学位論文要旨



No 113936
著者(漢字) 陳,継東
著者(英字)
著者(カナ) チェン,チートン
標題(和) 楊文会研究 : 清末における中国仏教の復古と綜合
標題(洋)
報告番号 113936
報告番号 甲13936
学位授与日 1999.03.15
学位種別 課程博士
学位種類 博士(文学)
学位記番号 博人社第236号
研究科 人文社会系研究科
専攻 アジア文化研究専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 木村,清孝
 東京大学 教授 末木,文美士
 東京大学 教授 丘山,新
 東京大学 教授 岸本,美緒
 東京大学 助教授 下田,正弘
内容要旨

 本研究は、論題を「楊文会の研究」とし、副題を「清末における復古と綜合」とする。楊文会(1837-1911)は中国近代仏教の歴史を開拓したと評された人物であるが、筆者は「復古と綜合」という言葉をもって彼を評価したい。

 まず復古とは、楊文会の生きた清末には忘れられていた唐代の仏教者、とりわけ法蔵(645-712)の考え方を重視したことである。これには彼自身の思想の問題が存在する。伝記資料によれば、彼は20代半ばに『大乗起信論』を読んで仏教に志したと伝えられる。『大乗起信論』は明代・清代でも重視されてきた典籍であり、彼もそれらに親しんだが、経典刊行事業を行う途上で、日本から齎された中国では失われていた『大乗起信論』の注釈書、特に法蔵の注釈が彼をして唐代仏教への復古を提唱せしめたのである。

 このように、一言で表現すれば、明代・清代以前の仏教への復帰が復古の概念といえる。しかし、これは単なる懐古主義を意味するものではない。それが続いて説かれる綜合である。

 楊文会において綜合とは、新たな枠組みをもって仏教を総括する立場である。第一に、『大宗地玄文本論』の注釈の中で、金剛五位に基づく彼独自の教判を創設し、経論や中国仏教の宗派を当てはめるものである。第二には、『十宗略説』の中で十宗判を示し、同様に宗派を分類している。これは従来見落とされていた点であるが、彼の仏教思想の体系を考える場合、欠かすことのできない教説となっている。

 この綜合の立場は、決して明代・清代の仏教との断絶を示すものではない。彼の考え方の特徴は、明末仏教によって提起された浄土思想を中心とした融合的な仏教思想が通底していると考えられるからである。

 さらに、この綜合の立場の基本には、前に述べた『大乗起信論』があり、彼は「馬鳴宗」という『大乗起信論』により全仏教を総括することを提唱した。その具体的な形態が、前述した金剛五位に基づく教判であり、また十宗判なのである。

 このように、楊文会において復古と綜合とは、一見するとベクトルが異なるものと考えられるが、彼の中では、唐代の仏教を掘り下げることが同時に彼以前の仏教を総括する思想的活力となっているのである。

 本論文は、主として三つの問題に焦点を合わせて、上述した楊文会の仏典刊行と思想を考察する。第一には、彼の仏典刊行の背景と具体的な刊行状況、と彼の仏典刊行事業は、日本の南条文雄らとの交流の具体的な内容、第二には、日本の浄土真宗との論争の発端、経過、要因、第三には、彼の注釈に基づいて彼の仏教の体系を明らかにすることである。これよって、楊文会研究では今まで解明されていなかったことを明らかにし、彼の中国仏教思想史における位置づけを再検討し、そして、彼の仏教思想の特徴は「復古」と「綜合」にあることを主張している。このようなことを研究の目的とするが、楊文会の活動と思想とを検討することは、楊文会一人の研究にとどまらず、清末から現代に至る中国仏教の解明にも導入口となるであるでろう。

 以下、本研究の大綱を説明する(節以下は省略する)。

 第一章「伝記及び著作」では、楊文会の生涯と著述とを略述した。

 第二章「清代における仏教典籍刊行と楊文会の活動」では、楊文会の仏典刊行の背景、金陵刻経処の実態と刊行の進行段階とを論ずる。とくに、彼の大蔵経の再構成を考察した。

 第三章「南条文雄との交流」では、日本において同じ時期に仏典の刊行に尽力した南条文雄との交流を扱った。ここでは新たな資料を活用して、その実態を明らかにした。

 第四章「日本浄土真宗との論争」では、浄土思想の理解をめぐる日本仏教者との論争に関する双方の文献と、論争の経緯を考証した。この問題の検討は、楊文会の浄土思想の特徴を解明するだけでなく、浄土思想における両国の相違を明らかにするものである。

 第五章「楊文会の仏教思想」では、楊文会の伝統仏教思想重視という視点から、その特徴を明らかにした。まず、彼の思想的背景と課題を明らかにし、続いて彼の思想の基盤として、『大乗起信論』と華厳思想とをとりあげた。

 次いで彼の仏教観を総括しているといえる『大宗地玄文本論略注』に基づいた「馬鳴宗」について検討を加えた。

 さて、この『大宗地玄文本論略注』に基づく教判の中で重要視されたのは、浄土思想である。そこで彼の浄土思想が、唯心浄土と指方立相の調和にあり、また、観法を重要視していたことを明らかにした。

 本研究は、楊文会に視座を据えて中国仏教思想史の流れを見極め、清末仏教の実態の解明にアプローチする手かがりとすることを図ったが、問題の多くは端緒についたばかりであり、課題として、明代・清代の仏教との関わり、同時代の中国の仏教者との思想的関連などが残されておる。今後はこれらを視野に入れて研究を続けていきたい。

審査要旨

 中国では、1912年に清朝が滅んで中華民国が成立する。楊文会(1837-1911)は、中国がこの近代の夜明けを迎える直前までの70余年を、すなわち、先進列強の圧迫・侵略と不可避的に浸透してくる思想的文化的影響のもとに自らの近代化のあり方を模索し苦悩していた清末の激動の時代を、中国仏教の再構築とそれに基づく啓蒙に活路を見出しつつ、真摯に生き抜いた居士仏教者である。かれに学んだ人々の中から、民国時代の指導者も少なからず輩出している。

 本論文は、その楊文会の社会的活動、とくに散佚した仏典の収集・刊行に関わる諸活動と、かれ自身の仏教思想の形成・展開の過程、およびその内実を解明することを試みたものである。論者は本論文において、楊文会が始めた刻経事業の具体的な組織のありようを明らかにするとともに、その事業の遂行に係るネットワークの存在を明確に指摘している。また、南条文雄・小栗栖香頂をはじめとする日本の仏教研究者・仏教者らとの交流や教義論爭の経緯を丹念に追跡し、多くの新事実を紹介する。さらに、楊文会が提唱した新仏教理論としての「馬鳴宗」の内容を綿密に分析することなどを通じて、結論的に、かれの仏教者としての意義を中国仏教の「復古と綜合」に見出すに至っている。これらの諸点は、思うに、論者がこれまで用いられてきた諸資料を丁寧に読み直すだけではなく、日本各地の大学図書館等に蔵されていた未利用の諸資料を発見・精査し、それらを統合的に考察することによって初めて可能になったものであり、高く評価されよう。

 このように、総じて本論文は、残存する関連資料をほぼ網羅的に調査し活用して、楊文会がいかなる意味において居士仏教者であったといえるのか、なぜ仏典の刊行に情熱を注いだのか、その意義はどこにあるのか、といった楊文会研究の根本的な諸問題に正面から取り組み、それらを解明することによって、楊文会の人間像の呈示とその思想史上の位置づけにおおむね成功している。今後の中国思想史研究の進展にも、寄与するところは大であると考えられる。楊文会の教育者や社会事業家としての側面があまり見えてこないことにやや不満が残り、また、仏教の教理関係の文献の解読と中国仏教思潮全体の押さえ方に若干の問題があるとはいえ、博士(文学)の学位に十分に価する成果であると判定される。

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