メタンガスと水とからなる固体状のガス、ガスハイドレートが海底堆積物中に広く分布する事が分かったのは20年ほど前の事であるが、掘削調査を含む本格的なガスハイドレート調査は最近の5年ほどの事である。従って、天然のガスハイドレートの産状、存在量、生成条件を支配する要因等については不明な点が多い。このような状況の中で、論文提出者は我が国で初めて、天然のガスハイドレートを主対象とする研究を行い論文を提出した。 本論文はイントロダクションを含めて4つの部分からなる。はじめに、これまでに国際深海掘削計画で得られた成果が総括される。ガスハイドレートは低温・高圧で安定な物質であり、堆積物中では比較的浅い部分でのみ生成出来る。ハイドレートの分布深度は従って、その場所の水深、海水の温度と堆積物中での温度勾配で決まりる。一方、堆積物中にハイドレートが生成すると堆積物に密度や音の伝搬速度が大きく異なる不連続面が形成される。この不連続面は、地震探査によって明瞭にとらえることが出来、BSRと呼ぶ。この面の海底からの深度は上で述べた条件に合致するはずである。しかし、これまでに得られている安定条件は、実際の天然での産状とは合致しない事が最近の調査で明らかになった。その差は0.5〜2.0℃程度である。天然の安定条件が、実験的に決められた相平衡と合わない理由の候補として、(1)ガス組成の違い、(2)水の組成の違い、(3)生成のスペースの違い、つまり、実験では大きなスペースに生成するが、天然ではごく小さな間隙中に生成すること、(4)粘土鉱物などの鉱物の化学的影響、を上げている。このうち、天然のものも殆ど純粋なメタンハイドレートであることから(1)の可能性は排除出来るとして、本論文中では(2)〜(4)の効果について一つづつ実験的に検討される。実験は耐圧90気圧のオートクレーブを用いて行われる。その結果は以下の通りである。 (1)pH値の影響:酢酸ナトリウム緩衝溶液を用いた実験により、pHはハイドレートの安定条件にほとんど影響を与えないことが明らかになった。この実験では、溶液の全濃度が安定条件を大きく変動することが改めて確認された。 (2)SO4の影響:硫酸は海水の主要な陰イオンの一つであるが、続成作用で殆ど失われ、ハイドレートが生成される深度である海底下数100メートルの間隙水では殆どゼロとなる。そこで、濃度一定にして、硫酸濃度のみを変化させた溶液中での実験を行ない、硫酸を含まない溶液では低温側(0.3℃)にシフトすることが分かった。 (3)NH4+の影響:アンモニア濃度も間隙水と海水で大きく異なる。続成作用の影響で間隙水中にアンモニアが増加することが、安定条件の温度シフトを引き起こすか否か実験したが、顕著な影響は与えない事が分かった。 (4)Na+の影響:陽イオンの効果を調べるため、全濃度は一定で、Na+とMg2+濃度が異なる溶液中での実験を行った。その結果、Na+溶液の方が温度低下効果は大きいことが分かったが、シフト量は硫酸の効果より小さいことが分かった。 (5)堆積物、細孔の効果:細孔の効果はすでに研究されており、その効果が現れるのは、径が100オングストローム程度という事がわかっている。堆積物の粒子間隙は数ミクロン〜数10ミクロンであり、実験で決められたオングストロームより遙かに大きい。従って、堆積物の細孔効果は温度シフトに貢献していないと予想される。しかし、水の組成効果が期待される温度シフト効果の半分〜四分の一程しか説明しないため、実際に堆積物中での生成実験を行ってその効果を検討した。天然の堆積部を用いたガスハイドレートの合成に初めて成功し、結果は予想に反し、0.5℃の温度効果が確認された。 最後に実験結果を検討し、温度シフトがどの様なメカニズムで起こるかを議論している。論文提出者が注目したパラメーターは水の活量である。実験に用いた溶液の水の活量を計算し、温度シフトとの相関をみた。見事に逆相関(R=0.996)し、水和作用等によって水の活量が減少すると、生成温度も低下する事が示された。この考えを堆積物効果に適用すると、堆積物中では水の活量が小さくなっていると推論出来る。その機構として、堆積粒子表面に水のフィルムが形成され活量が低下するとする仮説が提案された。これは、堆積物が細粒(比表面積が大)であるほど温度シフトが大きいという事実とも調和的であり、堆積物中でのハイドレート相平衡の理解を深めた。 なお、深海掘削試料の化学分析については松本、渡部との共同研究であるが、論文提出者が主体になって分析検討をおこなったもので、論文提出者の寄与が十分であると判断する。以上述べたように、論文提出者は、海洋のガスハイドレートの生成条件を支配する要因を実験的に明らかにした。この業績は今後のガスハイドレート研究に大きな貢献であり、審査委員会として、博士(理学)の学位を授与出来ると認める。 |