本研究はC60アルカリ金属化合物のうち特にCs1C60の高低温・高圧下における結晶構造を、シンクロトロンX線解析により系統的に調べることにより、初めてその温度・圧力相図を作成し、新たに発見した高圧fcc構造を含む各相の結晶構造の安定性を明らかにする一方、圧力下の電気抵抗測定により圧力誘起金属-絶縁体転移を明らかにしたものである。 本論文は全体で5章から成り、まづ第1章・序論では、本研究の背景としてC60アルカリ金属化合物A1C60(A=K,Cs,Rb)の結晶構造と電気的特性の現在までの研究の流れ、特にC60分子が重合したK1C60,Rb1C60のポリマー構造の詳細について述べてある。そして、最大イオン半径を持つA=Csの化合物Cs1C60を用い、さらに圧力により分子間距離を制御することにより、ポリマー化の機構とそれに伴う電気的特性を解明しようとする明確な研究動機と目的が示されている。 第2章・実験では、まづ本論文提出者自ら作製した一連の試料A1C60(A=K,Rb,Cs)及びCs1-xRbxC60混晶の作製方法と、これら強嫌気性の試料の取り扱いの特別の工夫が述べてある。特に高圧力実験用のダイヤモンドアンビルセル(DAC)への試料装填は論文提出者が試行錯誤を繰り返して独自に考案した方法であり、高純度ヘリウムを充填したグローブボックス内にモニター用カメラを装着した顕微鏡とDAC加圧冶具をセットし、注意深くすり潰して粉末結晶化した試料を圧力媒体のフロリナートと測圧用ルビーと共に直径約0.5mmの金属ガスケット孔に的確に挿入する方法を開発して本実験を成功に導いた。これまでC60アルカリ金属化合物のDACによる高圧力実験はほとんどなく、本手法はそれに新たな道を開くものと期待される。X線回折による構造解析のためには、DAC内に装填された試料体積が極めて少量のため、高輝度X線源である放射光を単色・集光し、さらに高感度X線フィルムの役割を果たすイメージングプレート(IP)を検出器として利用し、圧力0.1MPa(常圧)<P<21GPa、温度10K<T<470Kの領域で信頼性の高い回折パターンを得ることに成功している。一方、高圧電気伝導度の測定は、毛利研究室(東大物性研究所)のクランプセル型高圧発生装置を用いた共同研究として実施しているが、ここでも本論文提出者による強嫌気性の試料をグローブボックス内でペレット状に成形する工夫がなされている。 第3章は実験結果と解析である。まづ3.1節において、IP上に記録した粉末試料からのデバイ・シェラーリングの2次元X線回折パターンを、各リングに沿って積分し、通常の回折強度対回折角度の1次元データに変換する。本実験では入射X線は水平・垂直両方向に全反射ミラーで集光されているため、回折ピークが単純な単一関数ではうまくフィットできないが、筆者はガウス関数とローレンツ関数の重み付の和関数で非常によくフィット出来ることを見い出し、各ピークの回折角度と積分強度を信頼度高く得ている。そして、前者のデータから各温度・圧力における結晶の対称性と格子定数を求めている。中でも混晶系のCs1-xRbxC60は室温・常圧において斜方晶系に属し、その格子定数は組成変化に対して直線的に変化する、いわゆるベガール則が成り立ち、固溶系として安定して存在することを初めて示した。3.2節では、広範な温度・圧力領域で測定したCs1C60の結晶対称性をもとに相図を作成している。そして常温・常圧の斜方晶構造が360K(常圧)以上でこれまで報告されている面心立方晶fccに相転移することを確認した後、圧力を上昇しこの相境界が2.7MPa/Kの急峻な正の勾配を持つことを決定した。一方、室温加圧過程において、8.3GPaにおいて相転移が起こり、高圧力相は立方晶系fccに属すことを新たに発見した。これら2つのfcc相が、相図上で同一相か、異なった相に属すかは、極めて興味ある事柄であるが、それは次章において詳しく考察されている。3.3節ではCs1-xRbxC60のx=0.3,0.7,1.0の化合物について室温高圧下の格子定数を精密に測定し、各結晶軸の圧縮率、ならびに体積弾性率を決定した。これらの測定は基礎的に重要なデータを提供する。3.4節では低温高圧下におけるCs1C60の直流電気抵抗を、0.1-2.5GPaの圧力領域で6点の圧力を設定して、4.2-300Kの範囲で温度を変えて測定した結果を示している。そして、圧力0.6GPa以上で急激に金属的な振る舞いをする様子を観測しており、次節においてモデルに基づく解析を行う。 第4章・考察では、まづ4.1節において室温常圧におけるX線回折データを用いて斜方晶Cs1C60の精密な結晶構造解析を行っている。C60分子を球殻として扱う近似から始めて10数個の結晶モデルを次第に精密化して行き、C60分子に含まれる60個の全炭素原子の位置を考慮して最終的にa軸方向に隣り合うC60分子同士が結合部位の二重結合を乖離して四員環を作ることによって重合しているポリマー構造に行き着いた。そして、その結晶の空間群はP2/m21/n21/n(Pmnn-D2h12)であること、分子間結合距離は1.50Å,R因子=3.3%と求まり、K1C60,Rb1C60で観測されているポリマー構造と類似していることを明らかにした。しかし、これらK,Rb化合物と異なるのは、重合している四員環面とb軸のなす角度が45度ではなく、56度であるという点である。この配置では異なる重合鎖に属して隣り合うC60分子同士が、一方の五員環の中心と他方の六員環の二重結合をほぼ正対していることになり、電荷的に疎な前者と密な後者が静電的相互作用を介してその相対配置を決定しているとして良く理解できる。また、Cs原子の充填率は約90%であることも解った。このようなCs1C60化合物の詳細な結晶構造解析は初めてであり、重要なデータを提供する。4.2節においては同化合物の温度・圧力相図について、特に常圧高温のfcc相と室温高圧のfcc相について詳細な考察が行われている。両者ともC60を球殻モデルで解析した結果、常圧高温fccは分子半径3.52Å,最近接分子間の結合距離2.94Åを持つ一方、室温高圧fccは8.3GPaにおいて、それぞれ3.59Å,2.2Åであることが解った。これら2つのfcc相の安定性について、4.3節ではそれらの凝集エネルギーを計算して考察を進めている。すなわち、マーデリングエネルギー、C60とCsの反発エネルギー、C60同士の結合エネルギーを、斜方晶系、2つの面心立方晶系fccの各々について見積もることにより、高温fccは加圧とともに斜方晶系に相転移する事実を説明できるが、高圧fcc相はこれらの相互作用のみでは安定化されないことを示し、高圧fccはポリマー化することによるエネルギー利得があるのではないかと推論している。すなわち、高温fccはC60分子がほぼ自由回転している状態であるのに対し、高圧fccは恐らくC60ポリマーからなる構造であろうと推定している。4.4節ではCs1-xRbxC60のx=0.3,0.7,1.0の化合物について斜方晶(低圧相)→面心立方晶(高圧相)への相転移圧力の系統性を調べ、すでに本実験で得られているx=0(Cs1C60)と比較検討し、3元系化合物では転移圧力が上昇することを見い出したが、その理由については今後の課題として残してある。4.5節においては前章で測定した高圧下の電気伝導度対温度データを、絶縁体の粒界によって隔てられている金属粒子のモデル(Sheng Model)を用いて解析している。粉末試料を加圧成形した試料を用いているので、その粒界が絶縁体に相当すると仮定していることになる。このモデルによる式を各圧力のデータにフィットすることにより、T→0Kの電気伝導度が0.6GPa以上の高圧領域で有限となる結果を得て、Cs1C60がこの圧力下で圧力誘起絶縁体→金属転移すると主張している。しかし、本実験では常圧において絶縁体であることの明確な実験的証拠が得られていないので、以前報告のあるBommeli et al.のESRの結果と総合してそのような結論を導いている。なお、この金属相におけるCs1C60の単位胞体積は、既に金属であるK1C60とほぼ同一であることを構造的の面から指摘している。4.6節は高圧下におけるX線回折実験と電気伝導度の結果を、物理的圧力と化学的圧力(アルカリ原子の種類による)として整理し、これまで報告のあるC60アルカリ金属化合物A1C60(A=K,Rb,Cs)における絶縁体→金属転移圧力を単位胞体積の関数としてプロットし、絶縁体相と金属相の存在する領域が整理できることを示している。 最終の第5章は本研究のまとめに当てられており、巻末にはX線回折強度計算式を整理集録してある。 以上、本論文はC60アルカリ金属化合物のうち特にCs1C60の高低温・高圧下における結晶構造を、シンクロトロンX線解析により系統的に調べることにより、初めてその温度・圧力相図を作成し、新たに発見した高圧fcc構造を含む各相の結晶構造の安定性を明らかにした。そして、この化合物が圧力誘起絶縁体-金属転移することを見い出した。これらの研究結果は関係分野に重要なインパクトを与えるオリジナルな成果として評価できる。 よって、博士(理学)の学位を授与できるものと認める。 |