学位論文要旨



No 113919
著者(漢字) 赤川,学
著者(英字)
著者(カナ) アカガワ,マナブ
標題(和) セクシュアリティの歴史社会学 : 近代日本におけるセクシュアリティ言説の形成と変容
標題(洋)
報告番号 113919
報告番号 甲13919
学位授与日 1999.02.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(社会学)
学位記番号 博人社第229号
研究科 人文社会系研究科
専攻 社会文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 盛山,和夫
 東京大学 教授 船津,衛
 東京大学 教授 上野,千鶴子
 東京大学 助教授 佐藤,俊樹
 東京大学 助教授 瀬地山,角
内容要旨

 本論文は、近代日本社会、つまり明治期以降1980年代に至るまでおよそ120年間の日本社会におけるセクシュアリティ現象を、歴史社会学的な手法を用いて、総体的に把握することを企図している。

 第1〜4章にかけては、セクシュアリティの歴史社会学を立ちあげるための方法論的検討が行われている。私たちは「セクシュアリティとは、人々がセクシュアリティ(性)と想定するものである」という構築主義的な定義を採用し、フーコーの言説分析を批判的に検討しながら、「言説の外側をいかにして把握可能か」という「言説/実態」問題を認識論的な教義としてではなく社会科学のデータ方法論として引き受けた。そして、(1)テクストや言説が書かれた意図、書かれたコンテクスト、それがいかに読みとられ受容されたかを考慮する、(2)語られたことの「言説化」「通俗化」「社会問題化」「国語化」といった様々なレベルでの「制度的再帰性」を射程に収める、(3)性(セクシュアリティ)と愛(親密性)を論理的にも歴史的にも、独立した現象として分析する、(4)日本社会における性と愛を、固有の論理と歴史を有した現象として記述する、(5)ある言説の、言説空間にしめる位置と機能を測定するために、どの範囲の言説にアクセスしたかを明示化する、(6)「どこでどのように語られる性に、リアリティがあるのか」の領域変動を捉える、といった作業方針を得た。

 第5章から15章にかけては、オナニーに関する言説の形成と変容を縦軸に、「性欲」に対する社会的意味づけの変容を横軸にして、分析を行った。

 オナニー言説については、明治期の開化セクソロジーを通して、近世以来の養生訓パラダイムに折り重なるようにして、西洋出自のオナニー有害論が日本社会に着床していったこと。大正期の通俗性欲学を通して「強い」有害論が日本社会に定着し、性欲の統御を修養やナショナリズムと結びつける「性欲の善導パラダイム」が存在したこと。1950年代には「弱い」有害論が「強い」有害論を凌駕するが、そのことはフロイティズムと養生訓パラダイムのシンクレティズムを意味していたこと。70年代以降の「オナニー必要論」においては、オナニーを通して自己の性的アイデンティティを確認する側面が強調されることなどを明らかにした。

 性欲の社会的意味づけについては、明治期末から大正期にかけて成立した「性欲=本能論」では、性欲が、自己の内部にありつつ外部的でもあり、また、発動しつつ処理されねばならない実在として表象されることによって、「性欲をどの性行動によって満足させるか」という「性欲のエコノミー問題」が登場したこと。また、1920年代における夫婦間性行動のエロス化(規制緩和)と他の性行動の規制強化は性欲のエコノミー仮説によって説明できることが示された。

 さらには、性欲=本能論への対抗言説として登場する性=人格論が、性欲の善導パラダイムを脱臼させると同時に、性を自己の内側に回収するフロイト式の性=人格論と、性を他者との関係性に回収するカント式の性=人格論に分裂していく様相を論じた。前者は、オナニー=自己確認論、オナニー至上主義へと引き継がれ、後者は、愛を至上の原理とする親密性パラダイム、セックス至上主義へと引き継がれる。最後に、現代においては親密性パラダイムは性欲のエコノミー秩序を凌駕し、セクシュアリティ観念を中核を担うようになっていることを明らかにした。

審査要旨

 本論文は、近代日本におけるセクシュアリティに関する言説が、いかに形成され変容したかを、言説分析・歴史社会学の手法を用いて分析した研究であり、言説分析の方法論を論じた第1章から第3章までと、歴史的な資料をもとに言説分析を実践した第4章から第14章までとからなる。歴史的な言説分析における本論文の主要な知見は、大きく以下の3点にまとめられる。

 第一は、19世紀に西洋社会で沸騰した「オナニー有害論」の言説が、開化セクソロジーを通じて輸入され、近代日本社会に定着し消滅する過程を記述し、分析している。ここでは基本的に、オナニーに関する医学的言説が「強い」有害論/「弱い」有害論/必要論の三つからなっており、「強い」有害論全盛期(1870-1950年代)、「弱い」有害論全盛期(1950-1960年代)、そして必要論全盛期(1970年代以降)という経過をたどることが示される。さらに、(1)「強い」有害論から「弱い」有害論への変化の背景には、「性欲のエコノミー問題」が存在すること、(2)近代日本における「性欲の意味論」が、「性欲=本能論」と「性=人格論」の二つからなること、(3)「弱い」有害論から必要論への変化の背景に、「性欲=本能論から性=人格論へ」という性欲の意味論的転換が存在したことが明らかにされている。

 第二は、性欲=本能論と性欲=人格論の論理的なダイナミズムと社会的な帰結の分析である。前者については、それが「抑えきれない性欲をいかに満足させるか」という「性欲のエコノミー問題」を社会問題として提起し、この問題に人々がどう解決を与えるかに応じて、個々の性行動に対する社会的規制の緩和もしくは強化が定まることを論証している。また性=人格論には、フロイト式のそれとカント式のそれが存在し、この二つはときに合流したり(純潔教育)、ときに拮抗・対立したりする(オナニー中心主義とセックス中心主義)ことを示している。

 最後に、1970年代以降、性欲のエコノミー問題はリアリティを喪失し、性欲=人格論の一つのバリエーションとして、あらゆる性の領域において愛や親密性を称揚する親密性のパラダイムが、行為の価値を定める至高の原理となりつつあることを論じている。

 本論文は、単行本だけでも500有余点にのぼる厖大な一次資料を渉猟した上で、既存研究への批判的検討も加えながら、近代日本のセクシュアリティ言説の歴史的変遷をまったく独創的な見地から記述しつつ、鋭い分析を行っている。さらに理論的にもセクシュアリティ研究のパラダイム変更を迫る論争的な貢献をなしている。

 以上により、審査委員会は、本論文が博士(社会学)を授与するに値するものとの結論を得た。

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