本論文は、多言語国家インドにおける言語政策を、現地調査の成果をもふまえつつ論じたものである。 わが国とはことなり、4系統、100〜200の言語数を擁して、日常的に多言語状態にさらされ、単一の言語によって生活するのがむしろ困難ともいえるような状況にある国家インド、そこでは言語に対していかなる力が働いているのかを見定めること、これが本論文の主たる目的だといえる。すなわちこの典型的な多言語国家において、言語の使用に関していかなる規範的な力が、いかなる方向に働いているのか、また話し手の側はこうした拘束力に対していかなるふるまいをみせるのかを検討したものである。そしてこの研究を通して、わが国において、実は顕在化していないだけで、いかなる言語の網がわれわれにかぶせられているのかを意識にのぼせることも、本論文の大きな目的なのである。 さて全体は、序論、本論、結論の3部構成(全6章)で綴られている。 序論ではまず、 「言語と規範」という問題を扱う学問的枠組みとしての社会言語学に関して簡単な展望が示され、しかるのち、ここで著者によって取り扱われるのが「言語計画」と呼ばれる分野であることが確認される。次いで、主としてヨーロッパ近代国民国家をモデルとしてきたところの、単一言語をスタンダードとする社会に対して優位性が付与されてきた歴史が記述されて、このことへの疑問が提示される。つまり現在の世界で進行しつつあるグローバル化と個別化という二極の動きを説明するためには、むしろ多言語を常態とするところの国家の詳細なる検討が有効ではないのかというのが著者の視座なのである。そして著者は、多言語状況は個別化・普遍化を共起させるのではとの推測を立てる。 次にインドの多言語状況が描き出される。州を単位として、言語系統・使用文字・言語的均質度・識字率・宗教といった各種パラメーターを基準にして、この国のいわば言語的な多様性が描き出されるわけである。たとえばリテラシーに関して、この国には、90%以上の識字率を誇る州が存在する一方で、40%未満の州(ビハール州等)も依然残っている。ここは言語的に実にさまざまな非均質国家である事実があらためて確認されるのである。 次いで著者は、調査対象の州の選択という微妙な問題にとりかかる。そして言語問題が民族問題などの政治的な問題として必ずしも顕在化していない州を対象に選択する。それは従来から、そうした「ふつうの」(語弊がある言い方だが)州に関しては、問題なしとされることによって、実際にはほとんど研究のメスが入れられてこなかったという経緯があるからにほかならない。また激しい言語運動の起こっている地域を選べば興味深いかもしれないが、よく考えてみれば、その当該言語(すなわち連邦公用語ヒンディー語とは異なる言語)に対する強烈な求心力が働いていることは自明なのであって、それは本論の趣旨を反映するものとはいえない。「ふつうの」州でもやはり強い求心力が働いているにちがいないという仮説が基本にあるとの立場が表明される。読み手としては、言語問題が先鋭化している州で、規範にあらがう力がいかに働いているのかを知りたい気持ちに駆られるとはいえ、著者の動機ならびに対象の選択は十分に理解できる。 こうして本論に入る。まず、インド連邦の言語政策に記述がさかれる(第3章)。インドは、連邦政府、州政府とも公用語を制定する権利をもち、前者の公用語は「ヒンディー語」、州はそれぞれの公用語法で州公用語を定めている。しかしながら実際は、憲法の付帯条項で英語も公用語の地位を認められている。以上単純化したが、こうした動きを、法律や内閣決議といった資料をもとに追跡したひじょうに貴重な作業といえるのではないか。ただし政策決定過程あるいは政策決定主体の問題に関しては、分析が不十分と思われる。ともあれ著者は内務省公用語局の政策、あるいは1976年の「連邦公用語規則」等々によって、「ヒンディー語化」とでも呼ぶべき現象を確認するに至る。要するに、少なくとも連邦レベルでは、公用語は従来のヒンディー語・英語の共存からヒンディー語化へと向かっており、この傾向は強まることはあっても弱まることはないというのが著者の認識なのである。この個所では、官公庁のポスト、教育・出版等の多様なデータを根拠として、ヒンディ語が公用語から国家語/国民語への傾斜を強めているという注目すべき現実が指摘される。 さて次が第4章「州の言語政策」である。これは本論文の白眉をなす部分といえる。先に第2章で宣言したごとく、著者は、言語問題が先鋭化している地域では、なるほど問題は鮮明になっているというメリットがあるかもしれないが、当該問題をめぐる言説には往々にしてバイアスがかかり、中立なデータが得にくいのだと考える。そしてあえて言語問題」ができるだけ浮上していない地域から、「ふつうの」州を選択する。その際の基準は、(1)有力言語の系統、(2)均質度であって、4つの州が選択される。すなわちドラヴィダ系の州から言語的均質度の非常に高いケーララ州と、言語的均質度の低いカルナータカ州、インド・アーリア系の州から言語的均質度の高いグジャラート州と、均質度の低いマハーラーシュトラ州である。 以下にこの4州の簡単なデータを記載しておく。 #ケーララ州:ドラヴィダ語系。均質度(96%)・識字率(91%)ともに最高の州。州の公用語=マラヤーラム語・英語。 #カルナータカ州:ドラヴィダ語系。均質度低し(66%)、識字率ふつう(56%)。州の公用語=カンナダ語。 #グジャラート州:インド・アーリア語系。均質度高し(91%)、識字率ふつう(61%)。州の公用語=ヒンディー語・グジャラーティ語。 #マハーラーシュトラ州:インド・アーリア語系。均質度低し(74%)、識字率ふつう(56%)。州の公用語=マラーティー語。 この4州を対象として、州公用語法の内容、教育における媒体言語・カリキュラム、活字メディアの言語分布、日常生活における言語といった項目をもうけて、詳細な調査を実行した成果が盛りこまれている。ここでは州の公文書から、駅や切符の表示、はたまた看板や街角のポスターに到るまで、実にさまざまなレベルにおける観察がおこなわれているわけで、著者の面目躍如たるものがある。 この実地調査の結果、これら言語系統・言語的均質度の異なる4州のいずれにおいても、州公用語という中心へと向かう強い力が働いているのだ事実を著者は確認する。「州語化」と命名されたこの現象は、連邦における「ヒンディー語化」現象とパラレルなものなのである。付言しておくと、州レベルでのこれほど具体的かつ微細にわたる実地調査は、ほとんど前例を見ないものであって、著者の毎年のフィールドワークの賜物として高く評価したい。 これに続く第5、6章は全体の結論として位置づけられる。以上の調査結果をベースにして、著者は連邦・州ともに、中心言語=公用語に収斂していく傾向が顕著であるとの結論を導き出す。そして、ここに「国民国家」という近代のイデオロギーを見いだすのである。 しかしながらここで注目すべきは、連邦公用語としてのヒンディー語という規範が及ぼす力と、各州の単一公用語化というモーメントとが対立拮抗しているわけではないことが強調されている事実ではないのか。つまり国家全体のヒンディー語化への傾斜と、国家の構成要素である州における公用語化とは、いわばダブルスタンダードで進行している、これがインドの実情であるとの興味深い指摘がなされるのだ。 そしてことは、この二重構造にとどまらない。なぜならば、この国では当然ながら、これとは別に英語指向が観察される。しかも、この英語指向は、英国植民地の遺産としてのステイタスという段階をひとたび精算したのちの新局面、すなわち市場原理・経済原理による選択であるとの認識が示される。 要するに、典型的多言語国家インドは、ヒンディー語・州公用語・英語という3言語のバランスの上に成立しつつあるのではないのかという認識である。かくして序論で提起されたところの、多言語状況は個別化の動きと普遍化の動きを共起させるというテーゼが確認される。 膨大な先行文献を参照した上で、毎年の現地調査をおこない、また時にはインターネットによってインド政府当局のさまざまな情報を入手するなど、新設の言語情報科学専攻にふさわしい労作として評価したい。そもそも州レベルにおける言語政策をここまで詳細かつ具体的に調査した試みはほとんど先例を見ないものであって、本研究が提示した数多くのデータは、インドを対象とした社会言語学的なアプローチの際に、今後とも基本的な資料として活用されるにちがいない。なによりも著者の長年の研鑚をたたえたい。今後は、たとえばヒンディ語・英語以外の複数言語を公用語化している州の実地調査をおこなうなど、本論文で取り扱った主題の拡大と深化をはかることによって、本研究が社会言語学のひとつの達成となることが大いに期待される。 以上、本論文の価値をはっきりと確認した上で、いくつか苦言を呈しておきたい。記述の回路が分かりにくい個所、主語を明示しないため曖昧となっている個所などが散見されたことは残念であった。またデータの解釈に疑問が付されることもなしとしない。たとえば英語教育に多大の時間が割かれている事実を確認しておきながら、英語の普及は政策的なものではなく、民の要求だというからには、その根拠をはっきり示してほしかった。論文の性質上、記述的なものとなるのは必定ではあったが、それだけに問題の所在をよりシャープに提示して、むしろ、もう少しポレミックな書き方を選んでもよかったかもしれない。 今後は、すでにふれた政策決定主体という問題、あるいは文官レベルにとどまらず軍と言語という問題等について調査と思索をおこなえば、さらなる研究の発展が期待できる。そしてまた「言語と規範」という枠組みを乗り越え、「規範と領有」という枠組みを構築し、規範にあらがう力の分析をおこなえば、よりダイナミックな議論が展開できることも予想される。こうした観点から、さらに精進していただきたい。 ともあれ鈴木義里氏の論文は、いみじくも審査員の一人が述べたように、わが国におけるインド学の現状から、明らかに大きな一歩をふみだした有意義な試みにほかならない。 以上の経緯により、審査委員会は全員一致で鈴木義里氏の論文『インドの言語政策』は博士(学術)の学位に十分あたいするとの結論をくだしたものである。 |