学位論文要旨



No 113905
著者(漢字) 鄭,百秀
著者(英字) Chong,Baek-Soon
著者(カナ) チョン,ベックス
標題(和) 李光洙・金史良の日本語・朝鮮語小説 : 植民地期朝鮮人作家の二言語文学の在り方
標題(洋)
報告番号 113905
報告番号 甲13905
学位授与日 1999.01.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第186号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 大澤,吉博
 東京大学 教授 川本,皓嗣
 東京大学 教授 神野志,隆光
 東京大学 教授 竹内,信夫
 東京外国語大学 教授 三枝,壽勝
内容要旨

 二言語の創作、出版、読書状況の中で生産されたテクストの言語は、原理的に、互いに排除し合い、また前提し合う両言語の相互関係によって成立する。植民地期の朝鮮人二言語作家によるテクストの言語も例外ではない。その意味で、日本語、朝鮮語の<二言語の相互関係>とは、彼らが生産したテクストの在り方を構造的にあらわす概念であると同時に、個別テクストにおけるさまざまな特殊性を「植民地文学」という全体の中に統合させる契機そのものでもある。しかし、植民地期朝鮮文学に関するこれまでの研究では、まさにこの<二言語の相互関係>に対する認識が欠如していた。そもそも二つの言語の関係性の上に成り立つ<二言語状況>、<二言語作家>などの概念自体が、本格的な主題として取り入れられてこなかったのである。それが国民、民族文学の建設を目指した戦後の<母語>中心主義がもたらした結果であることはいうまでもない。本論文はこうした問題意識から、<二言語の相互関係>をテクストの読みの過程で積極的に顕在化していく。そうすることによって、これまでの単一言語中心主義の研究言説では論じられなかった、または見えてこなかった、二言語小説の言語世界を新たな解釈の空間に位置づけることを試みようとするのである。

 I部の議論では、植民地初期を代表する二言語作家李光洙が両言語を往復しながら生産した朝鮮語と日本語の作品を交互に取りあげる。

 作家にとって最初の小説である「愛か」(『白金學報』、1909年12月)は、近代小説という新しい文化様式が流入されることによって朝鮮語による近代小説が構築される文学史的な流れにおいて、重要な契機のいくつかを表している。朝鮮半島が植民地化される前後の時点で、朝鮮住民と植民本国の間の言語的かつ文化的な媒介は主に日本留学生によって行われたのだが、「愛か」はその留学生が持っていた時代感覚や言葉への帰属意識を主題化しているテクストとして浮き上がる。それは基本的に、「愛か」が明治学院の留学生であった作家の自伝的人物を構成し、また作者自身の内面を小説言語化した、という事実と深く関わっている。自伝的要素の小説言語化を可能にさせたのが、明治期に成立した近代小説の形式的装置の「彼・た」という新しい表現である。「愛か」によってはじめて体験されたその形式的装置は、実は、近代初期の日本語小説と朝鮮語小説の関わり方、朝鮮語小説の様式的変容、などの文学史的問題系を解明する核心的項目である。したがって、第一章三節の議論は、当時の日本語と朝鮮語小説の生産条件を往来、検討することによって、朝鮮語近代小説の成立という問題が究明される方向に進められる。つまり、植民地住民と植民本国の文化をつないだのが、先進文明への同化を自ら追求した植民地初期の留学生であるとすれば、文学領域でのそうした文脈、すなわち朝鮮語小説の在り方の変化と明治期日本語小説の関わりを先鋭なかたちで表しているテクストが留学生小説「愛か」なのである。

 「愛か」で試みられた新しい表現形式、具体的にいえば「彼・た」という小説言説が朝鮮語小説においての制度的装置として一般化されることに大きな役割を果たしたのが、総督府機関紙『毎日申報』(1917年)に発表された『無情』である。すなわち、日本留学経験者たちによって近代小説が確立される中で、その文化様式のもとに作者-読者共同体が新しく構成されていく過程を、『無情』というテクストは顕示している。『無情』が朝鮮語新聞に連載されたという事実は、「愛か」と『無情』を二言語往来のテクストとして読む場合、創作言語の転換と物語世界との相互関連性を具体化する重要な要因として位置づけられる。『無情』の物語世界を支えている語りの対話的性格の背後には、朝鮮語新聞読者に小説言語が直接向けられるというテクストの定向性が存在している。作者-読者の対話的共同主観性-これは植民地住民の民族共同体意識にもつながるのだが-は、画一化された小説言説「三人称・た」が用いられることによって保持させられている。「愛か」と『無情』という両言語テクストの間に、物語世界においては、留学生の内面の成立と植民地住民共同体意識の成立という項目をめぐるさまざまな差異性が見いだされるのだが、その小説言語化の過程においては、新しい文体的装置に対する同一の認識が連続性として確認される。

 第三章の「萬爺の死」(『改造』、1936年8月)は、植民地首都京城で発刊されていた新聞に小説を連載するといった朝鮮語の創作活動の後で行われた日本語の創作である。朝鮮語新聞小説と「萬爺の死」の両言語テクストの間には、基本的に二つの局面でのテクスト生産条件の転換が見いだされる。それは、作家が母語である朝鮮語から異言語の日本語へと創作言語を転換したこと、そして、テクスト言語の定向性が朝鮮語システムの枠組みから日本語システムの枠組みへと転換されたことである。こうしたテクストの生産条件の転換が、「萬爺の死」の物語世界にどのような変容をもたらしているのだろうか。まず、朝鮮語新聞小説が植民地住民の共同体意識を担っている人物を描き出したとすれば、「萬爺の死」は「村」共同体の秩序によって追い出される人物を捉えた、という登場人物の像における対照的な性格が確認される。引き続き問題になるのが、それぞれの人物がどのような語りによって形象化されたのかということである。その語りには、朝鮮語作者-読者の<共同主観的な等質的関係>と日本語作者-読者の<他者との非等質的な関係>が、それぞれ働いていることが相対的差異として見いだされる。それによって朝鮮語新聞小説から「萬爺の死」へのさまざまな物語世界の変化に、作家の創作言語の転換が必然的かつ根本的な水準で関与しているという事実が明らかになる。

 I部では、朝鮮語と日本語の両言語によって創作することが制度的に保障されていた植民地初期の言語状況でのテクストを取りあげたのに対し、II部では、日本語による朝鮮住民の国民的統合が国家権力によって強制された植民地末期の言語状況でのテクストを取りあげることにする。したがって、I部の議論が、作家が二言語を往来することから生じる問題に焦点を合わせるのに対して、II部の議論は、(二言語の植民地的差別・対立の条件の中で)作家が異言語の世界へ越境することから生じる問題に焦点を合わせる。つまり、朝鮮人にとって帝国主義的な国家編制を象徴する日本語を用いて創作するというエクリチュールの条件が、II部の議論で取りあげられる金史良の二言語小説の物語世界に、どのように関与しているのかということが重要な課題になるのである。

 第四章では、植民地末期言語状況と小説言語との相互関連性という観点から、『文芸』(1940年7月)に発表された「草深し」を取りあげる。まず、朝鮮社会における「國語」(日本語)対朝鮮語との対立、葛藤の様相を「草深し」という小説テクストはどのように受けとめているのか。支配者の「國語」を自分のものとして積極的に受け入れようとする郡守(村長)、「國語」化されていく時代状況の中で右往左往しなければならなかった朝鮮語先生、朝鮮語にしか自己同一性をはかることができない山民達など、登場人物の意図的な配置によって、「草深し」は朝鮮社会のダイグロシア(diglossia)的な言語状況を的確に浮き彫りにしている。ここでもう一つ議論せざるを得ないのは、現実の二言語状況を物語世界の中に受けとめている「草深し」というテクストのエクリチュール過程自体が、実はその現実の二言語状況の一部である、という事実が喚起する問題性である。つまり、その問題とは、二言語状況を対象化していく「草深し」という作品の前提として、その二言語状況の中で一方の言語を選択して書くというエクリチュール条件がある、というテクスト言語の自己言及性である。異言語のシステムの中に参入するとき(植民地朝鮮人作家の場合、日本語で書くとき)顕在化するこの自己言及性は、II部の議論の、特に第五、六章の議論の方向性を指し示すものである。

 「草深し」とほぼ同時期に発表された「天馬」(『文芸春秋』、1940年6月)には、作家が一方の言語を選択して書くときの言語行為を自己言及的に対象化するという性格が、より具体的にあらわれている。つまり、「京城文壇の日本語作家」玄龍という人物を作品の主人公として取りあげることによって、植民地末期の朝鮮人作家が日本語で書く行為自体が作品全体においてもっとも重要な題材としてすえられているのである。帝国主義的国家権力によって強要された「國語」に自分を従属させる朝鮮人作家の内面世界が、俗物性と悲劇性が表裏をなすことによって成り立っていることを「天馬」は見事に捕捉し、形象化している。それは、二言語状況の中で日本語を選択して書く作家自身を登場人物の意識の中へ投影することによって、はじめて可能になった同時進行的な自己批判なのである。

 「光の中に」(『文藝首都』、1939年10月)は、「血も、肉も悉くが一體にならなければならない」という「内鮮一體」が訴えられた時代に、内鮮民族の血、言語の統合とは両民族の構成員にとっていったいどのような意味合いをはらんでいるものなのか、人はその血、言語の存在拘束性(帝国主義-植民地民族主義の対立を支えているイデオロギー的要素)から自由になることはできないのか、という問いかけを一貫して追求した作品である。混血に対する周りの社会からの差別や自分の中にある純血イデオロギーとの少年の戦い、周りの社会が決め付ける南(なん)と南(みなみ)という呼び方の間で体験した「私」の意識の分裂、などを通じて「光の中に」は、民族の血や共同体の言葉が人々の意識の中に暴力的に作用している仕方を繊細に捉えている。結局のところ、こうした物語世界の創出は、作家が用いている言語とその言語に介入している共同体のイデオロギー的権力との関係性を対象化し、また書かれる対象や書く行為自体に二言語作家の言語意識を<自己投企>する(sich versetzen)という異言語のエクリチュール過程と不可分の関係にあるのである。

 第七章では、朝鮮人作家が置かれていた植民地末期の言語状況をもう少し分節していくことによって捉えられる言語状況の変化と、テクストの言語世界の変容との関係性を取りあげる。「國語」化されつつあった状況と完全に「國語」化された言語状況での<両言語の相互関連性>の在り方は充分異なっており、それに連動され、<両言語の相互関連性>とテクストの言語世界との関わりの変化も当然ながら問題化されるようになる。「國語」による朝鮮語の吸収という条件に支配される二言語往来の言語状況から生産されたテクストとして、両言語が同時に用いられた(あるいは翻訳、改作された)作品を(第一節)、また「國語」の言語状況で生産されたテクストとして、戦争協力雑誌『國民文學』(1942年1月)に載せられた「ムルオリ島」を(第二節)、それぞれ取りあげ、金史良小説における異言語のエクリチュールや二言語の相互関連性の問題により多角的な照明をあてることを試みる。まず、二つの翻訳(改作)テクストの分析で明らかにされたのは、異言語のエクリチュールにおいて曖昧な過程としてしかあらわれていない両言語往復のプロセスが、これらのテクストの言語世界には明確化されていたということである。つまり、II部で取りあげた「草深し」「天馬」「光の中に」などの日本語小説ではさまざまなかたちで隠蔽されていた、二言語を横断する作家精神の運動や新たな意味世界の創出過程が、翻訳(改作)過程を通じて、浮き彫りにされていることが確認できるのである。そして、「國語」の言語状況で書かれる「ムルオリ島」では、朝鮮語に対する日本語の抑圧、その中での朝鮮語の<母語>としての観念化、などの植民地末期の二言語状況が抱えていたもっとも本質的な問題が、登場人物に語り継がれている朝鮮語の「昔話」「民謡」をめぐって主題化されているのである。

 本論文が七つの章に分けて植民地二言語作家の李光洙と金史良の作品を取りあげるにあたって、そのテクストの読みは、作家あるいは一連の作品における統一的なイメージの構成というテーマに向けられるのではなく、むしろそれぞれの具体的なテクストの解釈を通じて次第に浮き上がる問題にポイントを当てるように行われた。しかしながら、各章の議論における解釈の多様性というのは、根本的には、「國語」対<母語>の抑圧・対立として特徴づけられる植民地的二言語状況、そしてその中で一方の言語を選択しなければならなかった作家のエクリチュール、というテクストの成立条件がテクストの言語世界にどのように作用しているのか、という問いの範囲の内で収められるものである。

審査要旨

 本論文は、李光洙(1892--1850?)と金史良(1914--1950)の日本語、朝鮮語による創作を作家の二言語使用という観点から分析したものである。李光洙は朝鮮が日本に併合される前に自ら日本語を学び、日本に渡って明治学院中等部に在籍した。彼の処女作ともいうべき日本語短編「愛か」(1909)は明治学院の同窓会誌『白金學報』に発表された。その後早稲田大学に入学したが、その在学中に、京城で刊行されていた朝鮮語新聞『毎日申報』に『無情』(1917)を発表した。李光洙はその後、基本的には朝鮮語で創作を発表したが、1936年には日本で出版されていた雑誌『改造』に「萬爺の死」を発表する。李光洙の文学的履歴を見れば、基本的には朝鮮語での創作が主であって、そのほかにわずかの日本語作品が存在するということになる。それに対して金史良は文学的経歴が日本の朝鮮植民地支配の時代と多く重なり、日本語使用が強制された時代に創作活動をした人であるから、著作としては日本語の作品が主となっており、そこに戦後の朝鮮語の作品が加わることになる。その点では二人の作家は対照的であり、朝鮮における日本語使用(強制)という観点から言えば、初期に属するのが李光洙であり、後期に属するのが金史良という違いが存在することになるが、鄭百秀氏の議論によれば、二人とも表現の際使用される言語と表現された世界との関係にきわめて自覚的であったという共通点がある。その点ではこの二作家の創作を分析し、議論する時に二人が日本語と朝鮮語という言語圏を往復したという事実を無視しえないことになる。

 しかし、これまでの研究では、二人の作家を論ずる際、そうした「二言語作家」という視点はほとんど無かったと言ってよい。それは、第二次大戦後の韓国において韓国文学と言えば韓国語で発表されたものを取り扱うことが前提となっており、日本支配の期間に発表された日本語作品(特に朝鮮で発表された日本語作品)はいわば暗黒期の創作と見なされ、それらが議論されるとしても親日文学なのか、抵抗の文学なのかというイデオロギー的な側面が強調されたためである。また日本においても近年「植民地文学」への関心が高まってはいるが、それも「植民地」における日本人作家の創作に関心が向けられており、「植民地」における被植民者作家の問題は範囲外に置かれる傾向がある。しかし、鄭百秀氏の議論によれば、「植民地文学」を論じようとすれば、なによりもまず被植民者が異言語で発表した作品を分析すべきであるということになる。以上の点は鄭百秀氏の論文の独創的な視点である。

 以下、論文の構成に即して、氏の議論を要約する。

 本論文本体は大きく2部に分けられている。第1部は李光洙を扱い、第2部は金史良を扱う。第1部はさらに3章に区分されている。第1章はまえにも述べた「愛か」の分析にあてられている。その際に鄭氏が注目するのは、李光洙が記していた日記と創作本文との関係である。「愛か」は前述したように日本語作品であるが、日記はたぶん朝鮮語で書かれていたものと思われる(韓国語全集に日記は収められているが、現物のテクストは参照できない)。その二つのテクストは独立したものというよりは、相互に関連したテクストとして存在している。作家李光洙は日記に小説のことを書くと同時に、小説の中で日記を書くことに言及する。そうした相互言及性がこの2つのテクストには存在している。その相互言及性は2つの言語を往復する形で作られていただろうと氏は指摘する。そしてまた李光洙はここで「彼・た」という、明治期の日本で確立された近代小説文体を学んだとされる。

 第2章は『毎日申報』に掲載された『無情』を取り扱う。この作品は近代韓国文学の記念碑的な作品であるが、ここで李光洙は、新聞という媒体を通して、韓国人読者との繋がりを得、前述の文体を活用して、近代国家建設のイデオロギーを作り上げることができたと氏は主張する。またここには新聞、鉄道といった新しいマスメディア、交通手段によって作られた、新しい世界観が提示されてもいると氏は語る。

 ただし、そうしたイデオロギー的主張は往々にして小説内の登場人物を平板にしかねない恐れがあり、『無情』もその嫌いなしとは言えない。むしろ、時代の強制で日本語創作に戻らざるを得なかった「萬爺の死」において、李光洙は、母語を共有する、自己の共同体の読者から引き離され、外部の読者の前で異言語表現に従事せざるをえなかった時に、作者の概念化を超えた人物を造形しえたのであった。その人物、萬爺こそは朝鮮の伝統的共同体からはみ出し、共同体から排除される「異人」であった。そうした特異な作中人物を作り上げたのも、この場合、日本語を表現媒体として使わざるを得なかったということと無関係ではあるまい。つまり、その表現においては、「共同主観性」を共有する朝鮮人読者に対する時のように意思伝達可能性が保証されていなかっために、作者は作者の外部にある対象を感覚的描写で捉えざるをえなくなり、そのことが結果としてこの作品に深味を与えたのである。

 金史良を扱った第2部は全部で4章に区切られている。初めの第4章においては、『文芸』に発表された「草深し」(1940)を論ずる。金史良は前にも述べたように、第3次朝鮮教育令(1938)が発布され、朝鮮の学校教育において朝鮮語が禁止された後に作品を発表し始めた世代の作家であるから、ここでも言語の問題は意識的にとりあげられる。この作品の登場人物の一人である「鼻かみ先生」は、そうした状況の変化の結果、朝鮮語教師の職がなくなり、通訳として生計を立てることになった。主人公の朴仁植の叔父は郡守として日本人支配者の側に立ち、日本語で朝鮮人に演説をする。それを通訳するのが「鼻かみ先生」なのである。ここにはその当時の植民地朝鮮の言語・政治状況が見事に描かれている。

 第5章においては『文藝春秋』に掲載された「天馬」(1940)が分析される。この作品は植民地朝鮮文壇における人々のありようを描いた作品であり、ここでは「朝鮮語・日本語の二言語状況の中で、朝鮮人作家がその一方を選択して書くという言語行為が対象化」されている。一般的には批判の対象として描かれているとされる、朝鮮語を捨てて日本文壇に「取り入ろう」とした朝鮮人作家、玄龍も単に批判の対象として戯画化されているというよりは、その当時の朝鮮文壇のありようを示す一つの典型として、他の登場人物との関係の中で描かれているというのが鄭氏の判断である。そこには自国の文化を否定し、植民本国の文化に同化しようとする被植民者作家の悲劇性と俗物性が二つながらに描写されていると氏は指摘する。

 第6章は、金史良の代表作の一つとされる「光の中に」(1939)の分析にあてられる。ここでは日朝混血の問題が提示されるが、興味深いのはその当時、この作品を芥川賞候補作として議論した日本人作家の間にこれを日本人の問題として捉えたものがいなかったという点である。すべては朝鮮人の側の問題とされた。もちろんこの作品においては結末において混血児山田春男も、朝鮮人大学生、南も朝鮮人としての自己同一性に回帰するのであるが、実は混血の問題はそうした純血主義の解決法では最終的な解決を得られないものであり、その点でこの作品はこうした問題を扱ったテクストに不可避な限界を示しているとも言えよう。

 最終章の第7章は金史良が朝鮮語と日本語とで発表したテクストの分析にあてられる。ここでは二言語を往復する翻訳と改作の問題が議論される。

 そして本論文の「むすび」において、上記の分析を踏まえ、この二作家による作品を「二言語文学」として論じる意義が再確認されるのである。

 以上述べたように、本論文は植民地化という状況の中で、異言語による発表を余儀なくされた二人の作家、李光洙と金史良とを取り扱い、彼等の二言語状況と作品との関係を論じたものであった。これまでは日本語、朝鮮語で発表された作品がそれぞれの言語伝統の中で議論されてきたのを、二言語往来という状況の中で作られた、共通の作品として議論し、その特徴を探った論文である。その視点は広く言えば「ポストコロニアリズム」という視点になるであろうが、日本と朝鮮という現在でも微妙な交流関係を有する歴史を二言語状況という視点に絞って論じた力作であると言えよう。

 もちろん、本論文はその理論的指向のために文中にやや生硬な表現があることを否定しない。一審査委員の言葉を引用すれば、著者には難解な語を偏愛する癖があり、それが文章を必要以上に難解にしていると言う。また論文主題の一貫性を追及しすぎて、深読みに過ぎることがあることも否定しない。さらに、引用文の日本語訳作成に際しても、より細心の注意が必要であるという意見が審査委員から出された。

 しかし、本論文がそうした欠点を補って余りある力作であることは疑いえないところであった。これまでの日本、韓国両国における母国語中心主義に対する反省とその母国語中心主義では見えなくなっていたテクストの問題を提示したことは新しい世代の思考を明確に示したものであり、またテクストの歴史主義的分析と記号論的分析とを総合することを目指したという野心的な試みであることは委員全員が認めるところであった。また審査員から指摘された欠点の多くは十分手直しできるものであったから、そうした審査員の指摘を踏まえ、それらの欠点を補正すれば本論文は学界に学問的貢献をすることは確かであるというのが審査委員の一致した意見であった。

 以上の点を総合的に判断して、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。

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