遷移金属錯体上における窒素分子からアンモニアなどの含窒素化合物への変換は、ニトロゲナーゼの機能の理解の上で、また新しい窒素固定プロセス開発の面からも重要な反応であるが、その詳細には未知な点も多い。従来より、配位窒素分子のプロトン化により生成するヒドラジド(2-)錯体は、そのような変換反応の中間体として指摘され、多くの研究がなされてきた。しかし、さらにプロトン化の進んだヒドラジジウム錯体などの化合物についてはその合成例も少なく、反応性もほとんど検討されていない。本論文は、このような背景から、ヒドラジジウム錯体をはじめとする窒素固定に関連した錯体を新規に合成し、その反応性についての知見を得ることを目的として行った研究に関するものである。 第1章は序文であり、窒素固定の化学に関する概論と、本論文の研究の背景、目的について述べている。 第2章では、新規なモリブデンヒドラジド(2-)錯体の合成法の開発とその反応について述べている。すなわち、2-アミノフェノール由来の三座配位子を有するモリブデンジオキソ錯体とヒドラジン類の反応を検討して一連のモリブデン(VI)ヒドラジド(2-)錯体が得られることを示し、それらの錯体の求電子試剤に対する反応性を明らかにした。特に、ジメチルヒドラジンから得られる錯体が、硫酸ジメチルとの反応により例の少ないトリメチルヒドラジジウム錯体へと誘導できることは興味深い。 第3章では、チタン(1-ピリジニオ)イミド錯体の合成、反応性、およびオレフィン重合活性について述べている。まず、シクロペンタジエニルあるいはペンタメチルシクロペンタジエニル配位子を有するチタン(IV)錯体に対して、1-アミノピリジニウム塩を塩基存在下に反応させることにより、対応する(1-ピリジニオ)イミド錯体が合成できることを見出した。また、そこからモノカチオン性、ジカチオン性の錯体への誘導も行い、一連の錯体の分子構造を明らかにした。さらに、チタン(1-ピリジニオ)イミド錯体がナトリウムアマルガム還元、あるいはコバルトセン還元によってN-N結合の開裂を起こして対応するピリジンを与えることを示し、錯体の電荷が中心金属の還元電位、ひいてはN-N結合開裂の起こりやすさに影響していることを明らかにした。 続いて、チタン(1-ピリジニオ)イミド錯体-メチルアルモキサン系のオレフィン重合活性についても検討を加え、いくつかの錯体がエチレンの重合においては分子量(Mw)485000程度までの高分子量のポリエチレンを与えること、スチレンの重合に対しても重合速度はやや遅いものの高分子量でシンジオタクチックのポリスチレンを与えることを見出した。これらの結果から、本研究で得られたチタン(1-ピリジニオ)イミド錯体はオレフィンの重合触媒としても利用できる可能性が示された。 第4章ではロジウム、イリジウムのピリジンイミン錯体の合成と反応性が述べられている。従来、ヒドラジジウム錯体は高酸化状態の前周期遷移金属に対してその合成が試みられてきた。これに対し本研究では、後周期遷移金属であるロジウム(III)およびイリジウム(III)錯体と1-アミノピリジニウムとの反応についても検討を加えた。その結果、ロジウム錯体の場合には、4-メチル-1-アミノピリジニウムを用いると2つのピリジンイミン架橋を持った2核錯体が、一方2,6-ジメチル-1-アミノピリジニウムを用いると、メチル基の一方のC-H結合の切断とRh-C結合の生成を伴ってピリジンイミン配位子がキレート配位した2核錯体が、それぞれ生成することを見出した。さらにイリジウム錯体の反応においては、反応機構の詳細は明らかではないものの、N-N結合の切断が進行してピリジンが遊離することも示した。 第5章ではタングステンジアゾアルカン-アルキン錯体におけるW-N結合の切断反応について述べている。ジメチルフェニルホスフィンを補助配位子として持つタングステンの窒素錯体は容易にジアゾアルカン錯体と呼ばれる一連のタングステン(IV)錯体へと誘導できるが、このジアゾアルカン錯体上へのアルキン配位子の導入を検討したところ、ジアゾアルカン配位子のカップリングによるオレフィンの生成を伴う新規な反応が進行することを見出した。さらに、ジアゾアルカン-アルキン錯体のEHMO計算に基づいてこの反応の機構を推定し、本反応がジアゾアルカン-アルキン錯体に特異的であることを説明した。 以上のように、本論文では窒素固定に関連したヒドラジド、ヒドラジジウム、ピリジニオイミド、ピリジンイミン、ジアゾアルカンなどの配位子を有する各種遷移金属の新規錯体を多数合成し、それらの配位子におけるN-N結合切断を中心にした反応性を明らかにした。本研究で得られた成果は窒素固定の化学における重要な知見を与えるものであり、金属錯体化学、有機金属化学などの分野への貢献は極めて大きい。 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。 |