学位論文要旨



No 113826
著者(漢字) 盧,海龍
著者(英字)
著者(カナ) ルー,ハイロン
標題(和) 海洋堆積物中のガスハイドレートの安定条件についての実験的研究
標題(洋) Experimental Study on the Stability condition of Gas Hydrates in Marine Sediments.
報告番号 113826
報告番号 甲13826
学位授与日 1998.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3480号
研究科 理学系研究科
専攻 地質学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 松本,良
 東京大学 教授 平,朝彦
 東京大学 助教授 増田,昌敬
 東京大学 助教授 徳山,英一
 北海道工業技術研究所 主任研究官 海老沼,孝郎
内容要旨 研究目的:

 莫大な埋蔵量が見込まれる天然メタンハイドレートは次世代のエネルギー資源として期待されている。一方、そのメタンハイドレートは大陸棚斜面の安定性や地球環境の変動にどういう影響があるかについて関心を持っている研究者も少なくない。

 天然メタンハイドレートが資源として利用される可能性と地球環境への影響について見積もる際に、最も重要な問題は天然メタンハイドレートの堆積物中での安定条件と全存在量である。本研究では、堆積物中での安定条件の確定を主要な目的とする。いままで天然ガスハイドレートの安定条件はメタンハイドレートの純水或いは海水中の三相(メタンガス-ハイドレート-水溶液)相平衡図が一般的に用いられている。これまでにDSDP(Deep Sea Drilling Project)とODP(Ocean Drilling Program)の掘削により得られた天然ガスハイドレートの堆積物中の分布下界(BSR)の温度と圧力の値を、メタンハイドレートの純水あるいは海水中の三相(メタンガス-ハイドレート-水溶液)相平衡条件と比べるとメタンハイドレートの純水あるいは海水中の三相相平衡条件は天然ガスハイドレートに適用できないことが分かった。

 従来のメタンハイドレートの相平衡図が天然ハイドレートの安定条件を示さないことの理由としては、(1)天然のメタンハイドレートのガス組成が純粋なメタンではない、(2)堆積物間隙水の化学組成は純水または海水と違う、(3)実験では十分に大きな容器中で溶液とガスが反応するのに対して、堆積物中ではガスハイドレートは小さな間隙中で生成する、(4)堆積物中の粘土鉱物などの化学的影響、などが考えられる。このうち、(1)については、これまで海底下から回収されたメタンハイドレートはほとんどメタンガスのみからなっていることがわかっており、ガス組成の影響はほとんどないと考えられる。そこで、本研究では、(2)の間隙水の組成の効果、(3)細孔の効果、(4)堆積物の鉱物組成的効果の三つについて検討するため、オートクレブ型の合成製置を用いて様々な条件で合成実験を行った。

研究方法

 本研究ではメタンハイドレートの安定条件(ハイドレート-ガス-溶液三相平衡点)を得るのに二つの方法を用いた:(1)閉鎖系で生成したハイドレートを昇温すると、ガスハイドレート-溶液-ガスの三相平衡線に沿って分解する。この方法はハイドレートの生成や分解によって溶液の濃度が変わらない純水系や、ハイドレートの生成や分解を直接観察ができないporous media系での合成実験に適用できる。(2)Pressure-search method:少量のハイドレートを生成させた後、系の温度を一定にしてメタンハイドレートの分解が始まるまでメタンガスをゆっくりと放出し、その温度に対応した平衡圧力を探す。この方法は溶液が純水でない場合にも適用出来る。

研究結果(1)間隙水の化学組成の違いによるメタンハイドレート安定条件の変動I.pH値の影響:

 酢酸ナトリウム-酢酸緩衝溶液を用いてハイドレート安定条件への間隙水のpH値の影響を検討した。図1に示すようにガスハイドレートの安定条件は溶液の濃度に依存し、pH値にほとんど影響されないことが分かった。

図1.pH 値の変化からハイドレートの安定条件への影響を調べる為の実験結果:ハイドレートの安定条件は溶液の濃度のみに依存し、pH値に依存しないことが分かった。
II.SO42-の影響:

 海水と間隙水の最大の違いは海底面から約20m以深の深度では一般に間隙水にSO42-が含まれない点である。そこで、間隙水をシミュレートして海水とほぼ同じ塩度、ほぼ同じイオン強度でSO42-を含まない溶液でのメタンハイドレートの安定条件を調べた。この場合、SO42-を含まない溶液中のCl-濃度が増やすことになってきた。実験結果から、SO42-を含む海水よりSO42-を含まない間隙水中でメタンハイドレートの安定条件は低温側に0.3℃シフトすることが認められた(図2)。このことは、SO42-よりCl-の方が安定条件に大きな影響を与えていることを示唆する。

図2.メタンハイドレートの純水、海水、堆積物の間隙水(SO42-を含まない人工海水)中の安定条件
III.NH4+の影響:

 Blake RidgeのODP Site997では、間隙水中のNH4+の濃度は海底面でゼロから堆積層の深部に向けて20mMになる。この変化によりハイドレート安定条件への影響が調べた。実験結果から、20mM NH4+の増加はメタンハイドレートの安定条件に顕著な影響を与えないことが確認された(図3)。

図3メタンハイドレートの純水、海水、堆積物の間隙水中及び20mM NH4+を含む溶液中の安定条件
IV.Mg2+の影響:

 間隙水中のMg2+濃度は海底面下20mまで著しく減少して後はほぼ変わらない事が分かっている。図4に示す様に、この変化はメタンハイドレートの安定条件にほとんど影響を与えない事が分かった。

図4メタンハイドレートの純水、海水、堆積物の間隙水中及び海水より高濃度のMg2+を含む溶液中の安定条件
V.高濃度の溶液を用いてCl-とSO42-の影響の確認:

 図5に示すようにメタンハイドレートの生成においてCl-はSO42-より妨害効用が強いことが高濃度の溶液を用いた合成実験で分かった。

VI.陽イオンの影響の評価:

 Cl濃度を一定にして、2M Na+を含む溶液と1M Mg2+を含む溶液で合成実験を行った。その結果、Na+溶液の方が高圧、低温側にシフトすることが観察された。しかし、そのシフトの程度は上記のCl-とSO42-の濃度変化によるシフトと比べると非常に小さいことが分かった(図5)。

 これによって上記の間隙水化学組成の変化によるメタンハイドレート安定条件への影響が説明をできる。

図5メタンハイドレートの高濃度溶液中の安定条件
(2)porous mediaとしての堆積物によるメタンハイドレート生成条件への影響:

 実際にハイドレートの存在が確認されたBlake Ridgeで採集した堆積物を用いて合成実験をして、堆積物によるメタンハイドレート生成条件への影響を調べた。メタンハイドレートの堆積物中の安定条件は海水中の安定条件よりさらに0.5℃低温側へのシフトが認められた(図6)。先に述べたように、SO42-を含まない間隙水中でのメタンハイドレートの安定条件は海水中の安定条件より0.3℃低温側ヘシフトしたが、この0.5℃のシフトの中にはSO42-の効果とともに堆積物による何らかの効果が含まれると考えられる。

図6.メタンハイドレートの純水、海水とBlake Ridgeから採集された堆積物中の安定条件
考察

 上記の実験結果を検討すると、メタンハイドレートが海水中より間隙水中で生成しにくい原因は間隙水にはSO42-が含まれないことによると言える。一方、続成作用による間隙水のcationの濃度変化はメタンハイドレートの安定条件に影響が少ないことが分かった。

 高濃度溶液での実験結果を検討すると、Cl-はSO42-より妨害作用が強いことが分かった。Cationでもメタンハイドレート生成への妨害作用を持っているが、その作用はanionより非常に小さいことが認められた。

 溶液の化学組成変化は水の活量の変化をもたらす。そこで、様々な組成の溶液中の水の活量とその溶液中でのメタンハイドレート生成条件のシフトの大きさの関係を調べた。これらは明らかな線型関係を示すことが分かった(図7)。このことから、生成条件変化が第一義的には水の活量変化によるものであることが確かめられた。

図7.72kg/cm2の圧力で、溶液の水の活量とメタンハイドレートの純水中の安定条件から温度シフト値の関係

 文献によると、堆積物の空隙サイズは100nm以上であり、この程度のサイズのporous media効用ではメタンハイドレートの生成にほとんど影響しないことが分かっている。今回の実験で得られた、堆積物のハイドレート安定条件への妨害効果は主に堆積物と間隙水の相互作用によると推定される。

審査要旨

 メタンガスと水とからなる固体状のガス、ガスハイドレートが海底堆積物中に広く分布する事が分かったのは20年ほど前の事であるが、掘削調査を含む本格的なガスハイドレート調査は最近の5年ほどの事である。従って、天然のガスハイドレートの産状、存在量、生成条件を支配する要因等については不明な点が多い。このような状況の中で、論文提出者は我が国で初めて、天然のガスハイドレートを主対象とする研究を行い論文を提出した。

 本論文はイントロダクションを含めて4つの部分からなる。はじめに、これまでに国際深海掘削計画で得られた成果が総括される。ガスハイドレートは低温・高圧で安定な物質であり、堆積物中では比較的浅い部分でのみ生成出来る。ハイドレートの分布深度は従って、その場所の水深、海水の温度と堆積物中での温度勾配で決まりる。一方、堆積物中にハイドレートが生成すると堆積物に密度や音の伝搬速度が大きく異なる不連続面が形成される。この不連続面は、地震探査によって明瞭にとらえることが出来、BSRと呼ぶ。この面の海底からの深度は上で述べた条件に合致するはずである。しかし、これまでに得られている安定条件は、実際の天然での産状とは合致しない事が最近の調査で明らかになった。その差は0.5〜2.0℃程度である。天然の安定条件が、実験的に決められた相平衡と合わない理由の候補として、(1)ガス組成の違い、(2)水の組成の違い、(3)生成のスペースの違い、つまり、実験では大きなスペースに生成するが、天然ではごく小さな間隙中に生成すること、(4)粘土鉱物などの鉱物の化学的影響、を上げている。このうち、天然のものも殆ど純粋なメタンハイドレートであることから(1)の可能性は排除出来るとして、本論文中では(2)〜(4)の効果について一つづつ実験的に検討される。実験は耐圧90気圧のオートクレーブを用いて行われる。その結果は以下の通りである。

 (1)pH値の影響:酢酸ナトリウム緩衝溶液を用いた実験により、pHはハイドレートの安定条件にほとんど影響を与えないことが明らかになった。この実験では、溶液の全濃度が安定条件を大きく変動することが改めて確認された。

 (2)SO4の影響:硫酸は海水の主要な陰イオンの一つであるが、続成作用で殆ど失われ、ハイドレートが生成される深度である海底下数100メートルの間隙水では殆どゼロとなる。そこで、濃度一定にして、硫酸濃度のみを変化させた溶液中での実験を行ない、硫酸を含まない溶液では低温側(0.3℃)にシフトすることが分かった。

 (3)NH4+の影響:アンモニア濃度も間隙水と海水で大きく異なる。続成作用の影響で間隙水中にアンモニアが増加することが、安定条件の温度シフトを引き起こすか否か実験したが、顕著な影響は与えない事が分かった。

 (4)Na+の影響:陽イオンの効果を調べるため、全濃度は一定で、Na+とMg2+濃度が異なる溶液中での実験を行った。その結果、Na+溶液の方が温度低下効果は大きいことが分かったが、シフト量は硫酸の効果より小さいことが分かった。

 (5)堆積物、細孔の効果:細孔の効果はすでに研究されており、その効果が現れるのは、径が100オングストローム程度という事がわかっている。堆積物の粒子間隙は数ミクロン〜数10ミクロンであり、実験で決められたオングストロームより遙かに大きい。従って、堆積物の細孔効果は温度シフトに貢献していないと予想される。しかし、水の組成効果が期待される温度シフト効果の半分〜四分の一程しか説明しないため、実際に堆積物中での生成実験を行ってその効果を検討した。天然の堆積部を用いたガスハイドレートの合成に初めて成功し、結果は予想に反し、0.5℃の温度効果が確認された。

 最後に実験結果を検討し、温度シフトがどの様なメカニズムで起こるかを議論している。論文提出者が注目したパラメーターは水の活量である。実験に用いた溶液の水の活量を計算し、温度シフトとの相関をみた。見事に逆相関(R=0.996)し、水和作用等によって水の活量が減少すると、生成温度も低下する事が示された。この考えを堆積物効果に適用すると、堆積物中では水の活量が小さくなっていると推論出来る。その機構として、堆積粒子表面に水のフィルムが形成され活量が低下するとする仮説が提案された。これは、堆積物が細粒(比表面積が大)であるほど温度シフトが大きいという事実とも調和的であり、堆積物中でのハイドレート相平衡の理解を深めた。

 なお、深海掘削試料の化学分析については松本、渡部との共同研究であるが、論文提出者が主体になって分析検討をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。以上述べたように、論文提出者は、海洋のガスハイドレートの生成条件を支配する要因を実験的に明らかにした。この業績は今後のガスハイドレート研究に大きな貢献であり、審査委員会として、博士(理学)の学位を授与出来ると認める。

UTokyo Repositoryリンク