学位論文要旨



No 113815
著者(漢字) 董,炳月
著者(英字)
著者(カナ) トン,ビンユエ
標題(和) 新しき村から「大東亜戦争」へ : 周作人と武者小路実篤との比較研究
標題(洋)
報告番号 113815
報告番号 甲13815
学位授与日 1998.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第221号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤井,省三
 東京大学 教授 尾崎,文昭
 東京大学 助教授 安藤,宏
 東京大学 助教授 村田,雄二郎
 東京大学 助教授 伊藤,徳也
内容要旨

 近代中国を代表する文学者の周作人は明治末の日本に留学して、日本人女性羽太信子を妻にした。こうして、彼は文学、思想、人生において日本と密接な関わりを結ぶに至る。なかでも、彼が最も共感を抱いていた日本の近代作家は白樺派の武者小路実篤である。1918年実篤は新しき村を創始し、周作人はこれに共鳴して中国で「新村提唱」をした。日中戦争期に至ると、二人は共に戦争に巻き込まれ、両者の関係にも暗い影を投じられてゆく。本論は儒家文化との関わりを論述の切り口として、新しき村時代から「大東亜戦争」までの二人の文学者の交流と影響関係とを中心に、比較研究を試みたい。

 第一部は新しき村について論じる。今まで、武者小路実篤の新しき村はトルストイやキリスト教の影響下において認識されてきたが、1919年前後村における武者小路実篤の『論語』学習から考えれば、「新しき村の精神」は東洋思想の原点である儒教の精神と密接な関係を持っている。周作人の提唱によって日本の新しき村運動は五四期の中国にも影響を与えたが、周作人が提唱した"新村"は実篤の新しき村とは異なり、道徳・文学的なものであった。実篤の新しき村に対しても、周作人は単なる受け身ではなく、"逆影響"があったのである。日本人意識が強い実篤より、周作人はさらに徹底的な人類主義者であった。1925年前後、周作人も実篤もそれそれの形で"離村"したが、その"離村"は儒家文化固有の「内聖」と「外王」の衝突として解釈できる。

 第二部は女性・愛欲に関する問題である。「愛欲」という言葉は実篤文学のキー・ワードである。実篤としては新しき村運動は女性解放運動でもある。周作人の場合、"日本"は彼の性観念を形作った一方で、性も周作人が日本文化を読む時の重要なポイントであった。世俗傾向が強い兼好法師や一休などの日本の僧侶は周作人「釈家」(釈迦牟尼を信ずる者)を肯定する際の根拠となっている。彼が実篤に接する際に女性問題も重要な接点の一つとなっていた。

 第三部は日中戦争期における周作人と実篤を論じる。1936年欧州旅行中に体験した黄色人種としての屈辱によって、実篤は戦争支持者となってゆくが、彼にとっては「大東亜戦争」と日中戦争とは別物である。彼は中国を東洋の裏切り者と看做すと同時に日本が中国を救っていると考えた。彼は"ロンドン・パリ-北京・東京"という枠組みを作り、日本と中国を共に"東洋"の粋の中に収め、東洋人としての尊厳を求めている。1943年春の中国旅行で彼は日本軍占領下の中国の実態を認識し、その"日中一体観"も崩れ始めている。戦争期の周作人は日本軍の傀儡政権華北政務委員会の教育督弁となったが、「儒家文化中心論」を民族主義文化観として提唱した。実篤と周作人との交友関係は戦争によって暗い影を投じられたが、周作人と片岡鉄兵との論争に際し、実篤は周作人を支持し、二人は"生命尊重"において再び一致性を得ている。

 終戦後、実篤は占領軍によって公職追放されたが、それにより示されていたのは実篤と日本国との分裂ではなく、日本国との運命共同体的関係である。実篤と異なり、周作人は偽職就任した時も、「漢奸」として断罪された時も、常に"国家"から疎外されていたのである。

審査要旨

 本論文は周作人と武者小路実篤という戦前期の中国と日本とを代表する二人の文学者をめぐり、1920年代の「新しき村」時代から40年代の「大東亜戦争」まで二十余年に及ぶ二人の文学者の交流と影響関係とを比較研究したものである。周作人は明治末の日本に留学し日本人女性羽太信子を妻にしている。この周作人が近代日本文学の中で最も共感を寄せていたのが武者小路実篤である。1918年、実篤が宮崎で新しき村を創始すると、周作人はこれに深く共鳴して新しき村を中国へ紹介し、実篤は五四期の中国思想・文学界に影響を与えることとなる。しかし日中戦争期に至ると二人は共に戦争に巻き込まれ両者の関係にも変化が生じ、戦後はその運命は大きく異にしている。主な成果は次の通りである。

 (1)東アジア共有の文化である『論語』を中心とする儒家文化が、周作人・実篤に与えた影響の深さを解明した。特に「新しき村」の精神の淵源が『論語』にあったこと、五・四新文化運動の影響下で儒教批判の立場にあった周作人が、実篤との交流を通じて儒家文化に回帰していった点、さらには戦中期の周作人の対日抵抗の思想的原点が儒家文化であったことなどは新しい指摘であり、特に興味深い。

 (2)20年代中国における周作人「新村運動」の文化的社会的位置づけを行い、実篤の運動に対する独自性を明らかにした。「新村運動」をめぐっては日中両国に豊富な研究の蓄積がある。本論文はそれらを参照にしつつ、周作人による「新しき村」運動の紹介が大正日本と五四期中国との間に思想的同時代性を確立したこと、周作人の「新村」は社会改造の実践である実篤の運動と比べて徹底した人類主義を掲げる道徳的・文学的な運動であり、実篤側に運動の人類主義性を深めるなどの「逆影響」を与えた点を主に指摘している。

 (3)実篤の作品および「新しき村」運動におけるフェミニズム思想を指摘し、周作人の日本留学体験と日本文化研究が彼のフェミニズム思想に与えた影響を分析した。実篤の作品、特に恋愛小説では愛欲が主題となっており、その中で恋人、母親、タブー三種の役柄を演じる女性が男性に対して有する支配力を指摘するいっぽう、「新しき村」運動も女性解放運動でもあった点に注目している。

 周作人における中国人としては独自な性観念形成においては素足、裸体、性に対する大らかな日本文化が深い影響を与えている点を分析し、彼の実篤文学の紹介翻訳および「新しき村」への関心が、女性解放思想への共鳴であった点を明らかにした。

 (4)実篤の「大東亜戦争」支持問題と周作人の戦中期の偽装対日協力と対日抵抗の様相を解明した。実篤が第一次大戦期の反戦作家から日中戦争期の戦争支持者へと変身した原因に欧州旅行中に経験した黄色人種としての屈辱感を指摘する先行研究を紹介しつつ、本論文は「東洋の裏切り者」である中国を救うという論理で対中侵略を支持していた実篤が1943年春に中日文化協会代表大会に参加して一ケ月ほど中国を旅行して侵略の現実の一部に触れることにより、自らの「日中一体観」を放棄していく過程を分析している。

 いっぽう、周作人の対日協力は中国共産党の地下工作員の要請による偽装協力であったという新しい証言を採用し、さらに「儒家文化中心論」を提唱して片岡鉄兵らと衝突するなど民族主義文化を掲げて文化的抵抗を行っていた点を分析して、従来の単純な周作人"漢奸"説に修正を加えた。

 本論文は儒家文化の定義を明確にしていないなど一部に論理的緻密さを欠き、"漢奸"についても十分には論じられていない。しかし(1)から(4)の諸点を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。

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