学位論文要旨



No 113804
著者(漢字) 三浦,弘
著者(英字)
著者(カナ) ミウラ,ヒロシ
標題(和) エストロゲンによる個体維持から繁殖への機能的モード変換に関する研究
標題(洋)
報告番号 113804
報告番号 甲13804
学位授与日 1998.09.07
学位種別 課程博士
学位種類 博士(獣医学)
学位記番号 博農第1956号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 獣医学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 森,裕司
 東京大学 教授 塩田,邦郎
 東京大学 教授 局,博一
 東京大学 助教授 西原,真杉
 東京大学 助教授 高橋,伸一郎
内容要旨

 全ての動物は究極的には自己の適応度を上げるべく行動していると理解されている。このことは行動的指標についてだけでなく、内分泌や免疫機能といった生理学的観点からも妥当な解釈であることが多い。高等動物の場合、自身の有する遺伝子セットを次世代に継承し、繁殖成功をおさめ適応度を上げていくためには、個体維持活動と繁殖活動の二つの局面が必要不可欠である。個体維持活動とは摂食、摂水、呼吸などによって代謝エネルギーを獲得し、それを消費しながら個体の生命を存続していくことであり、一方、繁殖活動とは性行動や母性行動の発現を介して子孫を残し遺伝的情報を継承していく活動のことである。この個体維持活動と繁殖活動は対立的要素を本来的に内包しており、このため両者のいずれかが個体のライフサイクルの中で適切な時期に優先的に発現されてこそ、その個体は繁殖成功を収めることが出来ると考えられるが、その実体については未だ明らかにされていない。

 本論文は5章より構成され、以下のようにまず第1章では性腺ステロイドホルモンであるエストラジオール17(E2)が様々な生理的機能を統合的に変化させることにより個体維持活動から繁殖活動への変換が図られるという作業仮説をたて、第2章と第3章では実際にこの変換の過程を観察するための実験を行い、第4章ではこうした変化に伴う脳内神経核での一酸化窒素合成酵素(NOS)及びアミノ酸濃度の変化について検討し、これらの検討結果を基礎として第5章で総合考察を展開した。

 第1章では、これまでに繁殖と代謝の関係について行われた過去の研究成果を概観し、本研究の背景と目的について解説した。哺乳類の雌動物にとって妊娠、出産、泌乳といった一連のの繁殖活動は、同種の雄に比べてかなり大きなコストを伴うことが予想される。餌不足や環境の悪化、ストレスなどによって万が一母体に障害が及んでしまうと胎子や乳子は生存できず、その雌にとっての繁殖成功は望めないことになる。このため、繁殖の成功確率が低い環境条件下では、雌動物は繁殖活動を一時的に停止し、次の繁殖機会の到来を待つ事が多い。その反面、成功する見込みがそれなりに高いと判断される場合には、個体の代謝的活動全般が繁殖活動に集約されるべく準備が整えられることになるのであろう。こうした変化は、個体維持優先モードから繁殖優先モードに切り替わる、いわば生命機能のモード変換に例えることができよう。すなわちこれは、今まで専ら個体維持のためだけに費やされていた代謝エネルギーが、遺伝情報の継承といった観点からの最重要課題である繁殖活動に振り向けられることであり、しかもそのことで個体維持に危険が及んでは意味のないことから、このモード変換の背景には繁殖を可能ならしめる代謝エネルギーの巧妙な分配調節機構の存在が想定されるのである。そして、その機構の鍵を握る主要因の一つは、雌動物の繁殖活動のほぼ全ての局面に深くかかわり、個体の生存には必須でないまでも子孫を残していく上では必要不可欠であることが知られているE2であろうと推察される。E2は繁殖活動に直接的に影響を与えるだけではなく、体重や摂食量の低下、骨端形成の誘導や脂肪組織の減少、自発活動量の増加など、一見繁殖には直接関係ないように思える生理作用も数多く有することが知られている。このことは、E2が代謝系全般に作用して個体維持優先モードから繁殖優先モードへの変化を指揮するホルモンであると仮定すれば理解が可能である。

 そこで第2章では、まず雌動物においてE2の持続投与が体重や摂食摂水量といった代謝系のパラメーターにどのように影響を与えうるかという点に着目して実験を行った。まず平ケージ内で飼育した動物について、体重及び頭尾長の経日変化に対するE2の影響を調べた。7週齢のウィスター系雌ラットを卵巣摘除して内因性E2の影響を除去し、一週間の回復期間をおいてE2を封入したシリコンチューブを皮下移植し、発情期における生理的E2濃度を長期間持続的に維持したものを繁殖モード、また対照群としてコレステロールを封入したシリコンチューブを皮下移植したものを個体維持モードとして、両群の個体について一週間ごとに体重及び頭尾長を測定した。E2投与は3週間とし、その後さらに4週間の記録を行った。その結果、E2の持続的投与は加齢に伴う体重と頭尾長の増加をいずれも顕著に抑制した。またこのE2による体重増加の抑制には、体格の成長抑制と脂肪組織蓄積の抑制の両者が相加的に関与することが示唆された。

 次にE2による体重、摂食量及び摂水量の抑制パターンについてより詳細に解析する目的で、一日の中の明期と暗期の変化量をそれぞれ測定し比較した。前実験と同様にE2投与によって加齢に伴う体重増加が停止し摂食量も減少したが、体重と摂食量に対する抑制の程度については明期と暗期の間で差はみられず、これらの結果から、E2は脂肪蓄積、体格成長及び摂食量に対していずれも抑制的に作用することが明らかとなり、また体重変化や摂食量には明らかな日周リズムが存在するもののE2の作用は概日リズム機構に直接的には共軛していないものと推察された。

 次に第3章では、前章の平ケージとは異なり、自発的に運動できるという意味でより自然環境条件に近いと思われる自発活動量測定用回転篭付きケージ(回転ケージ)を用い、回転活動量の測定も合わせて同様の観察を行った。またシリコンチューブのE2含量を前章と同じものに加えて1/2及び1/4に下げたチューブを作製し、E2作用の用量依存性についても検討した。その結果、E2投与によって暗期の回転活動量のみが著しく上昇したが、その際にはE2濃度に対応した差異は認められなかった。また、前章の実験結果と同様に体重増加が抑制されたが、平ケージの場合に比べて抑制の程度がやや大きく、E2の用量に依存する傾向も観察された。一方、平ケージでの結果と違って、摂食量の減少は観察されなかった。こうしたデータを平ケージの場合も含めて詳細に解析してみると、両条件下とも体重増加の抑制がE2投与翌日に開始したのに対して、摂食量抑制はそのさらに翌日以降に起こっており、また回転ケージでの摂食抑制の程度にはE2投与量についての用量依存性がみられたが、いずれの場合もいったん減少したのちに元のレベルへの回復が観察された。この回復は運動量の著しい上昇に起因するものと考えられた。本章の結果から、E2の体重や摂食量への作用には用量依存的傾向の認められること、また平ケージの場合と違い、回転ケージにおいては明期と暗期の間でE2の効果に差の生じることが示された。

 第4章では、こうしたE2の作用発現への関与が予想される脳内部位に着目し、いくつかの神経核における一酸化窒素(NO)とアミノ酸の動態について検討した。脳内でNOは神経伝達物質として様々な脳機能の発現に重要な役割を持つことが示唆されている。そこで、NOの合成を司るNOSの発現を酵素染色法を用いて検出し、E2投与の影響について検討したところ、視床下部腹内側核背内側部においてE2による染色性の増加が見られた。明期と暗期の間ではこの染色性に差はみられず、視床下部腹内側核背向側部においてE2により合成促進されるNOがE2の中枢作用に関与しているものと推察された。次に、パンチアウト法により各神経核の組織を採取してそのアミノ酸含量を測定し、これがE2投与によってどのように変化するかを調べた。その結果、E2投与群では視索前野、室傍核、腹内側核及び扁桃核においてチロシン濃度の減少が観察された。チロシンはノルエピネフリンやドパミンなど重要な神経伝達物質であるカテコラミンの前駆物質であることから、これらの各神経核においてカテコラミンを介した神経伝達活性の亢進が推察された。

 第5章では、以上の結果を総括し、個体維持の維持モードから繁殖モードへのスイッチングに関するE2の中枢作用機序について考察を行った。E2による体重増加抑制がE2投与翌日から生じたのに対して、摂食量抑制は一日遅れて観察されたことから、まず摂食量抑制が体重減少の直接的な原因とは限らないことが示唆された。さらに、E2による体重増加抑制と摂食量抑制では閾値に差が認められるなど、両者を司る機構は同一ではないことが示唆された。また、E2による体重や摂食量への影響が平ケージと回転ケージではやや異なっており、その要因として後者における活動量上昇が推測された。活動量の上昇が摂食量回復や体重増加抑制を引き起こす可能性は否定できないが、今回の成績からは、むしろE2により摂食および体重増加の抑制される機構が、活動量の調節機構とは別個に存在していることが推測された。またE2は特定の視床下部神経核におけるNOやカテコラミンの代謝回転に影響を与えることで多面的な向中枢作用を発揮している可能性が示唆された。

 これらを総合すると、E2による体重増加の抑制、摂食の抑制そして活動量増加の背景となる中枢機構は、いずれもE2によって個体の代謝を制御し個体維持活動から繁殖活動へ変化させる統合的機能調節機構の一部ではあろうが、各々については相当程度独立性の高いシステムから構成されていることが推察された。このことは哺乳類の繁殖戦略の多様性の大きさと関連しているのかもしれない。例えば、この様な生命機能のモード変換に関わる機構が多元的構造を有しており、ある程度の許容範囲内で独立的にE2に反応しうるとすれば、繁殖活動の開始に際して起こりうる環境の急激な変化や突然変異によって仮にいずれかの機能が不調をきたしたとしても、別の機構による補填あるいは代償をより効率的に行えることになろう。そして、こうした柔軟性を持つ対応様式が結果として遺伝的変異の種内蓄積を可能とし、これにより進化や適応の過程が促進され、ほ乳類の繁殖戦略の多様性が生み出されたとも考えられる。

 以上、本研究の結果から、雌動物における個体維持から繁殖へのモード変換に関わる主要な代謝的反応の制御機構は、性腺シグナルであるE2に対してそれぞれ特異的な反応様式を有しながらも個体としての合目的々反応を司る統合的な中枢制御機構の要素として互いに連携することで協調的変化を実現していることが示された。

審査要旨

 動物が繁殖成功をおさめ適応度を上げていくためには、個体維持活動と繁殖活動の二つの局面が必要不可欠である。個体の生命を存続してゆくための維持活動と子孫を残し遺伝情報を継承してゆくための繁殖活動は、エネルギー代謝という観点から対立的要素を本来的に内包しており、このため両者のいずれかが個体のライフサイクルの中で適切な時期に優先的に発現されてこそ、その個体は繁殖成功を収めることが出来ると考えられている。本論文は5章より構成されており、以下に記すようにまず第1章において性腺ステロイドホルモンであるエストラジオール17(E2)が様々な生理的機能を統合的に変化させることにより個体維持活動から繁殖活動への変換が図られるという作業仮説がたてられ、第2、3章では実際にこの変換の過程を観察するための実験が行われ、第4章ではこうした変化に伴う脳内での一酸化窒素合成酵素(NOS)およびアミノ酸濃度の変化が検討され、第5章では他の研究成績も援用しながらこれらの検討結果を基礎とした総合考察が展開されている。

 第1章では、これまでに繁殖と代謝の関係について行われた過去の研究成果が概観され、本研究の背景と目的が解説されている。哺乳類の雌動物にとって妊娠、出産、泌乳といった一連の繁殖活動は、同種の雄個体に比べて大きなコストを伴うため環境の影響を受けやすく、このため繁殖成功の確率が低い条件下では雌動物は繁殖活動を一時的に停止して次の繁殖機会の到来を待ち、一方成功の見込みが高いと判断される場合には、個体の代謝的活動全般が繁殖活動の遂行に集約される。こうした変化は、個体維持優先モードから繁殖優先モードに切り替わる、いわば生命機能のモード変換に例えることができ、その背景には代謝エネルギーの巧妙な分配調節機構の存在が想定される。そしてその機構の鍵を握る主要因の一つがE2であろうと申請者は推察した。

 そこで第2章では、まず雌動物においてE2の持続投与が体重や摂食、摂水量といった代謝系のパラメターにどのように影響を与えうるかという点に着目し、まず平ケージ内で飼育した卵巣摘除ラットについて、体重および頭尾長の経日変化に対するE2の影響が調べられた。その結果、E2の持続的投与は加齢に伴う体重と頭尾長の増加をいずれも顕著に抑制し、このE2による体重増加の抑制には、体格の成長抑制と脂肪組織蓄積抑制の両者が相加的に関与することが示唆された。また体重変化や摂食量には明らかな日内リズムが見られるが、E2の作用機構は概日リズム機構とは直接的な共軛関係にないことが示された。

 次に第3章では、回転活動量の測定も併せて同様の観察が行われた。その結果、E2の体重あるいは摂食量に対する作用には用量依存的傾向の認められること、また平ケージの場合と異なり回転ケージの場合にはE2の効果に明期と暗期の間で差の生ずることが明らかにされた。

 第4章では、こうしたE2の作用発現との関連が予想される脳内部位に着目し、主に視床下部・辺縁系の神経核における一酸化窒素(NO)とアミノ酸の動態について検討された。NOの合成を司るNOSの発現を酵素染色法を用いて検出し、E2投与の影響について検討したところ、視床下部腹内側核背内側部においてE2による染色性の増加が見られた。また各神経核のアミノ酸含量を測定したところ、E2投与群では視索前野、室傍核、腹内側核および扁桃核においてカテコラミンの前駆物質であるチロシン濃度の減少が観察された。これらの結果から、E2はその脳内受容体を介して神経伝達物質であるNOやカテコラミンの代謝回転に影響を与えている可能性を示唆している。

 第5章では、以上の結果を総括し、個体維持のモードから繁殖モードへのスイッチングに際するE2の中枢作用機序について考察が展開されている。すなわちE2による体重増加の抑制、摂食の抑制、そして活動量の増加といった変化は、いずれもE2によって個体の代謝機能を制御し個体維持優先から繁殖優先への変化を司る統合的機能調節機構の一部ではあろうが、各々については相当程度に独立性の高い中枢制御システムから構成されており、このような多層性の制御機構を具備することが哺乳類の繁殖戦略の多様性を生み出す背景となった可能性を指摘している。

 以上要するに、本研究は哺乳類の雌動物における個体維持モードから繁殖モードへの生理機能の変換に際して性腺ホルモンであるE2が代謝制御機構に影響を与える機序について検討したものであり、神経行動学的に有益な新知見が得られまた今後の研究発展の基礎となるユニークな概念が提唱されるに至っている。これらの業績は学術上、応用上貢献することが少なくない。よって審査委員一同は本論文が博士(獣医学)の学位論文として価値あるものと認めた。

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54667