本論文は、李光洙(1892--1850?)と金史良(1914--1950)の日本語、朝鮮語による創作を作家の二言語使用という観点から分析したものである。李光洙は朝鮮が日本に併合される前に自ら日本語を学び、日本に渡って明治学院中等部に在籍した。彼の処女作ともいうべき日本語短編「愛か」(1909)は明治学院の同窓会誌『白金學報』に発表された。その後早稲田大学に入学したが、その在学中に、京城で刊行されていた朝鮮語新聞『毎日申報』に『無情』(1917)を発表した。李光洙はその後、基本的には朝鮮語で創作を発表したが、1936年には日本で出版されていた雑誌『改造』に「萬爺の死」を発表する。李光洙の文学的履歴を見れば、基本的には朝鮮語での創作が主であって、そのほかにわずかの日本語作品が存在するということになる。それに対して金史良は文学的経歴が日本の朝鮮植民地支配の時代と多く重なり、日本語使用が強制された時代に創作活動をした人であるから、著作としては日本語の作品が主となっており、そこに戦後の朝鮮語の作品が加わることになる。その点では二人の作家は対照的であり、朝鮮における日本語使用(強制)という観点から言えば、初期に属するのが李光洙であり、後期に属するのが金史良という違いが存在することになるが、鄭百秀氏の議論によれば、二人とも表現の際使用される言語と表現された世界との関係にきわめて自覚的であったという共通点がある。その点ではこの二作家の創作を分析し、議論する時に二人が日本語と朝鮮語という言語圏を往復したという事実を無視しえないことになる。 しかし、これまでの研究では、二人の作家を論ずる際、そうした「二言語作家」という視点はほとんど無かったと言ってよい。それは、第二次大戦後の韓国において韓国文学と言えば韓国語で発表されたものを取り扱うことが前提となっており、日本支配の期間に発表された日本語作品(特に朝鮮で発表された日本語作品)はいわば暗黒期の創作と見なされ、それらが議論されるとしても親日文学なのか、抵抗の文学なのかというイデオロギー的な側面が強調されたためである。また日本においても近年「植民地文学」への関心が高まってはいるが、それも「植民地」における日本人作家の創作に関心が向けられており、「植民地」における被植民者作家の問題は範囲外に置かれる傾向がある。しかし、鄭百秀氏の議論によれば、「植民地文学」を論じようとすれば、なによりもまず被植民者が異言語で発表した作品を分析すべきであるということになる。以上の点は鄭百秀氏の論文の独創的な視点である。 以下、論文の構成に即して、氏の議論を要約する。 本論文本体は大きく2部に分けられている。第1部は李光洙を扱い、第2部は金史良を扱う。第1部はさらに3章に区分されている。第1章はまえにも述べた「愛か」の分析にあてられている。その際に鄭氏が注目するのは、李光洙が記していた日記と創作本文との関係である。「愛か」は前述したように日本語作品であるが、日記はたぶん朝鮮語で書かれていたものと思われる(韓国語全集に日記は収められているが、現物のテクストは参照できない)。その二つのテクストは独立したものというよりは、相互に関連したテクストとして存在している。作家李光洙は日記に小説のことを書くと同時に、小説の中で日記を書くことに言及する。そうした相互言及性がこの2つのテクストには存在している。その相互言及性は2つの言語を往復する形で作られていただろうと氏は指摘する。そしてまた李光洙はここで「彼・た」という、明治期の日本で確立された近代小説文体を学んだとされる。 第2章は『毎日申報』に掲載された『無情』を取り扱う。この作品は近代韓国文学の記念碑的な作品であるが、ここで李光洙は、新聞という媒体を通して、韓国人読者との繋がりを得、前述の文体を活用して、近代国家建設のイデオロギーを作り上げることができたと氏は主張する。またここには新聞、鉄道といった新しいマスメディア、交通手段によって作られた、新しい世界観が提示されてもいると氏は語る。 ただし、そうしたイデオロギー的主張は往々にして小説内の登場人物を平板にしかねない恐れがあり、『無情』もその嫌いなしとは言えない。むしろ、時代の強制で日本語創作に戻らざるを得なかった「萬爺の死」において、李光洙は、母語を共有する、自己の共同体の読者から引き離され、外部の読者の前で異言語表現に従事せざるをえなかった時に、作者の概念化を超えた人物を造形しえたのであった。その人物、萬爺こそは朝鮮の伝統的共同体からはみ出し、共同体から排除される「異人」であった。そうした特異な作中人物を作り上げたのも、この場合、日本語を表現媒体として使わざるを得なかったということと無関係ではあるまい。つまり、その表現においては、「共同主観性」を共有する朝鮮人読者に対する時のように意思伝達可能性が保証されていなかっために、作者は作者の外部にある対象を感覚的描写で捉えざるをえなくなり、そのことが結果としてこの作品に深味を与えたのである。 金史良を扱った第2部は全部で4章に区切られている。初めの第4章においては、『文芸』に発表された「草深し」(1940)を論ずる。金史良は前にも述べたように、第3次朝鮮教育令(1938)が発布され、朝鮮の学校教育において朝鮮語が禁止された後に作品を発表し始めた世代の作家であるから、ここでも言語の問題は意識的にとりあげられる。この作品の登場人物の一人である「鼻かみ先生」は、そうした状況の変化の結果、朝鮮語教師の職がなくなり、通訳として生計を立てることになった。主人公の朴仁植の叔父は郡守として日本人支配者の側に立ち、日本語で朝鮮人に演説をする。それを通訳するのが「鼻かみ先生」なのである。ここにはその当時の植民地朝鮮の言語・政治状況が見事に描かれている。 第5章においては『文藝春秋』に掲載された「天馬」(1940)が分析される。この作品は植民地朝鮮文壇における人々のありようを描いた作品であり、ここでは「朝鮮語・日本語の二言語状況の中で、朝鮮人作家がその一方を選択して書くという言語行為が対象化」されている。一般的には批判の対象として描かれているとされる、朝鮮語を捨てて日本文壇に「取り入ろう」とした朝鮮人作家、玄龍も単に批判の対象として戯画化されているというよりは、その当時の朝鮮文壇のありようを示す一つの典型として、他の登場人物との関係の中で描かれているというのが鄭氏の判断である。そこには自国の文化を否定し、植民本国の文化に同化しようとする被植民者作家の悲劇性と俗物性が二つながらに描写されていると氏は指摘する。 第6章は、金史良の代表作の一つとされる「光の中に」(1939)の分析にあてられる。ここでは日朝混血の問題が提示されるが、興味深いのはその当時、この作品を芥川賞候補作として議論した日本人作家の間にこれを日本人の問題として捉えたものがいなかったという点である。すべては朝鮮人の側の問題とされた。もちろんこの作品においては結末において混血児山田春男も、朝鮮人大学生、南も朝鮮人としての自己同一性に回帰するのであるが、実は混血の問題はそうした純血主義の解決法では最終的な解決を得られないものであり、その点でこの作品はこうした問題を扱ったテクストに不可避な限界を示しているとも言えよう。 最終章の第7章は金史良が朝鮮語と日本語とで発表したテクストの分析にあてられる。ここでは二言語を往復する翻訳と改作の問題が議論される。 そして本論文の「むすび」において、上記の分析を踏まえ、この二作家による作品を「二言語文学」として論じる意義が再確認されるのである。 以上述べたように、本論文は植民地化という状況の中で、異言語による発表を余儀なくされた二人の作家、李光洙と金史良とを取り扱い、彼等の二言語状況と作品との関係を論じたものであった。これまでは日本語、朝鮮語で発表された作品がそれぞれの言語伝統の中で議論されてきたのを、二言語往来という状況の中で作られた、共通の作品として議論し、その特徴を探った論文である。その視点は広く言えば「ポストコロニアリズム」という視点になるであろうが、日本と朝鮮という現在でも微妙な交流関係を有する歴史を二言語状況という視点に絞って論じた力作であると言えよう。 もちろん、本論文はその理論的指向のために文中にやや生硬な表現があることを否定しない。一審査委員の言葉を引用すれば、著者には難解な語を偏愛する癖があり、それが文章を必要以上に難解にしていると言う。また論文主題の一貫性を追及しすぎて、深読みに過ぎることがあることも否定しない。さらに、引用文の日本語訳作成に際しても、より細心の注意が必要であるという意見が審査委員から出された。 しかし、本論文がそうした欠点を補って余りある力作であることは疑いえないところであった。これまでの日本、韓国両国における母国語中心主義に対する反省とその母国語中心主義では見えなくなっていたテクストの問題を提示したことは新しい世代の思考を明確に示したものであり、またテクストの歴史主義的分析と記号論的分析とを総合することを目指したという野心的な試みであることは委員全員が認めるところであった。また審査員から指摘された欠点の多くは十分手直しできるものであったから、そうした審査員の指摘を踏まえ、それらの欠点を補正すれば本論文は学界に学問的貢献をすることは確かであるというのが審査委員の一致した意見であった。 以上の点を総合的に判断して、審査委員会は、論文審査の結果として、本論文を博士(学術)の学位を授与するに値するものと判定する。 |