学位論文要旨



No 113868
著者(漢字) 鈴木,義里
著者(英字)
著者(カナ) スズキ,ヨシサト
標題(和) インドの言語政策 : 多言語社会における国家と言語
標題(洋)
報告番号 113868
報告番号 甲13868
学位授与日 1998.10.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第181号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 宮下,志朗
 東京大学 教授 丹治,愛
 東京大学 助教授 斎藤,兆史
 東京外国語大学 助教授 藤井,毅
 東京大学 教授 山内,昌之
内容要旨

 日本では公的な場面ではまず日本語以外の言語の使用は許されていないといってよいだろう。それは例えば、公教育において日本語以外の言語を母語と想定したカリキュラムが作られていないことを見ても、また公共機関の書類や書式が日本語のみとなっている点を見ても明らかである。つまり日本語は日本において、国家の言語であり、国民の言語であり、公用語であることが、暗黙の了解として約束されているように見える。しかし、実際には日本語を母語としない「日本人」もいるし、100万人を越える定住「外国人」もいる。さらに日本語そのものの変種は捨象されており、単一の「言語」ということになっている(このような捨象は、他の言語でも多かれ少なかれ行われており日本語に特有という訳ではないが)。このような言語環境の中にあっては、言語にどのような力が言語の「外」から加わっているのかを観察することは難しい。

 他方、インドにおいては、日常的に多言語にさらされており、むしろ単一の言語だけで用を足すことは困難であるともいえるような状況である。そこでは、常に、どの言語を選択するのかということが問題であり、言語にはその背後にある種の力が加えられていることを意識せざるをえない。この論文の目指すものは、多言語国家インドの言語言語政策の実態を検討することを通じて、言語に加えられている力がどのようなもので、それがどのように働いているのかを検討しようというところにある。

1.インドの多言語状況

 インドの多言語状況はよく知られているが、これは数が多いというだけではない。宗教や社会的な階層によって大きな違いがある。しかも、主要なものだけでも10種類の異なる文字(ローマ字を除く)が使用されている。しかし、インドでは人々が互いに意思疎通を図れないと考えるのは誤りである。当然のことであるが、インドに限らず多言語社会の中でも意思疎通は図られているはずである。それは、複数の言語を操る人々が存在しているからである。複数の言語を話すことはごくありふれたことであり、これは多言語教育の結果ではない(それほど教育は普及していない)。もちろん、北の端の人間が南の端の人間とただちに話ができるというわけではないが、しかし、隣同士の村では相互に意思疎通が可能であり、北端から南端へ、あるいは東端から西端までゆっくりと徒歩で行けば、その間に言語の切れ目はないのである。

 しかし、国家としてのインドにとって、共通の言語がないことはやはり不都合であるということも事実であり、連邦の公用語が必要とされることになる。イギリスからの独立運動を通じて形成された民族意識は、国家の言語(国家語)を指向することになった。しかし、これは1国家1言語という近代国民国家の思想に基づくものであり、必ずしもインドにふさわしいものとは思われない。

2.連邦の言語政策

 インドは25州と8直轄地からなる連邦制の国家であるが、連邦とその構成要素である州との関係については議論がある。連邦政府、州政府とも公用語を制定する権利をもち、前者の公用語は憲法第343条(1)項で「デーヴァナーガリー文字によるヒンディー語とする」と規定されており、州ではそれぞれの公用語法で州公用語を定めている(その根拠は憲法第345条)。したがって、人々は連邦と州の二重の公用語の枠組みの下で言語生活を送っていることになる。

 憲法(1950年施行)の規定する連邦公用語はヒンディー語であるが、憲法施行後15年に限定して、イギリス植民地統治下での公用語=英語も公用語としての地位を保つことが規定されていた(憲法第343条(2)項)。しかし、その後タミル・ナードゥ州などで起こった反対運動の結果、15年という規定は破棄され(「1963年公用語法」)、実質的に無期限で英語を公用語として使用することが認められ、これは1968年の内務省決議によっても確認された。一方で英語への強い指向が人々にはあるものの、ヒンディー語は連邦政府によって単独の国家語として取り扱われており、1976年の「連邦公用語規則」でその方向は強められた。さらに内務省内の公用語局や人的資源開発省内の教育庁の行なっている施策からもヒンディー語を単独の公用語として扱っていることは明らかである。これは「ヒンディー語化」とでも呼ぶべき現象であり、今後も人々の英語指向とともに、この傾向は弱まることはないものと思われる。

3.州の言語政策

 対象とする州の選定には困難な問題がいくつかあるが、できるだけ単純な問題から出発して、その後により複雑な問題を考えるのが適当であろう。政治的あるいは経済的な利害は、しばしば言語運動として表現されることがあり、「言語問題」は実は政治的・経済的な利害関係を形に表したものに他ならないという場合も少なくない。そのような激しい言語運動の起こっている地域を対象として政治と言語の関連を明らかにし、そのような運動の起こっていない地域でも同様の構造があるだろうと推測するという方法がありうるだろう。しかし、逆に、一見言語と政治の関係が希薄なように見える地域を対象として、その対照地域として「言語問題」が顕著な形で浮上している地域を捉えるという方法もあるだろう。「言語問題」が顕在化している地域では、確かに問題が鮮明になっているというメリットがある反面、その問題をめぐる言説には幾分なりとも偏向が含まれており、中立なデータが得にくいというデメリットもある。本論では「言語問題」ができるだけ浮上していない地域から、言語系統と言語的な均質度を中心軸に4州を対象として選び出した。すなわち、ドラヴィダ系の州から言語的均質度の高いケーララ州と、言語的均質度の低いカルナータカ州、インド・アーリア系の州から言語的均質度の高いグジャラート州と均質度の低いマハーラーシュトラ州を選んだ。そしてこれらの4州を対象として、州公用語法の内容・教育での言語の扱い・メディア・日常生活における言語に関して検討を加えた。

a.ケーララ州・カルナータカ州

 ケーララ州はインドで最も言語的均質度の高い州であり、また識字率も群を抜いて高い地域である(いずれも90%を超えている)。州公用語はマラヤーラム語と英語の2言語であり、これは連邦公用語と類似している。そして、英語についての取り扱いの方法も連邦政府の場合と同様、制度上は公用語だが、実際の扱いはマラヤーラム語に比べると極めて貧弱である。また、教育・メディア・日常生活についてもマラヤーラム語が強く指向されていた。つまり、連邦におけるヒンディー語と同じように、ケーララ州においてはマラヤーラム語が単独の公用語であるかのような扱いになっている。もともと言語的均質度が高い地域であるから、その言語への傾斜はある程度予想されたことであるとはいえ、その傾向は拍車をかけられたものとなっている。

 ケーララ州のマラヤーラム語と同じドラヴィダ語族のカンナダ語がカルナータカ州の公用語である。この州はカンナダ語話者が人口の65%で、言語的均質度は低いといってよい。他の優勢言語はウルドゥー語(9.5%)、テルグ語(8.1%)、マラーティー語(3.8%)、タミル語(3.8%)である。州公用語はカンナダ語であり、他の言語への考慮はなされていない。興味深いことに、カルナータカ州政府は、言語的均質度の高いケーララ州よりもむしろ強くカンナダ語を指向する傾向が見られた。

b.グジャラート州・マハーラーシュトラ州

 インド・アーリア系のグジャラーティー語の話者が人口の90%以上を占めているグジャラート州では、ヒンディー語とグジャラーティー語の2言語を州公用語として定めている。このグジャラート州でもケーララ州・カルナータカ州で見られたものと同様の傾向、すなわち州の公用語(グジャラーティー語)へ収斂していく傾向が観察された。つまり、言語系統には関わりなく、州の公用語を指向する傾向があると総括できるだろう。しかし、これは言語的均質度が高いことによるとも考えられ、対照地域として言語系統が同じで言語的均質度の低い地域、すなわちマハーラーシュトラ州の検討を行なった。

 グジャラーティー語と系統を同じくするマラーティー語を有力言語とし、しかもその話者の比率の低い州であるマハーラーシュトラ州は、マラーティー語話者が70%強を占めており、他の優勢言語はウルドウー語(6.9%)、ヒンディー語(6.7%)、グジャラーティー語(2.7%)であるが、マラーティー語が単独で州公用語とされている。

 以上のように言語系統・言語的均質度の異なる州においても、州公用語という中心へと向かう強い力が観察された。「州語化」とでも称するべきこの傾向は、連邦における「ヒンディー語化」と並行的な現象である。また、上では述べなかったが、この傾向とは一見対立するような強い英語指向が人々の中には観察され、これは4州すべてに共通していた。おそらく連邦全体の傾向であると考えてよいだろう。

4.結論

 多言語国家インドにおいて、連邦と州の言語政策がどのようなものであるのかということを4つの州を対象として検討を加えたが、その結果を要約すれば、まず第一に連邦・州の両者ともそれぞれの中心言語=公用語へと収斂しているということになる。この場合、ヒンディー語へと傾斜する連邦の力と州の公用語へと傾斜する両者の間には必ずしも常に対立があるわけではない。国家全体としてはヒンディー語化へと進みながら、同時にその構成要素である州ではその流れの中で州公用語化が進行しているのである。

 第二に、このような動きと同時に、より広い範囲での流通が保証されている英語が、人々によって指向されているという事実も観察された。つまり、制度として言わば上からの動きとしては実質的に単一の連邦公用語であるヒンディー語(制度上は英語も連邦公用語である)と州公用語へと進んでいながら、同時に人々の下からの要求としては英語も指向されているということができる。つまり、ヒンディー語と州公用語と英語の3種類の言語の均衡の上に多言語国家インドの言語状況は成り立っている。多言語状況は個別化と普遍化の両者の動きが現在のインドでは起こっている。

審査要旨

 本論文は、多言語国家インドにおける言語政策を、現地調査の成果をもふまえつつ論じたものである。

 わが国とはことなり、4系統、100〜200の言語数を擁して、日常的に多言語状態にさらされ、単一の言語によって生活するのがむしろ困難ともいえるような状況にある国家インド、そこでは言語に対していかなる力が働いているのかを見定めること、これが本論文の主たる目的だといえる。すなわちこの典型的な多言語国家において、言語の使用に関していかなる規範的な力が、いかなる方向に働いているのか、また話し手の側はこうした拘束力に対していかなるふるまいをみせるのかを検討したものである。そしてこの研究を通して、わが国において、実は顕在化していないだけで、いかなる言語の網がわれわれにかぶせられているのかを意識にのぼせることも、本論文の大きな目的なのである。

 さて全体は、序論、本論、結論の3部構成(全6章)で綴られている。

 序論ではまず、 「言語と規範」という問題を扱う学問的枠組みとしての社会言語学に関して簡単な展望が示され、しかるのち、ここで著者によって取り扱われるのが「言語計画」と呼ばれる分野であることが確認される。次いで、主としてヨーロッパ近代国民国家をモデルとしてきたところの、単一言語をスタンダードとする社会に対して優位性が付与されてきた歴史が記述されて、このことへの疑問が提示される。つまり現在の世界で進行しつつあるグローバル化と個別化という二極の動きを説明するためには、むしろ多言語を常態とするところの国家の詳細なる検討が有効ではないのかというのが著者の視座なのである。そして著者は、多言語状況は個別化・普遍化を共起させるのではとの推測を立てる。

 次にインドの多言語状況が描き出される。州を単位として、言語系統・使用文字・言語的均質度・識字率・宗教といった各種パラメーターを基準にして、この国のいわば言語的な多様性が描き出されるわけである。たとえばリテラシーに関して、この国には、90%以上の識字率を誇る州が存在する一方で、40%未満の州(ビハール州等)も依然残っている。ここは言語的に実にさまざまな非均質国家である事実があらためて確認されるのである。

 次いで著者は、調査対象の州の選択という微妙な問題にとりかかる。そして言語問題が民族問題などの政治的な問題として必ずしも顕在化していない州を対象に選択する。それは従来から、そうした「ふつうの」(語弊がある言い方だが)州に関しては、問題なしとされることによって、実際にはほとんど研究のメスが入れられてこなかったという経緯があるからにほかならない。また激しい言語運動の起こっている地域を選べば興味深いかもしれないが、よく考えてみれば、その当該言語(すなわち連邦公用語ヒンディー語とは異なる言語)に対する強烈な求心力が働いていることは自明なのであって、それは本論の趣旨を反映するものとはいえない。「ふつうの」州でもやはり強い求心力が働いているにちがいないという仮説が基本にあるとの立場が表明される。読み手としては、言語問題が先鋭化している州で、規範にあらがう力がいかに働いているのかを知りたい気持ちに駆られるとはいえ、著者の動機ならびに対象の選択は十分に理解できる。

 こうして本論に入る。まず、インド連邦の言語政策に記述がさかれる(第3章)。インドは、連邦政府、州政府とも公用語を制定する権利をもち、前者の公用語は「ヒンディー語」、州はそれぞれの公用語法で州公用語を定めている。しかしながら実際は、憲法の付帯条項で英語も公用語の地位を認められている。以上単純化したが、こうした動きを、法律や内閣決議といった資料をもとに追跡したひじょうに貴重な作業といえるのではないか。ただし政策決定過程あるいは政策決定主体の問題に関しては、分析が不十分と思われる。ともあれ著者は内務省公用語局の政策、あるいは1976年の「連邦公用語規則」等々によって、「ヒンディー語化」とでも呼ぶべき現象を確認するに至る。要するに、少なくとも連邦レベルでは、公用語は従来のヒンディー語・英語の共存からヒンディー語化へと向かっており、この傾向は強まることはあっても弱まることはないというのが著者の認識なのである。この個所では、官公庁のポスト、教育・出版等の多様なデータを根拠として、ヒンディ語が公用語から国家語/国民語への傾斜を強めているという注目すべき現実が指摘される。

 さて次が第4章「州の言語政策」である。これは本論文の白眉をなす部分といえる。先に第2章で宣言したごとく、著者は、言語問題が先鋭化している地域では、なるほど問題は鮮明になっているというメリットがあるかもしれないが、当該問題をめぐる言説には往々にしてバイアスがかかり、中立なデータが得にくいのだと考える。そしてあえて言語問題」ができるだけ浮上していない地域から、「ふつうの」州を選択する。その際の基準は、(1)有力言語の系統、(2)均質度であって、4つの州が選択される。すなわちドラヴィダ系の州から言語的均質度の非常に高いケーララ州と、言語的均質度の低いカルナータカ州、インド・アーリア系の州から言語的均質度の高いグジャラート州と、均質度の低いマハーラーシュトラ州である。

 以下にこの4州の簡単なデータを記載しておく。

 #ケーララ州:ドラヴィダ語系。均質度(96%)・識字率(91%)ともに最高の州。州の公用語=マラヤーラム語・英語。

 #カルナータカ州:ドラヴィダ語系。均質度低し(66%)、識字率ふつう(56%)。州の公用語=カンナダ語。

 #グジャラート州:インド・アーリア語系。均質度高し(91%)、識字率ふつう(61%)。州の公用語=ヒンディー語・グジャラーティ語。

 #マハーラーシュトラ州:インド・アーリア語系。均質度低し(74%)、識字率ふつう(56%)。州の公用語=マラーティー語。

 この4州を対象として、州公用語法の内容、教育における媒体言語・カリキュラム、活字メディアの言語分布、日常生活における言語といった項目をもうけて、詳細な調査を実行した成果が盛りこまれている。ここでは州の公文書から、駅や切符の表示、はたまた看板や街角のポスターに到るまで、実にさまざまなレベルにおける観察がおこなわれているわけで、著者の面目躍如たるものがある。

 この実地調査の結果、これら言語系統・言語的均質度の異なる4州のいずれにおいても、州公用語という中心へと向かう強い力が働いているのだ事実を著者は確認する。「州語化」と命名されたこの現象は、連邦における「ヒンディー語化」現象とパラレルなものなのである。付言しておくと、州レベルでのこれほど具体的かつ微細にわたる実地調査は、ほとんど前例を見ないものであって、著者の毎年のフィールドワークの賜物として高く評価したい。

 これに続く第5、6章は全体の結論として位置づけられる。以上の調査結果をベースにして、著者は連邦・州ともに、中心言語=公用語に収斂していく傾向が顕著であるとの結論を導き出す。そして、ここに「国民国家」という近代のイデオロギーを見いだすのである。

 しかしながらここで注目すべきは、連邦公用語としてのヒンディー語という規範が及ぼす力と、各州の単一公用語化というモーメントとが対立拮抗しているわけではないことが強調されている事実ではないのか。つまり国家全体のヒンディー語化への傾斜と、国家の構成要素である州における公用語化とは、いわばダブルスタンダードで進行している、これがインドの実情であるとの興味深い指摘がなされるのだ。

 そしてことは、この二重構造にとどまらない。なぜならば、この国では当然ながら、これとは別に英語指向が観察される。しかも、この英語指向は、英国植民地の遺産としてのステイタスという段階をひとたび精算したのちの新局面、すなわち市場原理・経済原理による選択であるとの認識が示される。

 要するに、典型的多言語国家インドは、ヒンディー語・州公用語・英語という3言語のバランスの上に成立しつつあるのではないのかという認識である。かくして序論で提起されたところの、多言語状況は個別化の動きと普遍化の動きを共起させるというテーゼが確認される。

 膨大な先行文献を参照した上で、毎年の現地調査をおこない、また時にはインターネットによってインド政府当局のさまざまな情報を入手するなど、新設の言語情報科学専攻にふさわしい労作として評価したい。そもそも州レベルにおける言語政策をここまで詳細かつ具体的に調査した試みはほとんど先例を見ないものであって、本研究が提示した数多くのデータは、インドを対象とした社会言語学的なアプローチの際に、今後とも基本的な資料として活用されるにちがいない。なによりも著者の長年の研鑚をたたえたい。今後は、たとえばヒンディ語・英語以外の複数言語を公用語化している州の実地調査をおこなうなど、本論文で取り扱った主題の拡大と深化をはかることによって、本研究が社会言語学のひとつの達成となることが大いに期待される。

 以上、本論文の価値をはっきりと確認した上で、いくつか苦言を呈しておきたい。記述の回路が分かりにくい個所、主語を明示しないため曖昧となっている個所などが散見されたことは残念であった。またデータの解釈に疑問が付されることもなしとしない。たとえば英語教育に多大の時間が割かれている事実を確認しておきながら、英語の普及は政策的なものではなく、民の要求だというからには、その根拠をはっきり示してほしかった。論文の性質上、記述的なものとなるのは必定ではあったが、それだけに問題の所在をよりシャープに提示して、むしろ、もう少しポレミックな書き方を選んでもよかったかもしれない。

 今後は、すでにふれた政策決定主体という問題、あるいは文官レベルにとどまらず軍と言語という問題等について調査と思索をおこなえば、さらなる研究の発展が期待できる。そしてまた「言語と規範」という枠組みを乗り越え、「規範と領有」という枠組みを構築し、規範にあらがう力の分析をおこなえば、よりダイナミックな議論が展開できることも予想される。こうした観点から、さらに精進していただきたい。

 ともあれ鈴木義里氏の論文は、いみじくも審査員の一人が述べたように、わが国におけるインド学の現状から、明らかに大きな一歩をふみだした有意義な試みにほかならない。

 以上の経緯により、審査委員会は全員一致で鈴木義里氏の論文『インドの言語政策』は博士(学術)の学位に十分あたいするとの結論をくだしたものである。

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