学位論文要旨



No 113906
著者(漢字) 何,義麟
著者(英字)
著者(カナ) カ,ギリン
標題(和) 台湾人の政治社会と二・二八事件 : 脱植民地化と国民統合の葛藤
標題(洋)
報告番号 113906
報告番号 甲13906
学位授与日 1999.01.28
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第187号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 若林,正丈
 東京大学 教授 石井,明
 東京大学 教授 古田,元夫
 東京大学 教授 並木,頼寿
 早稲田大学 教授 平野,健一郎
内容要旨

 日本の敗戦とともに、その植民地だった台湾は中国に返還され、そこに50年間日本の統治を受けた台湾を如何に祖国化(中国化)するかという国民統合の課題が生じた。しかし、戦後台湾における国民統合は、その出発から二・二八事件の発生によって挫折した。二・二八事件とは、1947年2月28日より3月中旬にかけて発生した台湾民衆による反政府的な政治暴動であり、また台湾人政治エリートによる政治改革運動としての性格も帯びていた。事件鎮圧過程で虐殺が行われたこと、そしてそれにより政治的恐怖が植え付けられたことにより、大規模な政治エリートの流動化が引き起こされた。

 なぜ台湾人が中国の国民統合を拒むことになったのか。一方で、日本の植民地支配の終了後、台湾人エリート層はどのような脱植民地化の理想を求めていたのか。これらは二・二八事件研究の中心的問題であり、また台湾近現代政治史研究が取り組むべき重要課題でもある。

 権威主義体制下の台湾において、二・二八事件は長い間タブー視されたため、学術的研究が不可能であった。近年、民主化の進展とともに、この事件に関する公文書や回想録が次々と出版され、これらの史料に基づく数多くの研究論著も発表された。しかし、これらの研究の最大の問題点は分析の焦点が統治政策あるいは戦後1年半の時期に局限されており、50年間日本植民地支配下の社会変容を視野に入れなかったことであろう。その結果、台湾抗日運動の担い手や結社組織の連続性に関する分析はなされておらず、台湾近現代政治史の連続の側面の探求をおこたったまま断絶を突出させる結果となった。本論文はこの連続/断絶の問題に正面から取り組んでいて、二・二八事件の歴史的位置づけを明らかにしようとするものである。

 先行研究のもう一つの問題点は派閥主義論という視点に基づいて、二・二八事件を国民政府の派閥闘争に台湾人エリートが巻き込まれた事件として捉える解釈の誤りである。この解釈は統治側のバイアスのかかった偏見に満ちた情報機構の文書を実証の根拠としたため、史実に相違する台湾人の派閥の実態が語られてきた。また、派閥闘争の政治理論で事件の一側面を捉えることができるとしても、全体として台湾の「省籍矛盾」というエスニックな対立構図の形成を説明することができない。戦前から戦後にかけての台湾統治構造の特徴は、日本や中国からの外来政権集団対台湾人の二項対立のエスニックな権力編制が行われたのである。このようなエスノポリティックスの問題を取り扱うため、本論文では「エスニシティの政治化」という分析視角を導入した。

 国民統合/分裂の視点から見ると、二・二八事件に見られた大規模な民衆動員と政治改革要求運動をもって、エスニシティの政治化と呼びうる。政治学者の分析によると、不平等な権力構造はエスニシティを政治化させる基本要因であったが、エスニックな政治動員の成否はエスニック・エリートたちの内部団結力と対外政治目標の一致性に左右されるので、エスニック・エリートたちに着目する政治的ダイナミズムの分析が必要とされるのである。本論文は、こうした視角により、外来統治集団との間に何らかの政治的相互の関係に入った台湾人の政治エリート層ないし台湾の政治団体を「台湾人の政治社会」と呼ぶこととし、その連続/断絶のダイナミックスの解明を試みた。

 具体的に本論文が課題としたのは、第一に国府の上からの国民統合政策と植民地解放後の台湾人の自治要求はなぜかみあわず、二・二八事件という政治破局に至ったのか、その破局は後にいかに収束されたのか、第二に台湾人政治エリートの流動化はいかに論じられるのかという二つの問題であった。勿論、その基本作業としては、政府側の史料による歪みを直し、多面的な史料の把握とその解読に基づく史実の解明であった。この実証分析の結果、台湾人の政治社会においては、連続性をもつ従属的政治社会=地方派系の側面を明らかにし、抗日運動の担い手を中心とする抵抗的政治社会の断絶性の側面をも捉えることができた。

 論文は以上を踏まえ、序論と結論を除いて以下のような五章の構成となる。

 第一章「日本統治下における台湾人の政治社会」は戦後の政治的ダイナミズムの把握の前史として日本植民地統治時代に遡って、台湾人の政治社会の形成要因とその実態を検討する。日本統治期の台湾では抗日運動を通じて、イデオロギーの対立構図が存在しながらも、いわゆる「台湾人意識」が生み出され、自立性のある「抵抗的政治社会」が形成された。その一方、植民地統治機構内に取り込まれた「従属的政治社会」も生まれた。勿論、この抵抗的/従属的という政治社会の区分は、個人のレベルではそれぞれの抗日姿勢の変化や植民地政府への政治参加によって、かなり流動的であった。

 第二章「陳儀政府の台湾移転と上からの国民統合」は、陳儀政府の成立過程及びその統治政策の起源を探り、さらに上からの国民統合の問題点を明らかにしようとする。陳儀政府は「訓政」及び「光復」という統治理念に基づいて、「日本人化」された台湾人に対して「祖国化」=中国人化政策を推進し、さらに「党団」の二元組織体制、国家コーポラティズム的な法令、そして議決権のない「参議会制度」をも導入した。これらの諸政策は台湾社会の主体性の発展を否定し、ひたすら台湾人を従順な中国国民へと改造しようとするものであったため、台湾人エスニシティの政治化を促進する結果となった。

 第三章「脱植民地化をめぐる台湾人エスニシティの政治化」は、台湾人エリート層と陳儀政府との対立を分析しながら、脱植民地化の過程におけるエスニックな政治動員の実態を解明する。台湾人エスニシティの政治化の過程においては、台湾社会のエリート層の自主的脱植民地化の活動が見られた。たとえば、自主的な教育機構の「延平大学」や台湾人資本による「大公公司」、文化団体としての「台湾文化協進会」が設立された。最も注目すべきなのは政治団体の再編によって、民主選挙や完全な自治の実施を求める政治勢力の結集が見られたことであろう。

 第四章「台湾省政治建設協会と二・二八事件」は、自主的脱植民地化を求める台湾人の政治団体の実相の具体的分析である。戦後の台湾人の代表的な政治結社としての政治建設協会は、島内での抗日運動の理念とその経験に基づいて、陳儀政府の官僚と対立した。彼らは台湾社会の近代的発展と自治の経験をあげ、本土より先に自治制度を実施すべきだと要求した。これは二・二八事件中に噴出した政治改革要求の土台となる活動であった。政治建設協会は全島的リーダーシップを持っていたが、事件後の結社禁止と幹部の殉難によって組織が崩壊してしまった。政治建設協会による自治運動の展開及び事件後解体過程の究明を通じて、台湾政治史のミッシングリンクを見いだすことができた。

 第五章「事件後の従属的政治社会の再構築」は、国民政府の権威主義体制の確立過程を考察する。二・二八事件の鎮圧を通じて、植民地時代に蓄積してきた最良の人材が抹殺され、かつての抗日運動の担い手はほとんど政治の舞台から退けられ、「全島的」規模の抵抗的政治社会も完全に排除された。また地方選挙の実施によって県市レベルの従属的政治社会=地方派系が再構築された。勿論、台湾人の抵抗的/従属的政治社会の変転も見られた。このような台湾人政治社会の地殼変動において、最も注目すべきなのは統治構造の変化が見られず、エスニックな権力編制の在り方が再生産されたことである。国民政府統治下の台湾社会は、脱植民地化というよりも、形式的地方選挙を通じて再植民地化(re-colonization)の道を歩んだといってよかろう。

 以上の論述から、二・二八事件は台湾人政治社会の連続/断絶の契機として位置づけられると同時に、エスニシティの政治化が戦後初期台湾人政治社会の変転を促した最大の要因であったことが確認できた。

 エスニシティの政治化という分析概念は、二・二八事件の研究に役立つだけではなく、台湾近現代政治史への新しい研究視点として提示することもできるものと思われる。この視点の導入によって、近現代百年の台湾の政治構造を外来統治者集団-社会エリート層-台湾土着住民という三項のダイナミックな関係として捉えることができるし、社会エリートによるエスニックな政治動員の細部分析を行うことも可能になると思われるのである。すなわち、このような台湾政治史のダイナミックな把握は微調整を経て、権威主義体制の民主化運動時期にも適用できるし、今後台湾のエスノポリティックスの展開をも捉えることができよう。

 台湾における国民統合は、「台湾大」の国民統合か中国大陸との再統合かという未完の国民統合の課題が残されている。そのため、本論文は国民統合やエスニシティの政治化に関する台湾政治史研究という意義だけではなく、台湾における国民統合を今後いかに現実の問題として進めていくのかという深刻な課題に対処する意義をも有すると信ずるものである。

審査要旨

 本論文は、戦後台湾最大の政治暴動事件である二・二八事件に関する政治史的研究である。二・二八事件に関する研究は、発生地台湾において政治的タブーとなっていたが、近年の政治的民主化とともに急速な進展を見せるようになった。しかし、これらの研究には依然史料の解読上また研究視角上克服すべき問題が多い。本論文は、台湾、日本、アメリカの研究機関、官公庁や個人の所蔵にかかる当時の新聞、雑誌、政府文書などの公刊・未公刊の一次史料を精査し、それを二次史料や関係者のインタビューなどで相互に検証することによって、筆者が「台湾人の政治社会」と呼ぶ台湾人政治エリート群像の、日本統治後半期、日本の敗戦直後、二・二八事件時、事件後、国府の台湾移転直後までの動向を克明に明らかにすることにより、先行研究の欠点の克服を試み、政治的側面における二・二八事件の全体像に迫ろうとしている。また、本論文では、日本統治の終了前後と二・二八事件前後における台湾政治史の継続と断続の様態を明らかにすることを通じて、日本植民地統治時代から戦後時期にいたる台湾近現代政治史を通ずる視座構築に資することもそのねらいの一つとされている。

 本論文は、序論と本論5章、および結論の全7章からなる。注は、脚注として各ページ下に付けられている。巻末には本論文の参考文献リストの他、「二・二八事件研究の基本史料」が付録として付されている。目次と参考文献、付録を除く総ページ数は、A4版391ページ(400字詰め原稿用紙換算約1450枚)の大作である。また、本論の論述にかかわるデータや概念を表示するため、計21の図・表が本文中に掲示されている。以下、まず各章の内容を紹介する。

 「序章」では、先行研究の批判的検討に基づいて、研究視角と研究対象の設定が行われている。著者によれば、政治的タブーの解除と関係史料の大量の公刊により二・二八事件研究は急速に進展したものの、(1)事件を鎮圧した側が残した史料の「非土着」的観点に影響された歪みを十分克服しておらず、その結果、(2)統治側の動向については、戦後直後の統治組織である台湾省行政長官公署を単純に日本の台湾総督府に擬したり、行政長官に任じられた陳儀の戦前の福建省主席時代を参照することでこと足れりとする誤った連続性の把握が行われる一方、(3)台湾社会の側に関しては、戦後直後の時期における台湾人エリートの政治的主体性を否定し去ったり、歴史的前提の議論抜きで「自治意識」の存在を指摘する議論が行われるなど、日本統治期との連続性が軽視されている、などの難点がある。こうした反省から著者は、日本植民地統治期から二・二八事件、分裂国家化までの台湾政治史の連続と断絶を把握するための対象として「台湾人の政治社会」(外来の政権との間に何らかの政治的相互作用関係に入った台湾人のエリート層ないし政治団体)を設定し、その動向を(1)国民統合/分裂(「訓政独裁」による陳儀政府の「上からの国民統合」と台湾人エリートによる自主的「脱植民地化」の営為との衝突、後者の挫折)、及び(2)エスニシティの政治化(日本統治期に形成された台湾人意識の新たな条件下での政治過程への顕現)の視角から実証的に明らかにしていくとの論述の方針を提示している。

 「第一章 日本統治下における台湾人の政治社会」では、日本統治後半期の政治過程から、戦後台湾政治の台湾社会側アクターの確認が行われている。1920年代抗日運動の組織と理念を検討すると、植民地下の公共領域に参入して異議申し立てを行う「抵抗的政治社会」(1928年結成の台湾民衆党を典型とする)と一定の近代市民意識をも含意した台湾人意識の登場とが確認され、ついで、1930年代の後半以降、台湾総督府が実施した限定的地方選挙を通じて、以前からの協力層と一部抗日運動家をも取り込んだ「従属的政治社会」が成立した、とされる。さらに、日本統治期に中国大陸に渡って政治活動を展開した「祖国派台湾人」の一群が存在し、その日中戦争中の派閥関係や国民党内諸勢力や陳儀との関係が戦後台湾政治に直接にかかわっていることが指摘される。

 「第二章 陳儀政府の台湾移転と上からの国民統合」は、陳儀の台湾統治政策が事実上日本の総督統治を継承するものだとする従来の通説を批判し、視野を中国現代史に広げて陳儀の施策が当時の国府の「訓政」独裁のあり方を急進的なやり方で台湾に押しつけるものであったと主張している。陳儀の福建省主席の施政にすでに「訓政」の問題点が現れていたことが確認された後、台湾における陳儀政府の「祖国化」教育、国語普及政策や「公民」訓練、統制主義に傾く経済政策の実際が示され、その上で、かくして訓政体制下におかれた台湾における政府や党など権力機構の内部対立の様相及び開始された台湾人の結社活動が検討され、「台湾人の政治社会」が「祖国派台湾人」をはさんで新たな統治集団と対立し始めるありさまが示される。

 「第三章 脱植民地化をめぐる台湾人エスニシティの政治化」では、二・二八事件という破局をもたらした政治的要因として、訓政下における台湾人のエスニシティの政治化を重視する見解が、史実に即して展開されている。台湾人エリートによる自主的な文化・教育・経済活動が陳儀政府の統制的政策により挫折する過程、訓政期の自治訓練のための民意機構として導入された参議会が官民対立の場となっていく過程、新聞における急激な日本語使用禁止や政府官員の「台湾人奴隷化」の言説が台湾人によるメディアと政府との対立を深めていく過程などが示される。さらに、台湾人のエスニシティの政治化が経済失策や官吏の無能・腐敗による統治の破綻と社会的混乱の中で、一般民衆にまで拡散していく傾向にあったのが、二・二八事件勃発前夜の状況であったとしている。

 「第四章 台湾省政治建設協会と二・二八事件」と「第五章 事件後の従属的政治社会の再構築」は、それぞれ異なった意味で「台湾人の政治社会」の戦前・戦後の連続性を検証しようとしている。「第四章」は、戦後初期台湾の代表的政治団体であった台湾省政治建設協会(政建協会)に焦点を当て、戦前から二・二八事件にかけての「抵抗的政治社会」の連続性の存在を検証している。著者によれば、政建協会は、その幹部の人脈や地方組織のあり方、自治の理念などにおいて明白に戦前の台湾民衆党を継承する団体であった。政建協会は、46年から実施された各種民意代表選挙にかかわるとともに、訓政の自治のあり方に対する不満を代弁し、二・二八事件直前には、戦前の抗日団体の手法を使って各地に「憲政推進」の演説会を催すなどの大衆的政治運動をも展開するまでになっていた。政建協会は二・二八事件では、改革要求噴出の舞台となった二・二八事件処理委員会とはやや異なる改革案を用意するなど、左派が加わった前者と対立する局面もでたが、最終的には両者とも弾圧の対象となった。

 「第五章」では、事件後から分裂国家化初期までの政治過程が跡付けられている。著者によれば、事件は統治集団内部の権力関係にも影響を与え、党の影響力が強まり、事件後は文化面でいっそう急進的な「祖国化」が追求されるとともに、上からの職業団体の結成促進などで国家コーポラティズム的な社会団体の統制が開始された。また、憲法施行ととも実施された諸種選挙では、事件中陳儀を支持し今や「半山」と一般に称されるようになった祖国派台湾人が大量進出したが、彼らは分裂国家化後台湾で再構築された国民党の権威主義体制(党国体制))の下で次第に排除された。50年代初期より実現した地方公職選挙を通じて地方政治エリートとして台頭したのは、二・二八事件後「台湾省地方自治協会」に取り込まれていたかっての「従属的政治社会」の成員であった。これらの地方選挙で台頭した勢力が後に「地方派系」として知られる一種の準政治団体である。日本統治期の「従属的政治社会」は、二・二八事件を経て「地方派系」として再編されたといえる。

 「結論」部分では、以上の論述のまとめとして、まず、二・二八事件をめぐる台湾人政治社会の変転を、(1)自主的政治結社の消滅と社会コントロール体制の樹立、(2)台湾人エリートの全島レベルの政治からの排除と籠絡、(3)従属的政治社会の連続性と再植民地化への道、(4)権威主義体制下の政治制度と民主化運動、の四つの観点から整理し、その上で、「エスニシティの政治化」という視角が有効であったとして、この視角が、1920年代の抗日運動期や1980年代以降の民主化の局面にも応用可能な、台湾近現代政治史のダイナミックス把握に有用な視角であることを主張している。末尾には、本論文作成についての著者の若干の反省が述べられている。

 以上が本論文の概要である。本論文の意義としては、次の諸点があげられる。

 まず何よりも、日本統治期後半期から二・二八事件後までの台湾人エリートの政治的動向を一次資料に基づき、中国大陸来台エリートとの相互関係において動態的に把握したことが、本論文の最大の成果である。これによって著者は台湾現代政治史の大きな空白を埋めた。著者の論述は、近年発掘された大量の一次史料の精査、未公刊史料の発掘や関係者へのインタビュー、およびこれらの異なった性格の史料の記述の突き合わせにより、通説を批判的に点検して、より的確な史実の把握を引き出すという周到な方式により行われている。一例を挙げれば、本論文の中核をなす台湾民衆党-台湾省政治建設協会という系譜の発掘は、このような周到な通説点検と史料操作の成果と言える。

 第二に、二・二八事件に関する通説の歪みを、より広い視野からの研究視角と一次史料に基づく史実の提示とによって正したことである。通説の歪みは、台湾の戦前と戦後の歴史の連続と断絶に対して十分検証されていない前提から出発していたことによる。例えば、陳儀政府のあり方とその施策については、戦前の台湾総督府との類似性が、戦後直後の台湾人エリートの行動については戦前との断絶を前提とした研究視角が盲点を作り出していた。これに対して著者は、前者については、同時代中華民国の政治体制全体に視野を広げ、訓政期中国と陳儀政府の連続性を、後者については戦前期台湾史に視野を広げ、日本統治下台湾人の政治社会との連続性と断絶性とを具体的細部に及んで実証することに成功している。また、著者は、先行研究中唯一戦前との連続性の問題を実証的に処理している派閥主義アプローチによる研究に関して、官憲資料に一面的に頼るその史実把握の歪みを上記の周到な史料検証により正すとともに、陳儀政府が体現する訓政体制の「上からの国民統合」諸政策と台湾人エリートの自主的「脱植民地化」の営為との衝突をエスニシティの政治化のプロセスとして具体的に描き出し、派閥主義アプローチの視野狭窄を克服することに成功している。換言すれば、著者は二・二八事件において、エスニシティの政治化アプローチの極めて適合的な事例を見いだしているとも言える。

 以上の成果は、台湾近現代政治史の連続と断絶の様態を明らかにするという著者が自らに課した課題をこの時期に限ってかなりの程度達成し得たことを意味する。著者が対象とした時期は、台湾現代史にとって鍵となる時期である。したがって、著者の達成は、台湾近現代政治史を見通す研究視座の構築に一石を投じたものとして画期的意義を有するものと言える。また、台湾の学界において民主化の進展とともに「噴出した」感のある二・二八事件研究がこれまでのところ依然同事件見直しの政治的必要に対応したものであったことを考慮すれば、二・二八事件研究は、本論文を以てその真に学術的な研究の緒についたのだと言っても過言でない。

 しかしながら、本論文も欠点なしとしない。第一に、本論文の対象を「台湾人の政治社会」に設定したことは、論述を焦点のある一貫性のあるものにしているが、しかし論述される台湾人エリートの社会性と歴史性、すなわちかれらがエリートとして立ち現れることが可能となっている社会経済的、政治制度的背景や歴史的文脈などの論述は十分とは言えない。たとえば、著者によれば、1930年代後半以降台湾人の政治社会の形成にとっては、選挙という制度が重要であったことがわかるが、ではこれらの選挙がどのような制度と動員過程でもって彼らを政治エリートに押し上げてきたのかは、十分に説明されていない。著者は、これらのエリートが置かれている社会的な場のあり方として、「社会的結合」の存在を指摘しているが、本論文では十分な議論の展開はない。上記の諸関係が主たる論述の対象とされていないのは設定された課題から無理ないところではあるが、これまでの関連先行研究を効果的に整理することにより、より説得的な背景説明を展開することは可能であったと思われる。

 第二に、「台湾人エスニシティの政治化」という視角の問題である。著者が採用しているのは、李光一の、政治体制の構造、政府の政策、国際(対外)関係との関連及びエスニック・エリートの選択などを重視するアクター主義的な、あるいはエリート主義的なモデルで、著者の「台湾人の政治社会」に焦点を合わせるアプローチとは適合的であり、上記のようにそれは成功を収めている。特に、第二章、第三章の、政治参加と文化問題で陳儀政府と台湾人のエスニック・エリートが対立を深めていく過程の把握ではそれが顕著である。しかしながら、(1)著者自身が「結論」で反省しているように、台湾外の要因との関連の把握は、「訓政体制」論を除けば系統性を欠いているし、(2)エスニシティの政治化を促す構造要因に関しては、経済的背景の論及は十分でない。換言すれば、自身の論述の対象と李光一のモデルとの関連性が十全に考え抜かれてはいないのである。

 また、章頭、節頭、項頭に置かれた要約的記述に重複が多く、文章がやや冗長の感を抱かせること、(二・二八事件、党国体制に成立を経た台湾社会の)「再植民地化」など、十分に考え抜かれていない用語がわずかながら残存していることなども、本論文の欠点として指摘せざるを得ないだろう。

 このような欠点は、しかし、本論文の価値を大きく損なうものではない。台湾現代史研究が依然開拓の段階にあることを考慮すれば、これらの欠点(第三点を除く)はこの分野全体の今後の課題を指し示すものと言える。以上、本論文は、若干の瑕疵はあるものの、明確な視角と着実な実証によりこの分野の研究を大きく前進させるものであり、博士(学術)の学位を授与するに値する業績であると認められる。

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