本論文の課題は、日本資本主義の発展・変動の過程とその矛盾を、失業状況を取り上げて考察することにある。具体的には、都市労働市場の問題と、失業対策が必要とされるに至った経緯、および失業対策の展開と限界を考察することである。時期としては、1920-35年を取り扱う。 失業対策の諸施策は、第一次大戦終結以降、ヨーロッパで先行する制度を移植したものである。本論文では、従来省みられることのなかった史実を取り上げながら、第一次大戦後・関東大震災・昭和恐慌の各時期を取り上げる。この三つの時期を取り上げて、都市労働市場の構造と失業対策の展開を考察するのが目標である。 都市労働市場の構造を検討するのは、隅谷三喜男の提起した都市雑業層が、どのような条件の下で、賃労働の給源として機能するのかを解明することを通じて、労働力商品の持つ特殊性の問題を考察するためである。都市雑業層における労働面・生活面における労働者の営為を追究することで、賃労働⇔雑業という労働力の移動・職業転換の問題を、再検討する所以である。 ここでは、労働力商品の持つ特殊性の問題として、労働者の行動様式・意識の問題、また労働力商品の性格に由来する階層性の問題を考究する。 都市雑業層という規定は、資本蓄積に対応した労働力需要の構造を考察する際に、導き出される。隅谷によると、都市の労働市場は、大企業・中小企業および雑業の三つに区分される。 都市雑業層が、賃労働のプールであるというのは、この都市階層が、景気変動に伴って、賃労働の量的調節機能を持つことを意味する。不況となり、賃労働需要が減少すると、一部の工場解雇者は農村に還流するものの、長期間農家に滞留することができず、大部分は、都市雑業層の中に再流出することとなる。したがって、工場解雇者が、どのような状況の下で工場に再雇用されるのか、またその失業期間中、どのような生活を営み、都市に滞留していたのかという問題を解明することは、都市労働市場における雑業層の持つ意義を考察する際に、不可欠な作業であるように思われる。 工場解雇者が都市に滞留するのか、あるいは他の地域へ移動するのかは、他地域の臨時工労賃と、在住都市の雑業労賃の高低によって規定された。在住都市の雑業労賃が高ければ、工場解雇者は都市に滞留した。一方、他地域の臨時工労賃が高ければ、工場解雇者の移動が生じた。 原蓄期の都市に形成された労働市場の重層的な構造が、階層間格差を拡大させながら存続していったというのは、諸説一致している。特に、第一次世界大戦後において、労賃が下方硬直性を示す中で、工場労働者は、生活水準を高めていく。戦間期において、失業の問題がクローズ・アップされるのは、相対的に高い生活水準を享受した工場労働者と、生活水準の構築に遅れを取った貧民層の狭間に、工場解雇者が、一つの層として位置付けられることを一因としている。戦間期における都市労働市場の構造を、三層構造として考察する所以である。 第一次大戦後においては、解雇されたときの工場労働者の状況が、それ以前の時期と比較して、より危機的、深刻なものとなった。第一次大戦後には、労働者の流動性が著しく低下した。特定経営への定着性が高まるとともに、重工業大経営に勤務する労働者の収入は、相対的に高まった。このことは、生活水準の点で、「下層社会」との間の格差を押し広げたことを意味する。しかしながら、その反面、一旦上昇した生活水準が、解雇によって低下することになり、また再就職に関しても、以前の時期より困難となったから、工場解雇者を取り巻く状況は、より深刻なものであったと考えられる。 失業対策とは、資本主義の下で発生した失業問題への対策のことを指す。事業の種類としては、職業紹介事業・失業救済事業・失業保険制度の三つが挙げられる。本論文では、労働市場の構造の問題を念頭におきながら、職業紹介事業と失業救済事業の問題を取り上げる。 第一次大戦後、戦勝国・「一等国」として、社会政策の枠組みが採用され、失業対策として、まず職業紹介事業が開始された。救貧政策の段階から、失業政策へと転換していく一つの契機は、職業紹介事業が整備されたことにある。職業紹介事業の実施を通じて、貧困の原因に対する認識も変化せざるを得ない。工業労働者を取り巻く状況を勘案し、その失業状況に対応する政策が創始されたのである。 職業紹介事業による雇用調整は、労働需要の減退とともに、1920年代中葉に問題を生ずることになるのだが、その問題は、同時に、工業失業者と貧民層の階層的な差異を露呈するものであった。都市に滞留する工場解雇者の救済を継続するため、1925年冬季から、失業救済事業が開始された。政府の資金援助の下に、地方公共団体が雇用を創出し、これを求職者に提供する制度である。 本論文では、第一次大戦後・関東大震災・昭和恐慌の三つの時期を取り上げて、都市の労働市場にどのような問題があったのか、その問題に政策的にどのように対処したのか、そしてその政策の効果と問題点とは何であったのかを考察することを目標とする。 第一章と第二章は、第一次大戦後・関東大震災における、職業紹介事業の活動に関する考察である。職業紹介事業とは、労働需要(工場・会社・商店・土木建築の求人)と労働供給(求職者)を結び付けることで、失業状況の軽減を図る事業である。従来の研究においては、この事業は、それ自体雇用を創出するものではなく、単なる需給調整機関に過ぎないという理由で、失業対策としては有効なものではなかったと評価されてきた。この点について、本論文では、雇用調整の果たした役割とその歴史的な意義を評価することになる。 第三章は、昭和恐慌下における都市の失業状況、および失業救済事業に関する考究である。失業救済事業とは、政府・地方公共団本が日傭労働需要を創出し、これを失業者に提供することで、失業状況の軽減を図る事業である。これまでの研究では、失業救済事業は、戦前期日本には失業保険制度がなく、政府・支配層の反福祉的態度とも関連して、失業保険制度の代替策として起業された事業であると位置付けられた。それに対して本論文では、第一に失業統計、および救済事業の実施過程の検討を通じて、当時の失業状況に関して再検討する。続いて、この事業の就労者が、昭和恐慌からの景気回復過程の中で示した求職行動を考察する。 以上の研究を通じて、戦前期日本における失業対策の展開に関して、都市労働市場・失業状況の分析を踏まえながら検討することが、本論文の課題なのである。 なお、参考論文では、失業保険制度に関する検討を行った。ここでは、戦前期・戦時期における失業対策が、戦後の失業対策をどのように規定したのかという、政策論に関する検討を試みた。内容的に、博士論文・本論の副題には則していないという理由で、別冊の体裁を取ることにした次第である。本論における政策論の延長として、戦後への展望・分析視角を提示した。 |