学位論文要旨



No 113948
著者(漢字) 叶,刚
著者(英字)
著者(カナ) イエ,ガン
標題(和) 中国鉄鋼業の発展と市場メカニズムの形成 : 生産及び組織の実証分析を中心に
標題(洋)
報告番号 113948
報告番号 甲13948
学位授与日 1999.03.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(経済学)
学位記番号 博経第124号
研究科 経済学研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 高橋,滿
 東京大学 教授 中兼,和津次
 東京大学 教授 工藤,章
 東京大学 助教授 仁田,道夫
 東京大学 助教授 柳澤,悠
内容要旨 序論

 1978年に始まった中国の改革・開放政策は、従来の国家統制的計画経済体制から市場経済体制への移行を促進し、中国経済の持続的な高成長に導いた。特に旧ソ連・東欧の改革がいずれも大きな経済的落ち込みを経験していることと鮮やかな対照をなし、世界的に広く注目を集めている。中国の経済改革は、とくに非国有企業や外資系企業の発展をもたらし、それが梃子となって産業構造が転換し、輸出の拡大を通じて高成長が達成されたといわれている。しかし、中国の経済構造には、アジアNIES型発展構造のほかに、国有企業を核とした重化学工業を中心とする産業部門が形成されており、その部門の発展も重要な要素であった。エネルギーや基礎工業部門などがそれであり、特に代表的な産業が鉄鋼業である。1997年の粗鋼生産量は1億730万トンに達し、20年前の1978年の約3.4倍となっている。しかも、鋼材の品種の多様化、高度化が達成されている。本研究は中国の経済改革の特質とそれに関連して経済の高成長構造を中国の最も代表的な産業である鉄鋼業を対象として、徹底的に解明しようとするものである。

第一章中国鉄鋼需要の構造転換

 新中国の産業は東西冷戦体制の下で、社会主義工業先進国ソ連の支援を受け、国防生産や軽工業原料の増大を目的とした素材、設備を中心とした基盤産業優先の発展戦略がとられた。大型工業企業を中心とした通常の「重工業優先政策」と異なった、「二本足で歩く」政策の下で、集中的大型工業体系と分散的地方工業のネットワーク形成によって、中国の経済成長がより促進されるようになった。しかし、これらの産業は、資本財、生産財を生産する重化学工業に傾きすぎ、大型工業体系と地方工業ネットワークの関係は必ずしも有機的な産業連関を形成することができず、国民経済の協調的発展に導かなかった。したがって、中国の産業は新たな構造的な転換を迎えなければならなくなったのである。

 1978年以降、経済改革が進展するに伴い、国内における耐久消費財需要の急増と中国の世界市場への積極的な進出による輸出市場の拡大による高成長は鉄鋼需要の急拡大をもたらした。こうした市場の需要に対応して、鉄鋼業に生じた需要と消費の構造は、単なる量的な拡大だけではなく、品目を多様化させ、かつ高級化、高度化させたのである。

第二章原料自給自足から原料輸入へ

 鉄鋼業は必要とする原料が大量になるために、どこに立地するかが特に重要視されている。中国において、鉄鋼業の主原料としての石炭と鉄鉱石は、賦存量が大きく、しかも大量の賦存が少数の地域に集中しているほか、その賦存地域が全国に散在しているという特徴をもっている。各種の歴史的要因で、これまでの中国の鉄鋼企業は伝統的な自然資源立地型を主としてきた。しかし、改革・開放に伴なって、沿海地域の経済発展が速いテンポで拡大して、その影響で鉄鋼業の生産も沿海地域に移行しつつあるとみられる。一方、原料炭は国内調達であるが、鉄鉱石がこれまでの国内の調達から海外の輸入へ依存しはじめた。鉄鉱石の開発条件の厳しさ、鉄鋼業生産の沿海への移行などを考えると海外の鉄鉱石への依存がますます強まる方向にある。他方、市場圏の拡大につれて、原料と完成品の輸送コストのうえから、臨海、あるいは臨川に立地する企業が増大してきたのに対して、従来の内陸型鉄鋼企業は、高付加価値鋼材や特定の鋼材の生産に特化する傾向がみられ、鋼材生産の分業化・専業化が進みつつあるとみられる。

第三章中国鉄鋼業生産の発展構造

 この国内鉄鋼需要の増大を背景とした中国鉄鋼業は、全体的に鉄鋼企業規模ないし設備規模の大型化を推進した結果、1996年には粗鋼生産が1億トンを突破し、ついに世界一の座についた。しかも、「持続的な技術高度化のメカニズム」が着実に形成されており、設備の更新投資が活発に行われ、次第にLD転炉や連鋳技術を代表とする一連の新鋭設備の導入によって、企業の技術水準は著しく高まっている。このような生産構造の転換によって鉄鋼業の生産性がいっそう高まり、生産効率が改善されて、品質も向上したことはいうまでもない。

 しかし、中国鉄鋼業において生産規模の拡大は、戦後日本のように臨海巨大コンビナートの新設よりむしろ既存企業の拡張(宝鋼をのぞく)によって達成されたことを特徴としている。ちなみに、このような既存企業は、極く少数の巨大企業と夥しい中小型企業からなる。また、この中国鉄鋼業の生産構造転換にあたって、大型企業のビッグフォー(鞍鋼、首鋼、宝鋼、武鋼)、中型企業、小型企業はそれぞれ異なったパフォーマンスをとっていることが顕著に現われている。つまり、ビッグフォーは生産設備を巨大化していくのに対して、中型企業は設備規模巨大化の投資より、むしろ既存設備に適応する高速度化、省エネルギー、高品質のための設備を追求している。

第四章販売構造の転換

 1984年の経済改革の綱領的文書「経済体制改革に関する中共中央の決定」を契機として、国有企業の生産・流通・経営権の一部自由化が行われるようになった。こうして製品の一部の自由販売が行なわれ、鉄鋼製品も代表的な生産財として市場化される。これまでの国家定価による「物資局」の配分方式から徐々に自主的な販売への移行が進んだ。そして、改革・開放の深化につれて、特に90年に入ると、鋼材の自主販売は中小型企業に限らず全面的に展開していった。しかも、従来の国家統制的計画経済体制を主導とした「重層的供給構造」が打破され、中小型企業は大手企業とともに販売範囲を全国的に拡大し、市場メカニズムの下で市場シェアをめぐって激しい競争を始めた。市場シェアを獲得し、さらにそれを維持するため、あらゆる鉄鋼メーカーは営業部隊を育成し、それを生かして全国で営業支店などを設け、販売ネットワークを作っていった。鉄鋼メーカーも代理制や特約販売制などの販売方法を試みて新しい市場を作り出そうとしている。それより一歩進んでいるのは、流通業者によって作り上げた鋼材販売ネットワークであり、鋼材販売の活発化に寄与している。要するに中国鉄鋼業の新たな市場構造の基本的な枠組みは一通り形成されつつあるのである。

第五章設備編成及び製品編成の調整構造

 従来の「重層的供給構造」の下で生成した鉄鋼企業は、生産工程の編成が不均衡で、生産の効率性がかなり悪いとみられ、ある意味でいえば、このような生産工程の編成をもつ企業は、その当時では「合理」的な選択であったかもしれない。

 しかし、鉄鋼製品の販売市場が拡大、統合化されるにつれて、激しい市場競争をめぐり、他の企業との格差をつけるために、鉄鋼企業は積極的に設備の再編成によって従来のアンバランスな生産工程を改善し、特定化された製品編成を再調整するようになった。だが、市場構造の調整については、企業内部の設備などの再編成にとどまらず、企業の生産組識の改組にまで進んだ。つまり、鉄鋼企業は、関連企業の吸収合併、関連企業との共同経営、多様な企業とのジョイント・ベンチャーなどの企業組織再編によって、品種を増やし、多様な市場を創り出したのである。いうまでもなく、設備の調整と生産組識の改組に伴なって、それによって規定される市場構造(企業構造)が、大きく変ってきたのである。こうして、市場メカニズムの進展は経済の発展構造、産業の合理的編成に導く調整機能を強化しつつあり、各企業は生産工程編成や製品編成に規定された企業構造を徐々に調整し、市場経済に適応していったとみられるのである。

第六章生産経営管理組織の変革

 1978年の経営自主権の拡大より始まった国有企業の改革は、84年の法人税制の実施を通して企業を法人化させ、90年の財務面と組織面の一連の措置を経て、とくに94年の「会社法」より、企業の完全な「会社」として国家から独立した経営主体とする法的準備段階が進められ、法人としての枠組みの形成を推進させた。つまり、企業自体が収益性原理で行動する主体の形成が進行したのである。そのもう一つの面として、自主経営の拡大は自主販売の増大を通じて、外部市場の整備・形成を促がし、市場メカニズムが機能するような装置の形成が促進された。

 このような自立的な国有企業の主体化と内的メカニズムの再編も、漸進的に進んできた。81年代に入ると、首鋼を代表とする国有企業の生産利潤請負制が広範囲に普及された。その国家に対する生産、利潤上納責任が全従業員に請負わせるため、生産はよりスムーズに拡大したとみられる。さらにこの国家に対する請負制の内部化の延長線として、企業内部部門間原価管理への市場原理導入方式が邯鋼によって成果をあげることになった。その経営改革は、企業が自ら市場原理を部門間の原価計算に導入し、市場原理に基づいて目標利潤と目標原価を見通し、生産・経営管理に事前採算的観点を取り入れ、徹底的に原価低減を執行する分権的な自主管理方式を実現したのである。要するに、企業が所与の市場環境の下で如何に変動している市場に対応し、市場原理に基づいて原価の削減を行い利益を最大限するかの方向を目指し、市場価格の変動に反応し、より低コストを実現し、収益をあげる内的システムを築き上げたのである。

総 括経済改革と中国鉄鋼業の発展

 1978年の改革・開放政策を契機に、市場要素が導入され、市場メカニズムの調整機能が働く装置が次第に整備されていった。中国国内市場は徐々に統合され、各産業部門はこの統一された国内市場を通して、統合され、より効率的な連関が形成されていった。80年代から、産業構造の持続的高度化(製造業の加工度高度化)と経済高成長が同時に進行したのである。このような経済の高成長に伴い、中国の鉄鋼業は、それまでの基礎産業としての基盤が活かされ、新しい発展期を迎えたのである。それと同時に、国際市場への開放が進められ、中国の鉄鋼業が技術導入などによって、飛躍的に製品の高度化を達成する一方、新しい国際分業の下で、原料自給自足の資源立地型から原料輸入型へ移行しつつある。

 中国鉄鋼業は需要の多様な変動に対応するために、その市場の動きに適応した経営改革を進めるとともに、生産の発展構造を大きく転換した。これは、中国の鉄鋼業が経営主体としての鉄鋼企業が柔軟性をもち、改革・開放の進展に伴う経済体制の変動に対する対応力を鍛え、自己変革を遂げ、自己転換を遂げたことによって達成されたのであり、収益を実現することのできる企業の内外的メカニズムが確立した結果なのである。

 しかし、国際化時代の中国鉄鋼業は必ずしも鉄鋼先進国ではなく、その発展構造はさらなる転換が要求されている。その国際競争力の向上は根本的に高度技術の導入による生産性の拡大にあることはいうまでもないが、企業レベルの市場化対応の組織化、株式会社化、国有企業における所有と経営の構造転換による経営自主化の企業内システムの確立とともに、マクロ的な市場メカニズム装置のいっそうの整備が望まれる。

審査要旨

 I.論文「中国鉄鋼業の発展と市場メカニズムの形成-生産及び組織の実証分析を中心に」は,中国の鉄鋼業が1970年代末に始まる経済改革の進展とともに,中国経済の高度成長を支える基礎産業として,1996年以降世界一の生産高を達成するにいたる過程を市場メカニズムの形成を軸に分析し,あわせて中国の経済改革の基本特徴を解明したものである。

 II.以下その内容を紹介し,その特徴を概括する。

 序章では,課題の設定を行い,仮説の提示と先行研究についての検討を行っている。中国の経済改革は通常旧ソ連・東欧の経済改革の「ビッグ・バン」式の急進改革と異なって,漸進改革であるとされている。その漸進改革は非国有企業の発展や国有企業の「双軌制」に見られる「増量改革」,「体制外改革」から国有企業経営改革,全面的市場経済化と言うように捉えられている。これに対して,本論文は漸進改革の中心をなすのが,市場メカニズムの形成であり,特に重要な要素は市場装置の形成と市場主体としての独立した企業法人の確立であるとし,この市場経済化が国家の誘導の下に,漸進的に形成されたとする仮説を提示している。また,「郷鎮企業」などの非国有経済ではなく,中国重工業の中心産業である鉄鋼業を通して,中国の市場経済化をみる意義を述べている。

 第1章「中国鉄鋼業における経済環境の変化」では,中国経済の高成長と国際化の進展に伴う,鉄鋼の需要構造と原料・立地構造の変化を分析し,耐久消費財産業などの新産業と建設産業の需要拡大が鉄鋼業を飛躍させ,鉄鉱石などの原料の輸入依存が進み,企業立地も経済発展の著しい沿海地区に傾斜するようになったことを明らかにする。

 第2章では,「中国鋼材市場価格の形成と設備投資」では,鉄鋼業の生産規模の拡大を検討し,新鋭設備の導入による中国鉄鋼業の生産拡大の特徴を吟味し,その持続的技術高度化のメカニズムを分析した上で,鉄鋼生産構造の特質を明らかにしている。鋼材の計画価格は「双軌制」という二重価格制を通じて,しだいに意義を失い,90年代半ばには市場価格が支配的となって,鉄鋼業においても市場メカニズムが形成された。この双軌制は計画価格が適用される国家納入分を一定量で固定する制度であったため,企業の生産量が拡大すれば,市場価格での自己販売分がいわば自動的に増大するメカニズムとして働いたのであり,経済成長と結びついて,市場化促進的であったのである。そして,この時期の鉄鋼価格は,国家投資が集中した宝鋼の場合を除いて,鉄鋼企業各社の拡大投資を保証するものであったことを明らかにしている。

 第3章「鋼材販売システムの形成」では,計画経済体制における「物資局」による鉄鋼製品配分システムに代わって,企業の自主販売権の拡大につれて,全国に鋼材販売市場が設立される過程を分析している。企業の販売部門の分社,省金属材料流通公司,中央政府の組織した販売体制など多様な流通販売市場が形成された。こうして,95年には全鋼材取引量の90%以上が自主販売となり,市場価格の拡大と相まって,鉄鋼の自由な販売流通市場が形成されたのである。この場合,計画統制と流通販売の国家的システムを廃止すれば,自由な流通市場が言わば自動的に成立するものではなく,企業自体の流通主体としての確立とともに,政府流通部門の市場体系への改変,誘導政策が大きな役割を果したことが強調されている。

 第4章「設備編成及び製品編成の調整構造」では,鋼材の市場価格の拡大,流通販売の自由化の進展と計画枠の撤廃による広域市場の出現につれて,市場の変動も激しくり,企業は自ら生産過程を調整し,製品編成を調整することが初めて要求され,そのことが鉄鋼業の成長を一層可能としたことを明らかにしている。従来のアンバランスな生産工程を改善して,企業内部の設備再編成を行うと同時に,生産組織の改組を行い,関連企業の吸収・合併,共同経営,合弁経営などの多様な企業組織の構築により,品種を増やし,多様な市場を作り出した。つまり,鉄鋼商品市場の深化・拡大と中央管理,地方管理の撤廃による広域市場化に刺激されて,市場に対応した生産の組織化が進展したのである。

 これまでの鉄鋼業という(セミ)マクロ的市場化を問題としてきたが,第5章「国営企業経営組織の改革(1)」以下では,市場経営主体としての企業経営システムを対象とした考察にはいる。

 第5章では,まず,企業経営自主権の確立過程を分析し,計画体制下の国営工場システムから,双軌制と経営請負制の下での過渡期を経て,市場メカニズム体制に対応した企業内部市場化体制が成立したことをもって企業の経営主体の確立としている。そして,経営請負制の代表的企業モデルとして,首都鋼鉄公司の利潤逓増請負制を(第5章),企業内部市場化の典型例として,邯鄲鋼鉄公司の原価低減システムを取り上げて(第6章),その特徴を分析している。

 国有企業経営改革は企業自主権の改革として1978年から漸進的に進行するが,80年代は「放権譲利」といわれるように,企業の経営自主権の強化が中心であり,計画管理の枠組みの中での「双軌制と経営請負制」の時期であった。この双軌制と経営請負制が市場経済化を促進し,請負制企業の経営を良好たらしめたのは,経済が高成長したためであった。利潤請負を中心とした経営請負制は,やはりあくまで既存の生産構造を維持したまま生産の増大を基本とするシステムであった。しかし,経済の市場化が全体として深化する段階になると,経営請負制は市場価格の変動とそれに対応する生産構造への転換を導くことができなくなって,市場メカニズムに対応した市場内部化のシステムが要請される。企業の経営メカニズムの転換が問題とされ,企業市場内部システムが形成される。同時に要素市場,特に資本市場の進展は企業の経営と所有の分離の明確化を可能とする外部条件を与え,企業が市場によく反応する資本主体として確立する改革の最終局面に到る。それが,国有企業改革であり,大中型企業の株式会社化であり,小型企業の民営化(従業員持株制)である。この過程は94年から試行に入り,97年の中共15回大会以後本格的に施行されている。

 首鋼は利潤逓増請負制を採用した。利潤と賃金総額とのリンク制をとり,8つの請負指標を各部門に分解し,個人にまで請け負わせる内部経済請負制をとった。留保利潤は6割を設備投資に回し,設備投資を積極的に行い,生産能力を拡張した。その結果,96年には粗鋼823万トンを生産し,中国第2の鉄鋼企業となった。また首鋼は異種業種を含む企業合併を盛んに行い,一大コングロマリット企業集団を形成したが,この成功は計画体制の枠組み内での双軌制下での請負制に負うものであり,市場経済化が進展する90年代半ばになると,その限界が明らかとなった。市場化に対応できない製品構造,製品価格の低下による収益率の低下,国家との特殊関係に基づく腐敗現象などがそれである。

 第6章「国有企業組織の改革(2)」では,社会主義市場経済に相応した経営メカニズムの形成の典型例として,邯鄲鉄鋼公司の「原価低減システム」を中核とした市場内部システムが取り上げられている。

 邯鋼の経営システムは「市場-逆算-否決-全員」として特徴づけられている。「市場」とは,製品と中間製品の市場価格を基準として,利潤率と原価基準を設定し,それに見合った原価低減を行うことである。「逆算」とはそれまでの原料からはじまって各工程毎にコストを積み上げて原価計算を行う方式から製品価格からこれまでと逆にコストを計算する方式にすることである。つまり,市場価格に対応した原価管理である。「否決」とは各人のコスト指標が達成されなければ,その他の指標,例えばボーナスや昇進も否定されることを意味し,コスト削減が至上命題として設定されている。「全員」とは職員・労働者から社長に至まで全員がコスト削減に参加することである。これに加えて,技術の改良,生産管理の合理化をめぐって,個人の提案活動が盛んであると同時に,現場の技術改善に応ずるため,製銑,製鋼,圧延などの工程で,突撃チームがつくられ,インフォーマル組織として活動している。つまり,原価低減システムは全員参加で,かつ小集団活動を伴っておこなう独自の経営システムとして形成されているのである。

 更に,学校は市政府に移管し,病院や補助部門は社外に対しても営業を行い,独立採算とする企業経営合理化を行っている。

 III.以上のように,本論文は中国鉄鋼業の発展過程に即して,市場メカニズムの形成過程と市場主体としての企業の経営システムの確立を分析し,中国の漸進的経済改革の基本特徴を解明した。本論文の学術的貢献と評価しうる論点は以下の諸点である。

 第1に,中国の漸進改革の成功の大きな要因の一つは,市場メカニズムが機能する場としての市場体系の整備であるという認識の下に,鉄鋼製品の流通を担う組織の形成を具体的に展開していることである。この論点は第3章「鋼材販売システムの形成」に集中的に示されている。まず,企業の販売自主権を徐々に拡大し,企業の市場についての学習を行いつつ,鋼材販売市場を各地に設立し,また,国の物資局体制を中央,地方レベルで改革し,鉄鋼流通企業として再編した。このような流通再編は鋼材の需要供給を円滑にし,市場面から成長をスムースにしたといえる。「市場機構は自動的には生まれない」という命題を実証したわけである。中国の経済改革における特徴として,この側面を詳細に展開した点に,最もオリジナリティがあるといえよう。

 第2に,鉄鋼業における発展と改革・開放の関係を具体的に展開し,中国の市場経済への移行の一つのタイプを明らかにしていることである。これは,一方で中国の発展と改革・開放が非国有経済と輸出・外資の拡大による発展論,また他方で増量改革論に関する対論となっている。中国重工業の基幹産業である鉄鋼業も高成長を支える支柱産業であり,その市場経済化は双軌制を通じて達成された。双軌制のもつ市場促進的機能を重視していることも新鮮な視点である。

 第3に,企業経営システムの展開過程として,3つの段階を定式化していることである。つまり,計画管理-従属的工場制,双軌制-経営請負制(首鋼モデル),社会主義市場経済-企業内部市場化システム(邯鋼モデル)である。邯鋼の原価低減全員参加システムはこれまでのところ我が国では最も詳しいものである。

 第4に,国家による市場化の誘導の重要性が具体的に扱われていることである。それは例えば,鋼材販売市場の設立や流通公司への再編,双軌制における「調放」(定価の改定と自由化)結合方式よる価格市場化に顕著に見られる。

 そして最後に,現在世界最大の鉄鋼産業に成長した中国鉄鋼業の発展過程とその構造について,これまでこれほどのまとまった論述はなく,中国鉄鋼業の理解を深める点で大いに貢献するものと思われる。

 IV.本論文の問題点を挙げれば,つぎのとおりである。

 第1に,本論文は鉄鋼業という一産業を取り上げているが,随所で具体的な企業を個別に取り上げている。しかし,その取り上げた企業が鉄鋼業の典型事例となりうることが説得的に述べられいるとはいえない恨みがある。確かに,首鋼も邯鋼も政府によっていずれも学ぶべき模範企業とされたが,それが鉄鋼企業一般を代表するのかどうかが十分議論されているとはいえない。

 第2に,市場主体としての企業経営システムの確立は,経営自主権の確立だけでなく,いわゆる資産権の分離による所有と経営の自立化によって確定するものであろう。確かに国有企業改革に関して株式会社化が述べられているが,もっと大きなウエイトをもって扱われるべき事項である。この問題は,国家保有の株主資本と経営との間の「企業統治」の特殊中国的問題(党企分離)に関わるものであり,中国の内外でプリンシパル・エージェント理論やコーポレート・ガバナンス論の枠組で,理論的にも,実証的にも追求されており,そうした研究蓄積が全く活用されていない。

 第3に,全体として,中国の漸進改革が漸進的に進んだのは,政策的意図が十全に働いたわけではなく,一面では試行錯誤の結果でもある。この点が十分認識されていないのは,論文の深みを削ぐ結果となっている。

 第4に,中国の経済改革方式をめぐる従来の議論の整理が不十分,不完全であるきらいがあり,全体の分析枠組や仮説設定が十分説得的であるとはいえない。

 V.このように,いくつかの問題点がのこっているにせよ,本論文は,これまでの中国鉄鋼業の発展と中国の市場経済化に関して,幾つかの独創的な論点を展開しており,著者は独立した研究者としての十分な資格があると認めることができる。

 以上の理由により,審査員は全員一致して,本論文の著者に博士(経済学)を授与することが相当であると認定した。(以上)

UTokyo Repositoryリンク