学位論文要旨



No 113921
著者(漢字) 飯田,恭
著者(英字)
著者(カナ) イイダ,タカシ
標題(和) ブランデンブルクの農民 : その経営と心性1648-1806年
標題(洋)
報告番号 113921
報告番号 甲13921
学位授与日 1999.02.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第122号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 馬場,哲
 東京大学 教授 廣田,功
 東京大学 教授 森,建資
 東京大学 教授 大澤,眞理
 東京大学 助教授 小野塚,知二
内容要旨

 G.F.クナップは1887年,グーツヘルシャフトにかんする古典的研究のなかで,近世ヨーロッパ・東エルベ地方の農民の経営的自立性の欠如を強調した.つまり彼は,東エルベの農民が,グーツヘルの苛烈な地代要求による貧困と,また下級所有権を欠く劣悪な土地保有権のために,自己の責任=費用において農場経営を維持する意思と能力とを喪失し,領主の援助=扶養に依存しようとする性向を示したとしたのである.その後,東エルベ農業史研究においてグーツヘルシャフト・グーツヘル直営地経営にかんする研究が著しく進展したのに対し,農民経営にかんする本格的な実証研究が大幅に遅れたために,クナップ的な農民理解が1980年代末まで支配的であり続けた.本稿では,1648年から1806年までのマルク・ブランデンブルク,ルピン郡の二所領,王領地アムト・アルト-ルピン及び騎士領ヴストラウを事例とし,農民の経営を,その経営的心性にも及びつつ,有機的・包括的に(農業経営,領主制下の土地保有関係,家族の再生産=土地・財産の継承・配分,共同体の土地配分問題を視野に収め),またその物質的諸条件(農場の自然条件=土地の生産力,及び保有条件=地代負担・土地保有権)の偏差に考慮しつつ復元することにより,クナップの呈示した命題を相対化した.

 そのさいまず注目されるのは,領主がその土地領主権をもって農民に対し,建物や農具(家畜,種籾)に生じた欠損・破損を基本的に自己の責任=費用において補填・補修し,農場を常に整備の行き届いた,それゆえ地代給付可能な状態に維持するよう義務づけていたことである.たしかに世襲農民=下級所有権者が原則として農場(土地・建物・農具)を買い取りその維持費用を自ら負担したのに対し,ラッシーテン(非下級所有権者)は領主=所有者からその維持費用の援助を受けたが,それはあくまで建築・修繕用木材だけに限られていた.また人身領主権(隷民制)には危急時における農民救済の義務がともなったが,それは事実上例外的にしか講ぜられなかった.そして領主は,農民が農場の維持費用を賄うことができず領主の非常援助を必要とした時点で,その農民の罷免を企図した.そのさいたとえ非常援助の必要が,農民自身の責任(経営方法・生活態度の問題)によってではなく,「不幸」(不作・凶作,家畜の不慮の死など)や不利な家庭事情(子沢山,隠居・労働不能者の存在,不利な結婚,高額の相続分支給,病気など)から生じようとも,それとはかかわりなく罷免は行われた.こうして農民には,多くの場合年々の農業収益の大部分に相当する封建地代を納入し,その上で「不幸」や不利な家庭事情にかかわらず自立的に経営を維持するだけの「能力Tuchtigkeit」が求められたのである.

 ところでこのような困難にもかかわらず,農民が農場の保持・世襲に関心を示す根拠は次の点にあった.まず農民農場は,村落内で最良かつ最大のフーフェ地に存在し,農民とその家族に他の農村下層民に比してより確実で安定的な生存基盤を提供した.特に隠居分は農場保有者にのみ特権的に認められていた老後の保障であったが,その確実な支給は農場が子孫によって継承される限りにおいて約束されたのである.一方,一子相続制の下,農場の非相続権者にとって農場の世襲の意義は相対的に小さかったが,しかし農場は窮乏時の「避難所」となりえたし,また農村における定住が一般に困難ななかで,農場を保有する親兄弟の後楯が,空きの出た農民・コッセーテン農場の獲得,良家との縁組み,ビュドナー地の獲得に有利に作用したために,彼らも農場の世襲に一定の利害を共有していた.

 こうして農民は農場の世襲的保持を望む場合,求められた能力を領主に対し持続的に証明するために,具体的に次のようなかたちで経営=家政を規律した.まず彼らは日常的に,農具(特に「農民の魂」たる家畜)の破損につながるような経営方式を避け,建物の補修をそのつど遅滞なく行う一方,「不幸」(不作・凶作や家畜の死など)の到来に備えてできうる限りの蓄えをもつよう過度の飲酒・賭博・その他の浪費を慎んだ.また彼らはより長期を見据えつつ,経営にとって不利な家庭事情を招来せぬよう,家族再生産=土地・財産の継承・配分を農場経営維持の観点に立って慎重かつ計画的に統制した.そのさい特に農家は結婚相手から最も高額の持参金を受け取ることができた「最も有能な」子弟を農場相続人に選定し,相続分・隠居分支給を農場経営に支障のない範囲に抑えた.

 またこうした農民の経営=家政上の自己規律は,村落内の土地再配分紛争によってさらに強められた.フーフェ制度に基づき著しく不平等な土地配分が行われていた村落共同体のなかでは,しばしば土地の再配分要求が発生した.そしてこのような緊張関係のなかで農民は,自らの農場の境界線を防衛しようとする場合,土地処分の権限を有する領主と土地再配分の口実を探す下層民に対し,自らが十分な農具を整え農場を集約的に経営しており施肥・耕作の行われぬ「余分な」土地をもたないことを証明し,また究極的には農場の維持費用の負担を従来以上に引き受け,農場の世襲権=下級所有権を獲得する必要があったのである.

 こうして領主が農民に求めた経営的自立は,家=農場の継承線と,共同体内におけるフーフェ農場の境界線とを防衛しようとする農民の意思を媒介として,実現したのである.

 ところで「より有利な条件の下にある」村落--つまり土地の生産力が高く,地代負担が少ない村落--においては,農民の経営的自立がかなりの程度現実のものとなった.まずここでは農場が相対的に大きな農業収益をもたらしたために,農民が農場保持の意欲と能力とを強めた.そして彼らはさらに,その農場を引き受ける意思のある「有能な」人材が比較的多数存在し,村落内で土地の均等再配分要求がしばしば激しく求められるなかで,権利防衛のために十分な経営能力を呈示し,ひいては農場の世襲権=下級所有権を獲得するよう促されたのである.

 こうした競争=緊張関係のなかで,とりわけ農民地の世襲化が政策目標として掲げられた王領地においてはしばしばラッシーテンの世襲農場主への転換が生じた.こうして農場の下級所有権者となった農民は,今や農場維持費用だけでなく,相続分=持参金支払いをも従来以上に引き受けることとなり,そのため家族の再生産=土地・財産の継承・配分をより一層計画的で慎重に統制する必要に迫られた.そのなかで,富裕な農家の相続人どうしが同じ日に姉妹兄弟を嫁・婿として「交換」し,高額の持参金の流出を即座に相殺するかの二重婚礼の習慣も生まれた.たしかに富裕な世襲農民のなかには,数多くの奉公人を雇用しつつ労働から自由な貴族的生活を好む者もあり,彼らの労働規律について語ることは難しい.しかし彼らは他方,高額の相続分・持参金支払いという貴族的な義務を引き受けることで,その分,家政運営における高度の自己規律を自らに課したのである.

 他方,農民の経営的自立は,「より不利な条件の下にある」村落--つまり土地の生産力が低く,地代負担が重い村落--においては比較的実現が困難であった.まずここでは農場の農業収益が相対的に低かったために,敢えてそれを引き受けようとする「有能な」人材の確保が難しく,その結果,領主の非常援助に依存する「無能な」農民がしばしば放置されることになった.また共同体内で土地の均等再配分が求められたときも,持ち分の多い村民は経営の集約化・下級所有権の獲得をつうじて自らの農場を防衛するのではなく,むしろ現行の,あるいは本来担うべき負担の軽減を望んで農場の割譲に応ずる途を選び,それゆえ持ち分の少ない村民には「共同体全体の維持」の名の下に土地の「慈悲深い」援助が施された.つまりここでは領主の農民に対する経営的自立の要求が,彼自身の過度の地代要求との矛盾に陥ったのである.そしてここにクナップ的な世界の現出する余地が存在した.

 しかし領主はそのような場合でも農民に対する経営的自立の要求を原理的に放棄したわけでは決してなく,あくまで「有能な」人材の確保に腐心した.そして農民もこれに対応しつつ増産の努力を継続し,また領主の指導に従いつつその家族の再生産=土地・財産の継承・配分を農場経営維持の観点に立って規律した.そしてこうした潜在的な努力こそが,18世紀後半における穀物価格の上昇という外的要因を契機として,「不利な条件の下にある」村落をも含めてルピンに一般的に進行した著しい農民の経営発展=財産形成の,いわば内的な要因を成していたと考えられる.

 ブランデンブルクの農民の人格的な自由及び自由な土地所有は,1807年の十月勅令以後徐々に進行した農民解放=封建領主制の廃棄をつうじて初めて実現した.つまり農民は封建領主制が廃棄されてようやく隷民制の束縛,地代要求,そして農民地処分に対する規制から解放されたのである.しかし他方で農民は,自らの自由=権利とは原理的に矛盾する存在であった封建領主制そのものの下ですでに,農民解放にともない領主から援助・救済を受ける可能性が最終的に消滅したのち,自由な土地所有者として自らに求められることになる経営上の自立=自己責任の能力を,陶冶すべきものとして明確に意識させられ,また着実に鍛えられ始めていたのである.

審査要旨

 本論文は,西洋経済史研究において重要な位置を占める東エルベ農業史のなかでは,相対的に遅れていた分野であるグーツヘルシャフト下の農民経営の実態を,1648〜1806年の時期のマルク・ブランデンブルクにおける二つの所領の史料分析に基づいて明らかにし,従来の否定的な農民像に一定の修正を加えることを意図したものである.その構成と骨子を紹介すれば以下のようになる.

 「序章問題の提起,方法,史料」では,当該研究分野における古典であるG.F.クナップの著作によって描き出された,グーツヘルシャフトの抑圧のもとで「ますます貧しく,なまくらで,怠惰に」なっていく農民像がまず詳しく紹介され,次いで最近の研究動向と自らの実証研究を踏まえて,以下の4つの問題領域ないし視点が提起される.(1)農民の農業経営・財産状態を絶望的かつ停滞的なものとするクナップ的な理解をルピン地方の実態把握を通じて相対化すること.(2)領主制が農民経営に対して及ぼした影響を一貫して否定的に叙述したクナップの理解の妥当性を再検討すること.(3)クナップには欠如している農民の生活圏,すなわち家族と共同体に視点を合わせること.(4)東エルベの農民経営を取りまく諸条件の多様性とその農民経営への作用に着目すること.そして著者は,(1)〜(3)については,領主・農民間の土地保有関係,家における土地・財産の継承・配分,共同体における土地配分問題といった側面に注目することによって,さらに歴史人口学の「家族復元法」を用いて,農民的富と農民家族の再生産過程を克明に復元することによって,農民経営を「包括的かつ有機的に描写」するという方法を,また(4)については,ルピン地方内部における「より有利な条件の下にある」村落と「より不利な条件の下にある」村落とを比較考察するという方法を採用することを明言する.

 「第1章ルピン農村の素描」は,ルピン地方,とりわけ本論文の主たる考察対象である御領地アムト・アルト-ルピンと騎士領ヴストラウの歴史的沿革,トポグラフィー,所領経営の在り方,村落形態,村民の人口動態,階層構成の推移,各階層の特徴と成立時期などを簡潔に提示したものであるが,著者は,そのなかでも,農民が,最も定住時期が古く,農村の全世帯数の4割余を占めるにとどまる上流階層をなしていたことに注意を喚起する.

 「第2章農民の財産」では,ルピンの農民の財産状況が同じく簡潔に検討され,「より有利な」村落マンカーと「より不利な」村落ヴストラウでは相当の格差があり,後者の農民やコッセーテンは極めて少額の財産をもつにとどまったものの,前者の農民は多額の現金資産を既に17世紀末の時点で所有していたこと,しかし後者の農民も1780年以降は急速に財産形成を進めていたことが確認され,こうした事実に照らすならば農民経営の停滞性を主張することは許されないと著者は主張する.

 「第3章農業経営」では,まず農産物の生産と市場関係が概観され,18世紀におけるイギリスへの輸出増大やベルリンの発展を背景とする穀物価格の上昇,あるいはベルリン向けの牛の肥育の拡大が農民の利益を増大させたことが確認される.次に労働力が検討され,12歳以上の子供をもたない世帯と奉公人雇用の高い相関関係,あるいは富裕な農民のなかに,労働から自由な,貴族的な生活を送る余裕のある者がいたことなどの事実が示される.さらに農家の年々の収支が2つの個別事例に即して検討され,「より不利な」村落はもとより「より有利な」村落でも18世紀半ば頃までは,穀物生産だけでは経営を維持することが難しかったこと,しかし18世紀後半に入ると農民の努力や先述のような市場的背景によって,農民の経営収支が好転し,財産の増大をもたらしたことが指摘される.

 「第4章領主と農民」では,東エルベにおける領主・農民関係の法制的特徴,具体的には様々な領主の農民に対する支配権や農民の領主に対する義務や地位が,プロイセンの農民保護政策が適用されたアムト・アルト-ルピンとそうした政策が体系的に採用されなかったヴストラウの史実を対比しつつ整理された後,従来必ずしも注目されなかった領主・農民関係の一面が二つの具体的事例に即して詳細に考察される.すなわち,ラッシーテン農場であると世襲農場であるとを問わず,農民やコッセーテンは建物や農具の状態・数量を,領主から一定の援助を受けつつも基本的には自らの責任と費用で維持し,農場を整備して地代負担能力を保つことが義務づけられており,領主は農場の処分に対する同意・決定権を挺子として,そうした能力を欠き,領主による非常時の援助を必要とする「無能者」を罷免し,その代わりに「有能な」人材を後任に当てようとした.もちろん,その実現可能性は村毎に異なっており,農民経営の自立が容易で「有能な」人材を確保しやすい「より有利な」村では実現しやすく,逆に自然・保有条件に恵まれず,人材不足に悩む「より不利な」村では困難であり,罷免の撤回を余儀なくされることもあった.

 「第5章農民家族とその経済」の課題は,以上のような領主の対応が,相続・隠居,結婚,出産における農民の行動にどのように作用していたかを,同じくマンカーとヴストラウとの対比を通じて解明することにある.その考察結果は,以下のようにまとめられる.(1)相続:農民は妻から十分な持参金を獲得でき,身体的・経験的に十分な能力のある子弟を農場相続人に指定し,遺産分配や隠居分の設定に際して,農民家族は,領主の指示に従って相続人の負担を軽減するように努めた.(2)結婚:農場相続人は結婚相手の選定に際して持参金を重視したため,個人的な感情が介在する余地は限られており,財産の乏しい下層民は通婚権から排除される傾向があった.マンカーの農民の閉鎖的傾向は特に強く,「二重婚礼」という結婚戦略による持参金支出の相殺さえ行われた.ヴストラウでは閉鎖的傾向は弱かったが,「不利な」条件のために結婚相手の選定は難航した.(3)出生行動:農民夫婦は比較的多くの子供をもうけ,マンカーでも産児制限は実施されなかったが,それは,「有能な」農場相続人と十分な労働力の必要,厳しい徴兵制,高い乳児死亡率のもとでは合理的な行動であったと言える.総じて,農民家族の行動は,農場経営の維持という目的によって強く律せられており,その傾向は特にマンカーで顕著であった.

 「第6章村落共同体と農民--土地再配分問題を中心に--」は,村落共同体の特質を,アムト・アルト-ルピン領内の村落における農民とコッセーテンとの間で起きた「均等化」,すなわち土地,家畜,共同地持分の再配分要求とそれをめぐる紛争に着目して解明しようとしたものである.均等化をめぐる紛争は「より不利な」村落において実現することが多かった.というのは,第一に,均等化は村落全体の維持に役立ち,国家の「人口増殖」への関心にも合致したからであり,第二に,農民の経営・給付能力が低かったために,均等化がより効率的な農場の耕作や賦役・貢租の割当をもたらしえたからである.これに対して,「より有利な」村落では,高い経営・給付能力をもつ農民は,負担軽減のために均等化に頼る必要がなかったため,農場保有の権利を正当化して均等化の試みを退け,逆に世襲権の獲得へと向かうことになった.したがって,均等化は,東エルベの,とりわけ「より不利な」村落では「耕地配分の階層性=不平等性と固定制=安定性」が,例えば北西ドイツと比べて流動的であったことを示すが,それと同時に,農民のなかで,領主の「扶養」への依存の志向と経営的自立への志向とが拮抗していたことをも示唆している.

 「結論」では,以上の考察を踏まえて,領主が農民経営に様々な干渉を加えていたことを承認した上で,それがクナップの言うように農民の領主への依存性を高める可能性をもちつつも,本論文の実証作業に照らす限り,それとは逆の方向に絶えず農民を律していくものであったという結論が提示される.こうした見方に従えば,本来農民解放の後に求められるべき「経営上の自立=自己責任の能力」は,既に封建領主制のもとで農民に要求されていたことになる.

 以上のような内容をもつ本論文で評価されるべき点としては,第一に,マルク・ブランデンブルクの二つの所領に限定されるとはいえ,所領文書や教区簿冊をはじめとする豊富で多様な一次史料を利用して精緻な分析を加えることにより,当該所領の村落における領主・農民関係や農民経営の実態,さらに相続,結婚,出生行動などに関して,数多くの史実を詳細にかつ生き生きと提示しえていることが挙げられる.こうした実証作業の中心部分(第5章,第6章)は,既にドイツ語論文として発表されてドイツ本国の研究者によっても注目されており,この点は特筆に値する.

 第二に,方法的にも,オーソドックスな経済史の分析手法に加えて,「家族復元法」などをも取り入れて,農民の物的再生産過程だけでなく家族の再生産過程,さらにそれに関わる農民の心性や行動様式にも光を当てていることが注目される.グーツヘルシャフト研究に社会史的な視点と手法を導入するという新たな研究動向を,さらに一歩押し進めたものとして積極的に評価することができる.

 第三に,クナップの研究以来通説の位置を占めてきたグーツヘルシャフト下の農民に対する否定的なイメージに異を唱え,マルク・ブランデンブルクの実証研究に基づいて,農民が農場経営を維持するために様々な手段を用いて努力を続け,同様に領主も農民に対して経営的自立を強く求めて,「無能者」の罷免を行うこともあったという事実を明らかにした点も重要である.こうした側面は従来殆ど知られておらず,東エルベ農村社会史の通説とは異なる歴史像を一定の説得力をもって提示したという意味で研究史に対する貴重な貢献ということができる.

 第四に,領主や領主経営よりも,むしろ農民や村落共同体内の諸階層間の社会関係に照準を合わせた結果,そうした視角からの研究が進んでいる北西ドイツの農村史研究との比較への道を開いた点も指摘しておくべきであろう.その結論は,近世ドイツ農業史を単純にエルベ河の東西で分けられないことをも示唆しており,興味深いものである.

 もとより意欲的な研究であるだけに,今後一層の研鑚と再考が望まれる点も少なくない.第一に,第4章後半以降の部分における綿密な分析は優れたものであるが,第4章前半までの部分は,その長い予備的説明という性格が強いため,論文の重心が著しく後半に傾いており,論文全体の構想に無理があることを指摘しなければならない.また,包括的な叙述を目指しているとはいえ,必ずしも果たされておらず,農業経営の分析も農法の発展など十分でない論点が残っている.おそらくは利用した史料の制約によるものであろうが,他の史料・文献によって補足することが望まれる.

 第二に,東エルベのグーツヘルシャフト地域内の多様性が強調されているとはいえ,それがプロイセンの農民保護政策の適用をうけた御領地を含み,ベルリンにも近いという市場的条件にも恵まれた,その意味では特殊なケースであるルピン地方の諸村落内部でのものに限られているため,同地方の事例を結果的に一般化しすぎている点が指摘される.クナップ的な理解をどこまで相対化しうるかについては,もう少し慎重な態度が必要であろう.

 第三に,本論文の対象時期は1648〜1806年であるが,農民経営の諸側面に従って全体が構成されているため,対象時期内部での時期区分が行われていない.しかし,本論文の個々の記述から明らかなように,対象時期におけるプロイセン絶対主義国家の行政機構や農業政策の段階的発展,あるいは穀物需要に反映される国際経済の動向などの一般的背景が本論文の考察対象をいわば外枠として大きく規定していたのであり,著者はこうしたマクロ的状況と自らが明らかにしたミクロ的世界とを関連づけて考察すべきであった.このため,著者の提示する農民像は静態的であり,前後の時代との関連づけも十分ではない.

 第四に,研究史の扱いがバランスを欠いている点も指摘しておく必要がある.著者は,視点や方法という点で,ドイツではH.ハルニッシュ,わが国では肥前栄一に大きく依拠しており,それが新たな史実や論点の提示に結びついていることは事実であるが,反面わが国における先行研究を含むクナップ以後の膨大なグーツヘルシャフト研究の扱いは概して粗略であり,このことが共同体規制,農民解放の意義,あるいは農民と市場との関係といった基本的論点の欠落ないし見解の曖昧さを生み出すとともに,本論文の研究史上の位置そのものを不明瞭にしているように思われる.

 以上のような問題点をもつとはいえ,長い歴史をもつ東エルベ農業史研究の分野において,一次史料に基づいてドイツ本国でも通用しうる実証研究を行い,グーツヘルシャフト下の農民についての新たな歴史像を打ち出そうとした本論文の著者が,実証能力および問題提起能力の双方において自立した研究者としての力量を十分に備えていることは疑問の余地がない.審査委員会は,全員一致で著者が博士(経済学)の学位を取得するに相応しいという結論に達した.

UTokyo Repositoryリンク