学位論文要旨



No 113894
著者(漢字) 竹内,実
著者(英字)
著者(カナ) タケウチ,ミノル
標題(和) 原子間力顕微鏡による赤血球膜裏打ち構造の研究
標題(洋) Structure of erythrocyte membrane skeleton as studied by atomic force microscopy
報告番号 113894
報告番号 甲13894
学位授与日 1998.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博総合第185号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬渕,一誠
 東京大学 助教授 上村,慎治
 東京大学 助教授 陶山,明
 東京大学 助教授 松田,良一
 基礎生物学研究所 教授 大隅,良典
 名古屋大学 教授 楠見,明弘
内容要旨

 細胞膜の裏打ち構造は、細胞膜と細胞骨格系との境界にあって、細胞膜の構造維持と変化、細胞膜上での膜タンパク質の運動の制御、細胞膜の領域構造の形成など、多彩な細胞活動に関与しているタンパク質超分子複合体である。

 本研究では、細胞膜の裏打ち構造を観察するための新しい方法として、原子間力顕微鏡(AFM)を採用し、AFM観察に適した細胞膜試料の作製法を系統的に検討すること、それを用いて赤血球膜の裏打ち構造を観察することを目的とした。AFMは鋭い針(先端径-10nm)を試料表面に当て、一点一点の位置を計測するという手法で試料像を得る。この仕組みで平坦な固体試料については電子顕微鏡に並ぶ高分解能像を得ることが可能であり、しかも、常温・常圧下で、染色・蒸着など試料処理をおこなわずに観察ができるという長所を有する。このためAFMは生物試料観察に有用である可能性が高い。しかしながら、AFMの歴史は浅く、電子顕微鏡に比べて、生物試料の調製法はまだ未熟である。従って、本研究では、調整法の検討から始めた。特に本研究で細胞膜の裏打ち構造に応用を試みたのは、AFMは試料面に対する垂直方向の分解能が高く、これまで細胞膜自体から解像するのが困難であった細胞膜上に薄く分布する裏打ち構造の観察に有効であると期待されたからである。

 観察対象としては、赤血球ゴースト膜を選んだ。赤血球膜は、膜裏打ち構造の構成分子や結合関係など、物性面での理解が最も進んでいる生体膜といえる。この裏打ち構造は、細胞膜直下に二次元的な網目構造として存在することがこれまで電子顕微鏡観察などによって分かっている。網目の一辺は、伸縮性のある線維状のスペクトリン分子四量体から出来ており、伸張状態で200nmの長さを有する。スペクトリン四量体は両端で短いアクチン線維に結合し、これを結節点として、二次元的な広がりを持った基本構造を形成している。この基本構造に他の修飾タンパク質を含めたものをスペクトリンネットワークという。

 スペクトリンネットワークはこれまで電子顕微鏡によってのみ直接観察が可能であったが、膜が部分的に破壊された状態、あるいは、裏打ち構造を人為的に伸張した状態での観察であった。これは、膜の裏側にあるネットワークを露出させるための処置や、ネットワーク線維が互いに密に隣り合っているのを引き離すための処置が、網目構造を解像するために不可欠であったからである。実際、生理的条件下でのスペクトリンネットワークは、その伸縮状態や結節点に集まるスペクトリン四量体の本数など、まだ解析が進んでいない事例が多い。

 本研究ではAFMを用いて、生理的条件下での構造を保存した赤血球膜の観察方法、特に赤血球膜を破らず、赤血球膜の表側からの観察方法の確立を試みた。

 以下の結論を得た。

(1)AFMは赤血球膜の表面に現れた微細な網目構造を可視化できる。

 赤血球ゴーストをカバーガラス上に吸着させると、ゴーストは平坦になり、カバーガラス上を覆う。無固定の状態で、急速凍結・凍結乾燥をおこなった後、ゴースト膜の表面をAFM観察したところ、膜上一面に高さ5nm、一辺の長さ40-100nmの微細な網目構造を確認した。

(2)赤血球膜の表側に現れた網目構造はスペクトリンネットワークである。

 赤血球膜の表側から観察される網目状構造は、スペクトリンネットワークがそれを覆っている膜上に現れたものであることを示すために、以下の実験をおこなった。

 i)抗スペクトリン抗体を吸着した直径10nmの金コロイドを、溶血した際に赤血球膜にあいた穴から導入し、ゴースト膜を標識した。その結果網目上に金コロイド大きさを反映した高い突起が多数観察(54.0±14.2)された。非特異的抗体を金コロイドに吸着させ、標識した場合にはこのような突起は有意に少なかった(10.7±3.2)。

 ii)スペクトリンは低張液中では、互いの結合が弱まり、溶液中に抽出される。低張液中で、スペクトリンを抽出した後、急速凍結・凍結乾燥処理をして、AFM観察したところ、抽出をおこなっていない試料より網目の密度が疎になった。

 i)の結果は、網目がスペクトリンを含むこと、またii)は、スペクトリンが網目構造の主な構成要素であることを示している。これらにより、AFM観察によって赤血球膜表側から確認された網目構造はスペクトリンネットワークであることが示された。

(3)赤血球膜のリン脂質を硬化させると、スペクトリンネットワークを膜の表側から確認することが困難となる。

 AFMによる生体試料観察のための試料作製方法は確立されていない。生体膜の上からその下にある構造を観察する方法として、無固定での急速凍結・凍結乾燥が他の方法と比較して適切な方法かどうかを調べた。

 i)電子顕微鏡観察用の試料作製の常法の一つである、2%グルタールアルデヒドと1%オスミウムによる固定後の、臨界点乾燥、あるいは、t-ブチルアルコール中での凍結乾燥をおこなった試料を観察した。スペクトリンネットワークを反映した膜面の凹凸は抑制され、網目の明瞭な画像を得ることは困難であった。

 ii)2%アルデヒド固定した後、急速凍結・凍結乾燥をおこなった。無固定での急速凍結・凍結乾燥の場合と同様、明瞭な網目構造が確認できた。しかし、アルデヒド固定の後さらに1%オスミウム固定をおこなった場合、i)と同様、膜面の凹凸は抑制された。

 iii)乾燥方法として自然乾燥を用いたとき、次のような結果を得た。まず無固定のまま自然乾燥をおこなった場合、乾燥時の塩の析出を避けるために低張緩衝液で洗浄するが、このとき、スペクトリンの一部が抽出され、ネットワークの密度が低下した。これは、自然乾燥前に2%アルデヒド固定しても抽出は抑制できたが、阻止することが出来なかった。一方2%アルデヒドと1%オスミウムによる固定をおこなった場合。i)と同様、膜面の凹凸は抑制された。

 以上の結果から、生理的状態を保持して赤血球膜の表側から網目構造を観察するための試料作製方法として、無固定またはアルデヒド固定後の急速凍結・凍結乾燥が適当であると結論される。また、カバーガラスに吸着させる前にオスミウム固定による不飽和膜リン脂質の重合をおこない膜を硬化させると、乾燥後も膜が平坦になり、網目構造の観察が困難になった。これは網目を呈する構造自体が膜の表側にあるのはなく、裏側にあることに符合する。

(4)膜の表側で確認できる網目構造は裏側から確認できるものの80%を反映している。

 表側に現れる網目構造が実際に裏側に存在するスペクトリンネットワークをどの程度反映しているかを確認することは、スペクトリンネットワークの解析方法として、表側からの観察の有効性を評価する上で重要である。赤血球膜の裏側を得るため、基盤に吸着した赤血球ゴーストの上側の膜を強い水流で引き剥がし、下側の膜の裏側を露出した。

 表側と裏側から観察した像の網目構造を画像処理で抽出し、網目によって囲まれている部分の面積を計測した。この結果、表側、裏側において、網目によって囲まれる面積の平均値は、それぞれ、4800nm2、3000nm2であった。これを基に、表側から見えている像は、同様の方法で裏側で確認できた網目構造の線維を80%可視化しているという結論を得た。

 また、網目の結節点に集まるスペクトリン線維の本数は、表裏ともに2-6本と結節点ごとにばらつきがあり、スペクトリンネットワークは、均質ではあるが、規則性の低い網目構造であることが分かった。これは、生理条件下での三角形を単位とする規則性の高いスペクトリンネットワークの存在を否定し、Ursittiらの観察結果を支持するものである。

 以上の観察結果は、次のような点で意義がある。

 第一に、生理的条件を保存した状態で網目の密度等を計測した点である。これは膜内在性タンパク質と裏打ち構造との相互作用を評価する上で重要である。赤血球膜の膜内在性タンパク質であるバンド3は単純なブラウン運動ではなく、限られた範囲内での連続した拡散運動と、ある範囲から他の範囲へのジャンプからなっていることが報告されており、この特有の運動がこの分子の膜上での凝集を阻害し、安定した分布状態を維持する要因となっていると考えられている。またこの運動の制限の原因としては、スペクトリンネットワークが立体障壁として関与していることも報告されている。バンド3の運動を追跡した観察結果によると、制限の範囲は10,000nm2である。これと本研究の結果と総合すると、スペクトリンネットワークは線維長の1/2が立体障壁としてバンド3の運動を制限していることが明らかになった。他の部分はたわみなどにより、バンド3の通過を許していると考えられる。

 第二に、赤血球膜の袋状の外形を破壊せずに、その裏側にあるスペクトリンネットワークの伸縮、配向等の観察を可能にした点を挙ることが出来る。赤血球は、血流中で変形/復元を繰り返しながら形態を維持する柔軟な存在であるが、スペクトリンネットワークを構成する分子を遺伝的に欠失すると、柔軟性を失うことが知られている。このような知見からスペクトリンネットワークは、赤血球の力学的特性に深く関与しているといえるが、どのような役割を担っているかは説明されていない。実際、本研究でも、生理的条件下で赤血球内のスペクトリン四量体は、伸張時の1/3あるいはそれ以下にまで収縮していることが確認されたが、収縮したスペクトリンネットワークのとる挙動や役割は謎である。この問題を解明するには、様々な外的条件下で、赤血球全体の形態変化を観察すると同時にスペクトリンネットワークの伸縮、分解、再結合など微細な振る舞いを観察することが必要である。本研究はそれを実現するための方法を提供したといえる。

審査要旨

 本論文は原子間力顕微鏡(AFM)による赤血球膜裏打ち構造の観察について述べられている。

 細胞膜の裏打ち構造は、細胞膜分子を組織化して機能させるための鍵となるタンパク質超分子複合体である。細胞膜の裏打ち構造は、細胞膜と細胞骨格系との境界にあて、細胞膜の構造維持と変化、細胞膜上での膜タンパク質の運動の制御、細胞膜の領域構造の形成など、多くの細胞膜機能の発現に極めて重要な役割を果たしている。細胞膜の裏打ち構造を構成するタンパク質の同定は現在かなり進みつつある。しかし、機能の発現機構や、機能の制御機構などを知るためには、構成タンパク質の同定だけでは不十分で、それらがいかに組織化されているかを知ることが必要である。なるべく、細胞が生きているのに近い状態で、タンパク質のサイズ程度の高分解能で観察することが重要となる。

 赤血球膜は、膜の裏打ち構造の研究が最も進んでいる細胞膜である。主な構成タンパク質の同定は、ほぼ終わっているといえる。しかし、これらの分子が膜直下でいかに組織化されているかについては不明な点が多い。赤血球膜の裏打ち構造は、循環中における赤血球の変形能の重要な部分を担っていると考えられているが、その機構の理解のためには、まず、膜の裏打ち構造を観察する手法を開発する必要があった。

 一方、AFMは、膜裏打ち構造を観察するための新しい重要な方法であると目されている。AFMは試料の表面を先のとがった(先端曲率半径が10ナノメートル程度の)探針でなぞり、試料表面の凹凸を検出して画像化する顕微鏡である。したがって、細胞膜などの表面形状などを可視化するには、好適な顕微鏡であると考えられている。雲母やグラファイトなどの平坦な試料であれば、原子レベルの分解能を持つ。

 本研究の目的は、AFM観察に適した細胞膜試料の作製法を系統的に検討すること、AFMを用いて膜裏打ち構造を「細胞外から」観察する方法を開発すること、それを用いて赤血球膜の裏打ち構造を観察することである。赤血球膜試料としては、細胞内の物質を失わせた赤血球ゴースト膜を用いた。

 本研究では、まず、膜の表側から網目構造が見えることが発見された。さらに、抗スペクトリン抗体でコートされた金コロイド標識を結合させること、また、スペクトリンを除去する操作をすることなどによって、観察された網目構造がスペクトリンネットワークによるものであることがわかった。

 赤血球ゴーストの膜裏打ち構造であるスペクトリンネットワークはこれまで電子顕微鏡によって観察されてきたが、これは膜裏打ち構造を人為的に伸張した状態での観察であった。一方、AFMでは、試料上の各点の高さが0.1nm以上の精度で測定できる。本研究では、これを利用することによってスペクトリンネットワークが膜表面に作るわずかな凹凸を検出し、膜裏打ち構造を人為的に伸張させたりすることなく観察する事がはじめて可能になったのである。

 次に、赤血球膜試料の、固定方法、乾燥方法の最適化を系統的に検討した。特に、循環中の赤血球の変形機構を検討するための簡便な方法を開発することを目指したので、細胞外からの観察方法の開発に重点を置いた。このため、まず、細胞膜の細胞質側表面を露出させ、その表面上において、膜裏打ち構造を直接、AFM観察する方法の開発を試み、これに成功した。この画像を基礎として、これに一番近い画像が取れる細胞外からの観察法を系統的に検討したのである。その結果、赤血球ゴースト膜を、無固定で冷媒中に急速に浸漬してその後凍結乾燥する方法が最適であることが示された。

 さらに、どのような機構で、膜の裏打ち構造が、細胞の外側から観察できるのかについて検討した。結果は以下の通りである。網目構造は、探針が細胞膜を突き抜けて裏打ち構造に到達したり、探針が柔らかい細胞膜を押し下げて裏打ち構造を感知したりして観察されるのではない。乾燥時に、試料表面側にある赤血球膜が細胞質側に沈み込むが、そのとき、裏打ち構造によって支持されている部分は沈み込まずに残ることから、裏打ち構造の部分が外側に飛び出してレリーフのように残る。これによって、試料表面に裏打ち構造の網目構造が浮き出すのである。細胞質側から直接観察した結果と併せて考えることにより、この方法では、細胞膜に特に隣接した裏打ち部分が選択的に可視化されること、赤血球ゴースト膜の場合には、膜を裏打ちするスペクトリン網目の内の約80%が可視化されることが明らかになった。

 よって論文提出者竹内実は東京大学博士(理学)の学位を受けるに十分な資格があるものと認める。なお本論文の内容は1998年にBiophysical Journal誌に公表済みである。これは共著論文であるが、論文提出者はそのすべてにおいて研究の主要部分に寄与したものであることを確認した。

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