内容要旨 | | イタリア半島中央部に位置するエトルリア地方では、ローマ文化に先行し、その文化形成に多大の影響を与えた文化が繁栄していたことから、この地域の研究は、エトルリア文化の時代に限定されてきた。 エトルリアにおけるローマ時代の研究推進に貢献するため、1992年より、東京大学によって長期的な発掘が開始された。発掘地は、カザレ・デル・カッツァネッロCasale del Cazzanello(通称カッツァネッロ)の地名で呼ばれる地域である。現在、その地でローマ時代の海浜別荘villa maritimaと思われる遺構を発掘している。 本研究は、東京大学による発掘調査の目的に沿って行ったものであり、特にローマ時代におけるこの地域の経済活動に関して論することとする。研究対象として、煉瓦類(瓦および煉瓦)に押捺された刻印を取り上げる。カッツァネッロ遺跡から出土した煉瓦類刻印を中心として、その出土分布を周囲との関連に留意しながら検討し、ローマ時代におけるこの地域の煉瓦類製造業に関して考察する。 カッツァネッロ遺跡からは、他に出土地がほとんど報告されていない煉瓦類刻印が発見されており、そこから地域性、すなわち現地における製造と使用を見出すことが可能であると思われる。この遺跡以外には、カッツァネッロ遺跡出土の刻印と関連のある遺跡を考察の対象とした。具体的には上述の都市コーサ遺跡、セッテフィネストレのウイラ遺跡、そして「タウルス浴場」である。 以上の遺跡から出土した刻印を詳細に検討した結果、エトルリア地方の地域において製造された煉瓦類と、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類lateres urbaniとの関係は、以下の2つの時期において顕著な特徴がみられると考えられる。 1)共和政末期およびアウグストゥス時代(前1世紀末から後1世紀初) カッツァネッロやセッテフィネストレのウィラの場合、この時期に年代比定される刻印は、ほとんど全てが地域製造の煉瓦類に押捺されたものである。都市コーサにおいても、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類は少なく、地域製造の煉瓦類が圧倒的である。また、「タウルス浴場」からは共和政末期およびアウグストゥス時代に年代比定される刻印は1点のみであるが、おそらく地域製造の煉瓦類に押捺されていたものと考えられる。 従って、この時期には、煉瓦類は地域において製造され、それらが主に使用されていたと結論づけられる。 2)後1世紀末から後2世紀初 セッテフィネストレでは、後1世紀末のドミティアヌス帝時代には、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類に押捺された刻印が見られるのみで、地域において製造された煉瓦類の存在は認められなくなる。トラヤヌス帝時代からハドリアヌス帝時代も同様である。都市コーサにおいても、後1世紀半頃には、地域製造の煉瓦類がlateres urbaniとまだ併存しているが、後1世紀後半には消滅している。「タウルス浴場」においては、小規模ながらも、地域において製造された煉瓦類が、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類と併用されている。また、一般的に販売する目的ではなく、公的な使用を目的とした特殊な煉瓦類lateres publiciが地域(現地)において製造されいたと思われる。しかし、この頃を転換期として、地域製造の煉瓦類は使用されなくなる。カッツァネッロでは、この時期に年代比定される刻印は、地域製造の煉瓦類に押捺されたもののみであるが、その中に皇帝の所領において製造された可能性のある煉瓦類が認められ、中央との関わりを想起させる。その次に年代比定される刻印は、セプティミウス・セウェルス時代のもので、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類である。 従って、この時期において、地域における煉瓦類の製造が衰退し、消滅していったと考えられる。そして、都市ローマおよびその近郊において製造された煉瓦類のみが使用されるようになる。つまり、かつては地域における製造と使用が主体をなしていたのに対し、中央における製造に次第に依存していくようになるのである。タルクイニアやチヴィタヴェッキアの付近では、後1世紀末から後2世紀はじめは、その過渡期にあたるが、コーサ地域においては、すでに都市ローマおよびその近郊の煉瓦類しか認められず、地域製造の衰退の傾向はやや先行するかもしれない。中央における製造への依存は、エトルリア地方におけるウィラ経済が崩壊していく過程を反映しているとも考えられる。また、後2世紀後半のマルクス・アウレリウス帝の時代には、煉瓦類製造業が国家による独占的な産業に移行していくこととも関連があるかもしれない。 |
審査要旨 | | イタリア半島中部に位置するエトルリア地方は,ローマ文化に先行する古代エトルリア文化が栄えた地方であるため,古代文化の研究はエトルリア文化に集中し,ローマ文化の研究は等閑視されてきた.しかし,大戦後のコーサの発掘調査や近年のセッテフィネストレの発掘調査によってようやくこの地方のローマ時代の様相が実証的に研究可能となった. 本論文はそのようなエトルリア地方における近年の研究状況の変化,および東京大学が1992年より実施しているカッツァネッロにおける発掘調査の成果を活用して,より具体的なローマ時代の社会経済状況を明らかにしようとするものである.本論文の研究対象は煉瓦類(瓦および煉瓦)に押印された刻印を中心として,それらの出土分布を周囲との関係に留意しながら検討し,ローマ時代におけるこの地方の煉瓦類製造業に関しての考察を行うと同時に,その中心的な製造地の移動をも明らかにしようとするものである. 以上の研究を行うため,本論文の筆者はカッツァネッロ出土の刻印だけでなくコーサ,セッテフィネストレ,チヴィタヴェッキアのタウルス浴場出土の刻印を精緻に調査してそれらのカタログを作成している.このカタログは,これまでの研究論文等の関係資料を網羅しており,今後の基礎資料として活用しうる網羅性を備えており,欧文による早急の刊行が期待されるものである.この基礎的作業をもとに本論文の筆者は共和制末期から紀元3世紀までの製造地の移動を刻印をもとに実証的に推定し,時代とともに地方で製造されていた煉瓦類が次第に都ローマもしくはその周辺で製造されるようになることを解明した.このことによってエトルリア地方における社会経済状況が,時代を追うごとに中央依存の度合いを高めていく過程を解明することに成功している. 蓄積のあつい古典考古学において実証的研究を行うことは多くの労力を必要とするが,本論文では新出資料を駆使して,いくつかのこれまでの通説を否定すると同時に,新出資料の位置づけを丹念に行い,そのことによって推論に具体性を与えている.その一方で,研究史等においては十分な批判を加えることなく記述を進めており,一段の進化が望まれるところである.そのような欠点があるとはいえ,基礎となる資料の調査においては十分なレヴェルを維持しており,慎重な論理構成は,これからの研究成果の実りを十分に予期させるものである. よって審査委員会は本論文が博士(文学)の学位に値するとの結論に達した. |