学位論文要旨



No 113973
著者(漢字) 名和,克郎
著者(英字)
著者(カナ) ナワ,カツオ
標題(和) もう一つの〈近代〉の布置 : ネパール、ビャンスおよび周辺地域における儀礼と社会範疇に関する民族誌的研究
標題(洋)
報告番号 113973
報告番号 甲13973
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第191号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 船曳,建夫
 東京大学 教授 伊藤,亜人
 東京大学 助教授 福島,真人
 東京大学 教授 関本,照夫
 東京大学 教授 川中子,義勝
内容要旨

 本論文は、極西部ネパールのByans地方およびその周辺を故地とする人々についての、儀礼と社会範疇に焦点を当てた民族誌的研究である。だが本論文は、特定の事例の記述が、同時に、記述が依拠する様々な枠組と、人類学者の営為自体との再考でもある形で書かれている。それ故、冒頭の一文は近似的な言い方に過ぎない。

 第一部は論文全体の序として、理論的前提の呈示と、論文の記述対象の限定が行われる。ただし実際に議論されるのは、本論文がよって立つ唯一の大理論があるわけではなく、また「○○族」なる記述対象を当初から自明のものとして見いだすことは出来ないということである。

 まず1章では本論文が民族誌であることが表明される。その含意はByansおよび周辺地域に対する情報の提供にとどまらない。ここで民族誌の語を強調するのは、本論文が、ある理論によって特定の状況を記述するというより、複数の理論枠組を用いつつ、それが記述から排除してしまう側面を同時に指摘し続けることによって、観察される現象の布置をより包括的に明らかにすることを目指しているからである。そうした記述の中には様々な「近代」的な要素が必然的に混じり込むが、人類学者の「近代」の語の使用がしばしば近代とそれ以外の区別を抽象的に自明視するものであったことに鑑み、本論文では「近代」という語を用いずに、特定の事例におけるその布置を検討することを試みる。以上の一種折衷主義的とも言える態度は、本論文がなんらの前提もなしに書かれることを意味しない。序論の最後に、状況の複雑性を語るために不可避的に用いられる分節が、本論文におけるアプリオリな前提となっていることを、Byans地域で行われるdhokという所作を例に具体的に示す。

 2章では、Byansおよび周辺地域の民族範疇が分析される。Byans地域の主たる住人の母語による民族範疇はRangであるが、その根底にあるのは実体的な基準ではなく「(Rangであるところの)我々はRangである」というトートロジックな定言命法である。またRangを自称する人々は、インド・ネパールの国境地帯、チベットと南アジア双方の周縁という地理的背景を反映した様々な言語による指示範囲の異なる他称に対応し、さらには従来の想像上の民族境界を近年「人種」および「宗教」という外来の枠組により再規定する傾向がある。

 3章では、農耕、牧畜に加えヒマラヤ越えの交易を行ってきたRangの人々の生業の現状と、Rang内部の方言差、および伝統的生業を部分的に反映した多言語使用の問題が概観される。

 第二部では、Rangを自称する人々が用いる社会範疇を分析する。まず4章では、地域、村、クラン、家族と近似的に訳しうる諸範疇が、様々なずれや変則を含みながらも、人々によって自明のものとして用いられていることを明らかにする。5章ではそうしたずれの一端を、Rangの人々の起源伝承をもとに議論する。Byansの人々は、村、クランの水準での起源伝承と、地域で広く祀られる神Byans Rishiの伝承とを持っている。口頭伝承を語る場が縮小変容し、それがことさら「起源」に関するものとして語られる現状にあって、起源伝承の多層性は、矛盾として問題にされることなく、外部との関係においても機会的に用いられている。

 6章では名前と親族呼称を取り上げる。Rangの人々の多くが、外で名乗る名前の他に、Rang内部で用いられる名前を持っている。外での名乗り方にはネパール側、インド側で差異が見られるが、これは国境の両側でのエリート層の外部に対する戦略の違いに起因する。一方、Rangの人々は日常会話の中に親族呼称を織りまぜる。指示機能としては明らかに過剰なこうした呼称はRang内部における人々の関係性に応じて使い分けられ、或いは関係性自体を構築している。

 第三部では、Rangの人々の儀礼を全体として概観する。まず7章では、「伝統」と訳しうるByansi語の概念thumcharuを取り上げ、「伝統の創造」と「文化の客体化」についての先行研究の概観と、thumcharuの実質的な指示対象である諸儀礼の、通過儀礼と年中行事という形での呈示の後に、詳細に検討する。様々な内部差のためRangの儀礼それ自体を具体的に示すことは出来ない点で、thumcharu概念には虚構性がつきまとう。一方この概念はRangのみならず様々な人々の伝統について用いることが出来、しかも比較的最近に変化したしきたりもthumcharuの内実の一部を構成するという柔軟性がある。最後に、人々がthumcharuという語を「伝統」「文化」「慣習」等と訳しうる英語やネパール語、ヒンディー語の単語に翻訳することは、この概念が、その特異性にも関わらず、世界中の同種の概念と結び付いていることを示している。

 8章では儀礼自体を扱う。近年の人類学的儀礼研究の困難性を指摘した後、この地域の儀礼の過程が記述される。儀礼で用いられる物品や供物、或いは神々にはチベットと南アジア双方からの影響が見られるが、儀礼自体はRang独自のものとして記述しうる。祭祀することを意味する動詞thumoは同時に供物を投げ上げる所作のことでもあり、Byansの儀礼は、少なくとも儀礼の場において意味よりも行為を指向するものである。そしてそうした場の外部に、自らをヒンドゥー教徒だとして外部者に語る場が存在する。以上の議論は、従来ヒマラヤ地域の儀礼の動態の記述に用いられてきた「ヒンドゥー化」の概念が如何なる点で不十分かを、具体的に示すものである。

 9章では、「人々は儀礼の目的や神を信じているのか」という問いを立て、祓いの儀礼やシャーマンに対する人々の一見相反する態度の並存を指摘した上で、当初の問い自体が過度に単純であり、これまでの儀礼論が儀礼に対する人々の態度をすくいとれていないと論じる。

 第四部では儀礼の変化の問題を扱う。10章では婚姻儀礼を取り上げ、まず人々の語りに基づいてその過程を記述し、財の授受の過程と儀礼の場における人々の配置を分析する。他方、Rangの婚姻儀礼には、「婚姻戦略」の問題や、地域、村ごとの差異など、体系的な分析からはこぼれ落ちる諸側面が存在する。しかも婚姻儀礼には、電飾のように「伝統」の議論とは別個に生じる華美化、伝統の変化として明示的に語られ、時に意図的に改変される主に省力化の方向性、そして南のカースト・ヒンドゥーの婚姻儀礼の一部を模倣する「ヒンドゥー化」の動きが同時並行的に、ただしいずれも明示的に語られる婚姻儀礼の過程の大枠を壊さない形で起こっている。以上が婚姻儀礼の様々な変化の具体的な布置である。最後に、人々が婚姻儀礼を他言語の類似の言葉(例えばmarriage)への翻訳によって説明するという問題に触れる。

 11章で取り上げる葬送儀礼は、ここ数十年で根本的に変容した。ここでは、新しい形態の葬送儀礼saratの記述を提出し、次いで村人の語りに基づき、かつて行われていた葬送儀礼gwonを再構成する。gwonからsaratへの変化は、本来「ヒンドゥー化」を目指した意図的なものであった。しかし実際の儀礼は、新たな儀礼を挙行する際、細部においてgwonの先例が参照されたために、折衷的なものとなった。さらに、gwonにおける口頭伝承とヒンドゥーの聖典を等置する新たに成立した論理が、逆にチベツト仏教の経典をも類似のものと見なさせることになり、ヒンドゥー化を目指した筈のsaratに時にチベツト仏教の僧が呼ばれる事態すら生じている。最後に、筆者の滞在中に行われた縮小された形態のgwonの式次第をたどり、gwonもまた類似の変容過程にあることを指摘する。

 12章は、儀礼の変化の背景をなすこの地域の歴史を簡単にまとめ、今世紀中葉の国境線の明確化によって生じた土地をめぐる争いと、ネパール領Byansの人々の今世紀前半における英領インド側での学校教育へのアクセス可能性、およびその帰結が指摘される。

 第五部では、儀礼と社会範疇の現状を示す二つの問題を取り上げる。13章では、ネパール領のRangの人々が1995年にはじめて行ったShivjiの社の落成式を検討する。この儀礼は、ヒンドゥー大伝統の神に対して、事前にプラーマンに助言を求めて行われたにも関わらず、Rangの儀礼の様々な先例が儀礼の場で繰り返され、しかもそのことの成否が人々の間で議論になったのである。

 14章では、Rangの一部の儀礼の供物を特定の社会範疇の成員以外に渡さないことを示すbacchoの概念から再び民族境界の問題を検討する。Rang内部では相互的に働くこうした規制は、外部者にとっては民族境界を顕在化させるものとして機能する。村に住むヒンドゥー低カーストの人々がbacchoの供物を食べるにもかかわらずRangではない存在であり続けるのに対し、近年外部から流入した定住者は、bacchoの禁忌に働きかけることでRangになろうとする。ただし、bacchoの規制を解く儀礼は既にbacchoでない人間が行わなければならず、しかもbacchoの規制が解けたからといって十全にRangになったとは必ずしも言えない。そこにあるのは常に未完の過程である。

 本論文が明らかにしたのは、我々一人一人がその中に位置を占めている複雑な関係性の内部にあり、しかしある任意の部分だけを切り出せば異なったもの、もう一つの〈近代〉の布置として見えてしまう一群の事象であった。ごく短い15章は、この作業の含意を再論したものである。

審査要旨

 名和克郎君の論文「もう一つの〈近代〉の布置」は、極西部ネパールの、Byans地方及びその周辺を故地とする人々の、儀礼と社会範疇に焦点を当てた民族誌的研究である。調査は1993年3月から1995年3月の間に、合計14ケ月間行われた。

 本論文の学的貢献の一端は、これまでに人類学的調査の行われたことのない、この地域の民族誌的資料を、長期間のフィールドワークによって提出したことにある。そこにふくまれた、未だ正書法の無いビャンシ語の語彙資料だけでも、貴重なものであり、また、Rangと呼ばれる人々の社会範疇を論じることで彼らの「民族論的状況」を描き出したことも、若年の著者が、既にその分野での有数の論客となっているエスニシティ研究の、新たな成果として評価されるものである。また、精細なる資料に基づく儀礼分析は、これまでの儀礼論を押し進め、儀礼の変化と創造の現場を多様な方向性が織りなす布置として示し得た。

 しかし、本論文が持つ真の価値は、その民族誌が、人類学者の民族誌記述の諸問題についての批判的議論をその内に取り込んだ、二重の構造と内容を持つところにある。ここ二十年ほどの、人類学における民族誌の記述をめぐる問題は、人類学の学的根拠をその深いところから揺るがす根底的なものであったが、それは議論による決着、というかたちで終焉する種類のものではなかった。むしろ、たとえば民族誌を書く者と書かれる者との関係、書かれることによってもたらされる排除、といった問題群は、人類学の内部に抱え込まれたまま、その学的営為は続けられている。そのとき、著者が取った、民族誌を書きながら民族誌自体がはらむ問題を細部において摘出していく、という戦略は、本来、民族誌的記述が備えるべき明晰さと堅牢さを失わせかねない、危険をはらむものであった。しかし、著者は自らが検討の爼上にのせた批判的議論の数々によって民族誌自体がその内から取り崩されそうな地点でよく均衡を保ち、それら批判の内容をていねいに腑分けし、あるいは論破し、あるいはさらに発展させ、資料の実質を深めることに成功した。

 その戦略を取る中での、たとえば、「近代」という概念とその語を用いることに自制的でありつつ、Rangの人々のいわゆる「近代化」を描く、といった著者の思弁と立論は、読む者にとって真にスリリングなものとなった。そのとき、著者の議論は、人類学者が自分の調査するミクロの世界を、「近代国家」といったマクロなシステムと無理に接合させるのではなく、かといって、その困難にたじろいで、元の閉じたコミュニティ研究に舞い戻るのでもない。著者は、「近代」という大きな理論的枠組みを当てはめたとき、切り捨てられようとする生活の実質を、綿密な描写で繰り返しすくい取っていくことにより、ネパール、Byans地方における、近代というもののあり方、「布置」を能う限り正確に提示しようとするのだ。「伝統」、「ヒンドゥー化」といった概念、理論枠組みに対しても同様の方法が取られている。

 また、儀礼を論ずる場合でも、表面的には従来の人類学に一般的な、客観的叙述と分析という構成を取り、そこでの議論は、さまざまな儀礼的行為の記述の精密さと、分析の手口の鮮やかさに正当性の根拠が求められているように見える。実際、それらの点でも著者の議論は出色な結果となっている。しかし著者が意図するのはそうした資料分析から、固定された、あり得るはずの社会像を引き出してくることではない。むしろ現在の儀礼の実行が持つところの、さまざまな意図と行為が生み出し、それが人々の語りとそれぞれの社会的位置によって再び社会関係に投影されていく、現在のRangの人々の変化しつつある現実を、どこまでも近似的に示すことである。本論文は、前衛の身ぶりをまとうことなく、時に「折衷的」であると自称しながら、現在の文化人類学の最前線に位置し、紛れもなく斯学の重要な課題に対してもっとも鋭い議論を提出している。

 以上により、本論文提出者は文化人類学の研究に対して重要な貢献をなしたと評価される。従って、審査員一同は、本論文提出者は博士(学術)の学位を授与されるに充分な資格があるものと認める。

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