本論文は周作人と武者小路実篤という戦前期の中国と日本とを代表する二人の文学者をめぐり、1920年代の「新しき村」時代から40年代の「大東亜戦争」まで二十余年に及ぶ二人の文学者の交流と影響関係とを比較研究したものである。周作人は明治末の日本に留学し日本人女性羽太信子を妻にしている。この周作人が近代日本文学の中で最も共感を寄せていたのが武者小路実篤である。1918年、実篤が宮崎で新しき村を創始すると、周作人はこれに深く共鳴して新しき村を中国へ紹介し、実篤は五四期の中国思想・文学界に影響を与えることとなる。しかし日中戦争期に至ると二人は共に戦争に巻き込まれ両者の関係にも変化が生じ、戦後はその運命は大きく異にしている。主な成果は次の通りである。 (1)東アジア共有の文化である『論語』を中心とする儒家文化が、周作人・実篤に与えた影響の深さを解明した。特に「新しき村」の精神の淵源が『論語』にあったこと、五・四新文化運動の影響下で儒教批判の立場にあった周作人が、実篤との交流を通じて儒家文化に回帰していった点、さらには戦中期の周作人の対日抵抗の思想的原点が儒家文化であったことなどは新しい指摘であり、特に興味深い。 (2)20年代中国における周作人「新村運動」の文化的社会的位置づけを行い、実篤の運動に対する独自性を明らかにした。「新村運動」をめぐっては日中両国に豊富な研究の蓄積がある。本論文はそれらを参照にしつつ、周作人による「新しき村」運動の紹介が大正日本と五四期中国との間に思想的同時代性を確立したこと、周作人の「新村」は社会改造の実践である実篤の運動と比べて徹底した人類主義を掲げる道徳的・文学的な運動であり、実篤側に運動の人類主義性を深めるなどの「逆影響」を与えた点を主に指摘している。 (3)実篤の作品および「新しき村」運動におけるフェミニズム思想を指摘し、周作人の日本留学体験と日本文化研究が彼のフェミニズム思想に与えた影響を分析した。実篤の作品、特に恋愛小説では愛欲が主題となっており、その中で恋人、母親、タブー三種の役柄を演じる女性が男性に対して有する支配力を指摘するいっぽう、「新しき村」運動も女性解放運動でもあった点に注目している。 周作人における中国人としては独自な性観念形成においては素足、裸体、性に対する大らかな日本文化が深い影響を与えている点を分析し、彼の実篤文学の紹介翻訳および「新しき村」への関心が、女性解放思想への共鳴であった点を明らかにした。 (4)実篤の「大東亜戦争」支持問題と周作人の戦中期の偽装対日協力と対日抵抗の様相を解明した。実篤が第一次大戦期の反戦作家から日中戦争期の戦争支持者へと変身した原因に欧州旅行中に経験した黄色人種としての屈辱感を指摘する先行研究を紹介しつつ、本論文は「東洋の裏切り者」である中国を救うという論理で対中侵略を支持していた実篤が1943年春に中日文化協会代表大会に参加して一ケ月ほど中国を旅行して侵略の現実の一部に触れることにより、自らの「日中一体観」を放棄していく過程を分析している。 いっぽう、周作人の対日協力は中国共産党の地下工作員の要請による偽装協力であったという新しい証言を採用し、さらに「儒家文化中心論」を提唱して片岡鉄兵らと衝突するなど民族主義文化を掲げて文化的抵抗を行っていた点を分析して、従来の単純な周作人"漢奸"説に修正を加えた。 本論文は儒家文化の定義を明確にしていないなど一部に論理的緻密さを欠き、"漢奸"についても十分には論じられていない。しかし(1)から(4)の諸点を中心に顕著な成果をあげており、その内容は博士(文学)論文として十分な水準に達しているとの結論を得た。 |