学位論文要旨



No 113816
著者(漢字) 柴田,英樹
著者(英字)
著者(カナ) シバタ,ヒデキ
標題(和) 19世紀から20世紀初頭のドイツにおける人口移動 : 海外移民・国内移動・外国人労働者
標題(洋)
報告番号 113816
報告番号 甲13816
学位授与日 1998.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第119号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 竹野内,真樹
 東京大学 教授 大澤,眞理
 東京大学 助教授 小野塚,知二
内容要旨

 本論文の目的はドイツが19世紀から第一次世界大戦期までの期間に経験した主要な人口移動の相互関係および全体像を追究することである.この人口移動は全体として3つの流れから構成され,19世紀初頭から90年代まで見られたアメリカ合衆国を主たる目的地とする海外移民,19世紀の80年代以降活発化するドイツ東部から西部に向かう国内移動,同じ時期に始まるロシア領およびオーストリア=ハンガリー領ポーランドやイタリアなどの周辺諸国からの外国人労働者の流入の三者が互いに関連を持ちながら生起した.他方,この人口移動は19世紀前半の大衆窮乏化,19世紀の70年代以降特に深刻化する東部ドイツにおける農業労働力不足,さらに外国人労働者の流入によって生じる民族問題等の重要な社会経済問題の結果であり原因でもあった.

 これらの人口移動を検討するさいに特に問題になると筆者が考えるのは以下の三つの視点である.

 まず第一に,人口移動は出生や死亡に比べて社会的要因の作用を最も受けやすい人口指標であり,また単なる商品や貨幣の移動とも異なり自律的意思を持った人間の意思決定による移動であるために特別の配慮を必要とする.人口移動においては人口の単なる不足地域と過剰地域とを比較するだけでは不十分であり,移動する人間の質にまで立ち入って,受入地域と送出地域の条件を考慮する必要があり,また移動先に関する情報の不完全さを補うために形成された非公式の人口移動支援組織に関する考慮も欠かせない.伝統的に形成されてきた移民の習慣,移民経路などが果たした役割についても十分な配慮がなされなければならない.この観点はいかなる種類の人口移動を考察する場合にも重要な観点であり,とりわけ本論で扱う遠距離を移動する移民者に関しては極めて重要になる.

 また,19世紀前半の移民に結びついた過剰人口を生んだ人口動態と移民との関連が考慮されなければならない.人口移動は既に工業化以前から見られた現象であり,その原因は中世以来のドイツ農村社会における特有の階級構造に特徴づけられた前近代的人口様式にあった.特に18世紀後半以降の急激な人口増加によってドイツ各地の人口扶養力を上回る過剰人口が顕在化するが,この人口増加がドイツではもっぱら下層民の増加として現れたため,人口増加は同時に社会的危機状況を生み出し,人口流出は社会的緊張の安全弁としても機能したのである.その一方,19世紀末に入りドイツでも人口転換が起こり,国内人口の増加が落ち着く時期に入ると今度は労働力不足や外国人労働者の導入が重要度を増し,これは新たな社会問題を生んだ.

 さらにドイツの地帯構造および支配政府の分裂状態が移民,特に外国人労働力に与えた影響が考察されなければならない.従来外国人労働者研究はもっぱらポーランド人とプロイセン政府の外国人労働者政策を中心としてきたため,ドイツに受け入れられた外国人の多様性,およびドイツ国内でも地域ごとに異なる受入態勢の多様性が軽視され,これは外国人労働者問題の一面化をもたらしてきた.しかし,実際には社会経済構造の異なるドイツ東部と西部では外国人労働者に対する要求および外国人労働者の就労・生活条件は非常に異なっていたのであり,また流入する外国人労働者の種類および社会的地位もこうした条件に左右され変化したのである.

 19世紀から20世紀初頭のドイツの社会経済構造の変化は農業国から工業国への変化と一括できようが,この変化は同時に西部工業地域と東部農業地域の格差の拡大をもたらし,第二帝政期の疑似ボナパルティズム的政治体制を基礎付けた.しかしこの変化は,同時期のドイツが経験した人口送出国から労働力輸入国への転換によって可能にされたのであり,上記の観点にしたがって人口移動を研究するとき,3方向の人口移動が全体として社会経済構造の変化に対してどのような関係にあったかが明らかになるはずであり,またドイツの工業化・近代化の過程と,各種の人口移動との関連が明らかになるはずである.

 本論は大きく2部に分かれ,第1部では農村過剰人口と人口移動との関係が追究され,第2部では外国人労働者の問題が追究される.

 第1章のテーマは19世紀の本格的人口移動期に先立つ時期の人口移動であり,事例として北西ドイツからオランダへ向かった季節労働者を取上げている.19世紀の大規模な海外移民および国内移動を生んだ基礎的要因である前近代の人口様式は,18世紀以前から農村内に十分な土地を保有しない農村下層民を滞留させ,彼らの主要な収入源として季節的労働力移動を不可欠にしていた.彼らの季節労働の実態を検討することによって19世紀の人口移動に先立つ時期において,農村社会に人口移動という現象が既にどのように組込まれていたかが明らかになるはずである.

 第2章のテーマは海外移民であり,事例として北西ドイツからアメリカ合衆国への移民運動をとりあげた.前近代的人口様式によって準備された過剰人口が19世紀前半に海外からの競争圧力による副業の喪失によって困窮に陥り海外移民を余儀なくされる過程が明らかにされる.さらにアメリカ合衆国への遠距離移民を可能にした移民の組織性に関しても,移民経路に関する情報の伝達や移民後のアメリカ合衆国での生活状況などの観点から触れらている.

 第3章のテーマは国内移動であり,オスドプロイセン州南部のマズーレン地域からルール鉱工業地域への移動を事例として取上げた.ここでもまた農村地域での過剰人口の発生とルール鉱工業地域における労働力需要の増加に応じる人口移動との関係が解明されると同時に,移民の組織性を検討するために情報伝達や移民先での移民者の生活状況にも触れられている.これまで我が国では国内移動というテーマは主としてポーランド系住民の国内移動を中心に展開され,移動先でのポーランド系住民と諸官庁との関係がもっぱら否定的に描かれてきたが,プロイセン政府に対して好意的態度を持つマズーレン人の移動先での生活条件はこれとは相当異なる側而を持っていた.第2部で扱われる外国人労働者の場合と同様に,異民族の異郷での扱いの多様性にかかわる問題である.

 第4章のテーマは主としてポーランド系の外国人労働者のドイツにおける生活・労働条件であり,事例としてプロイセン領ザクセン州の製糖業に従事した季節労働者を扱っている.外国人労働者を利用する前提としてのザクセン州の伝統的農村社会構造と農民が製糖業に参加するようになってからの農村社会の変化を論じ,それによって生じた労働力需要の変化と外国人労働者への需要の発生を分析している.外国人労働者の利用は製糖工場経営者の利得計算に基づくものであると同時に,地元のドイツ人農業労働者と外国人季節労働者の間に明確な作業分担が存在し,言わば労働力市場の「二重化」が農業経営の近代化の結果として見られるようになったことが明らかにされる.外国人労働者の雇用が農業経営の近代化を支えていたことが明らかになるはずである.

 第5章のテーマはドイツにおける外国人労働者の多様性であり,事例としてこれまであまり触れられて来なかったイタリア人労働者を取上げている.イタリア人労働者もポーランド人労働者と同様に季節労働者としてドイツにやって来たが,彼らは外国籍ポーランド人労働者とは異なり,主として西部・南部ドイツで就業し,プロイセン政府の抑圧的外国人労働者政策の影響を受けなかったため,ポーランド人に比して有利な生活・労働条件を享受できた.もちろん,大部分のイタリア人が下層労働力として雇用されたため,その生活・労働条件が特に高かったというわけではなかったが,家族での入国や定住化およびドイツ人との結婚が許されるなど,相対的には恵まれていた.製造業部門における外国人労働者雇用の実例を取上げることによって,製造業部門における第二帝政期ドイツの経済発展への外国人労働者の貢献を明らかにすると同時に,これまで外国籍ポーランド人中心に形成されてきた第二帝政期のドイツにおける外国人労働者に対する一面的イメージが修正されるであろう.

 第6章のテーマは受入国の政策が外国人労働者に及ぼす影響であり,プロイセン政府の外国籍ポーランド人に対する抑圧的政策を中心に検討している.ポーランド分割で獲得した領土を守るために,外国籍ポーランド人の入国を制限しようとするプロイセン政府と農場労働力として外国籍ポーランド人を必要とするユンカー勢力との対抗関係,およびプロイセンと他のドイツ諸邦との対抗関係の中で外国人労働者の受入態勢が徐々に形成されて行く過程を検討する.プロイセン政府の意図に反して外国人労働者管理体制は欠陥の大きい制度になるが,これによって東部ドイツではユンカーは外国人労働力の確保を保証されると同時に外国人労働者を恣意的に管理する手段を獲得し,また外国人労働者の扱いにおいて工業と農業,ポーランド人と非ポーランド人,東部ドイツと西部ドイツなどの分割線が形成された.ドイツの近代化は,他方では国民国家としての社会統合を強める結果となったが,この過程が外国人労働者の導入とどのように折り合いを付けていたかを明らかにすることが第6章の重要なテーマである.

審査要旨

 本論文は,19世紀から20世紀初頭にかけての時期のドイツにおける人口移動の歴史的展開をできるだけ包括的に把握するとともに,それを海外移民,国内移動,外国人労働者の流入という3つの局面からなるものと捉え,各局面の相互関連を解明することを課題としたものである.本論文の内容を簡単に紹介すれば,以下のようになる.

 序章は,本論文のテーマが同時代人によっても注目されていたにもかかわらず,長らくドイツの歴史家の間で正当な位置を与えられず,ようやく1970年代に入ってから現実の外国人労働者問題に触発されて活発化し,実証的にも方法的にも大きく進歩したことをまず確認する.その上で,著者は上記の課題を設定し,その際に留意すべき視点として,(1)過剰人口が生んだ人口動態と移民との関連,(2)人口移動が人間の意思決定に基づくものであったこと,(3)ドイツの経済的・政治的分裂性にもとづく外国人労働者の受入体制の多様性,の3点を挙げる.

 第1部「農村過剰人口と人口移動」の3章では,このうちの(1)と(2)が念頭に置かれる.第1章「17世紀から19世紀の北西ドイツ出身の季節労働者--オランダ渡り労働者の実体」では,本来の考察対象である19世紀以降の人口移動の前提となる事例が取り上げられている.北西ドイツにおける農村下層民であるホイアーリング層は17世紀頃から急速に増加したが,彼らは副業収入を必要とし,そのための時間的余裕をもっていた.このため,彼らはオランダなどの北海沿岸部に季節的に移動し,草刈労働・泥炭採取労働・煉瓦製造業などに従事した.季節労働による収入は僅かではあったが貴重な所得機会であり,農村下層民を不可欠の要素とする伝統的な農村社会構造を維持する要因となった.

 第2章「19世紀前半の北西ドイツからアメリカ合衆国への海外移民」では,同じく北西ドイツの農村工業地域からアメリカへの移民が取り扱われるが,そこで著者が注目するのは,海外移住は農村下層民が困窮に陥ったことを直接の原因とするとはいえ,送出地域と受入地域を媒介する組織が存在したことによってそれが促進されたことである.実際,ドイツ移民の出身地と合衆国における定住先には,親族や同郷人の絆が介在したため高い相関関係があり,北西ドイツからはミズーリ州に定住する者が多かった.彼らは,独立と生活の安全を目的として移住してきたため土地所有への志向が強く,手工業から農業に転ずる者も多かった.そして,上層に一部例外が見られたものの,ドイツ人だけの閉鎖的な生活圏を作って,言語や宗教の保持にこだわった.

 第3章「19世紀末から20世紀初頭のオストプロイセンからルールへの国内移動」では,オストプロイセン州南部に住むマズーレン人の国内移動が論じられる.まず,マズーレン地域の農村社会構造が検討され,14世紀以降ケルマーと呼ばれるフーフェ農民を中核とする非グーツヘルシャフト的な村落が形成され,19世紀に入って下層民が急激に増加し,農村過剰人口が生み出されたことが確認される.ついで,そのことを前提として1870年代から始まるオストプロイセンからルールの炭坑地域への移住の過程と特質が検討され,当初は代理人による募集活動によって移住が始まったが,その後は親戚や友人からの情報に基づいて移動が行われるようになり,その結果ルール地方のなかでも特定の都市にマズーレン人が集中したことが明らかにされる.移住者の生活基盤は故郷におけるよりも良好ではあったが,言語的・文化的障壁のために上級職からは排除され,地元の労働者の反感を買った.このため,彼らは政治的・宗教的団体を結成したが,ポーランド人のように反プロイセン=ドイツ的傾向を帯びることはなかった.

 第2部「外国人労働者の存在形態」では先の(3)の論点が主たる対象とされている.第4章「プロイセン領ザクセン州の製糖業における農業労働力の存在形態」は,19世紀末〜20世紀初頭の「ザクセン渡り」と呼ばれた農業労働者の移動現象に焦点を当てたものである.ザクセン州を含む中部ドイツでは中世以来農民の地位が強かったが,19世紀の農民解放を通じて増大する農村下層民との経済的格差は一層拡大した.19世紀後半に入るとザクセン州の多くの農民は甜菜栽培,やがて製糖業に乗り出し,製糖会社の関与もあって農業経営の合理化が進展した.甜菜経営は大量の季節労働力を必要としたが,地元の農業労働者が鉱工業に移動して離村するようになると,新たな労働力としてポーランドからの季節労働者が導入された.これが「ザクセン渡り」である.しかし,賃金などの労働条件が契約内容と異なるために契約破りが行われることもあった.また,季節労働者の生活圏は限られており,生活条件も劣悪であったため,彼らは同郷者同志で教会活動を行うこともあった.

 第5章「第二帝政期ドイツにおけるイタリア人移民労働者」は,従来外国籍ポーランド人労働者に関心が集中しがちであった外国人労働者問題の多様性の一事例としてイタリア人移民労働者の実態に光を当てたものである.19世紀末〜20世紀初頭のイタリア移民はアメリカ合衆国だけでなくヨーロッパ大陸にも多く向い,特に北部からの移民は後者のほうが圧倒的に優勢であった.移民が増えた理由は当時の農業恐慌と人口爆発であり,高度工業化に伴って1890年以降労働力不足が生じたドイツへの季節移動がはじまった.イタリア人労働者は主として西ドイツ・南ドイツで従事したため,プロイセンが諸邦に求めた外国人労働者の規制は機能しなかった.また,イタリア人労働者の労働・生活条件はポーランド人労働者とはかなり異なっており,家族での入移民を認められ,鉱工業や建設業といった第2次産業への集中が顕著であった.しかし,貯蓄を優先したために住居や食事といった生活条件は良好とはいえなかった.彼らもまた情報網を構築し,労働条件などに関する情報を交換しあったが,民族的協会結成への動きは弱かった.

 第6章「第二帝政期ドイツにおける外国籍ポーランド人労働者受入態勢」は,ポーランド人労働者の導入をめぐって,労働力不足に悩むプロイセン東部のユンカー層とゲルマン化政策を推進するプロイセン政府の間に相克が生まれ,後者が前者に譲歩する過程で国内登録制度が導入されるに至る過程を解明することを課題とする.プロイセン政府とユンカーの対立はピスマルク政権の時代から存在したが,カプリヴィはこの問題ではユンカーに歩み寄り,ポーランド人労働者の導入を期間を限定して認めた.この措置は,管理強化を伴いつつ次第に恒久的なものとなり,1905年には「ドイツ農業労働者センター」が設立され,07年には国内登録制度が導入された.プロイセン政府による外国人労働者政策は,民族政策に力点を置いていたため,全体として十分な成果を挙げたとは言えないが,ユンカーは必要な労働力を確保することに成功した.

 終章では,やや視点を変えて,19世紀の人口移動は近代化に伴ってドイツの農村社会が一挙に崩壊することを回避させたり,ドイツの工業化に伴う労働力不足を部分的に解消する上で役立ったが,それと同時に多くの外国人労働者を受け入れたことによって,その管理・統合の必要という新たな社会問題をドイツにもたらしたことが指摘されている.

 以上のような内容をもつ本論文の貢献としてまず指摘できるのは,19世紀〜20世紀初頭の時期のドイツの人口移動に関する関連文献を幅広く参照した上で,このテーマをできるかぎり包括的かつ多面的に解明することを意図して,イタリアからドイツへの移民といったこれまで良く知られていなかった興味深い事実やデータを紹介していることが挙げられる.この点は,当該テーマの研究がわが国では比較的手薄であっただけに,本論文で最も評価されるべき貢献ということができる.次に,最近の移民理論研究の成果を踏まえて,それを移民史研究に生かそうとしている点も本論文のメリットに数えることができる.とりわけ,人口移動が商品や貨幣の移動と異なって人間の意思決定に基づくものであることを重視して,送出地域と受入地域との固定的な関係の形成,それを媒介する移民支援組織の活動,移民同志の情報交換といった,統計数字からは読み取れない事実に光を当てたことは重要である.さらに,農村下層民の存在形態に注目する最近のドイツ農村史研究からヒントを得て,移民送出地域の社会経済構造にまで立ち入って,移民現象の前提に農村過剰人口問題があったこと,さらに当時の移民問題は基本的に下層労働者の問題と捉えられるべきであることを,いくつかの事例に即して明らかにしたことも評価に値する.

 もとより,本論文も問題点や改善が望まれる点を抱えており,その点は率直に指摘しておく必要がある.第一に海外移民,国内移動,外国人労働者という3つの局面の相互関連を問うという課題を冒頭で掲げておきながら,本論では「農村過剰人口と人口移動」および「外国人労働者の存在形態」という2部構成が取られていてかみ合っておらず,さらに終章では移民現象とドイツ社会の近代化・工業化という視角が採用されている.このため,課題が本論をつうじてどのように達成されたのかが必ずしも明確ではなく,多様な論点・視角が十分整理されないままに混在しているという印象を拭えない.方法・視点をさらに明確化し,実証作業と整合性をもたせる努力が求められよう.第二に,多くの関連文献を掲げているとはいえ,具体的内容は各章とも限られたものの詳しい紹介の域を出るものではなく,しかも各利用文献の枠組みが無批判的に受け継がれている傾向が看取され,このことが本論文の叙述の体系性・一貫性を少なからず損なっている.また,若干の同時代文献を別とすれば一次史料が利用されておらず,史料的基礎がやや弱い点も指摘しておかねばならない.内外の研究史をサーヴェイして,その到達点を正確に把握することは研究の基本であるとはいえ,その上で実証的に新たな知見を加えることにも相応の配慮をするべきであろう.

 とはいえ,人口移動・移民問題という,ドイツ社会経済史においてその重要性に比して研究の遅れている領域を探り当て,最近の移民理論やドイツ農村史研究の成果をも取り入れつつ,その全体像を提示しようと試みたことは評価されるべきであり,著者が本論文によって自立的な研究者として今後この課題を方法的・実証的にさらに深めていくための基礎を築いたことは否定できない.審査委員会は著者が博士(経済学)の学位を取得するに相応しいという結論に達した.

UTokyo Repositoryリンク http://hdl.handle.net/2261/54051