学位論文要旨



No 113863
著者(漢字) 崔,晩淵
著者(英字)
著者(カナ) チェ,マンヨン
標題(和) ガ類におけるフェロモン生合成活性化神経ペプチド(PBAN)に関する生理学的および分子生物学的研究
標題(洋) Physiological and Molecular Biological Studies on Pheromone Biosynthesis Activating Neuropeptide,PBAN,in Moths
報告番号 113863
報告番号 甲13863
学位授与日 1998.09.30
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1957号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 生産・環境生物学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 田付,貞洋
 東京大学 助教授 片岡,宏誌
 東京大学 助教授 永田,昌男
 東京大学 助教授 嶋田,透
 東京大学 助教授 石川,幸男
内容要旨

 鱗翅目昆虫のうち多くのガ類では、雌の性フェロモンを介して異性間での化学的交信を行い、雌が同種の雄を誘引し交尾に至る。ガ類の性フェロモン生合成を制御する至近要因は、フェロモン生合成活性化神経ペプチド(PBAN)とよばれる神経分泌ペプチドであることが近年明らかになった。多くの鱗翅目昆虫において、PBANは食道下神経節より合成・放出されることがわかっている。しかし、PBANの構造はこれまでにわずか3種のガ類においてが明らかにされただけであり、ガ類におけるPBANの挙動や細胞内外におけるシグナル伝達機構を解明するためにはさらに多くの種のPBANの構造と機能を明らかにすることが重要である。

 本研究は二部構成である。PartIでは、タバコガHelicoverpa assultaの性フェロモン生産に注目してPBANの構造と機能に関する生理学的および分子生物学的研究について論じる。PartIIでは、カイコBombyx moriを用いてPBAN受容体の構造解明の試みについて論じる。

PartI

 タバコガはヤガ科に属し、アジア、アフリカ、オーストラリアに分布するナス科作物の重要害虫である。新大陸産の同属種H.zeaはPBANの存在と構造がそれぞれ最初に明らかにされた種であるので、近縁種であるタバコガにおいてPBANの生理、生化学的研究をおこなうことは、ガ類のPBANに関する新たな知見を得ることだけでなく、H.zeaにおける結果との比較にも大きな意義がある。

1.タバコガにおける性フェロモン生合成の経時変化

 性フェロモン腺をn-ヘキサンに10分間浸漬して抽出される性フェロモン成分量から性フェロモン生合成活性を推定した。まず、羽化後1〜10日齢の処女雌について、暗期開始2時間後の主成分Z9-16:Aldの保有量を測定した。フェロモン生合成は1日齢において最大レベルにあり、それ以後は加齢にともなって減少した。つぎに、1日齢の処女雌を用いて15L:9Dにおける24時間の変化を調べたところ、性フェロモンの4成分(Z9-16:Ald,16:Ald,Z11-16:Ald,Z9-16:Ac)がほぼ暗期中に限って検出され、性フェロモン生合成が暗期におこることがわかった。アルデヒド3成分(Z9-16:Ald,16:Ald,Z11-16:Ald)の性フェロモン腺中の保有量の変化は互いに似たパターンを示し、暗期の中間(暗期開始から4〜8時間)に最大になった。一方、アセテート成分Z9-16:Acの保有量はアルデヒド成分とは異なり、暗期の末期に明瞭なピークが見られた。

2.PBANが性フェロモン生産に与える影響

 処女雌の頭胸間を結紮するか、または断頭をおこなうと、正常虫で性フェロモン生産がみられる暗期開始2時間後にもZ9-16:Aldが検出されなかった。つぎに、雌および雄の頭部抽出物、雌および雄の脳-食道下神経節複合体ホモジネート、合成PBAN(Helicoverpa zeaのPBAN;Hez-PBAN)を、断頭した処女雌の血体腔に注射したところ、いずれの注射によっても正常虫では性フェロモン生産がみられない明期にZ9-16:Aldが合成された。これらの結果は、脳または食道下神経節、あるいは両方で、雌雄を問わずPBANないしPBAN様因子が合成・蓄積されていることを示唆する。注射によって誘導される性フェロモンの量は、頭部抽出物でも脳-食道下神経節複合体のホモジネートでも雌雄間で同等であった。処女雌1頭当量の雌頭部抽出物を、断頭した処女雌の血体腔に注射して、フェロモン腺における性フェロモン生合成の経時変化を追跡した。注射15分後からZ9-16:Aldが検出され、45分後にはピークを迎えたが、2時間後にはごく微量しか検出されなかった。同様の結果は合成PBANを注射した場合にも得られた。これらから、PBANは、少なくとも暗期前半には継続して血液中に放出されてフェロモン生合成を促進していることがうかがえた。性フェロモン生合成量は、注射した頭部抽出物量、ないし合成PBAN量により変化した。最低1fMの合成PBANによってもZ9-16:Ald生産が誘導された。1〜10pMの合成PBANによって生産された量の間には有意差は見られなかった。これらの結果から、PBANまたはPBAN様因子の血液中の濃度は1〜10pMのレベルであることが示唆された。

3.タバコガのPBAN cDNAのクローニング

 タバコガのPBAN(Has-PBAN)のcDNA(756塩基)を、タバコガ成虫の脳-食道下神経節複合体より単離して塩基配列を決定した。cDNA塩基配列より推定されたプレプロホルモン(194アミノ酸残基)がプロセッシングを受けて、PBAN(33アミノ酸残基)と4種のペプチド(それぞれ24アミノ酸残基、7アミノ酸残基、18アミノ酸残基、8アミノ酸残基)が生成すると予想された。Has-PBANおよび他の4種のアミノ酸配列は、近縁種H.zeaにおけるHez-PBANおよび4種のペプチドの配列とそれぞれ完全に一致した。また、これら5種の予想されるペプチドは、いずれも5アミノ酸残基(FXPRL)からなる共通のペプチド配列をC末端に持っていた。以上から、タバコガ雌成虫は自身の持つPBANを性フェロモン生合成に利用していると考えられる。1〜3日齢の雌および雄成虫の脳-食道下神経節複合体由来のmRNAをノーザンハイブリダイゼーションによって調べたところ、いずれにおいてもHas-PBAN cDNAに相当するサイズを持つmRNAバンドが1本だけ見られ、しかも、その発現量は雌雄で同じレベルであった。このことから雄の脳-食道下神経節複合体ホモジネート中にみられた性フェロモン生合成活性化因子はHas-PBANそのものであることが示唆される。しかし、雄におけるHas-PBAN、ならびに雌雄における他の4種のペプチドの生理機能は不明である。

PartII

 カイコにおけるPBANに関する研究はおもに日本の研究者によっておこなわれており、すでに2種のPBANの構造が解明され、さらに細胞内シグナル伝達機構を中心としたPBANの作用機構の解明が進んでいる。しかし、作用機構の全体像を把握するためには未解決であるPBAN受容体の構造解明が不可欠である。

4.カイコのPBAN受容体

 合成したカイコPBAN(Bom-PBAN I)をビオチン標識してHPLC分析した結果、二つのピークが得られた。これらビオチン化PBANと考えられるもののHPLC分析における保持時間はいずれもBom-PBAN Iよりも長かった。HPLC画分のウェスタンブロットを抗ビオチン抗体とハイブリダイズさせて、Bom-PBAN Iがビオチン化されていることを確認した。HPLC画分のTOF-MS分析からも、分子量の異なる二つのビオチン化PBANが得られたことがわかった。これら二つのビオチン化PBANのうち、分子内の2箇所でビオチン標識されたビオチン化PBANを用いて、PBANレセプターcDNAのスクリーニングを行うことにした。まず、ビオチン化PBANを断頭したカイコ処女雌成虫の血体腔に注射したところ、性フェロモン成分ボンビコールの生産が誘導された。また、ボンビコール生産量はビオチン化PBANの注射量に応じて変化した。したがって、Bom-PBAN Iのビオチン化はPBAN活性自体には影響を与えていないことが示された。羽化前後の雌の性フェロモン腺由来のmRNAからcDNAライブラリーを作成し、パニング法によってスクリーニングした。第一次スクリーニングで陽性クローンを含むと考えられる1.5×104個のクローンを得て、第二次スクリーニングに供した。しかし、数回の試行にもかかわらず、第二次スクリーニングにおいて陽性クローン率を上げることができなかった。

 以上要するに、タバコガ処女雌成虫は中枢神経で生合成されたPBAN(Has-PBAN)を暗期になると継続的に血液中に放出して性フェロモン生合成を促進していることを示し、cDNAクローニングによって推定されたHas-PBANのアミノ酸配列は近縁種のH.zeaのPBAN(Hez-PBAN)のアミノ酸配列と全く同一であることを明らかにした。Has-PBANは性に関係なく合成されて頭部に蓄積されるが、雄における動態、機能は不明である。また、カイコにおいてビオチン化PBANがフェロモン生合成促進活性を有するとともに抗ビオチン抗体との免疫反応性を保有していることを明らかした。これによりPBANレセプターcDNAクローニングにおけるビオチン化PBANの有用性が示唆された。

審査要旨

 ガ性フェロモン生合成の至近制御要因は、フェロモン生合成活性化神経ペプチド(PBAN)とよばれる神経分泌ペプチドである。PBANは食道下神経節で合成・放出されることがわかっているが、PBANの構造はこれまでにわずか3種のガ類において明らかにされただけであり、PBANの挙動や細胞内外におけるシグナル伝達機構の解明にはさらに多くの種のPBANの構造と機能を明らかにすることが重要である。

 本論文は二部構成で、第一部(第I章から第III章)では、タバコガHelicoverpa assulta PBANの構造と機能に関する生理学的および分子生物学的研究について、第二部(第IV章)では、カイコガBombix mori PBAN受容体の構造解明の試みについて論じている。

I.タバコガにおける性フェロモン生合成の経時変化

 1日齢の処女雌で性フェロモン生合成の日内変化を調べたところ、性フェロモン生合成が暗期に集中することがわかった。アルデヒド3成分の変化は互いに似たパターンを示し、暗期の中間に最大になったが、アセテート成分は暗期の末期に明瞭なピークを示した。つぎに羽化後1〜10日齢の処女雌の性フェロモン生合成を調べたところ、1日齢において最大レベルにあり、それ以後は加齢にともなって減少する傾向が示された。

II.タバコガPBANが性フェロモン生産に与える影響

 処女雌の頭胸間結紮および断頭は性フェロモン生産を完全に抑制した。明期に調製した雌雄の頭部抽出物、雌雄の脳-食道下神経節複合体(Br-Sg)抽出物、合成PBAN(Helicoverpa zeaのPBAN;Hez-PBAN)を断頭処女雌に注射したところ、いずれも同レベルでZ9-16:Aldが合成された。これらの結果は、Br-Sgで雌雄や明暗を問わずPBAN(様因子)が蓄積されていることを示唆する。1頭分の雌頭部抽出物を断頭処女雌に注射すると、Z9-16:Ald生産は45分後にピークを迎えたが2時間後にはほぼ収束し、PBANが継続して血液中に放出されていることがうかがえた。生合成量は注射量により変化し、合成PBANでは最低1fMからZ9-16:Ald生産が誘導されたが、1pM〜10pMの間では有意差は見られなかった。

III.タバコガPBAN cDNAのクローニング

 タバコガPBAN(Has-PBAN)のcDNA(756塩基)を、タバコガ成虫のBr-Sgより単離して塩基配列を決定した。cDNAから推定されたプレプロホルモン(194アミノ酸残基)がプロセッシングを受けて、共通のペプチド配列(FXPRL)をC末端に持つPBANと4種のペプチドが生成するものと予想された。これらのアミノ酸配列は、近縁種H.zeaのHez-PBANと4種のペプチドとそれぞれ完全に一致した。以上から、タバコガ雌成虫は自身のPBANを性フェロモン生合成に利用していると考えられる。雌雄成虫のBr-Sg由来mRNAのノーザン解析では,いずれもHas-PBAN cDNAに相当する1本のmRNAバンドが見られ、その発現量は雌雄で同じレベルだった。よって雄に存在する性フェロモン生合成活性化因子もHas-PBANであることが示唆されたが、雄におけるHas-PBANの生理機能は不明である。

IV.カイコガのPBAN受容体

 ビオチン標識されたPBANを用いて、パニング法によるカイコガのPBAN受容体cDNAのクローニングを試みた。合成PBANをビオチン標識してHPLC分析した結果、PBANよりも保持時間が長い二つのピークが得られた。抗ビオチン抗体との結合、およびTOF-MS分析の結果から、二種のビオチン化PBANの生成が確認された。ビオチン化PBANを断頭処女雌に注射したところ、用量依存的に性フェロモン生産が誘導され、ビオチン化がPBAN活性に影響を与えないことが示された。雌の性フェロモン腺由来のmRNAからcDNAライブラリーを作成し、一次スクリーニングで陽性クローンを含む1.5×104個のクローンを得たが、二次スクリーニングで陽性クローン率を上げることはできなかった。

 以上要するに、タバコガ雌成虫は自身のPBAN(Has-PBAN)により性フェロモン生合成を促進しており、cDNAから推定されたHas-PBANのアミノ酸配列は近縁種のH.zeaのPBAN(Hez-PBAN)のそれと全く同一であることを明らかにした。Has-PBANは性や明暗に関係なく合成・蓄積されるが、雄における機能は不明である。また、カイコガにおいてビオチン化PBANがPBAN活性を保持し、かつ抗ビオチン抗体との免疫反応性を有することを明らかにし、パニング法によるPBAN受容体cDNAクローニングにおけるビオチン化PBANの有用性を示した。以上の結果は学術的にも応用的にも寄与するところが大であることから、審査委員一同は本論文が博士(農学)を授与するに値することを認めた。

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