学位論文要旨



No 113931
著者(漢字) 高階,絵里加
著者(英字)
著者(カナ) タカシナ,エリカ
標題(和) 芳翠・清輝・天心における西洋 : 受容と交流の諸問題
標題(洋)
報告番号 113931
報告番号 甲13931
学位授与日 1999.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第231号
研究科 人文社会系研究科
専攻 基礎文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 河野,元昭
 東京大学 教授 小佐野,重利
 東京大学 助教授 佐藤,康宏
 東京大学 助教授 三浦,篤
 東京大学 助教授 木下,直之
内容要旨

 本論文は、明治十年代から三十年代にかけての日本の美術界において、西洋との出会いという点で重要な役割を果たした三人の芸術家である山本芳翠、黒田清輝、岡倉天心に焦点を当て、その西洋理解を受容と交流の側面から明らかにしようとする。

 序章では、現在までの研究史を概観し、本論文の目的と意義を述べる。

 第一章と第二章は、明治十一年より足掛け十年にわたった山本芳翠の滞仏期間の活動について、作品の制作やパリの芸術家・文学者サークルとの交流を軸に、未発表の作品・文献を用いて再現し、当時のフランスにおけるジャポニスムの情況についても考察する。芳翠は一八八五年の個展や席画や料理などを通じて、生きた日本の芸術をフランスにおいて演じ披露してみせることによって、ジャポニスムの流行と世紀末ヨーロッパを席巻した総合芸術の概念の浸透に、少なからぬ役割を果たした。第一章では、同時代資料をもとに芳翠のパリ個展を再現し、『蜻蛉集』の反響を資料とともに紹介し、ジュディット・ゴーティエの別荘庭園離れの壁画について、現地調査の結果を紹介・分析する。第二章では、フランスの眼からみた日本を主に扱い、芳翠が挿絵を残している雑誌や詩集などの中の芳翠作品を紹介・分析するとともに、他の資料もあわせて一八八〇年代のフランスにおける「日本」のイメージを探る。巻末には未公刊資料としてパリ時代の山本芳翠に関する手稿および新聞・雑誌記事を含む未発表一次資料の翻訳・訳注を付した。

 第三章、第四章及び第五章では、芳翠帰国後の代表作である《浦島》、沖縄を描いた一連の作品そして《十二支》について、それぞれ同時代資料と作品調査にもとづき、分析・検討する。第三章では、《浦島》について、芳翠が留学中に接したフランス象徴派芸術との関連から考え、前例のない浦島の姿やポーズには日本神話やギリシア神話の主人公が、また遠方に浮かぶ竜宮には幻影の都市のイメージが、それぞれ重ねられていることを確認する。《浦島》はポーやワグナーやモローに通じる象徴性を持つと同時に、「異国からの帰郷者」という当時きわめてアクチュアルであった問題を提示していた。第四章では、明治二十年の芳翠の沖縄訪問について、やはり沖縄に同行した漢詩人森槐南の記録を検討し、公的記録がなくこれまで確認されていなかった芳翠の沖縄訪問の事実を裏付ける。また十五世紀から江戸時代までの日本における琉球八景のイメージの伝統と、さらには北斎の挿絵によって庶民に親しまれた『椿説弓張月』の為朝伝説も、芳翠に影響を与えたと考える。最後に、「琉球=竜宮」の連想の伝統や、海のイメージの重要性などから、《浦島》が芳翠の琉球体験を反映していることを確認する。第五章では《十二支》について、注文と制作の経緯を明らかにする。十二支それぞれに因む物語や神話の一場面を取り出し、女性像を中心とした歴史画に仕立てた芳翠は、留学中に学んだ十九世紀フランスのアカデミックな手法に、江戸の浮世絵や文字遊びの伝統を組み合わせ、前例のない斬新さによって注目を集めた。

 第六章では、黒田清輝による《智感情》の主題と成立について、岡倉天心の明治二十八年ごろのメモに「智、感、情」の文字が残されていることから、従来は明治二十年代後半の日本画と西洋画の領袖として対立していたとされてきた黒田と天心は、実際にはともに西洋の本質をよく理解していたが故に、日本美術界の指導者として、パリ万博出品にあたり、西欧に対する日本美術の顔をどのようにつくるかについて、真剣な検討を重ねていたことを明らかにする。西洋絵画の正統な伝統にのっとりながらも日本を代表するような絵画を生み出すというきわめて困難な問題への二人の答えが、アカデミックな技法による日本女性の裸体像を仏画を思わせる金地背景にエキゾチスム抜きに配置した《智感情》であり、それはまた、中国に代表される哲学と、インドに代表される宗教(道徳)が、日本に代表される芸術に現れるというアジア文化観をもつ天心の精神の、黒田による肖像画ともいえる作品となったのである。巻末に未公刊資料として、本章で触れた天心によるボルドー博覧会への東京美術学校紹介の文と、黒田による仏語の日本絵画論の訳注を添えた。

審査要旨

 山本芳翠・黒田清輝・岡倉天心--明治十年代から三十年代にかけて、西洋の文化と芸術を自国に紹介し移植した三人の日本人である。近代美術における西欧との関係を考える際、もっとも重要な役割を果たした芸術家であり、知識人であったといってよいであろう。本論はこの三人に焦点を合わせ、彼らがいかに西洋を理解し、どのように受容したかを明らかにしたものである。自らが日本人であることに完全な信頼を置いていた自由奔放型の芳翠、さまざまな東西の意識の矛盾に悩んだ矛盾内包型の清輝、世界を視野に入れつつ日本美術の未来を西欧に提示し続けた未来志向型の天心。明治中期日本人における西洋受容の三モデルをここに見出すことができると、論者は魅力的な結論を下して本論を終えている。

 本論はきわめて多くの新知見に満ちている。例えば、足掛け十年間に及ぶパリにおける芳翠の創作活動については、ほんのわずかな事実しか知られていなかった。これに対し、論者は未紹介の同時代文献をもとに、1885年オーモン館で開かれた個展の経緯を解き明かし、内容を詳細に再現してみせてくれる。また、芳翠が挿絵を寄せたジュディット・ゴーティエの詩集『蜻蛉集』の豪華限定本に関する新資料を紹介するとともに、その鑑賞層や影響についても新しい事実を明らかにする。さらに、ロベール・ド・モンテスキューの詩集『蝙蝠』の挿絵に関し、オルセー美術館図書館所蔵の一本からオリジナル・デッサンなどを見出す。これらにも増して重視されるのは、ゴーティエのサン・テノガ別荘の離れに芳翠が描いた壁画の発見である。1883年、ここにしばらく滞在した芳翠が三方の板壁に油絵で描いた「松竹梅に鶴図」は、論者により初めて学会に報告されたものであった。これがいかに貴重な発見であったかは、そのあとすぐに当地の文化財として指定されたことだけを指摘すれば充分であろう。

 本論のさらにすぐれた特徴は、新鮮な発想と独創的な結論に求められる。それは芳翠の代表作である「浦島」や、あまり注目されることのなかった「沖縄連作」「十二支」の分析においても遺憾なく発揮されているが、もっともみごとな実を結んでいるのは第六章の「智感情」論であろう。まず、論者はいかにして清輝が「智感情」というモチーフを着想したのかと問いかける。そして、天心の『泰西美術史ノート』のなかに「智感情」、『欧州視察日記』のなかに「写意派--黒田」と記されていることを見出す。これまでみな気づかなかったきわめて重要な記載である。これから出発した論者は、多くの傍証資料によって、智感情という観念が清輝の独創によるのではなく、天心の示唆にかかるものであることを説得力豊かに証明していく。つまり「智感情」は、天心が有していた世界観の絵画的反映にほかならないとする。両者が絵画の近代化について、ほぼ同じ理念と理想を共有していたとする結論も、審査員の賛同を得るところであった。いままで、近代絵画研究は日本画と洋画をはっきりと分け、天心を前者と関係づけて考える傾向が強かったが、本論は具体的な方法論をもって、これに反省を促す斬新な視座をも提供しているといわなければならないであろう。

 このような特徴を有しながら、本論の論証は実証的であり、かつ論理的である。さまざまな関連資料が的確に選択され、しっかりと証明されていく。読みやすく、韻律感豊かな文章表現も特筆されてよい。西洋美術史研究から出発した論者の高い語学能力が、貴重なフランス語文献の発掘を可能ならしめた点も見逃せない。

 余りに強い好奇心のおもむくところ、いわゆる深読みや不必要な博引、論文構成上のアンバランスに陥ったところもないではないが、本論の論旨を損うほどのものではあり得ない。以上により、本審査委員会は本論文が博士(文学)の学位を授与するにふさわしいものと判断する。

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