に、この反応に於いて内在G活性に非依存的な5-HT上昇応答(最大で初期値の約40%)を見出だし、新規抱合体系5-HT代謝産物[群](5-HTX)の存在が示唆された。この新規物質候補となる5-HTXは、5-HIAAとは対照的に、5-HTの約4割にも及ぶ総量がTSO7単位静注後8hでは完全に消失することから、消化管組織5-HTの主要代謝産物としての資格を十分に有するものと考えられた。また管腔側への放出は5-HT、5-HIAA共に微量で、血中放出に比べて高速代謝回転への寄与は僅かなものと判断された。

 本研究の主たる意義は、循環血中の5-HT前駆体Trpの迅速特異的除去法の適用により、従来暗黙の認知である"不活性な"消化管5-HT回転を脳に匹敵する"高速代謝回転プール"と位置付け、また、その回転の過半が血中への5-HT放出と対応することを動静脈差の実験などから示唆したことである。これは放出された5-HTの代謝や役割に関する新命題追及の原点を与え、また、消化管5-HT回転やプールの複数性及び領域差は、今後、5-HT系組織・細胞化学との対応により、各局所に於ける5-HT系の分別機能の解明にも繋がる有力な手掛かりとなった。

審査要旨

 本研究は、従来懸案であったラット消化管セロトニン(5-HT)の代謝回転速度に関して、酵素の生体投与という新たなアプローチを用いて詳細な解析を進めたものであり、下記の結果を得ている。

 1.5-HT前駆体トリプトファン(Trp)を迅速特異的に分解する酵素(TSO)を極大量ラットに腹腔内投与すると、血中及び消化管組織Trpの急速減少を介した5-HT合成阻害の結果、胃から直腸にかけての消化管全域で5-HTの急速除去(t1/2=3-4h)が達成された。またその際の5-HTの減少応答には領域差が明白に認められ、減少勾配成分の多様性、即ち代謝回転速度の異なる複数プールが各局所に様々な割合で配分されている可能性が示唆された。特に十二指腸上部に顕著な急速減少過程から示される5-HTの回転速度は、先行するTSO投与実験で得られた脳の5-HT回転速度(t1/2=2h)[中丸ら、準備中]に匹敵し、消化管5-HT代謝回転速度に関する既成概念(t1/2=17h)の再考を強く促した。

 2.消化管における5-HT出納を血漿5-HTの動静脈差により評価し、5-HTプールの高速回転性との関連性を追及した。麻酔保定条件下で頸動脈又は門脈から連続経時採血と血漿抽出(ヘパリン及びEDTA存在下)を行うと、血漿5-HT値は安定して静脈優勢(+15nM)となり、この濃度差と腸間膜血流量及び組織重量とを乗じて得られる単位時間当たりの放出量計算から、5-HT高速回転仮説の大要が支持された。

 3.消化管組織での5-HT代謝産物の動態について詳細に調べた。中枢神経系における5-HTの主要代謝産物5-ヒドロキシインドール酢酸(5-HIAA)は、消化管全域で対5-HT濃度比が高々1-3%程度の微量物質で、且つTSO投与時の減少応答の欠如から、代謝的にも極めて不活性な5-HT系プールであることが判明した。また酸加水分解や酵素的加水分解の各処理で、グルクロン酸や硫酸等の5-HT系既知抱合体産物は一切検出されなかったが、組織ホモジネート(pH4.5)の37℃インキュベーションで内在-グルクロニダーゼ活性に非依存的な5-HTの経時上昇応答(最大で初期値の約40%)を見出だし、新規抱合体系5-HT代謝産物[群](5-HTX)の存在が示唆された。この新規物質候補となる5-HTXは、5-HIAAとは対照的に、5-HTの約4割にも及ぶ総量がTSO投与後8hで完全に消失することから、消化管組織5-HTの主要代謝産物としての資格を十分に有するものと考えられた。

 4.5-HT関連物質の消化管管腔側への放出機構についてもin vivo定量評価を試みたが、単位時間当たりの放出量は5-HT、5-HIAA共に組織5-HT含量の1-2%と乏しく、よって5-HT高速回転との関連性は僅かなものと見做された。

 以上、本研究の主たる意義は、循環血中の5-HT前駆体Trpの迅速特異的除去法の適用により、従来暗黙の認知である"不活性な"消化管5-HT回転を脳に匹敵する"高速代謝回転プール"と位置付け、またその回転の過半が血中への5-HT放出と対応することを動静脈差の実験などから示唆したことである。これは放出された5-HTの代謝や役割に関する新命題追及の原点を与え、更に、5-HT回転やプールの複数性及び領域差は、今後、5-HT系組織細胞化学との対応により、消化管各局所における5-HT系の分別機能の解明にも繋がる有力な手掛かりとなる研究成果であり、従って学位の授与に値するものと考えられる。

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