山本芳翠・黒田清輝・岡倉天心--明治十年代から三十年代にかけて、西洋の文化と芸術を自国に紹介し移植した三人の日本人である。近代美術における西欧との関係を考える際、もっとも重要な役割を果たした芸術家であり、知識人であったといってよいであろう。本論はこの三人に焦点を合わせ、彼らがいかに西洋を理解し、どのように受容したかを明らかにしたものである。自らが日本人であることに完全な信頼を置いていた自由奔放型の芳翠、さまざまな東西の意識の矛盾に悩んだ矛盾内包型の清輝、世界を視野に入れつつ日本美術の未来を西欧に提示し続けた未来志向型の天心。明治中期日本人における西洋受容の三モデルをここに見出すことができると、論者は魅力的な結論を下して本論を終えている。 本論はきわめて多くの新知見に満ちている。例えば、足掛け十年間に及ぶパリにおける芳翠の創作活動については、ほんのわずかな事実しか知られていなかった。これに対し、論者は未紹介の同時代文献をもとに、1885年オーモン館で開かれた個展の経緯を解き明かし、内容を詳細に再現してみせてくれる。また、芳翠が挿絵を寄せたジュディット・ゴーティエの詩集『蜻蛉集』の豪華限定本に関する新資料を紹介するとともに、その鑑賞層や影響についても新しい事実を明らかにする。さらに、ロベール・ド・モンテスキューの詩集『蝙蝠』の挿絵に関し、オルセー美術館図書館所蔵の一本からオリジナル・デッサンなどを見出す。これらにも増して重視されるのは、ゴーティエのサン・テノガ別荘の離れに芳翠が描いた壁画の発見である。1883年、ここにしばらく滞在した芳翠が三方の板壁に油絵で描いた「松竹梅に鶴図」は、論者により初めて学会に報告されたものであった。これがいかに貴重な発見であったかは、そのあとすぐに当地の文化財として指定されたことだけを指摘すれば充分であろう。 本論のさらにすぐれた特徴は、新鮮な発想と独創的な結論に求められる。それは芳翠の代表作である「浦島」や、あまり注目されることのなかった「沖縄連作」「十二支」の分析においても遺憾なく発揮されているが、もっともみごとな実を結んでいるのは第六章の「智感情」論であろう。まず、論者はいかにして清輝が「智感情」というモチーフを着想したのかと問いかける。そして、天心の『泰西美術史ノート』のなかに「智感情」、『欧州視察日記』のなかに「写意派--黒田」と記されていることを見出す。これまでみな気づかなかったきわめて重要な記載である。これから出発した論者は、多くの傍証資料によって、智感情という観念が清輝の独創によるのではなく、天心の示唆にかかるものであることを説得力豊かに証明していく。つまり「智感情」は、天心が有していた世界観の絵画的反映にほかならないとする。両者が絵画の近代化について、ほぼ同じ理念と理想を共有していたとする結論も、審査員の賛同を得るところであった。いままで、近代絵画研究は日本画と洋画をはっきりと分け、天心を前者と関係づけて考える傾向が強かったが、本論は具体的な方法論をもって、これに反省を促す斬新な視座をも提供しているといわなければならないであろう。 このような特徴を有しながら、本論の論証は実証的であり、かつ論理的である。さまざまな関連資料が的確に選択され、しっかりと証明されていく。読みやすく、韻律感豊かな文章表現も特筆されてよい。西洋美術史研究から出発した論者の高い語学能力が、貴重なフランス語文献の発掘を可能ならしめた点も見逃せない。 余りに強い好奇心のおもむくところ、いわゆる深読みや不必要な博引、論文構成上のアンバランスに陥ったところもないではないが、本論の論旨を損うほどのものではあり得ない。以上により、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判断する。 |