本論文は、製造物責任における責任の所在や法廷での立証責任などについて、「法と経済学(law and economics)」の立場から理論的考察を行ったものである。製造物責任において生産者と消費者の間でどのようなリスク配分をするのが社会的にもっとも望ましいのかという問題については、法と経済学の分野において多くの研究が行われてきた。この論文の特徴は、生産者や消費者がどの程度の事故回避の努力を行っているかを法廷で証明するためにはある程度のコストがかかるという前提をモデルに入れることで、誰が立証責任を負うべきかということがルール設計に入る点にある。 これまでの製造物責任に関する理論的研究においては、最終的に事故の費用を誰が負担するかというルールのみに焦点が当てられてきた。それに対してこの論文では、事故の費用負担と立証責任という二つの費用の組み合わせの下での選択になる。こうした組み合わせの下では、一方で事故回避の誘因を与えるチャネルが二つになるという意味で社会的に最適な事故回避行動を促す可能性が増えると同時に、他方で立証費用を回避するための法定外の交渉が生じそれが事前の事故回避の誘因を歪めることにもなりかねない。本論文では、そうした問題について、当事者(消費者と生産者)の間で情報が完全である場合と不完全である場合にわけて分析を行っている。 本論文の内容を簡単に紹介すれば、以下のようになる。 第1章は、製造物責任に関する法と経済学の文献のサーベイを与えている。この分野の古典的な論文であるBrown[1973]の研究を軸に、様々なコスト分担ルールがどのような形で定式化されるのか、Brownの研究の前提をゆるめて消費者の認識の間違い、法廷での判断の過ちなどを考慮したときどのような問題が生じるかなど、この分野のこれまでの主たる研究について触れている。本論文もBrownの研究をベースにしているため、ここで整理された分析手法は後の章で利用されることになる。 第2章と第3章は、本論文の中核をなす部分である。第2章では、冒頭で触れたようなモデルを生産者と消費者が互いの事故回避行動を観察できるという前提の中で分析している。モデルは不確実性を含む多段階ゲームであり、第一段階で各自が事故回避行動をとるかどうか決定する。それを受けて事故が確率的に起こる。事故が起きた場合には、消費者は法廷に訴えるかどうか決め、その後生産者と交渉して示談にするかどうか決める。法廷に訴えて示談が成立しないときにはあらかじめルールで決められた側が法廷においてコストをかけて立証し、その結果に基づいて法廷は最終的に誰が事故の費用を負担するか(あらかじめ決まっているルールに従って)決断する。 このようなモデルの中でどのようなルールをあらかじめ決めておくことが社会的に最適な事故回避活動をもたらすかが検討される。ここでルールとは、最終的な事故の費用の配分のルールと、誰が立証責任を持つのかということの二つである。前者については、事故回避を怠った者が費用負担の責任を負うことはもちろんだが、問題は両者とも適切な事故回避行動を取った上で事故が起きた場合の責任分担(これを以下では「最終責任」と呼ぶことにする)である(論文では両者とも事故回避行動をとることが最適であるという想定がなされている)。 この章のモデルの中で最適なルールを決める上で重要なパラメターは二つあり、一つは立証費用の大きさであり、もう一つは法定外での交渉におけるぞれぞれの主体の交渉力の大きさである。この章の結論をまとめるなら、交渉力が強く立証費用が小さな経済主体の方に、立証責任とともに事故の最終責任を持たせるようにすることが望ましいルールとなる。 もし交渉力を持たず立証費用の大きな主体に責任(立証責任と最終責任)を取らせると、法定外交渉において立証費用を織り込んだ合意が成立してしまい、交渉力を持つ主体はかりに事故が起きても大きな費用負担を持たないことになる。その結果、事前に適切な事故回避行動をとる誘因も弱まってしまうのである。したがってこのような合意が成り立たないように、交渉力の大きな経済主体、あるいは(かつ)立証費用の小さな経済主体が立証責任と最終責任を取るようなルールが望ましいことになる。 以下の第3章の議論にも関わる点であるが、法廷での立証費用と法定外の交渉を入れることで、Brownらによる標準的なケースとどこが違ってくるのか簡単に説明しておこう。標準的なケースでは、当事者に適切な事故回避行動を取らせる誘因のチャネルが二つある。一つは、適切な事故回避行動を取らなかった経済主体が事故の費用を負担するという法のルール、そしてもう一つはかりに適切な事故回避行動をとったとしても相手も同じように適切な行動を取った結果、事故の最終責任を取らされるとき、それでも事故回避行動をとることによって事故の確率そのものを小さくできるという誘因チャネルである。第2章のケースでは、このうち最初のチャネルが弱められる可能性がある。それが交渉のもたらす影響である。そこで、上で述べたような結果になるのだ。 第3章では、第2章のモデルを少し変え、消費者と生産者が互いに相手の事故回避行動が観察できないものと想定する(これは現実的な仮定であろう)。このようなモデルの変化によって事故回避の誘因構造は大きな影響を受ける。不完全情報の下では、仮に一方の主体が適切な事故回避行動をとっていなくてもそれが相手に分からないので、法定外の交渉を通じて行われる示談の結果、あまり厳しいロスを被らない。そのため、上でのべたBrownによる事故回避の誘因の第一のチャネルがききにくくなる。そこで第2のチャネル、すなわち事故そのものの確率を下げる誘因を両方の経済主体に働かせる必要がある。すなわち、両方の経済主体が適切な危険回避行動をとったとしても、もし事故が起こった場合には両方が事故の費用を分担するような形にしなくてはならない。そこで、交渉力のある側が事故の最終責任を負い、もう一方が立証費用を負担する形のルールが最適であるということが示される。もし交渉力がある方の経済主体が立証責任を持ち、もう一方の経済主体が事故の最終責任を負うことにすると、交渉力の弱い経済主体は最終責任を負わせられることを恐れて立証の費用のかなりを負担するような示談の交渉をしてしまう。その結果、交渉力の大きな経済主体は事故を回避する誘因を持たなくなる。逆に交渉力の弱い主体が立証責任を持つなら、法定外の交渉においてその費用が相手に転嫁されることはないし、最終的な事故の責任は交渉力のある側が負担するので、両者とも事前に事故を回避する行動をとる誘因を持つことになる。 第4章は、これまでの章とは違って、製造物責任のコストが価格に転嫁できるケースを考察している。そのような想定の下で、製造業者、流通業者、消費者の三段階の取引構造のモデルを構築する。よく知られているように、完全情報・完全競争の下で価格調整が行われる場合には、生産者と消費者のどちらが事故の費用を負担しても、事故の費用が価格に転嫁されることを通じて資源配分は同じになる。これは、2者間の限定的な取引であり、価格転嫁への可能性も排除した第2章や第3章のケースとは大きく異なる点である。この章では、この結果を流通業者を含む3者モデルに応用することで、完全競争・完全情報の下では、流通業者にも事故の費用を分担させるかどうかは最適な資源配分に影響を及ぼさないという結論がえられる。ちなみに、多くの商品は流通業者を通じて消費者に販売されるので、(製造業者だけでなく)流通業者も事故の費用負担を負うべきかどうかはしばしば論議される問題である。 次に、このモデルが不完全情報のケース、すなわち消費者や流通業者が事前に生産者の生産する品質(事故の確率)についての情報を持たないケースが議論される。この場合には、生産者が事故の費用についてある程度の割合以上の負担をするようなルールが望ましくなる。これは、消費者や流通業者がよい品質と悪い品質の商品を価格(生産者価格)から見分けるためには、生産者が事故のコスト負担をして、そのコストが価格に反映される必要があるからだ(品質の善し悪しが区別できないプーリング均衡は、品質が区別できる分離均衡よりも経済厚生が劣ることが示されている)。また、生産者が独占的であっても、問題の基本的な性格が変化しない。事故が起きたときの責任のある一定割合以上生産者が取らない限り分離均衡は成立しない。ただ、独占のケースが完全競争のケースと違うのは、前者では生産者の責任の割合が高すぎると、それが100%以上の割合で生産者価格に転嫁される可能性が高くなり(少なくとも弾力性一定の下ではそうなる)、経済厚生にはマイナスの影響がでる。そこで、生産者が負担する事故費用の割合は、分離均衡をもたらす程度には高いが、価格への転嫁をできるだけ抑えるために低くなければならない。論文の中では、これが最適事故費用負担比率というような形で求められる。 以上で説明したように、本論文では、事故が起きた後の法廷での立証費用、法廷での争いを避けるための法定外の交渉といった要素を持ち込むことによって、製造物責任のルールのあり方に新たな視点を持ち込んだ。製造物責任の問題が法と経済学という視点から議論されてきたことを考えると、こうした法廷の内外でのプロセスを明示的に考察することの意義は大きいものと評価される。実際、そうしたモデルを分析することで、当事者の交渉力や立証費用の大きさが、望ましいルールの形態に大きな影響を持つことが明らかにされた。さらに、情報が完全か不完全かによって、当事者の事故回避の誘因が大きく異なってくることなども明らかにされている。当事者の交渉能力や立証費用という点について理論的なモデルでどのように取り扱うべきかという点についてはいろいろな議論がありうるが、現実の製造物責任のケースにおいては、消費者と生産者の置かれた法廷での交渉の負担や交渉における交渉力が問題になるケースも少なくないだけに、こうした形で理論的分析を行うことは意義があると考えられる。 もとより、本論文は多くの課題や問題点を抱えている。現実の世界における製造物責任に関する法廷での争いをモデル化する場合には、いろいろな形が考え得る。ここで定式化した形以外のモデルを構築したときには、最適なルールの形態も変わってくるだろう。製造物責任のルールを構築する際に提起される問題、たとえば善意の消費者と悪意の消費者の問題、法廷における費用の形態、などを考えると、この論文で採用した特定のモデルがどの程度一般的な妥当性を持っているかは必ずしも明らかではない。また、この論文の柱となっている第2章と第3章のモデルが、2者間の単純な取引モデルに限定されていることにも触れておきたい。たしかに、生産者と消費者の事故回避行動がもたらす相手への外部性を単純な形で分析するためにはこのような単純な枠組みが有益であるが、現実の製造物責任に関わる事例の多くは価格を通じた複数の生産者の間の競争という形を取ることが多い。第4章での議論からも分かるように、価格が内生変数となった場合には、結論に大きな変化が生じる可能性がある。こうした点については今後の研究課題として残されている。 とはいえ、法廷での立証とそれを避けるための法定外での交渉という新たな視角を入れることによって、この論文は製造物責任という法と経済学における重要な問題に大きな貢献をした。また、製造物責任問題だけでなく、このアプローチで法と経済に関する他の分野を考察する可能性もある。審査委員会は著者が博士(経済学)の学位を取得するに相応しいという結論に達した。 引用文献 Brown,John,P."Toward an Economic Theory of Liability,"Journal of Legal Studies(Oct.1973)No.3:pp323-49. |