学位論文要旨



No 113880
著者(漢字) 米山,正樹
著者(英字)
著者(カナ) ヨネヤマ,マサキ
標題(和) 資産の減損と簿価修正 : 切り下げにみられる配分と再評価
標題(洋)
報告番号 113880
報告番号 甲13880
学位授与日 1998.12.09
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第120号
研究科 経済学研究科
専攻 企業・市場専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 斎藤,静樹
 東京大学 教授 若杉,敬明
 東京大学 教授 醍醐,聰
 東京大学 助教授 新宅,純二郎
 東京大学 助教授 大日方,隆
内容要旨

 〔以下、要旨本文〕

(1)研究テーマと研究スタイル

 本稿の一貫したテーマは、継続保有中の財(なかでも長期金銭債権や事業用資産など、継続的な時価評価になじまないもの)に関する(会計上の)評価の切り下げである。「減損」と呼ばれる事象を契機とした評価の引き下げは、旧来、しばしば「当然の処理」とみなされてきた。しかし「当然」という価値判断がどういう根拠に支えられているのか、実は判然としない側面も否定できない。こういう処理を本当に「当然」といいきれるのか、もしそういえるのなら具体的に何が論拠となっているのか、この問題が本稿の基本的なテーマといえる。

 続いてはこの研究の基本的なスタンスを論じる。本稿では、現在行われている利益計算の基本的な特徴に着目し、そこから、財の切り下げに関する具体的なインプリケーションを引き出そうと努めている。現行の利益計算はさまざまな形で特徴づけられるが、ここでは何を期待した投資なのかに応じて、あらかじめ見込んだ成果が実現したかどうかを確かめるための事実も違ってくる点に注目した。キャッシュフローをどう実現させるのか、いわば成果実現のパターン(本稿ではこれらを「投資のねらい」と称している)に応じて、具体的な業績評価のありかたも違ってくるのである。そうなると、継続保有中の金銭債権や事業用資産について、投資の成果を実現させる方法に変化が認められる場合は、その影響は具体的な測定操作にも及ぶこととなる。そういう視点から議論を進めるのが本稿の研究スタイルである。

(2)「投資のねらい」の変化による切り下げ

 では「投資のねらい」に着目することで、減損をきっかけとする切り下げの必要性について、はたしてどのようなことが主張できるのであろうか。考えてみれば、投資プロジェクトをめぐる経済環境に予想外の変化が生じた場合、現在の用途が最善の選択とはいいきれない状況も起こりうる。長期金銭債権や事業用資産のように保有期間が長期にわたる財については、その傾向がとりわけ顕著といえる。問題となっている財の用途を「最善のもの」へと変更する場合は、その変更を機に、業績評価のしくみのほうにも修正を施す必要が生じてくる。財に寄せられた期待が変質した以上、新たな「ねらい」に適うような業績測定の枠組みへと移行しなければならない。そこでは、通常の新規投資と同様、その時点における財の市場価格をもとに、投資の成果をとらえ直すような手続が求められることとなる。

 ここで述べたとおり、「投資のねらい」の変化は継続保有中の財にも起こりうるものであり、それが生じた場合は、市場価格への簿価修正が求められることとなる。これが本稿から引き出されてきた重要なインプリケーションのひとつである。そこでは「期間配分」の理念にもとづく従来の業績測定が意味を失い、新たなフレームワークへ移行するため再評価の手続が必要となってくる。

(3)「投資のねらい」の変化によらない切り下げ

 もっとも、「投資のねらい」に変化が認められないからといって、つまり「期間配分」のロジックが意味を持ち続けるからといって、一切の簿価修正が不要というわけではない。長期金銭債権に適用される「利息法」のように、将来のキャッシュフローをあらかじめ織り込んだ配分のしくみが採られているケースでは、回収可能なキャッシュフローの減少が見込まれるようになった事実を、「ねらい」が変化する場合と同様、「切り下げ」という形で期間損益に反映させる必要が生じてくる。「投資のねらい」が不変で継続しているのであれば、業績評価のしくみについても旧来の枠組みを可能なかぎり踏襲したほうがよいといえるからである。そこでは、期間配分にみられる基本的な特質(将来キャッシュフローを事前に織り込むところ)をそのまま受け継ぎ、キャッシュフローの見積もりにだけ修正を施すような操作が求められ、結果的に簿価が切り下げられることとなる。

 これに対し、事業投資のように将来のありうべき成果を事前に予測するのが困難なケースでは、将来キャッシュフローとの直接的な関連を保つような期間配分は行えない。とすれば、減損の発生にもかかわらず「投資のねらい」が不変で継続している事実(当初予想していたほどの収益が見込めなくなったとしても、自律的な営業努力を費やすことで「不確実な成果」の獲得を目指すのが相変わらず「投資のねらい」といえる状況)を期間損益に反映させるやりかたも、金銭債権の場合とは違ってくる。そこでは、期待の次元にとどまる「将来キャッシュフローの減少」を評価損失の計上という形で期間損益に影響させる必要は生じない。むしろ旧来どおりの配分計算(具体的には減価償却の手続)を継承し、減損の事実は、キャッシュフローの裏づけを待って期間損益に関わらせることとなる。

 このとおり、「投資のねらい」に変化が認められない場合であっても、将来キャッシュフローを「比較的確実に」予測できる金銭債権については、減損と呼ばれる事象を機に評価の切り下げが求められることもある。ただ、そこで要求される切り下げは「見積もりの修正」という形をとるものであって、「ねらい」が変化したときに求められる市場価格への簿価修正とは異なる。「見積もりの修正」においては、「期間配分」にもとづく業績評価を踏襲し、将来の各年度に利息収益をどう配分すべきかという観点から、切り下げのタイミングや切り下げ額の大きさを決めることとなる。切り下げ後の評価額に経験的な解釈が与えられるかどうかは、そこでは問題とはならない。例えば市場価格は「期間配分」の考えかたとは首尾一貫しない属性値であり、「見積もりの修正」のもとでは採用しえないものとみなされる。

 この点で金銭債権と対照的なのが事業用の資産である。実物投資については、将来の成果を事前に予測するのが、さまざまな意味で困難といえる。キャッシュフローの直接的な見積もりにもとづく期間配分の手続は、そこでは、技術的な制約から採りえない。事業投資をめぐるそういう環境が、減損の発生にもかかわらず変化しないのであれば、未回収のキャッシュフローを事前に織り込むような測定操作への移行は困難と考えられる。とすれば、事業用資産のケースにおいては、従前と同様の期間配分を継続し、減損の事実は実際のキャッシュフローを待って期間損益に反映すべきこととなる。「投資のねらい」に変化がみられない場合は、切り下げの必要性について金銭債権と事業用資産とで対照的な結論が導かれてくる。これが本稿から引き出されてきたもうひとつの重要なインプリケーションである。

(4)伝統的に唱えられてきたこととの対比

 従来は減損と呼ばれる事象が生じたとき、その原因や態様のいかんにかかわらず、「回収可能額」まで資産の評価を切り下げるのが、ある意味で「当然のこと」とみなされてきた。また、この問題をめぐり、長期の金銭債権と事業用の資産を分けて考える発想もみられなかった。

 しかし本稿の議論によれば、回収可能なキャッシュフローの減少がどのような原因で生じ、その結果、企業経営者の意思決定にどういう影響を及ぼしているのかは、簿価をいつ、どれだけ切り下げるのかと密接に結びついている。とりわけ、減損が生じてもなお旧来の投資プロジェクトを継続するのが最善の選択といえるのか、つまり「投資のねらい」の変化を伴うかどうかが業績評価のありかたを大きく左右することとなる。

 本稿と伝統的な議論との違いは、もうひとつ、金銭債権の減損と事業用の資産に生じた減損とを、等質的なものとみるかどうかにも見出される。先述のとおり、財としての特性の違い、より具体的には、将来キャッシュフローを事前にどれだけ正確に見積もることができるのか、その点の違いに応じて、「ねらい」の変化なき切り下げの必要性は変わってくる。こういう本稿の議論に対し、現在公表されている英国や国際会計基準委員会の公開草案においては、「ねらい」の変化が生じたかどうかにかかわらず、減損を機に事業用資産の簿価を切り下げるよう求められている。ふたつの議論については、この点でも対立がみられるのである。

(5)本稿の構成

 第1章では研究の動機やスタンスを明らかにするとともに、そういうスタンスに立つことで何がみえてくるのかを論じる。続く第2章は、本稿の一貫したキー・コンセプト、「投資のねらい」を解説するためのものである。そこでは、「ねらい」の変化の有無が業績評価に及ぼす影響を議論する。引き続き第3章と第4章では、減損を機に「ねらい」が変化する場合と変化しない場合、それぞれに関する具体的な測定操作を論じる。さらに第5章では、不良債権をめぐる米国の基準書について、本稿のスタンスから分析を試みる。ここで話題を転じ、第6章と第7章では、事業用資産の減損を主たる検討対象とする。金銭債権の減損に関する議論からいかなるインプリケーションを引き出せるのか、その点が検討課題となる。第8章は、以上を要約したものである。

 (以上)

審査要旨

 論文のテーマは、長期性資産に生じた価値の減損を会計上どうとらえるかである。その問題を、不良化した金銭債権から営業用実物資産にまで拡張して論ずるのが、この論文の課題といってよい。基本的な着想をひとことでいえば、投資の成果をどう測るかは、投資にあたってどのような成果を期待したか、あるいはどのような方法による成果の実現を期待したかという、事前の「投資のねらい」に依存するというものである。したがって資産の減損の認識や測定も、この投資のねらいが変化しているかどうかで異なったものになるというのが、著者の基本的なメッセージである。

 全体は8章からなるが、それらは大きく3つの部分に分けることができる。最初の2つの章は総論であり、ここで本論文の基本的な観点が提示される。それに続く第3つの章は、長期金銭債権の減損を扱った部分である。ここでは、予想回収額が減少したものの、依然として借り手の営業努力に待つケースと、役員派遣などの追加的な回収行動をとるケースとで、減損時に資産の評価を切り下げる根拠が異なること、それに伴って切り下げの尺度も異なること、があきらかにされている。最後の2つの章では、一転して事業用実物資産の減損が論じられ、金銭債権のケースと比較した減損認識の根拠が詳しく検討されている。各章ごとの論旨は以下のとおりである。

 第1章「問題の所在」で、著者はまず、典型的な金融商品とくらべた正常な金銭債権の特性と、正常な金銭債権とくらべた減損債権の特性とを検討する。それを通じて、正常な金銭債権の特性を、減損という事実がどう変えるのかをみようというのである。それによると、市場性ある株式などの金融商品は、市場を通じた売買が投資成果を実現する唯一の機会であり、投資のねらいもその機会の実現に限られている。そこには市場価格を超える無形の価値を期待する余地がなく、したがって、市場価格が価値の尺度であり、その変動が成果の尺度になるといえる。

 それに対して、長期債権のケースでは、市場でそれを譲渡することもあれば、満期まで保有して資金を回収することもある。つまり、投資のねらいはひとつに限られない。したがって、長期債権に減損が生じたときは、債権者はそのまま保有を続けて借り手の努力による回収を待つか、契約条件を再構築して回収を促進するか、監視や支援など、みずからの営業努力で回収するか、あるいは市場で売却するかなど、正常な債権とくらべて多様な機会に直面することになり、それに応じて投資のねらいや、その成果をとらえる業績評価の枠組みも多様にならざるをえないというである。

 著者によれば、このような投資にあたって事前に期待された成果と、その実績の事後的な測定・評価の枠組みとの関係は、債権の減損をめぐる従来の論議において欠落していた観点であった。そこでは、資金回収の見込みの変化がそのまま債権の切り下げに結びつき、見込みの変化に伴って投資のねらいがどうなったのかは問われてこなかった。それに対して著者は、投資のねらいが変わるケースと変わらないケースを想定し、両者の間で減損認識のあり方が異なることを示しながら、そうした短絡的な議論の克服を試みている。考察にあたっては、現行会計ルールの体系との内的な整合性が基準とされている。

 第2章「長期金銭債権の減損-基本的な着眼点-」では、まず正常な債権の評価における利息法が検討される。著者によれば、債権を期限まで保有し、借り手の営業努力に依存して時の経過とともに資金の回収を図るのが投資のねらいである場合には、利息法による債権の評価と成果の測定が意味をもつ。あらかじめ約束されている成果の実現を図るのであれば、期末ごとにストックの価値を評価し直すことよりも、約定された実効金利にみあう投資収益を期間配分するほうが、投資のねらいに即した成果の測定になるはずだというのがこの章の議論の出発点である。

 しかし、減損が発生した場合は、キャッシュフローを見積もりなおして簿価を切り下げる必要がある。ただ、回収に困難が生じていても、依然として借り手側の営業努力を期待するのであれば、投資のねらいは変わらないから、減損分を切り下げたまま利息法による配分計算を続けることができる。それに対して、回収のために貸し手の営業努力が必要となる場合や、債権を第三者に譲渡する場合は、成果実現の枠組みが変化して利息法による計算は意味を失うことになる。それが投資のねらいが変わるケースであり、そこでは債権を公正価値にまで引き下げる必要が出てくるというのである。

 なお、ここで、投資のねらいが変わっていないのに簿価を修正するのは、著者によれば金銭債権という財の特性に起因する固有の手続きである。時価評価される金融商品ならば見積もりの修正という操作は必要ないし、実物資産の場合にも投資のねらいが変わらなければ簿価の修正は行われない。将来のキャッシュフローが約定されており、しかもその実現を自律的に図れるという債権の特性によるというのが著者の説明だが、ともかくもそうした簿価修正は、のちに検討する事業資産にはみられない、金銭債権に特有なパターンだとされている。

 続く第3章「減損と見積もりの修正-期待の変質なき評価の切り下げ-」が対象とするのは、回収可能額の減少が見込まれてはいるものの、投資のねらいに変化はなく、当初から計画された回収行動をそのまま継続するケースである。この場合には、正常な債権と同様、減損後も利息法を適用して規則的に利息収益を計上していくのが、投資の実態と整合的な会計処理である。ただし、規則的な配分にもいろいろなパターンがあり、そのなかのどれかを選ぶ決め手はない。著者はむしろ、貸出から元利回収までを1単位の投資プロジェクトとみることで、投資のねらいに変化がないかぎり、途中に生じた回収予想の変化を投資の成果から切り離す概念を組み立てている。

 そのように利益の計算単位を設定した場合、減損の会計問題は、予想回収額が下方修正されたとき、減損直前の簿価と予想回収額との差額を残存貸付期間にどのように配分するのかという問題に還元される。たとえば、減損後も当初の配分比率(実効利子率)による計算を維持するため、実効利子率による予想回収額の割引額と減損直前の簿価との差額を減損した期にまとめて損失とする方法もある。また、減損直前の簿価と予想回収額との差額を残存貸付期間に一定の割合で配分し、減損時には損失を計上しないのもひとつの配分方法である。投資のねらいが変わらないケースでは、これらのどれを選ぶかは理論的には決められないのである。

 第4章「減損と再投資-期待の変質を伴う評価の切り下げ-」が対象とするのは、減損に伴って投資のねらいが変化するケースである。そもそも正常な金銭債権に利息法の配分計算があてはまったのは、利益の計算に先立って、2つの前提が成立していたからである。ひとつは計画的・規則的な回収行動がとられていて、回収のために投入される努力がどの期も変わらないということである。もうひとつは、約定どおりに元利が回収できるということである。その2つの前提がともに失われているときは、利息収益を規則的に配分する根拠も失われ、別の方法による収益の認識が模索されることになる。

 そうした事態が起きるのは、前述した1単位の投資プロジェクトが、そこで中断されるからにほかならない。その投資プロジェクトは減損によって終了し、新たな投資プロジェクトとして、当初計画されていなかった回収行動がとられるわけである。このケースでの減損の会計問題は、新規のプロジェクトの開始に伴って、その後の利益計算の基礎となる金銭債権の簿価をいくらにするのかという問題に還元される。その簿価を決めれば、減損発生時に計上される損失の額は結果的に決められる。一般に投資開始時点の簿価は公正価値(市場価格)であるから、投資のねらいの変化に伴って、金銭債権の評価額は公正価値まで切り下げられることになる。

 第5章「不良債権をめぐる米国のルール-FASB基準書第114号および第118号-」では、米国FASBの会計基準が検討の対象とされている。基準書第114号では、約定どおりの回収ができないと予想されたときに、当初の実効利率で予想回収額を割り引いた額まで金銭債権の評価を引き下げることになっている。その処理をめぐって、ここでは2つの検討課題が設定されている。第一は、投資のねらいが変化しないときのキャッシュフローの配分方法を、FASBがどのような根拠で一義的に決めたのかという問題である。第3章で検討されたように、このケースでは一般に複数の配分方法が考えられるからである。第二は、投資のねらいの変化という減損認識を左右する本論文の基本的な観点からみて、FASBの基準がどのような意味をもつのかという問題である。

 第一の問題については、基準書第114号の方法が損失の多くを早期に計上させる結果となる点に著者は着目している。ただ、損失の先送りを否定するという外在的な目的だけでは、当初の実効利率で割り引く方法を一義的には導けない。減損した債権の評価を切り下げるにあたって当初の実効利率が固定されるのは、減損が生じても投資のねらいに変化がなく、当初の投資プロジェクトが継続しているという見方が背後にあるからではないかというのが、本論文の解釈である。その点では、著者の独創的な見解の一部が、米国基準のなかにもすでに生かされているといえるのかもしれない。

 しかし、米国の会計基準では、減損後も当初の投資プロジェクトが継続しているという見方が強調されるあまり、当初の実効利率をそのまま使うという方法だけに関心が集まる結果になっている。第4章でみたような、規則的な配分が妥当性をもつための前提条件が成立しないケースでは、それがある種の混乱を引き起こすことは否めない。その欠陥を補うために基準書の第118号が出されたが、それも利息収益を計上する代替的な方法を認めただけである。米国基準は、投資のねらいが変化したケースと変化しないケースを明確に区別せず、両者をまとめて同一の会計処理を定めているというのが、上記の第二の問題に対する著者の答えである。それだけ、未解決の本質的な問題が残されているということである。

 第6章「事業用資産の減損(1)-ねらいの変化による切り下げ」では、それまでの章で検討されてきた金銭債権の減損認識と対比しながら、事業用資産の切り下げが検討されている。ここで強調されているのは、金銭債権の場合は投資のねらいが変化したかどうかが区別され、それぞれについて異質な論拠に基づく簿価の切り下げが求められたのに対して、事業用資産では必ずしもそれと整合した減損認識を想定できないという点である。投資のねらいが変わらないままキャッシュフローの見積もりだけが変わる場合には、金銭債権と違って事業資産の簿価切り下げは行われない。そこでは、将来のキャッシュフローを見積もり直して現在の簿価に反映させるのではなく、過去の資本支出額を耐用年数にわたって計画的・規則的に配分する利益の計算が選択されるのである。

 そのような方法がとられる理由は、著者によると、金銭債権の場合には将来のキャッシュフローが約定されているのに対して、事業用資産の場合にはキャッシュフローがもっぱら自律的な営業努力に依存するため、その見積もりといっても性質が同じではないからである。もちろん、事業用資産でも、現行プロジェクトの収益性が低下し、代替的な用途に転用したときの期待収益性のほうが高くなるケースでは、投資のねらいにも変化が生ずると考えてよい。その場合には、新たなねらいのもとで投資の成果をとらえるため、資産の簿価を市場価格まで切り下げる方法が合理性をもつことになる。

 第7章「事業用資産の減損(2)-もうひとつの考えかた」では、前章で依拠した米国FASBの基準書第121号に加えて、同じ主題を扱った英国および国際会計基準委員会の公開草案を取り上げ、事業用資産の減損処理に関する別の考え方を検討している。そこでは、(1)減損を計上するタイミングと切り下げ所要額が、いずれも簿価と回収可能額との比較を通じて決められていること、(2)減損が生じているケースについても、継続利用がなされる場合に備えた基準が設けられていること、(3)いったん計上した評価損失の戻し入れが認められていることなど、米国の基準と異なる内容を含んでいることが指摘され、本論文の考察に厚みを加えている。

 以上のように、本論文は、資産の減損をめぐる会計問題に体系的な考察を加えたものである。一般に減損というのは、予想されるキャッシュフローが当初の期待にくらべて著しく低下した状態である。従来は、そうした減損の認識を単なる見積もりの修正ととらえて、ストックの評価の切り下げと、それに伴う評価損の計上とに、問題を矮小化してきた嫌いがある。そこでは、減損後に利益をどう計算するのかを含めて、フローの配分という観点からの議論が、いつの間にか欠落していたのである。そればかりか、価値の減損と会計上の損失認識とを直結させたまま、その先送りを認めるのがよいか悪いかといった、アカデミックな研究とは無縁な政策論議に学界の関心が向けられたこともある。

 本論文は、減損時のストックの評価に議論を限定することなく、減損発生前の、いわば正常な状態における利益の計算と、減損発生後の利益の計算とをともに分析の視野に収め、フローの配分という-本来はこの分野における伝統的な-観点を同時に組み入れている点で、時論に近いそれらの論争とは一線を画している。減損前の「投資のねらい」が減損にあたって変化しているかどうかという、この論文で著者が独自に設定した座標軸は、そうした分析の視野によって可能となっているのである。投資のねらいとその変化が減損資産の評価と利益の測定とを決めること、その点では債権も実物資産も同じ減損認識の基準に従うこと、それらをあきらかにして米国などの会計基準にみられる混乱を整理したところに、本論文の最大の貢献があるといってよい。

 むろん、投資のねらいにてらしてその成果の測定を考えるという着想は、これまでにも他の問題をめぐって繰り返し検討されており、それ自体に新しさがあるというわけではない。しかし、それを減損の会計問題に応用したことは、従来の研究にはなかった試みであろう。米国では、会計基準を所与とした実証研究が主流を占めていて、減損をめぐる会計基準の論理を追究した研究はほとんどない。実証研究の乏しいわが国では、内外会計基準の比較制度論的な考察がせいぜいで、減損の会計問題の本質を問い直す研究はみられない。そうした現状を勘案すると、本論文は、外国基準の検討も含め、減損問題に深く沈潜した先駆的な研究として、高い評価が与えられるべきであろう。

 とはいえ、本論文にも検討課題は少なくない。特に「投資のねらい」というキーワードは、もっと明確であってよい。資産の用途をいっているのか、あるいはキャピタル・ゲインかキャッシュフローかといった、投資の成果が実現されるパターンを意味しているのか、文脈によって焦点が異なる心配がある。また、代替的な投資プロジェクトと比較した現行プロジェクトの収益性低下をもって、投資のねらいの変化を引き起こす契機とみなす解釈とか、将来キャッシュフローについての約定の有無や見積もりの可能性を、投資のねらいの変化を伴わない減損認識の是非に直結させる着想などは、概念の明確化に加えて、なお検討の余地が指摘されたところである。

 それとともに、本論文において投資の「ねらい」やその「変化」という基本的な概念の果たす役割も、必ずしも首尾一貫しているわけではない。そもそも本論文の基本的な構想は、投資の「ねらい」と減損会計の方法とを1対1に対応させようとするものであったはずであろう。その構想に立つかぎり、ねらいの「変化」によっては減損会計の方法を決められない。たとえば、投資のねらいが変わらないときに資産を時価評価しないのは、従来からのねらいに時価評価が適合しないからであろう。しかし、それは、ねらいが変われば時価評価になるということではない。ねらいが変わったからそれまでの簿価を時価にするというのでは、本論文の道具立てとどこまで整合するか疑問である。

 そうした問題が生じるのは、本来は分析の対象から離れたところに求められるべき分析の尺度が、本論文では、減損していない正常な資産の会計処理から、その考え方に従って導かれているためかもしれない。分析の対象である会計基準を、それが内包する論理によって分析しているのは、本論文のもつ理論的な弱点というべきであろう。減損した資産の評価を論ずるときも、正常な資産の処理を検討するだけでなく、なにより企業利益の測定を対象化して客観的に説明する理論の枠組みを準備する必要がある。本論文の結論を大きく左右するとは思えないが、今後の著者にはそのような作業を期待したい。

 本論文はまた、減損資産をめぐる具体的な会計処理を論じ、海外の基準と自己の見解を対比させている割には、むしろ理論色が強く、操作性(オペレーショナリティー)を無視したところが多い。もし、その点が本論文の特色であるのなら、各国会計基準に言及するときには、基本的な視点をもっと慎重に定めるべきであろう。比較して違いをあきらかにするだけであれば、著者の見解にもそれらにみあう具体性が求められることになる。他方、それらを分析する理論を提示しているつもりなら、むしろ各国基準を特殊なケースとして説明する普遍性が必要である。その場合には、個々の基準とどこが違うかではなく、各国基準間の違いがどこから生ずるかを、一般的に解明するほうが重要であろう。

 しかし、それらの問題点を考慮しても、なお、本論文は設定した課題の解明に見るべき成果をあげており、この分野における従来の研究に新たな知見を加えたものと評価できる。よって、当委員会は、本論文が博士(経済学)の学位に値するものと認める。

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