本論文「多元主義と「政治」の位相」は、20世紀欧米の政治学、政治思想においてさまざまな形をとって現れた多元主義の潮流とその含意を「政治」概念との関連において考察した、一つの20世紀政治思想の考察である。著者の分析は今世紀初頭の英国の多元主義国家論に始まり、アメリカにおけるその展開を経て、冷戦後の世界において注目されるようになった民族や文化をめぐる多元主義の問題にまで及んでいる。論文の題名にもあるように、著者は百年近くに及ぶこうした思想潮流をリベラル・デモクラシーという枠内で多元主義論の役割を論ずることに満足することなく、それぞれの潮流の「政治」概念の把握の仕方との関連において考察を加えている。そして、これまで無関係に論じられる傾向が強かった多文化主義やポスト・モダニズムとそれ以前の多元主義とを、一つの共通の観点から論ずることに挑戦している。 本論文は序章と終章の他、多元主義の具体的な様相を論じた四つの章から成る。序章「20世紀末の多元主義論」では、論文作成の意図が述べられており、著者の理論的関心が現代のいわゆる多元主義的諸議論の行方にあることを如実に示している。すなわち、現代のそうした議論と伝統的な多元主義の潮流とを連続的に把握する立場に対して、著者はその特徴を国民国家の融解といった事態を越えて、「政治」の領域の存否についての切迫した危機意識にその基本的な特徴があると論ずる。端的にいえば、「多元性への希求」と「統合」問題との相剋が極端にまで進行し、その結果として、「政治」の自明性に寄り掛かっているわけにはいかなくなったというのである。そして、著者は多元主義についての連続主義的な見解に異論を唱え、「政治」をめぐる構想の相違に着目することによって現代の政治理論的課題を照射している。 第一章「イギリス多元的国家論」においては、フィッギス、バーカー、ラスキ、G.D.H.コールの議論を素材にして、そこでの「政治」概念の行方が検討される。多元的国家論については従来、一元的国家主義や集産主義の潮流に対決したものとして専ら考察されてきたが、著者はそれを新しい政治状況--大衆民主主義の登場に代表される--の中で、集団の独立性に着目して「新しい「国家」論の提示」を試みた理論という観点から理解すべきことを主張している。著者によれば、この集団の独立性という発想は英国の自由という伝統の一翼を担うものであり、そこから「伝統の再生へ」という標題の下、これら多元的国家論が分析される。フィッギスやナバーカーにおいては、伝統的な集団の役割が重んじられてこそ国家による実効的統治が可能になることが論じられたし、ラスキやコールにおいては、階級的分断の故に国家に対するそれまでの信頼感は大きく減殺されるに至っているが、それを補うための新しい政治共同体の構想が展開されているというのである。その意味で、ラスキのマルクス主義への接近も、コールの「共同体」の構想も、統合の理論としての性格を有しており、そこに反一元主義、反集産主義という観点からする理解とは違った多元的国家論の「政治」観念の特徴があるとされている。 第二章「多元主義の変転」は英国の多元的国家論が同時期のアメリカ政治学の中にどのように導入されていったかを問題にする。多元主義はやがてアメリカ政治学において中軸に位置するようになる概念であるが、この章はラスキを介した英米両国の政治学がどのような接点を持ち、そこにどのような議論が展開されたかをフォローしている。著者は出発点として、アメリカにおいて国家概念が人民主権と表裏一体の形で極めて大きな位置を占め、集団の政治的影響力の台頭といった多元的な政治現象はむしろ一種の病理現象とみなされていたことを確認した上で、多元的国家論の登場がかなり厳しい批判の的になったことを指摘している。著者はラスキの著作についての反応を細かく跡づけ、アメリカにおいて多元的国家論が一定の評価を与えられつつも、「混乱」と「無秩序」を惹起する危険性のある議論として批判を浴びたとしている。この後者の、規範的立場の議論を代表するものとして著者はW.H.エリオットを取り上げ、それと並んで科学の立場から多元主義を擁護する議論が立ち現れたことを指摘している。そして、G.E.G.カトリンが「政治科学」と多元主義との結合を志向したのに対して、エリオットは国家の主権を否定する反合理主義の名の下に多元主義とファシズム、コミュニズムを一括りにする議論を展開した。著者は、多元主義が新しい「政治」の構想に結び付くのではなく、科学との同盟という形でその地歩を獲得していった点に、著者は英国とアメリカとの位相のずれ、コンテクストのずれを見出だしている。 それと同時に、多元的国家論が本来、有していた積極的な「政治」構想の提示という側面が見え難くなった点が指摘される。ファシズム批判を契機に多元主義は体制の現実を擁護し、科学的に確認できる現実に基づくものとなったが、「政治」への問いはそれだけ背後に退く可能性を含んでいたというのである。そしてイデオロギー対立の激化の中で、多元主義は国家内部の多元性へと翻訳され、ファシズムに対する反ファシズムのメルクマールとされるようになった。これは国家の機能の増大を背景に再び国家の一体性が強調されるようになったこと、多元主義が国家の一体性を前提とする集団理論に変容していったことを意味した。従って、こうした国家の安定性と多元主義との両立が問題になる時、改めて多元主義の意義が問われるという構造が残された、というのが著者の総括である。 第三章「多元的民主主義論と政治科学」は前章の議論を受けて、科学的理論とされたアメリカの多元的民主主義論を扱っている。著者は多元主義が戦後の政治学において圧倒的な地位を占めるに至ったこと、それが「西欧リベラリズムの中心的イデオロギー」にまでなったことを指摘する。その上、戦後多元主義に有力な支えを提供したのが科学の権威であり、政治科学(political science)と政治理論(political theory)の峻別といったことを含め、政治学の科学的・経験主義的学問としての方法的自覚が進められた。ここで著者は、こうした多元主義の強固な地位がかなりの部分、それが所与とした政治秩序の安定性や正統性に基づいていたこと、従って、この安定性や正統性への疑問の噴出と共に、多元主義の地位も動揺する可能性を含んでいたという関係を指摘する。 この政治と科学、そして多元主義との三位一体とでもいうべき関係がどのような運命を辿ったかを分析するのが、第二節「R.A.ダールと多元的民主主義論」である。当初、「市場社会主義」の可能性を論じていたダールは50年代に入ってポリアーキーを打ち出すが、それは権力分立論中心の民主主義と「多数者の絶対主権」を含意する人民主義的民主主義との双方に対する批判に立脚したものであった。ポリアーキーは共存のための条件に対する基本的合意に根拠を置くとともに、集団の多元性による抑制均衡が可能な政治体制を意味した。彼の60年代の多元的民主主義論によれば、この民主主義は民主主義の哲学者たちの説く政治的平等とはかけ離れた体制であり、一般市民は多様な政治活動層の存在と公職者の選挙を通して一定の間接的影響力を持つことができるとされた。この合意と多元主義とのバランス、分極化に陥らない妥協と調整の現実性がこの議論の中核部分をなしていたというのが、著者の整理である。著者によれば、英国の多元的国家論が合意の場の形成を求めて苦闘したとするならば、アメリカの多元的民主主義論は合意をいわば前提にした議論であった。そして、全体主義批判の基礎となった多元主義は、その敵対者の消滅の中で徐々に純粋な記述理論へと変質したという整理を著者は行っている。 第三章第三節は、このような意味での多元主義の安定性が現実政治における合意の消滅と対立の激化によって失われる過程を論じている。60年代に始まる多元主義批判はその寡頭制的構造を問題にし、具体的には企業の権力に対する政府の無力を指摘した。そこでは「政治」の質を問うことが多元主義の「質」を問うことと同義であり、現実の多元主義はしばしば「政治」の貧困と結びつけて論じられた。著者はこうした潮流の変化の中でダールの議論の推移を解釈し、60年代後半から、小規模集団への参加の重要性を強調し、更には政治参加のための条件整備と資源の不平等を重視し、そして、企業の権力論を展開するようになったという。そして、民主制を損なう資源の不平等の問題は企業の民主的統制問題にまで展開していったのである。著者はこうしたダールの軌跡を辿ることによって多元主義的民主主義論の問題化、その自明性の喪失過程を叙述している。そして、これまでの合意と結びついた多元主義の動揺を背景に、それとは一線を画した、新しい多元性の自己主張が始まる。既存の多元主義の批判の一方で、こうした新しい自己主張においては「政治」の役割はほとんど問われることがなかったというのが、この章の著者の結びである。 第四章「多元主義と多元化」は、先のような多元的民主主義論の「保守」への批判の中から登場した、様々な集団を「公的」領域の形成に取り込もうとした多元主義とその問題性を多文化主義とポスト・モダニズムに即して検討する。それらが従来の多元主義を超えた「ラディカルな多元主義」なのか、それとも、一切の秩序を失ったカオスを志向するものなのか、これを著者はここで問おうと試みる。著者によれば、文化的多元主義論は、文化や価値、アイデンティティーを中心にした集団を「公的」領域に組み入れた点で、利益集団を中心とした多元的民主主義論の狭隘さを克服するという積極的な意味を有していた。問題はこうした設定が先のような批判的機能を果たしつつ、なおかつそこに発生する新たな問題に対して応答できるかにある。そこで先ずウィル・キムリッカの議論に即して、生にとって不可欠なものとして共同体を重視という視点と共同体に対して批判的視点を持ち続けるという視点とが折衷的に存在していること、次に、彼の主張する集団別権利(group-differentiated rights)が政治共同体との整合性の点で問題を持ち、民族を超えてどこにこうした権利を承認する限界を設定するかについて曖昧なことを指摘している。著者によれば、それは「政治」概念の拡散ではあっても、「公的」領域の創造とは無関係のものであり、あるいはそれを放棄している。その上、民族的少数派に留まらず、多様なアイデンティティーを掲げる集団の政治的主張を擁護する「差異の政治」においては、こうした権利を与える根拠は薄弱となり、その限定が政策的に浮上せざるを得ず、そのことは利益集団多元主義と「差異の政治」との距離を縮める結果をもたらすというのである。 多元主義が集団の多元性を超えて人間のアイデンティティーに目を向け、そのアイデンティティーの流動性を極限まで追求することによって多元性の源泉としての個人に行き着く時、ポスト・モダニズムの思想世界が現れる(第三節「ポスト・モダニズムと「主体」の問題」)。確固としたアイデンティティーを有する「主体」に対するこの不信は、ポスト・モダニズムにおいては「主体」が諸々の権力関係を反映するものに過ぎないという主張となって現れる。文化多元主義論は特定の集団がアイデンティティーの構成にとって決定的な役割を持つことを前提にしていたが、著者は、ポスト・モダニズムの多元主義論ではそれが成り立たないことを先ず指摘する。その場合、利益集団の安定性も存在の余地がなくなり、多元的民主主義も存立基盤を失う。著者はこうした「ラディカルな多元主義」が「主体」の多元性を極限的に強調しつつあることを指摘しつつ、同時にそこにおける「政治」の構想の弱さと曖昧さに批判の目を向ける。そうした中でさまざまな思想家たちの「ラディカルな多元主義」が自由民主主義と事実上の接点を持っていること、それと同時に、そこにおいては「政治」の意味内容がどのようにでも変形する可能性を秘めていること、その結果として、「政治」は拡散し、実質的意味内容を持たなくなったと著者は論ずる。その意味で、ポスト・モダニズム的多元主義論は改めて「政治」の領域の構築の重要性、必要性を再認識させる結果となったというのである。 終章「多元主義論と「政治」の位相」は、こうした二十世紀の多元主義の系譜を念頭において、今日のそれが抱える独自の問題を改めて指摘している。特に、著者が強調するのは、現在の多元主義論における「政治」の拡散と流動性であり、それをかつての多元的国家論と単純に重ね合わせることはできない。現代の多元主義は多元性を統合するものは何かという、「政治」の基本問題を提起することになったと著者は結んでいる。 本論文の長所としては次の諸点があげられる。第一に、これまで個別的には語られつつも、その全体が必ずしも掴み切れなかったいわゆる二十世紀の多元主義論について、「政治」の構想との関連から大きな鳥瞰図を描き出した点があげられる。これまで政治学ではしばしば第一章から第三章にかけて扱われた多元主義が議論され、著者が第四章で扱った現代的多元主義論はそれとは無関係に、政治理論の領域の議論として扱われる傾向が強かったが、著者はこれらを一つの枠組みに従って整理しつつ、それぞれの議論の異なった思想的様相を描き出した。これによって漠然と多元主義と呼ばれ、あるいは、論じられてきた潮流の質的差異や展開の軌跡がはっきりと浮かび上がることになった。同時に、それを通して現代政治理論の抱える困難な課題を具体的に展開することができた。 第二に、こうした全体構想においてのみならず、個々の論点においても興味深い指摘が見られる。この点で例えば、第一章のラスキやコールについての分析、第二章のアメリカ政治学における多元主義をめぐる激しい論戦は見失われた思想の文脈と論戦の軌跡を辿る示唆に富む分析を示している。また、第一章の分析は第四章の議論、第二章の分析は第三章の議論をそれぞれ念頭に置くことによって一層、その意味が明らかになるような構成になっている。 第三に、膨大で多様な素材を分析し、総じて平易な叙述によってそれを展開した点で、本論文は著者の研究者としての力量の確かさと可能性を実証するものである。 こうした本論文にも短所がないわけではない。第一に、極めて野心的な全体構想の裏面として、全体の構成において問題点がないわけではない。特に、第四章とそれ以前の章とを一つにまとめて扱う場合、それがどのような意味で可能なのか、どのような限定付きで可能なのかについてのもう一段の整理が望まれる。従って、例えば、現代の多元主義的議論として何を論議の対象にすべきかについても、自らの選択の根拠や妥当性をもっと説明する必要があると思われる。 第二に、余りにも多様な対象を一つの観点から整理し、分析しようとした反面で、個々の対象の分析においてはなお改善を要する点が見られることである。例えば、第三章において多元的民主主義論の持っている自己修正の可能性という視点が軽視されているのはその例である。 こうした短所にもかかわらず、本論文は現代における多元主義論への関心から出発しつつ、二十世紀の多元主義的議論の理論的多様性と変容に光を当てた業績として学界に貢献するものと考えられる。従って、本論文の著者は博士(法学)の学位を与えられるのにふさわしいと認められる。 |