学位論文要旨



No 113896
著者(漢字) 姜,兆文
著者(英字)
著者(カナ) ジャン,チョウブン
標題(和) 反芻獣の採食生態と消化器官 : モウコガゼルとニホンカモシカの比較研究
標題(洋) Feeding ecology and digestive systems of ruminants : a case study of the Mongolian gazelle(Procapra gutturosa)and the Japanese serow(Capricornis crispus)
報告番号 113896
報告番号 甲13896
学位授与日 1998.12.24
学位種別 課程博士
学位種類 博士(農学)
学位記番号 博農第1960号
研究科 農学生命科学研究科
専攻 応用動物科学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 樋口,廣芳
 東京大学 教授 林,良博
 東京大学 教授 古田,公人
 東京大学 助教授 高槻,成紀
 東京大学 助教授 宮下,直
内容要旨

 有蹄類は始新世から漸新世にかけての気候変動にともなう草原の拡大の結果,著しく多様化した.中でも反芻獣は最も繁栄しているグループである.その最大の特徴は,ほかの哺乳類には不可能なセルロースを利用することができることにある.反芻獣は発達した前胃で分解しにくい繊維成分を原生動物によって発酵させることによって自然界に豊富な繊維分を効率的に利用することを可能にした.

 野生有蹄類の多様な食性を統一的に説明する原理のひとつにJarman-Bell原理がある.これは,体の大きい種ほど採食食物の絶対量は大きいが,体重当たりの採食量は少なくてもよいから,栄養価は低いが大量に存在する植物を採食し,逆に体の小さい種は,絶対量は少なくても良質な食物を必要とし,局在する果実や若葉などを採食する傾向があるという考え方である.この原理は明快であり,これを裏付ける事例も多かったので,強い支持を受けた.

 一方,解剖学の立場からもこれを支持する見解が示された.その中でHofmann(1972)は,反芻獣の食性と消化器官の構造に一定の対応関係があることに注目した.そして果実や良質の樹木の葉など消化率の高い植物を主食とする種では,前胃が未発達で,通過速度が速いのに対して,イネ科など大量にあって繊維質の植物を主食とする種では,前胃がよく発達しているために食物を強力に粉砕し,十分に発酵させたのち,ゆっくり通過させて吸収する傾向があることを指摘した.前者はブラウザー(browser),後者はグレーザー(grazer)と呼ばれる.

 Jarman-Bell原理とHofmann説は対立するものではないが,前者が動物体を一種の物体とみて,食性を体重との関係で説明しようとするのに対して,Hofmannは生物の形態を決めるのはきわめて多様な要因によるのであって,体重ですべてが決定されるというのは単純すぎるとした点で大きく異なる.しかしいずれの立場の研究も,1)食性と消化器官の対応を指摘する上で,系統の制約を十分に考慮していない,2)イネ科植物を低質,木本の葉を良質とするだけで定性的な分析を行っていない,3)食物の消化を問題としながら,実際の消化過程を調べていない,4)取り上げたパラメータが食物と体重,食性と消化器官など特定のものに限られており,総合的な評価がなされていない,などの欠点があった.

 本研究はこのような背景をふまえ,第1部で反芻獣の採食生態と系統について,これまでの研究を総説し,第2部で草原と森林という対照的な環境に生息する2種の反芻獣であるモウコガゼル(Procapra gutturosa)とニホンカモシカ(Capricornis crispus)をとりあげ,その食性と消化器官の特徴を総合的に解析した.

 第1部では,反芻獣の採食型と消化器官の特性についての従来の説が,系統を越えて成り立つか否かを検討するために,反芻獣を代表する2つの科であるウシ科とシカ科について,採食型と消化器官のサイズや形態を点検した.その結果,定量的なデータは意外に少ないことが判った.そしていずれの科においても,ブラウザー,中間型,グレーザーの順で,1)唾液腺が相対的に小さくなる,2)第1・2胃が大きくなる,3)第1胃内壁の絨毛の分布が均一から不均一になる,4)腸の相対長が長くなる,5)腸のうち大腸の相対長が短くなる,などの一連の傾向が認められた.このことから,採食型と消化器官との対応関係は系統を越えて成り立つこと,また同じ科の中でもひとつの採食型内に複数の系統が含まれ,特定の系統がある採食型に偏るという傾向は認められないことが確認された.この検討により,採食型と消化器官の対応は系統とは独立に存在することが明らかにされた.

 第2部ではモウコガゼルとニホンカモシカについての具体的な分析結果を検討する.この2種を選んだ理由は,同じウシ科に属す両種が,体重がほとんど同じでありながら,一方のモウコガゼルはモンゴル草原という平坦で乾燥した広大な草原に,他方のニホンカモシカは気候が多湿で地形の急峻な日本の落葉樹林という,対照的な環境に生息しているため,食性と体重,環境の関係を考える上で適しているからである.

 モウコガゼルの生息地のひとつである中国内蒙古自治区のホロンバイル草原の植物量を調査した結果,現存量は130g/m2程度であり,シバムギモドキ(Aneurolepidium chinense)とノゲガヤ(Stipa spp.)を主体としたイネ科が重要であることがわかった.これらの化学分析によると,タンパク質含量は生育期でも12.0%と低く,10月から4月までの枯死期間には3-5%ときわめて低かった.モウコガゼルの胃内容物をポイント枠法によって分析した結果,春には双子葉草本とイネ科,秋と冬にはシバムギモドキとノゲガヤを中心としたイネ科を主食としていた.胃内容物を化学分析した結果,春の採食植物はタンパク質が25%と高かったが,冬には13-16%と低く,NDF(中性デタージェント繊維)が61-63%と高かった.

 一方,ニホンカモシカの生息地である山形市のコナラを主体とする落葉樹の二次林における食物量は約150g/m2で,ヒメアオキ,ハイイヌガヤ,ハイイヌツゲなどの常緑低木が重要であった.胃内容物は常緑低木の葉が45.7%と多かった.冬の胃内容物はタンパク質が20.7%と非常に高く,NDFは56.7%と低かった.

 採食された植物の消化器官における粉砕過程を知るために,第1,2,3,4胃,小腸,盲腸,直腸において内容物を採取し,それぞれにおける植物片の大きさを調べた.その結果,モウコガゼルでもカモシカでも,第2胃から第3胃に移行する段階で急激に細片化することが明らかになった.ただしモウコガゼルでは第1.2胃における粗大片が多く,細片化がカモシカより強力であった.

 消化器官については以下のことが明らかになった.モウコガゼルの唾液腺の体重比は1.2‰であり,グレイザーとしては大きかった.第1・2胃の胃全体に占める相対重は84.7%で,グレーザー型の典型的な値を示し,第1胃内壁の絨毛の分布は不均一で,これもグレーザー型であった.しかし腸の相対長は体長の17.8倍,腸に占める大腸の相対長は30.3%で,グレーザー型ではなかった.

 一方,カモシカの唾液腺の体重比は0.94‰で,ブラウザーとしては小さかった.第1・2胃の相対重は78.9%と小さく,ブラウザー型の値であった.しかし腸の体長比は17.7倍,腸に占める大腸の相対長は24.9%でグレーザー型の値であった.

 両種を比較すると,体重はほぼ同じであるが,生息地はモウコガゼルが乾燥草原であるのに対してニホンカモシカは湿潤な落葉樹林であり,採食食物とその化学成分は前者がグレーザー的,後者がブラウザー的であることを示していた.これは体重が食性を決定するというJarman-Bell原理がこの両種ではあてはまらないことを意味しており,この考え方に再考を迫るものであった.

 モウコガゼルの食物は最初は大型の植物片が多いが,第3胃にいたって急激に細片化される.これにはグレーザー型のよく発達した第1・2胃の強力な運動と,発酵作用によるものと考えられる.第1・2胃が大きいこと,筋柱の発達,第1胃の内壁の分化などはこのことを裏付けている.これは生息地の食物が低質であるために,これを効率的に利用するために消化器官を発達させたものと考えられる.糞中のタンパク質の含有率は主食であるシバムギモドキやノゲガヤの値よりはるかに高かったが,これは第1・2胃内の原生動物などによるものと推察された.

 これに対してニホンカモシカは多くの植物のうち,良質な常緑低木を選択的に採食していた.そのため前胃が未発達であるにもかかわらず,植物は容易に細片化されていたが,細片化の程度は弱かった.ニホンカモシカの場合,冬季でも常緑低木を食べることができ,一年を通じて好適な採食環境に生息しているといえる.

 以上のように,モウコガゼルとニホンカモシカは,生息地の環境の違いを反映して対照的な食性を示したばかりでなく,食性と消化器官の構造には密接な対応関係が認められた.その内容はHofmannの考え方をおおむね支持するものであったが,具体的な数値の多くは本研究によって初めて定量的に示されたものである.今後さらに多くの種に関してこのような定量的計測が行われることにより,この体系が強化されるであろう.

 有蹄類の多様な食性に関する従来の説は,さらに多くの種についての情報が蓄積された上で再検討される必要がある.とくにアジアで独自に種分化した系統群はほとんど研究が行われておらず,これらに関する研究の成果が期待される.その場合,これまで行われてきたように,少数のパラメータを調べるのでなく,本研究で行ったように,食物供給量,食物の植物組成,化学組成,粉砕過程,消化器官の定量的計測などを総合的に評価することが重要である.

審査要旨

 有蹄類は哺乳類の中でも多様な生活様式を持つ一群であり,採食生態だけを取り上げてもさまざまなタイプがあることが知られている.その食性については古くから多くの研究の蓄積があったが,これを一貫した原理で説明しようとする動きが起こったのは1970年代に入ってからであった.その有力なものの一つはJarman-Bell原理で,体重が食性を決定する重要な要因であるとした.一般に大型有蹄類ほど低質で繊維分の多い植物を採食し,小型有蹄類ほど良質の植物を採食する傾向がある.前者はグレーザー,後者はブラウザーと呼ばれる.しかしこの原理では同じ体重であるにもかかわらず異なる食性を持つ有蹄類が多くいることを説明できない.これに対してHofmann説は有蹄類の食性と消化器官の対応関係を重視した.しかし,いずれの説の研究も,近年重要視されるようになった系統の問題を十分に考慮していないため,種間の比較が不適切であった.

 本論文は有蹄類の消化器官の形態におよぼす要因を体重のほぼ同じ反芻獣を材料に明らかにしようとしたもので,序に続けて第1部と第2部があり,最後に総合考察がある.それらを要約すると以下の通りである.

 第1部では,反芻獣の系統と採食型および消化器官の関係を検討するために,既往の論文からデータを集めて比較検討している.ウシ科50種,シカ科15種について,採食型と唾液腺の体重比,第1・2胃(内容物こみ)の体重比,第1・2胃の容積の体重比を検討し,ウシ科においてもシカ科においても,唾液腺重はグレーザーからブラウザーになるにつれて大きくなり,第1・2胃は逆にこの順で小さくなることを示した.しかも,それぞれの値は2つの科で違いがなかった.これらの結果から,ある採食型と消化器官の形態は特定の系統に偏って見られることはないことを確認している.

 第2部では,第1部の結論に立脚して,具体的な材料について食性とこれに関連する多くの項目について分析している.はじめに,体重がほぼ同じで生息環境が対照的なモウコガゼル(Procapra gutturosa)とニホンカモシカ(Oapricornis crispus)を比較することの意義に触れ,この2種の比較によってHofmann説を詳細に検討することの妥当性を確認している.

 生息地の比較では,モウコガゼルの生息地である中国のホロンバイル草原と,ニホンカモシカの生息地である日本の山形市近郊の森林の気候や植生の比較をしている.これによってモウコガゼルの生息地が寒冷で乾燥しており,したがって長い食料不足の期間があること,これに対してニホンカモシカの生息地は温暖湿潤であり,常緑低木が一年中利用できる環境であることを示している.

 食性の比較では両種の胃内容物と糞の分析をし,モウコガゼルではシバムギモドキやハネガヤ属を中心としたイネ科が重要であること,これに対してニホンカモシカではヒメアオキ,ハイイヌガヤ,ハイイヌツゲなどの常緑低木が重要であることを分析している.有蹄類の生存にとってことに冬季が重要であるが,その食物組成は,モウコガゼルではイネ科が73.1%,ニホンカモシカではヒメアオキが32.0%,ハイイヌガヤが23.9%など低木の葉が81.8%もの多くを占めたことを示した.このことから,植物組成から見るとモウコガゼルがグレーザー的,ニホンカモシカがブラウザー的であると結論している.

 次に,主要採食植物,胃内容物,直腸内容物について,タンパク質含有率と粗繊維(中性デタージェント繊維)を分析している.そのうち冬季の結果は,モウコガゼルの場合,主要採食植物のタンパク質含有率は5%以下ときわめて低く,胃内容物では16.3%,糞内容物では16.2%と比較的高かった.これに対してニホンカモシカの場合,主要採食植物のタンパク質含有率は10-15%と比較的高く,胃内容物では20.7%,糞内容物では15.5%と減少した.粗繊維については,モウコガゼルの場合,主要採食植物は約70%と高く,胃内容物では62.7%,糞内容物では48.3%と減少した.これに対してニホンカモシカの場合,主要採食植物は37-47%と低く,胃内容物では56.7%,糞内容物では63.1%と増加した.これらの結果から,モウコガゼルは繊維質の食物を消化する能力が高く,消化過程で粗繊維が減少し,その結果相対的にタンパク質含有率が高くなるのに対して,ニホンカモシカでは繊維質の食物の消化能力が劣り,消化過程で粗繊維は増加したと解釈している.

 次に,両種の消化過程に注目し,消化管内7カ所の植物片の粉砕過程を分析している.1.0mm以上の粗大な植物片の重量比は,第1胃ではモウコガゼルのほうが多いが,第2胃以降では(第3胃を除いて)ニホンカモシカとの違いがなくなった.逆に0.1-0.25mmの微細な植物片は初めニホンカモシカで多いが,消化が進むについれてモウコガゼルで多くなり,腸では有意に多くなった.このことからモウコガゼルのほうが植物を効率的に粉砕することができると結論している.

 このような食物と消化の違いから,消化器官の構造に関係していることを予想し,消化器官の計測を行った.胃の計測によるとモウコガゼルでは反芻胃である第1・2胃がニホンカモシカよりも有意に大きかった.これは低質で繊維質な植物を効率的に消化するためと推察している.以上の結果はHofmannのいう,食物と消化器官に明瞭な対応関係があるという説を支持するとしている.

 しかし,いくつかの消化器官はHofmann説を支持しなかった.例えばHofmann説によれば,腸はブラウザーで相対的に短く,グレーザーで長いとされる.しかしモウコガゼルとニホンカモシカを比較すると,両種で違いがなかった.モウコガゼルの腸は通常のグレーザーよりも短かったが,これは同じグレーザーでも体重が30kg余りと小さいために,腸が長くなることに制約があるためと推察している.このことは,有蹄類の消化器官の形態にとって食性だけでなく,体のサイズも重要であることを示していると考察している.

 以上,本論文は有蹄類の採食生態において生息地の環境の違いが食性を決定づけ,それが消化器宮の形態と強い対応関係があることを示したもので,野生動物学や動物生態学に貢献するところが少なくない.よって審査委員一同は本論文が博士(農学)の学位論文として価値あるものと認めた.

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