学位論文要旨



No 113953
著者(漢字) 西山,宗雄マルセーロ
著者(英字)
著者(カナ) ニシヤマ,ムネオマルセーロ
標題(和) ポルトガルにおけるバロック様式の成立過程に関する研究
標題(洋)
報告番号 113953
報告番号 甲13953
学位授与日 1999.03.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4275号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 助教授 伊藤,毅
 東京大学 助教授 岸田,省吾
内容要旨

 本論文は、ポルトガルの海外進出の最盛期であったいわゆる大航海時代を通して、そこで形成された建築様式の変遷を辿りながら、それぞれの建築の空間構成と装飾がどの様に扱われてきたかを明らかにする事を目的としている。当時、植民地の建設にあたっては、本国のみならずヨーロッパの建築様式と現地文明との融合した形態が出現し、それらが植民地間で変容しながら伝えられていた。ここでは、それぞれの地の歴史的背景の中で、実際にどの様な建築活動が行われていたかを明らかにすると同時に、建築の様式がどの様な経路で成立したのかを考察する。そして、建築様式を空間構成と装飾に分け、それらの起源と時期を対照することで、その構成がどの様な伝達経路の中で変遷してきたのかを検討している。特に装飾の扱い方にイベリア人の特性を見いだすことに期待するものであり、こうした様式創造の過程そのものがスペインとポルトガルの植民地建築様式の基となっていると考える。

 したがって、本研究の対象時期としての範囲は、主に16世紀のマヌエル1世統治期からポルトガル最後の植民地であるマカオの入植が安定する17世紀前半を主な対象としている。また、初期については、ポルトガルのキリスト教の建築様式の背景として、それ以前のレコンキスタ完了期からの影響を考察することを手始めとしている。植民地については、ゴアの教会建築とマカオの建築活動として扱い、植民地建設全般に共通する事象としては要塞のみを扱っている。

 イベリア半島におけるレコンキスタの完了の時期的な違いは、その過程と地域性によってスペインとポルトガルの建築様式の違いを生み出してきたと考えたれてきた。その後、この両国に最初に導入されたキリスト教建築は、いずれもフランスのクリュニー修道会の系列であった。サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の教会堂とカタルーニャにとどまりロンバルディアを吸収したロマネスクである。この両者にもたらせた差異の最大の要因はイスラムの影響の大きさの度合いであることは間違いはないのだが、空間構成においてはむしろその経路上の次の様式にあった。次にポルトガルへ入ったシトー修道会のアルコバサ修道院は、三身廊のバシリカ式教会堂であるが、側廊と主廊が等高であり、光の操作によって主廊の軸線がアプスへの方向性を強調する形式をとっていた。やがて、ゴシックがフランシスコ会とドミニコ会とともに入ってくる頃には、既にこの形式はポルトガルの特異な性格として受け継がれ、ゴシックは様式としてではなく単なる装飾モチーフとして扱われるようになった。こうした他国で成立した様式導入への解釈は、必ずしもその規範とともには受け入れられなかった。ポルトガルでは、ゴシック装飾からマヌエリーノへと展開するが、それは様式と呼べるものではなかった。様式から離れた空間構成は、やがて一人立ちし、独自化する。ポルトガルでは、分節された空間は好まれなかった。そして、このポルトガルの独自性が最もよく表現されたのがジェロニモス修道院である。ゴシックの装飾をまとってはいるが、軍の技術は聖堂の壁を厚くし、ロマネスクの修道院をも越えている。一体化した聖堂空間は、小さなアプスに視線を集約されるのである。また、ヴィトーリア修道院にみられる規範を越えた自由な発想は、教会様式の集中式とバシリカ式の併置までも実現した。方向性の強調は「天上の王」の実現のために両者を融合させたのであった。

 この空間構成の取扱は、集中式の考え方においても自由な展開をみせる。イタリア・ルネサンスがスペインで昇華されたとされるエスコリアルは、これまで様式創造においても、また、その規模においてもポルトガルに先行するものであるとされてきたが、集中式の展開においては、逆の経路が見出された。

 マニエリスムにおいてもたらされた建築書の影響は、ポルトガルにも様々に現れた。しかし、スペインとポルトガルに指摘されるセルリオ、ヴィニョーラ、パッラーディオの図案と計画の実現は、必ずしも素直につながらない。これまで、セルリオの建築書の出版の経過やスペインのイタリア支配を根拠とする、イタリア、スペイン、ポルトガルといった順列は、セルリオの図案の広まりとしては正しかったが、ヴィニョーラやパッラーディオが発展させた形態は、現象としては、ポルトガルで先に起こった例も見受けられる。二重の崩したペディメントの扱いは、エヴォラで20年早く出現した後すぐにゴアのカテドラルで展開し、既にファサードの三層化を実現している。このカテドラルの完成はサン・ピエトロ・ディ・カステッロに遅れることになるが、着工した1552年はパッラーディオの計画案のできる1558年より早い出来事であった。

 この早期にみられる様式の自由な転換の役を担ったのが、当時新興のイエズス会であった。ポルトガルはイエズス会がローマ教皇に認定されるとほぼ同時に招聘し、海外進出のための旗頭の役を担わせた。これまで、ローマに建設されたジェズ教会は、布教を活動の中心においたイエズス会の教会の典型となったとされてきた。ポルトガルにおいてもそれは同じで、そのため新しく建設された海外領土には、このジェズ教会のいわばコピーが広められ、これをもってバロック様式が世界中で展開したとされてきた。バロック様式の成立をイタリアにおき、ルネサンスからバロックへの転換がローマで生成されるとするならば、セルリオからポルタへ至って完成したジェズ教会の典型の派生は説得力のあるものであった。しかし、ここにポルトガルの海外進出の過程で建設された教会の形態をあてはめれば、認められるのはセルリオの図案を要素の一つとして用いていることだけであった。

 海外進出を早くに進める必要に迫られたポルトガルは、表向きの目的にキリスト教の拡大を掲げたために、後進のイギリスやオランダとは大分異なる植民地の建設の方法がとられた。これまでの研究では、入植にあたっては先ず商館を建設し、それを要塞化してゆく過程が一般的とされてきた。しかし、ポルトガル人は状況が許す限り宗教施設の建設を優先していた。とくにマカオにおいては、中国に敵対心を抱かせないために、商館や要塞はむしろ控えめに建設してゆかねばならなかった。また、ポルトガルの船旅の環境の悪さから、本国の高官や建築家が直接植民地へ出向くことは、少なくとも初期においてはありえなかった。そのため、建設事業を含めた西欧文化の伝播はイエズス会が一手に担うことになっていた。当時の司祭の広範な知識はよく知られるところであるが、それは建築についても同じであった。しかし、専門教育を受けた建築家とは違い、装飾の組み合わせ上の規範はある程度無視されていた。ポルトガルの教会建築における空間構成の嗜好は、このイエズス会の新世界での布教の要求と奇妙に合致した。バシリカ式でありながら身廊を一つの空間として構成することはミサを中心に布教するのに適していた。また、壁構造を主体に柱は屋根のみを支えればよい構造は、同行していた要塞建設のための軍の技術者の知識を生かすことが可能でった。既に様式を離れて自由に組み合わせることができた装飾のモチーフには、構わず現地のものを用いることができ、またそれは建設職人までも現地で調達しなければならなかった事情には幸いしたのであろう。

 バロック様式の定義において、仮にハインリッヒ・ヴェルフリンのいうように厳格な規範と形態を古典の中に正確に見いだせるものが、あえてそこへ加えた解体であり、最も徹底したルネサンスの変形であるとするならば、それはローマにしかあり得ないものとなろう。事実ヴェルフリンは、ヴェネツィアの現象自体も否定している。しかし、ポルトガルにおいて、バロックをバロックとして持ち込みそれを消化できたとした盛期のバロックには、すでに新しいものは何も見あたらなかった。イベリアのバロックが認められ、その様式の特徴が海外領に持ち出されたとき、それは既に装飾様式の一つのモチーフと化していたのである。バロックの語源とされるポルトガル語の「バローコ」は、現在のポルトガルにおいてはそのまま「バロック」の意味だけに使われ、「歪んだ真珠」の意味はもはや語源事典の中にしか見いだせない。その後18世紀中頃のフランスにおいて加えられた「不規則、風変わり、不均等」という意味をもって正統からの逸脱とするならば、ポルトガルの建築はまさにその中で様式を成立させてきたと考えられよう。

審査要旨

 本論文は、ポルトガルの建築様式のバロックの成立期を主な論点として、本国と植民地の双方から考察するものである。ポルトガルの建築については、日本国のみならずポルトガル本国でも体系的な研究が十分に成されていない分野であり、特にアジアの植民地についてはほとんど既往の研究例も見られない状態であった。しかしながら、近年のアジアの都市の研究における日本国の果たす役割は大きく、その先駆であったポルトガルの建築活動について解明することは不可欠であった。

 ここでは、ポルトガルの海外進出の最盛期であったいわゆる大航海時代を通して、そこで形成された建築様式の変遷を辿りながら、それぞれの建築の空間構成と装飾がどの様に扱われてきたかを考察している。植民地の建設にあたっては、本国のみならずヨーロッパの建築様式と現地文明との融合した形態が出現し、それらが植民地間で変容しながら伝えられていた。それぞれの地の歴史的背景の中で、実際にどの様な建築活動が行われていたか、そしてその建築様式がどの様な経路で成立したのかが論点である。

 研究の対象時期は、主に16世紀のマヌエル1世統治期からポルトガル最後の植民地であるマカオの入植が安定する17世紀前半を主としている。そして、ポルトガルの初期キリスト教建築様式成立の背景として、レコンキスタ完了期からの影響を加えている。また植民地については、ゴアの教会建築とマカオの建築活動を扱い、植民地建設全般に共通する事象として要塞を扱っている。

 これまでスペインとポルトガルの建築様式の違いは、イベリア半島におけるレコンキスタ完了の時期の差違と地域性によるところが大きいと考えたれてきた。論文はこの経緯について、当時のキリスト教建築の先導者であった修道会の導入の各時期と建築形態を比較する事から、ポルトガルの建築様式の特性を見出そうとしている。この両国に最初に導入されたキリスト教建築は、いずれもフランスのクリュニー修道会の系列であるが、サンティアゴ・デ・コンポステーラへ向かう巡礼路の教会堂とカタルーニャにとどまりロンバルディアを吸収したロマネスクの違いを指摘している。次にポルトガルへ入ったシトー修道会のアルコバサ修道院は三身廊のバシリカ式教会堂であるが、側廊と主廊が等高であり、光の操作によって主廊の軸線がアプスへの方向性を強調する形式をとっていた。やがて、ゴシックがフランシスコ会とドミニコ会とともに入ってくる頃には、既にこの形式はポルトガルの特異な性格として受け継がれ、ゴシックは様式としてではなく単なる装飾モチーフとして扱われるようになったのである。ポルトガルではその後ゴシック装飾のうちにマヌエリーノへと展開するが、それは様式と呼べるものではなかった。様式から離れた空間構成の分析は、ジェロニモス修道院とヴィトーリア修道院の分析を可能にしている。そして、同じ視点から集中式において論じることにより、イタリア・ルネサンスとスペインとの関係におけるポルトガルの位置について考察している。特にエスコリアルにおける様式成立の先行については、これまでと逆の経路を指摘している。

 次にイタリアからの影響について、スペインとポルトガルに指摘されるセルリオ、ヴィニョーラ、パッラーディオの図案と計画の検討を行っている。これまで、セルリオの建築書の出版の経過やスペインのイタリア支配を根拠とする、イタリア、スペイン、ポルトガルといった順列は、セルリオの図案の広まりとしては正しかったが、ヴィニョーラやパッラーディオが発展させた形態は、現象としては、ポルトガルで先に起こった例も見受けられる事を指摘している。この早期にみられる様式の自由な転換の役を担ったのが、当時新興のイエズス会であった。ポルトガルはイエズス会がローマ教皇に認定されるとほぼ同時に招聘し、海外進出のための旗頭の役を担わせた。これまで、ローマに建設されたジェズ教会は、布教を活動の中心においたイエズス会の教会の典型となったとされてきた。しかし、ここにポルトガルの海外進出の過程で建設された教会の形態をあてはめれば、認められるのはセルリオの図案を要素の一つとして用いていることだけであったことを明らかにしている。

 これまでの前段の研究によって、本論文の最も主たる部分であるアジアの植民地での建築活動の分析を可能にしている。海外進出にあたってポルトガルは、表向きの目的にキリスト教の拡大を掲げたために、後進のイギリスやオランダとは大分異なる植民地の建設の方法をとっていた。これまでの研究では、入植にあたっては先ず商館を建設し、それを要塞化してゆく過程が一般的とされてきたが、ポルトガル人は状況が許す限り宗教施設の建設を優先していた。論文では、このポルトガルの教会建築における空間構成の嗜好とイエズス会の新世界での布教活動を参照しながらアジアの最初期の教会建築を分析している。特に、マカオの聖パウロ学院教会やインドにおける教会建築の解明は、これまでにまったく例を見ないものであったが、本研究によって明らかにすることができたといえる。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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