学位論文要旨



No 113897
著者(漢字) 杉之原,真紀
著者(英字)
著者(カナ) スギノハラ,マキ
標題(和) 宇宙マイクロ波背景放射における構造形成の痕跡
標題(洋) Imprints of Structure Formation on Cosmic Microwave Background
報告番号 113897
報告番号 甲13897
学位授与日 1998.12.31
学位種別 課程博士
学位種類 博士(理学)
学位記番号 博理第3485号
研究科 理学系研究科
専攻 物理学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 川崎,雅裕
 東京大学 教授 井上,一
 東京大学 教授 木舟,正
 東京大学 助教授 山本,智
 東京大学 助教授 関口,真木
内容要旨

 宇宙マイクロ波背景放射(以下CMBと略す)は、「火の玉」宇宙の名残りであり、ビッグバン宇宙論の重要な証拠物である。現在までにCMBの温度揺らぎの角度スペクトラムについては高精度の理論計算が行われている。また観測面においても、「宇宙の構造のたね」となるCMB温度揺らぎを初めて発見したNASAの観測衛星COBEに続いて、NASAのMAPやヨーロッパのPLANCKなどの観測衛星プロジェクトが高精度高分解能のCMB全天地図作りを計画している。

 本論文の目的は、CMBを宇宙の大規模構造に関する観測と結び付けてCMB角度スペクトラムのみからとは独立な宇宙論パラメーターの決定手段を見つけ出す事と、CMBをプローブとして高赤方偏移宇宙の大規模構造とその進化について解明する可能性を探る事である。本論文では、CMB光子が「最終散乱面」から我々の位置まで伝播してくる間にどのような情報を拾ってくるかという点に着眼した。本論文の独創的な研究は以下の三章に分けられる。

§1.重力レンズとCMB(I.解析的定式化)★銀河の密度非一様性とCMB温度揺らぎとの重力レンズ効果を通じた相関関数

 物質密度非一様性は、重力ポテンシャル場の勾配を作り、最終散乱面から伝播してきたCMB光子の方向を歪める。これを重力レンズ効果と呼ぶ。重力レンズによるCMBの統計への修正は通常、歪曲角(単位球上に射影したCMB光子の位置のずれ)の二次の大きさ程度だと考えられている。実際、CMB角度スペクトラムは、歪曲角の二次でやんわりと変更されるにすぎない。ところが、スローン・デジタル・スカイ・サーベイ(SDSS)プロジェクトのような赤方偏移サーベイの観測結果を直接用いて、着目した視線方向での我々の近傍の銀河の個数分布から物質密度非一様性を推定し、CMB全天地図データの温度揺らぎとの相関を取れば、事情は大きく変わる。

 我々は次の新しい相関関数H()を提案する。

 

 上式では観測する角度スケール、TはCMBの温度、は重力レンズの偏移角ベクトルである。この偏移角は、銀河の赤方偏移サーベイで探査される領域内にある物質による重力レンズ効果を反映する。通常のCMB角度相関関数と比較して、重力レンズの偏移角を顕に導入し、CMB温度の勾配との内積を作っている事に注意されたい。すると、この相関は歪曲角の一次の効果として検出される事が導かれる。定式化にあたっては、小角度スケールでの平面近似を用い、また二点の相対偏移角がガウス統計に従う事を仮定した。MAPやPLANCKの分解能に対応する角度スケールでは充分平面近似が成立し、また偏移角が数百のほぼ独立な個々のレンズ事象の積み重ねである事からガウス近似も充分良い近似となっている。

 この相関関数のシグナル・ノイズ比は、

 

 である事が、数値計算によって評価される。数値計算は、標準的なコールド・ダークマター(CDM)宇宙モデルの場合と、低密度宇宙項入りCDM宇宙モデルの場合について行なった。また、MAPとSDSSの諸パラメータを用いた。

★結論

 本章では、SDSSとMAPのような二つの巨大プロジェクトのデータを直接結びつける新たな方向性について探った。新しい相関関数を提案・定式化し、シグナル・ノイズ比を数値的に評価する事によりこの相関関数が、一次効果として充分検知可能である事を示した。この相関の観測は、ダーク・マターの分布と銀河の個数分布とを関係づけるバイアス・パラメーターを直接測るものとして期待される。

§2.重力レンズとCMB(II.シミュレーション)

 先に提案したCMBの重力レンズを通じた相関について、その検出可能性と宇宙論的意義を裏付けるため、シミュレーションを用いたCMB温度揺らぎの模擬観測を行ない、現実的なシグナル・ノイズ比の評価を行う。重力レンズ効果では等方項と非等方項が現れるが、例えばCMBの二点相関関数C()には非等方項はあまり効かず、無視される事も多い。しかし新しく提案したCross-correlation functionでは、非等方項が決して無視できない程度の寄与をする事が分かった。ノイズ評価において、解析的な理論計算でこの非等方項を取り入れるのは困難であるため、§1では等方項のみ考慮していた。シミュレーションを用いれば、非等方項も含めた完全な取り扱いが可能である。更に、観測のビーム幅の効果も正しく取り入れる事ができる。ノイズ評価においてはCMB観測で生ずるcosmic variance起源のノイズと個々の観測の観測機器の精度によるinstrumental noiseを取り入れ、multipole momentlに対して累積的なシグナル・ノイズ比を計算する。

★シミュレーションの手法

 まず、最終散乱面での温度揺らぎ二次元地図と、二次元面に射影された重力ポテンシャル地図を、ガウス分布に従うランダム変数を用いて作成する。相関関数に登場する重力レンズの偏移角については、本来ならば観測によって得られる銀河の個数密度三次元地図から重力ポテンシャル場の空間分布を推定して算出するべきものである。しかし、本章ではCMB起源のノイズの評価を目的とし、重力ポテンシャル場はCDM宇宙での線型遷移関数による物質密度パワースペクトラムから求めるという立場を取る。すると或る重み関数を用いて射影した二次元の重力ポテンシャル場があれば充分という事になる。次に或る方向からやってくる光子を観測した時に、その光子は実はどの方向の最終散乱面から発したものであったかという、重力レンズによる偏移角の地図を、重力ポテンシャル地図から作成する。そして、温度揺らぎの模擬観測を行なう。模擬観測で得られた温度揺らぎ地図は重力レンズ効果を被っていない地図とは異なっている。また観測される温度揺らぎの勾配の地図も作成する。最後に、温度揺らぎ・重力レンズによる偏移角・温度揺らぎの勾配の三者の相関関数を算出する。シミュレーションにおいては、グリッドサイズ:4.32分角×メッシュ数:128を一辺とする正方形(つまり0.03ステラジアン)の地図を800枚実現させた。

★結果

 シミュレーションから得られたシグナル・ノイズ比は、標準的なCDM宇宙モデルの場合、37程度であった。従って、先の主要項のみに着目した解析的な数値評価(§1)は、かなり現実と合う結果を与えていた事が実証された。§1での評価とシミュレーションでは、非等方項の考慮やビーム幅の効果の正しい考慮など多くの点で取り扱いが異なったが、、これで本来の観測に近い状況での検出可能性が確証された。一方、相関関数H()のプロファイル自体は§1の場合と異なる形が得られた。これは、将来観測により得られる結果を正しく解釈するためには、シミュレーションとの比較が不可欠である事を示すものである。

§3.炭素・窒素・酸素の輝線放射を用いた高赤方偏移(z>10)物体の探査

 原始銀河で形成されたO型、B型星が超新星爆発を起こした結果、相当量の炭素・窒素・酸素などの重元素がz=10〜20の時期に存在すると推定されている。これらの元素は静止系で50〜700mの波長帯に輝線スペクトルを持つ。赤方偏移z=10〜20の時期にこれらの輝線放射が発せられると、z=0ではミリ波・センチメートル波領域に入る。その結果、角度・振動数の両方において充分細かく分解すれば、強度の不規則な凹凸が観測されるはずである。本章ではこの輝線放射によって生ずる強度揺らぎの大きさを評価し、また観測に必要な角度・振動数分解能について議論する。一価の炭素イオンからの158m輝線放射については放射係数による手法と光度密度による手法でそれぞれ調べた。二つの独立な手法による評価は良く一致した。1+z=10では典型的な原始銀河は30kms-1の速度分散を持ち、1秒角のサイズを持つ。この場合の典型的な強度揺らぎの大きさは0.1Kkms-1と評価される。より大きな振動数分解能(10-3程度)での観測は対応するスケールでスムーズされた密度揺らぎを拾う。その強度揺らぎの大きさはCMBの2×10-6程度と評価される。もしこの観測が実現すれば高赤方偏移時期における空間的非一様性を直接検出できる事になる。またC、N、Oのイオン化の歴史、宇宙における再イオン化時刻などを観測的に知る手掛かりにもなる。

審査要旨

 本論文は7章からなり、第1章は宇宙マイクロ波背景放射の非等方性と宇宙の密度揺らぎ・構造形成との関係としてSachs-Wolfe効果、重力レンズ効果、Sunyaev-Zeldovich効果について簡潔にまとめられている。第2章では後の章の議論に必要な宇宙の大規模構造関や密度揺らぎに関係した様々な物理量がまとめられている。第3章では、宇宙マイクロ波背景放射の非等方性に関する統計量として、温度揺らぎの2点相関関数、非等方性の観測データのノイズに関する解説が述べられている。ここまでの1章から3章までが本論文の序章の役割を果たしている。

 第4章では宇宙の構造に起因した重力レンズ効果による宇宙マイクロ波背景放射(CMB)の非等方性の詳しい解説が述べられている。ここでは、過去に行われた重力レンズ効果による宇宙マイクロ波背景放射の温度の2点相関関数の計算が紹介され、重力レンズによって引き起こされる非等方性の大きさは歪曲角(単位球上に射影したCMB光子の位置のずれ)の二次の大きさ程度で極めて小さく、観測的にその効果を測定することが非常に困難であることが示されている。

 第5章からが論文提出者のオリジナルな研究に基づいた結果が述べられている。まず5章では第4章で述べたように重力レンズによるCMBの統計への修正は通常、歪曲角の二次の大きさ程度だとが、宇宙の大規模構造の観測計画であるスローン・デジタル・スカイ・サーベイ(SDSS)プロジェクトのような赤方偏移サーベイの観測結果を直接用いて、着目した視線方向での我々の近傍の銀河の個数分布から物質密度非一様性を推定し、CMB全天地図データの温度揺らぎとの相関を取れば、事情は大きく変わることに着目した。そのために、新しい相関関数を提案・定式化し、この相関が歪曲角の一次の効果として検出される事が導かれている。。また、相関関数のシグナル・ノイズ比は、S/N=15〜35となることを示されている。

 続く第6章では第5章で提案したCMBの重力レンズを通じた相関について、その検出可能性と宇宙論的意義を裏付けるため、シミュレーションを用いたCMB温度揺らぎの模擬観測を行ない、観測のビーム幅の効果も正しく取り入た現実的なシグナル・ノイズ比の評価を行っている。ノイズ評価においてはCMB観測で生ずるcosmic variance起源のノイズと個々の観測の観測機器の精度によるinstrumental noiseを取り入れ、multipole moment lに対して累積的なシグナル・ノイズ比を計算し、シミュレーションから得られたシグナル・ノイズ比は、標準的なCDM宇宙モデルの場合、37程度で、第5章での解析的な評価と一致する結果が得られている。

 第7章では、原始銀河で作られた炭素・窒素・酸素などの重元素の輝線放射によって生ずる強度揺らぎの大きさについて述べられている。原始銀河で形成されたO型、B型星が超新星爆発を起こした結果、相当量の炭素・窒素・酸素などの重元素がz=10〜20の時期に存在すると推定されている。これらの元素は静止系で50〜700mの波長帯に輝線スペクトルを持つ。赤方偏移z=10〜20の時期にこれらの輝線放射が発せられると、z=0ではミリ波・センチメートル波領域に入る。その結果、角度・振動数の両方において充分細かく分解すれば、強度の不規則な凹凸が観測されるはずである。特に、一価の炭素イオンからの158m輝線放射についてその強度揺らぎの大きさはCMBの2×10-6程度と評価されている。この観測が実現すれば高赤方偏移時期における空間的非一様性を直接検出できる事になる。またC、N、Oのイオン化の歴史、宇宙における再イオン化時刻などを観測的に知る手掛かりにもなるという点で重要である。

 第8章はそれ以前の章の結論がまとめられている。

 以上、本論文は、宇宙マイクロ波背景放射を宇宙の大規模構造に関する観測と結び付ける新しい相関関数を使うことによってCMB角度スペクトラムのみからでは観測困難な重力レンズ効果観測を測定できることを初めて示し、また、CMBをプローブとして高赤方偏移宇宙の大規模構造とその進化について解明する可能性をを議論したもので、その宇宙論における意義は高いものである。なお、本論文第5、6、7章は杉之原立史氏とDavid Spergel氏との共同研究に基づくものであるが、論文提出者の寄与が十分であると判断する。したがって、この論文で示された幾つかの具体例を通じて論文提出者の研究に関する資質は十分であるものと判断し、博士(理学)学位を受けるに値するものと考える。

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