学位論文要旨



No 113823
著者(漢字) 斎藤,道子
著者(英字)
著者(カナ) サイトウ,ミチコ
標題(和) ミトコンドリアDNA(COI領域)を指標とした腕足動物の系統と進化
標題(洋) Brachiopod phylogeny inferred from mitochondrial COI sequences.
報告番号 113823
報告番号 甲13823
学位授与日 1998.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3477号
研究科 理学系研究科
専攻 地質学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 棚部,一成
 千葉大学 教授 山口,寿之
 東京大学 助教授 小島,茂明
 東京大学 助教授 大路,樹生
 東京大学 講師 上島,励
内容要旨

 腕足動物は、カンブリア紀初期以来、顕生代を通じて化石記録が豊富で、古生物学的に重要な海棲無脊椎動物である。記載された腕足動物の95%以上は絶滅種であるが、現生種も全世界で約380種が知られており、その進化史を考察するにあたり、化石種からの情報に加えて、現生種からも生物学的・分子生物学的情報を得ることが可能である。また豊富な化石記録をもとに各分類群間のかなり信頼のおける分岐年代が推定できるため、分子進化過程を考察するのにも適した分類群である。

 本研究では、腕足動物の系統発生および形態進化プロセスを明らかにするため、ミトコンドリアDNA(mtDNA)のCOI(シトクロム酸化酵素サブユニットI)領域の塩基配列の解析を行った。材料として、太平洋(主に日本沿岸)海域から主にドレッジにより採集した、現存する5つの目(リンギュラ目、クラニア目、リンコネラ目、テシデア目、テレブラチュラ目)すべてをカバーする腕足動物20種32個体を用いた。系統解析に先立ち、各個体より得られた当該領域の1209-1230塩基対の配列について、配列のアライメント、塩基組成の解析、変則遺伝暗号の推定、各配列間の塩基・アミノ酸の変異の比較を行った。ここで得られたデータマトリクスをもとに、近隣結合(NJ)法、最節約(MP)法、最尤(ML)法の3つの系統樹作成法による系統解析を行い、系統学的な考察を行った。系統関係について特に頑強な結果の得られたテレブラチュラ目ラクエウス科に関しては、得られた分子系統樹をもとに分類形質の評価を行い、形態の進化過程について考察した。これらの研究の結果得られた知見は以下の通りである。

1.腕足動物のCOI配列のアライメントと塩基組成

 腕足動物および塩基配列がすでに報告されている他の動物(刺胞動物、線形動物、軟体動物、節足動物、棘皮動物、脊椎動物)のCOI領域の配列のアライメントを行った。その結果、今回配列を決定した領域は、ほとんどの動物(線形動物以外)で長さが安定している(1218塩基対)にもかかわらず、腕足動物では3種において挿入・欠失による配列長の変異が認められた。すなわち、リンギュラ目Lingula anatinaにおける12塩基対の挿入(アミノ酸4個分に相当)、クラニア目Craniscus japonicusにおける9塩基対の欠失、およびテシデア目Lacazella sp.における6塩基対の欠失である。

 また腕足動物の配列は、塩基組成の偏りから2つのタイプに大別できることがわかった。一つは、チミンに富み(37-42%)、シトシンに乏しいタイプで、他の無脊椎動物の組成に類似する、リンギュラ目、クラニア目、一部のテレブラチュラ目の配列がこれに含まれる。もう一つのタイプは、グアニンに乏しく(17-19%)、それ以外の塩基がほぼ均等に使われているもので、脊椎動物の組成に類似する。リンコネラ目、テシデア目と一部のテレブラチュラ目が含まれる。後で述べる配列の進化速度との関連から見ると、前者は後者よりも進化速度の速い配列に大まかに対応する。

2.腕足動物におけるmtDNAの変則暗号

 ミトコンドリアDNAでは,普遍暗号とは一部異なる変則的な遺伝暗号が使われており、変則暗号の変化様式が系統学的な形質となり得ることが知られている。しかし、これまで腕足動物のmtDNAの変則暗号については報告がされていなかった。そこで本研究では、COI遺伝子の配列が保守的であることを利用して、他の多くの動物の配列でアミノ酸に変異の見られない座位に対応するコドンを調べることにより、腕足動物で用いられている変則暗号を推定した。その結果、腕足動物では、UGA、AUA、AAA、AGA/Gがトリプトファン、メチオニン、リジン、セリンにそれぞれ対応していることが明らかになった。これは知られている後口動物(脊椎動物、尾索動物、頭索動物、棘皮動物)の変則暗号のいずれとも異なり、前口動物である節足動物および軟体動物の変則暗号と同じであり、腕足動物が前口動物に含まれるという考えと矛盾しないことがわかった。

3.COI遺伝子の進化速度と系統学的有用性

 COI遺伝子の進化速度を調べるために、本研究で得られたCOIアミノ酸配列のうち挿入・欠失座位を除いた387座位の配列について、各配列間でアミノ酸の相違する割合を求め、化石記録より推定した各配列間の最小の分岐年代との関係をプロットした(図1)。その結果、いくつかの例外があるものの、COI遺伝子のアミノ酸置換は約110Maには飽和に達していることが推測された。また、分類群によっては、他と比べて分子進化速度が明らかに速くなっているもの(Lingula.Craniscus)や、逆に遅くなっているもの(Terebratulina.Gryphus)も認められ、腕足動物内でも系統によって分子進化速度が異なることが明らかになった。

(図1)腕足動物COI遺伝子の進化速度。横軸に化石記録から推定した各分類群間の最小の分岐年代、縦軸にアミノ酸の相違率を示す。主な分類群のペアとその分岐年代は以下の通りである。A-G:ラクエウス科内の各種間(1.64-27Ma)、H:ダリナ科・エクノミオザ科とラクエウス科(112Ma)、I:カンセロチルス科とテレブラチュラ科(112Ma)、J:両生類と哺乳類(350Ma)、K:テレブラテラ超科とテレブラチュラ超科(409Ma)、L:リンコネラ目とテレブラチュラ目(469Ma)、M:クラニア目と有関節綱(544Ma)、N:リンギュラ目と他の腕足動物(544Ma)、O、P:腕足動物(進化速度の異なる2つのグループを分けて示す。Oは進化速度の速いリンギュラ目・クラニア目、Pは有関節綱)と他の門(544Ma)。

 今回得られたすべての配列をもとに系統解析を行った結果、上記の結果と符号するように、ヌクレオチドレベルあるいはアミノ酸レベルでのいずれの系統推定法による解析でも、約110Maより以前の分岐については高いブートストラップ確率が得られなかった。このことから、COIの配列は、同一座位の多重置換によるノイズの影響が大きいため、約110Maより以前に分岐した分類群間の系統関係の推定には向かないことが推察された。一方、約110Ma以降の分岐(次に述べるラクエウス科内の分岐を含む)については、COIの配列から頑強な系統樹が得られることも明らかになった。

4.テレブラチュラ目ラクエウス科腕足動物の系統関係

 ラクエウス科7属12種の系統解析の結果、系統推定法やデータセット(アミノ酸、第1・第2コドン)の違いにより、4種類の可能な系統樹が得られた。このうち最尤系統樹を図2に示す。4つのいずれでもラクエウス科7属のうち、Laqueus以外の6属が近縁である。これら6属のうち、最尤法・近隣結合法を用いた結果(最初の3つの樹形)ではShimodaia、Frenulina、Picothyris、Jolonicaの4属がクレードを形成し、高いBP値で支持されるが、Terebratalia、Coptothyrisの位置がそれぞれ異なる。このことはTerebratalia・Coptothyrisの位置のより確かな推定をするためには、さらにデータを得る必要があることを示す。最節約法では6属のうちShimodaiaが最初に分岐した樹形が得られたが、この分岐点のBP値は低く、また対数尤度も著しく他の樹形よりも低い。さらに4つの系統樹の樹長には殆ど差がなかった。そこで本研究ではこの4つめのものを除いた3つの系統樹の合意樹を本研究における系統仮説として採用した。これは、特にLaqueus属の位置について、従来想定されていたものとは大きく異なる系統関係を示す。

(図2)NucMLで推定したラクエウス科7属12種COI遺伝子の最尤系統樹(コドンの第1・第2座位のデータに基づく)。枝の長さは推定塩基置換数に比例し、各枝の数字はブーツストラップ確率である。図3で用いる略語を括弧内に示す。外群としてCampages sp.(ダリナ科)とEcnomiosa sp.(エクノミオザ科)を用いた。
5.ラクエウス科腕足動物の分類形質と形態進化

 ラクエウス科を含むテレブラチュラ目に属するすべての種は、触手冠(摂食・呼吸器官)を支える構造として腕骨と呼ばれる石灰質の骨格を持つことで特徴づけられる。腕骨の形態は、テレブラチュラ目の進化史を通じて著しい多様化を示しており、腕骨の形態がテレブラチュラ目の分類形質として重要視されてきた。腕骨の形態およびその他の分類形質(殻の外形、表面装飾、蝶番構造など)がどれだけ系統を反映しているかを確かめるため、これらの形質のそれぞれの分類群における形質状態を今回得られた分子系統樹に重ね合わせてみた(図3)。その結果、個体発生初期(axial stage)における腕骨(特に中央壁)の形態と殻表面の模様がShimodaia-Frenulina-Picothyris-Jolonicaのクレードの共有派生形質であり、これらの形質は系統を反映していることが明らかとなった。

(図3)ラクエウス科内における形質進化のパターン。分子系統解析によって得られたラクエウス科7種の系統樹と各々の種の形態的特徴(上から、殻の外形と殻表面の模様、成体の腕骨形態、蝶番構造、腕骨の個体発生初期における中央壁の形態)を示す。種名の略号は図2を参照。Shi、Fre、Pic、Jolの4種では殻表面に条紋が発達すること、個体発生初期の中央壁後端が二股に分かれないことが特徴であり、これらの形質が共有派生形質になっている(系統を支持している)ことがわかる。LrとShiの蝶番構造の類似、LrとFreの成体の腕骨形態の類似は系統を反映していない。

 一方、成体の腕骨の形態は、従来の見解とは異なり必ずしも系統を反映していないことがわかった。例えば、Laqueus属、Frenulina属およびPictothyris属はbilateralと呼ばれる腕骨(あるいはlatero-verticalと呼ばれる個体発生上bilateralから派生する腕骨)の形態を共有することから、互いに近縁であると考えられてきた。しかし今回の結果からbilateralの形態は、ラクエウス科の原始的な形質状態であるか、もしくは収斂進化の結果異なる系統で独立に出現したことが示唆され、いずれにしても系統を反映していないことが示された。さらに殻の外形や蝶番構造の特徴についても必ずしも系統を反映していないことが明らかになった。これらのことは、これまで単純であると考えられてきた形態の進化過程が予想以上に複雑であり、従来行われてきた、化石も含めたテレブラチュラ目の系統仮説の多くが再検討を要することを強く示唆する。

審査要旨

 本論文は第一部,第二部の2つの部分からなる.第一部では,腕足動物全般におけるチトクロムcオキシダーゼサブユニットI(COI)遺伝子の進化速度と進化様式,およびその分子系統学的有用性について主に述べられており,第二部では,これらの知見をふまえた上で行われた,COI遺伝子の塩基配列の比較による腕足動物ラクエウス科の系統解析の結果とその意義についてまとめられている.

 COI遺伝子は,さまざまな動物分類群の分子系統解析のマーカーとして多用されているが,その際COI遺伝子の進化速度や進化様式について知っておくことが前提となる.そのための信頼できる唯一の方法は,分子の分岐年代を化石記録の出現,大陸の分裂,海洋の分断などの地質学的な証拠から推定し,これらの年代をもとに分子の一次配列の比較をすることである.しかし,これまでは一部の脊椎動物における研究があるのみで,化石記録が豊富な海棲無脊椎動物を用いた研究はなされていなかった.その意味で,本論文の第一部で述べられている研究結果は重要であり,これまで少ないデータから推測するしかなかったCOI遺伝子の進化速度と進化様式を,より明確にしたという点で高く評価できる.

 腕足動物は,顕生代を通じて連続的な化石記録を有する数少ない動物門の一つで,特に古生層の生層序学的研究に古くから多用され,化石分類群の出現年代について綿密なデータが蓄積されている.また,古生代に成立したものを含む腕足動物の主要な分類群は,現在も世界中の海底に生息しているため,それぞれからDNAを抽出して配列の比較を行うことができる.本論文の第一部で述べられている研究では,腕足動物の現存する5つの目(リンギュラ目,クラニア目,リンコネラ目,テシデア目,テレブラチュラ目)すべてをカバーする20種32個体のCOI遺伝子の大半の領域(1218塩基対)の塩基配列を決定し,それぞれの種間の配列の変異と化石記録から推定された分岐年代との比較を行った.

 その結果,大部分の腕足動物では,約1億年前以前に分岐した分子間では,塩基置換,アミノ酸置換ともに飽和に達していること,また系統によっては,進化速度の著しく速いものと遅いものもあること,そしてこれらの進化速度の違いは塩基組成の違いと相関があることが判明した.さらに得られた配列の系統解析の結果から,約1億年前より以前に分岐した分類群間の系統推定には,同一座位の多重置換によるノイズの影響を考慮する必要があることを示した.また本研究では,COIの配列進化の保守性を利用して遺伝暗号の推定も行っており,腕足動物におけるミトコンドリアDNAの変則暗号を初めて明らかにしている.

 本論文の第二部では,第一部の結果から信頼のおける分子系統推定のできることが確認された(すなわち約1億年前以降に放散した)テレブラチュラ目ラクエウス科の7属12種を用いて,得られた分子系統樹をもとに形態形質の進化過程を推察した結果を論じている.調べた形質は,触手冠(摂食・呼吸器官)を支える腕骨と呼ばれる石灰質の骨格の形態,殻の外形,表面装飾,蝶番構造などであり,これらのうち,個体発生初期における腕骨の形態と殻表面の模様が系統を反映していることを明らかにした.一方,成体の腕骨の形態や殻の外形,蝶番構造の特徴などは必ずしも系統を反映しておらず,従来行われてきた化石も含めた系統推定の多くが再検討を要することを論じている.

 デボン紀に成立し,新生代に大きく放散した腕足動物のテレブラチュラ目は,腕骨を持つことで特徴づけられる.テレブラチュラ目の進化史は,腕骨形態の進化史とほとんど同義であったとも言えるが,実は,腕骨形態はテレブラチュラ目の最も重要な分類形質と考えられてきており,従来の腕骨形態に基づく進化史の議論は,宿命的に循環論であった.本論文第二部で述べられているアプローチは,形態とは独立の分子の形質から系統を推定し,形態の進化過程を推定するというものであり,化石も含めた形態進化の研究に新しい方向性を示したという意味で意義深い.

 なお,本論文第一部は小島茂明博士,遠藤一佳博士との,本論文第二部は遠藤一佳博士との共同研究であるが,論文提出者が主体となって実験,解析および検証を行ったもので,論文提出者の寄与が十分であると判断する.本論文は,化石記録の利点を十分に生かし,分子系統学に大きく寄与した点,そして分子データと初期発生の観察をもとに化石記録を見直し,形態進化過程を考察する,という進化古生物学の新しい領域を開拓した点で傑出したものである.よって審査委員全員は,論文提出者に博士(理学)の学位を授与できると判断した.

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