学位論文要旨



No 113954
著者(漢字) 金行,信輔
著者(英字)
著者(カナ) カネユキ,シンスケ
標題(和) 江戸の都市政策と建築に関する研究
標題(洋)
報告番号 113954
報告番号 甲13954
学位授与日 1999.03.17
学位種別 課程博士
学位種類 博士(工学)
学位記番号 博工第4276号
研究科 工学系研究科
専攻 建築学専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 助教授 藤井,恵介
 東京大学 教授 鈴木,博之
 東京大学 教授 横山,正
 東京大学 教授 藤森,照信
 東京大学 助教授 伊藤,毅
内容要旨

 本論文は、江戸の大名屋敷地に関する3篇(第1〜3章)、寺社地に関する2篇(第4・5章)の論考をまとめたものである。

 まずは各章における考察の前提となる都市空間および建築についての、筆者の基底的な問題意識を述べておきたい。

 それは、江戸の都市空間・建築が、どのような社会的・制度的条件のもとに存立しているのか、そして都市社会を構成する主体(=公権力・社会集団・個人)のいかなる意識・行動論理・活動によって、そうした条件が変位し、都市空間・建築が変化を遂げていったのか、というものである。

 本論文では、こうした問題意識を前提として、都市空間・建築の形態的変化のみならず、それらをとりまく主体の活動に目を向けることによって、都市江戸の歴史の立体的な把握を試みた。

 しかし、江戸の都市社会を構成するすべての主体を、ここで分析的視野に収めることは、もとより不可能である。そこで、本論文では、大名家と寺社、および公権力に対象を限定した。また、対象とする時期は、大名屋敷(第1〜3章)については、近世初期・前期(17世紀初頭から後半にかけて)に絞ったが、寺社(第4・5章)に関しては、近世期全般を扱っている。

 なお、表題としてあげた「都市政策」とは、ここでは主として、公権力による都市空間にかかわる政策、すなわち、土地・建築政策を意味する。ただし、それは、諸主体の自律的活動に対する規制策だけではなく、そうした活動を容認するような公権力の姿勢をも含意することを確認しておきたい。

 以下では、本論文の各章の概要を、それぞれの論点に即して、簡潔にまとめることにしたい。

 第1章「初期江戸における大名家の屋敷地獲得活動」は、元和〜明暦期の大名屋敷地・所持地の展開過程を検討したものである。ここでは、その所持者・使用者である大名家が屋敷地を獲得していく場合の行動論理、獲得方法、それに対応する公権力=幕府の姿勢に着目している。そして、初発段階からの拝領屋敷地の供給不足という状況のなかで、大名家による拝領希望地の自律的な選定活動が行われており、さらにそこには脱法的な売買行為が伏在したこと、そうした獲得行動にたいして、幕府は表向は規制する構えをみせつつも、現実的には容認政策を取らざるをえなかったことを示した。また、町屋敷・抱屋敷の自律的な獲得(購入・借用)の実態を明らかにし、さらに明暦大火直後の屋敷地再編に際しての大名家側の論理を検証した。

 本章で主題とした大名屋敷・武家地については、1980年代以降、江戸遺跡の発掘調査がはじまったことを契機として、文献史学・考古学の研究者によって、さまざまな角度から研究が推進されていった。しかし、それらはいずれも近世中後期を対象としており、初期の実態については、具体的な検討がまったく及んでいない。したがって、本章はその空隙の一部を埋めたことになる。また、従来提示されている江戸武家地に関する通時的イメージは、初期の拝領地中心の固定的な武家地が、都市膨張・稠密化とともに次第に流動化し、幕府もそれを容認していく、というプロセスであるが、本章の検証結果によって、そのような見通しに対して再検討の必要性を示唆した。

 第2章「寛文期江戸における大名下屋敷拝領過程」は、第1章につづく時期、寛文期の大名屋敷地とその政策に関する問題を扱っている。従来、大名屋敷に関する概説において、明暦大火(明暦3年、1657)後に江戸近郊の下屋敷所持が一般化するという記述が、何度も繰り返されてきたが、その具体相に踏み込んだ研究は皆無であった。本章では、大火後、寛文期の下屋敷獲得を目指す大名家と幕府の折衝過程を詳しく検討し、当該期の下屋敷下賜政策を具体的に明らかにするとともに、その特質を明確にした。すなわち、そこでは、使用者である大名家による選定活動が認められ、その過程には、大名家同士の取引関係が発生しており、それを幕府が部分的に容認するという第1章と同様の実態を検証し得たのである。また同時に、そうした公権力による計画性が希薄な下賜政策が、江戸周縁部の都市形態を規定したことを指摘した。いいかえれば、本章は17世紀後半の江戸の都市膨張過程を、形態的なトレースにとどまらず、主体の行動論理を通して描き出したものである。

 第3章「初期の幕政と江戸の建築」では、寛永中期を画期とした幕府の政策転換の意味を、江戸の建築と都市空間に及ぼした影響という問題に即して論じた。大名屋敷をはじめとする近世住宅史上の最大の画期は、装飾的意匠や殿舎平面に関して、明暦大火(明暦3年、1657)に置くのが、現在、通説的理解となっている。しかし、「江戸図屏風」に見られるような壮麗な建築の存続状況が、これまでほとんど検討されておらず、大火前後で大名屋敷の様相が一変するといったイメージには再検討の余地が残されていた。

 そこで本章では、大名屋敷の御成御殿などの「儀式之営作」に注目し、諸史料を改めて検討し直すことによって、4代将軍家綱就任時(慶安4年、1651)には、寛永前期の大名屋敷の壮麗な建築は、大半が消失していた事実を明らかにした。そして、その要因として、3代将軍家光が親政期以降(寛永9年、1632〜)、大名屋敷への「式正御成」を停止し、建築規制を打ち出し始めたことを指摘した。実際、同時期以降は「儀式之営作」は新造されず、自らの屋敷の建築に対する大名の「公役」=国家に対する義務、という観念は薄れていった。こうして衰微してゆく大名屋敷の建築にかわって、江戸において都市を荘厳したのは、台徳院霊廟(寛永9(1632)年造営)をはじめとする霊廟・寺社建築にほかならず、同時に都市空間を飾る国家的ページェント=将軍御成の比重は、霊廟へと転移した。これは、換言すれば、幕府が自らの権威化の手段として、室町期からつづく武家政権の伝統行事への依拠を停止する、という政治戦略上の転換であった。こうして、家光政権は国家権力の確立にあたって、支配機構や法制度の整備とともに、都市空間において支配秩序を表象する建築の全体的秩序・社会的意味の構造的再編を図った、とした。

 第4章「江戸の寺社地」は、江戸の寺社地一般を対象として、都市空間における寺社の存在形態を寺社側の行動論理、幕府の政策を通して、包括的に論じたものである。これまで江戸寺社地についての研究は蓄積が乏しく、その基礎的な事実さえ、明らかになっていない。したがって、本章では、まず寺社境内地の種類についての制度的問題を解明するとともに、17世紀における幕府の「新地禁令」を江戸の寺社地政策との関連で解釈し直し、それが「古跡地」として制度的に境内地を公認すると同時に、寺社地面積の抑制を図る施策だった、と評価した。また、寺院の実態を個別事例に即して検討することによって、境内地が狭小な一般の中小寺院は、とくに墓所不足が深刻化しており、墓所環境の悪化→離檀→経営難という事態が危惧されていたこと、それに対して、幕府は添地や引寺、あるいは借地を容認するなど、都市に存立する寺院特有の問題を抽出することができた。さらに、境内貸地・貸家、門前町屋についても検討を行い、多くの寺社が土地経営に依存しており、そうした経営構造が、都市における寺社のあり方を規定していた事実を明確に示した。

 第5章「幕府寺社奉行所における建築認可システムの史料学的検討」は、幕府寺社奉行所が有していた江戸御府内の寺社建築の認可システムについて、史料学的観点から検討を加えたものである。ここでは、寺社の建築行為に対する公権力のコントロールが、いかなるプロセスを経て、実施されていたのか、その実態の解明を基本的な課題としている。これまで、近世幕藩制期の建築認可の問題は、畿内に関しては若干の検討が行われているものの、江戸については研究は皆無に等しく、江戸寺社地の建築行為全般が、寺社奉行所の直接の管掌のもとにあった事実さえ、明示されていなかった。そこで、本章は、建築願書や図面、建築台帳、さらに過去の認可を書証する記録など、建築認可に関わる文書の作成・授受・蓄積といった諸局面に着目するという史料学の方法に学んで、上記の課題に取り組んだ。それらの復元素材としては、従来研究で活用されたことがなかった寺社奉行所の裁許先例集、職務マニュアル的な史料を用いている。

 本章ではまず、天保期に寺社奉行所でつくられた建築台帳「諸宗作事図帳」の作成経緯をたどり、それが膨大な建築認可業務の省力化および認可手続の明確化を目的としたものだったことを明らかにした。また、従来紹介されている寛文8(1668)年の法令ではなく、それを一部補訂した寛文10(1670)年の建築規制が江戸寺社の基本的な建築法令として遵守が図られていたことを示した。そして、寺社奉行所を中心として、老中、屋敷改、烏見など、複数の監察主体によって形成されていた建築認可システムの実態を明らかにするとともに、出願免除特権を有していた一部の大寺院への統制が、特権の剥奪というかたちで、しだいに強まっていったことを検証した。

審査要旨

 本論文は、江戸時代の首都であった江戸を対象に、都市空間と建築がどのような社会的・制度的条件のもとに成立し変質していったのか、都市社会を構成する主体(公権力・社会集団・個人)の活動の実態をさぐり、その意識・論理を明らかにしようと試みている。

 本論文は5の章から構成される。第1章から第3章までは、17世紀の大名屋敷の敷地獲得方法の具体的な検討、大名屋敷の御成御殿、表門など華美にデザインされた建築の検討を中心にして、都市における大名の屋敷の在り方を検討し、第4章、第5章では、寺社地と建築を中心に扱い、その都市における敷地の在り方、建築認可システムの分析をおこなっている。

 第1章「初期江戸における大名家の屋敷地獲得活動」は、蜂須賀家(徳島藩)・毛利家(萩藩)などの、屋敷地獲得活動を分析する。これらの活動が、江戸の開発当初からの大名屋敷の面積不足に悩まされた結果起きた事象であったとし、土地獲得に際しては、各藩は独自に活動を行ない、藩同志でも売買に近いやり取りがあり、幕府をそれを黙認するという形で容認したことを明らかにした。

 第2章「寛文期江戸における大名下屋敷拝領過程」は、明歴大火(1657)以後に江戸近郊で展開される大名の屋敷地獲得について、蜂須賀家(徳島藩)の事例を中心に検討し、その実態を検討したものである。各家で自身の選定活動、藩同志の取引があり、それを幕府が部分的に容認するという過程をとった。幕府側には計画性が希薄であり、大名の自発的な行動が結果的に江戸周縁部の都市形態を決定していった、とする。

 第3章「初期の幕政と江戸の建築」は、従来明暦の大火の際に江戸の壮麗な建築が焼失し、それを契機とした倹約政策によって、江戸の景観が地味なものになっていったと論じられてきたことに対する再検討である。初期の江戸の大名藩邸に設けられた御成御殿・表門などは将軍の「式正御成」のために建設されたもので、大名側には幕府に対する公役として認識されていたらしい。式正御成は第3代将軍家光によって1632年に停止され、新たな御成御殿の造営は廃止された。また、それ以前に建設された華麗な御殿は、火災などによって明歴耐火以前に多くが消失していた。このように都市を荘厳した大名屋敷の建築は姿を消し、代わって登場したのは台徳院霊廟などの徳川家関係の霊廟建築群であって、それが社会を象徴する新たな建築となった、という。

 第4章「江戸の寺社地」は、江戸に存在した寺社地を広く対象とし、その存在形態を分析したものである。「古跡地」「新地」といった寺社地の分類概念を明らかにし、さらに江戸後期においての境内貸地・貸家・門前町家などの土地経営の実態を明らかにして、それが寺社の経営上重要な課題であったことを明らかにした。

 第5章「幕府寺社奉行所における建築認可システムの史料学的検討」は、幕府の寺社奉行所が監督していた寺社建築の認可システムについて、史料学的な視点から検討を加えている。建築願書・図書・建築台帳・過去の認可を証明する記録などに関して、建築認可に関わる文書の作成、授受、蓄積のシステムの実態を検討した。素材には、寺社奉行所の裁許先例集、職務マニュアル的名史料が用いられている。畿内では幾つかの先行研究があるのだが、具体的な史料をもちいて江戸を対象としたものは始めてである。

 本論文の特徴は、大名屋敷関係の史料を博捜することにより、個々の土地獲得の実情に深く踏込み、個別の事例を明らかにしたことにあり、それによって従来の都市江戸の全体像の再検討を迫っていることである。次に、この様な手法を使って、建築法規の検討にもおよび、建築法規の持つ意味を従来の常識とは異なった理解へと導いた。また、寺社地では土地の経営が寺社の存続に関わる重要な要件であることを、土地の実態調査から明確に導いた。以上のように、本論文は建築・都市の実態解明に従来用いられなかった史料を多く用い、その建築史研究における可能性を明示し、さらに都市江戸の理解を深化させる可能性を示唆するものと言えよう。

 よって本論文は博士(工学)の学位請求論文として合格と認められる。

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