本論文は、極西部ネパールのByans地方およびその周辺を故地とする人々についての、儀礼と社会範疇に焦点を当てた民族誌的研究である。だが本論文は、特定の事例の記述が、同時に、記述が依拠する様々な枠組と、人類学者の営為自体との再考でもある形で書かれている。それ故、冒頭の一文は近似的な言い方に過ぎない。 第一部は論文全体の序として、理論的前提の呈示と、論文の記述対象の限定が行われる。ただし実際に議論されるのは、本論文がよって立つ唯一の大理論があるわけではなく、また「○○族」なる記述対象を当初から自明のものとして見いだすことは出来ないということである。 まず1章では本論文が民族誌であることが表明される。その含意はByansおよび周辺地域に対する情報の提供にとどまらない。ここで民族誌の語を強調するのは、本論文が、ある理論によって特定の状況を記述するというより、複数の理論枠組を用いつつ、それが記述から排除してしまう側面を同時に指摘し続けることによって、観察される現象の布置をより包括的に明らかにすることを目指しているからである。そうした記述の中には様々な「近代」的な要素が必然的に混じり込むが、人類学者の「近代」の語の使用がしばしば近代とそれ以外の区別を抽象的に自明視するものであったことに鑑み、本論文では「近代」という語を用いずに、特定の事例におけるその布置を検討することを試みる。以上の一種折衷主義的とも言える態度は、本論文がなんらの前提もなしに書かれることを意味しない。序論の最後に、状況の複雑性を語るために不可避的に用いられる分節が、本論文におけるアプリオリな前提となっていることを、Byans地域で行われるdhokという所作を例に具体的に示す。 2章では、Byansおよび周辺地域の民族範疇が分析される。Byans地域の主たる住人の母語による民族範疇はRangであるが、その根底にあるのは実体的な基準ではなく「(Rangであるところの)我々はRangである」というトートロジックな定言命法である。またRangを自称する人々は、インド・ネパールの国境地帯、チベットと南アジア双方の周縁という地理的背景を反映した様々な言語による指示範囲の異なる他称に対応し、さらには従来の想像上の民族境界を近年「人種」および「宗教」という外来の枠組により再規定する傾向がある。 3章では、農耕、牧畜に加えヒマラヤ越えの交易を行ってきたRangの人々の生業の現状と、Rang内部の方言差、および伝統的生業を部分的に反映した多言語使用の問題が概観される。 第二部では、Rangを自称する人々が用いる社会範疇を分析する。まず4章では、地域、村、クラン、家族と近似的に訳しうる諸範疇が、様々なずれや変則を含みながらも、人々によって自明のものとして用いられていることを明らかにする。5章ではそうしたずれの一端を、Rangの人々の起源伝承をもとに議論する。Byansの人々は、村、クランの水準での起源伝承と、地域で広く祀られる神Byans Rishiの伝承とを持っている。口頭伝承を語る場が縮小変容し、それがことさら「起源」に関するものとして語られる現状にあって、起源伝承の多層性は、矛盾として問題にされることなく、外部との関係においても機会的に用いられている。 6章では名前と親族呼称を取り上げる。Rangの人々の多くが、外で名乗る名前の他に、Rang内部で用いられる名前を持っている。外での名乗り方にはネパール側、インド側で差異が見られるが、これは国境の両側でのエリート層の外部に対する戦略の違いに起因する。一方、Rangの人々は日常会話の中に親族呼称を織りまぜる。指示機能としては明らかに過剰なこうした呼称はRang内部における人々の関係性に応じて使い分けられ、或いは関係性自体を構築している。 第三部では、Rangの人々の儀礼を全体として概観する。まず7章では、「伝統」と訳しうるByansi語の概念thumcharuを取り上げ、「伝統の創造」と「文化の客体化」についての先行研究の概観と、thumcharuの実質的な指示対象である諸儀礼の、通過儀礼と年中行事という形での呈示の後に、詳細に検討する。様々な内部差のためRangの儀礼それ自体を具体的に示すことは出来ない点で、thumcharu概念には虚構性がつきまとう。一方この概念はRangのみならず様々な人々の伝統について用いることが出来、しかも比較的最近に変化したしきたりもthumcharuの内実の一部を構成するという柔軟性がある。最後に、人々がthumcharuという語を「伝統」「文化」「慣習」等と訳しうる英語やネパール語、ヒンディー語の単語に翻訳することは、この概念が、その特異性にも関わらず、世界中の同種の概念と結び付いていることを示している。 8章では儀礼自体を扱う。近年の人類学的儀礼研究の困難性を指摘した後、この地域の儀礼の過程が記述される。儀礼で用いられる物品や供物、或いは神々にはチベットと南アジア双方からの影響が見られるが、儀礼自体はRang独自のものとして記述しうる。祭祀することを意味する動詞thumoは同時に供物を投げ上げる所作のことでもあり、Byansの儀礼は、少なくとも儀礼の場において意味よりも行為を指向するものである。そしてそうした場の外部に、自らをヒンドゥー教徒だとして外部者に語る場が存在する。以上の議論は、従来ヒマラヤ地域の儀礼の動態の記述に用いられてきた「ヒンドゥー化」の概念が如何なる点で不十分かを、具体的に示すものである。 9章では、「人々は儀礼の目的や神を信じているのか」という問いを立て、祓いの儀礼やシャーマンに対する人々の一見相反する態度の並存を指摘した上で、当初の問い自体が過度に単純であり、これまでの儀礼論が儀礼に対する人々の態度をすくいとれていないと論じる。 第四部では儀礼の変化の問題を扱う。10章では婚姻儀礼を取り上げ、まず人々の語りに基づいてその過程を記述し、財の授受の過程と儀礼の場における人々の配置を分析する。他方、Rangの婚姻儀礼には、「婚姻戦略」の問題や、地域、村ごとの差異など、体系的な分析からはこぼれ落ちる諸側面が存在する。しかも婚姻儀礼には、電飾のように「伝統」の議論とは別個に生じる華美化、伝統の変化として明示的に語られ、時に意図的に改変される主に省力化の方向性、そして南のカースト・ヒンドゥーの婚姻儀礼の一部を模倣する「ヒンドゥー化」の動きが同時並行的に、ただしいずれも明示的に語られる婚姻儀礼の過程の大枠を壊さない形で起こっている。以上が婚姻儀礼の様々な変化の具体的な布置である。最後に、人々が婚姻儀礼を他言語の類似の言葉(例えばmarriage)への翻訳によって説明するという問題に触れる。 11章で取り上げる葬送儀礼は、ここ数十年で根本的に変容した。ここでは、新しい形態の葬送儀礼saratの記述を提出し、次いで村人の語りに基づき、かつて行われていた葬送儀礼gwonを再構成する。gwonからsaratへの変化は、本来「ヒンドゥー化」を目指した意図的なものであった。しかし実際の儀礼は、新たな儀礼を挙行する際、細部においてgwonの先例が参照されたために、折衷的なものとなった。さらに、gwonにおける口頭伝承とヒンドゥーの聖典を等置する新たに成立した論理が、逆にチベツト仏教の経典をも類似のものと見なさせることになり、ヒンドゥー化を目指した筈のsaratに時にチベツト仏教の僧が呼ばれる事態すら生じている。最後に、筆者の滞在中に行われた縮小された形態のgwonの式次第をたどり、gwonもまた類似の変容過程にあることを指摘する。 12章は、儀礼の変化の背景をなすこの地域の歴史を簡単にまとめ、今世紀中葉の国境線の明確化によって生じた土地をめぐる争いと、ネパール領Byansの人々の今世紀前半における英領インド側での学校教育へのアクセス可能性、およびその帰結が指摘される。 第五部では、儀礼と社会範疇の現状を示す二つの問題を取り上げる。13章では、ネパール領のRangの人々が1995年にはじめて行ったShivjiの社の落成式を検討する。この儀礼は、ヒンドゥー大伝統の神に対して、事前にプラーマンに助言を求めて行われたにも関わらず、Rangの儀礼の様々な先例が儀礼の場で繰り返され、しかもそのことの成否が人々の間で議論になったのである。 14章では、Rangの一部の儀礼の供物を特定の社会範疇の成員以外に渡さないことを示すbacchoの概念から再び民族境界の問題を検討する。Rang内部では相互的に働くこうした規制は、外部者にとっては民族境界を顕在化させるものとして機能する。村に住むヒンドゥー低カーストの人々がbacchoの供物を食べるにもかかわらずRangではない存在であり続けるのに対し、近年外部から流入した定住者は、bacchoの禁忌に働きかけることでRangになろうとする。ただし、bacchoの規制を解く儀礼は既にbacchoでない人間が行わなければならず、しかもbacchoの規制が解けたからといって十全にRangになったとは必ずしも言えない。そこにあるのは常に未完の過程である。 本論文が明らかにしたのは、我々一人一人がその中に位置を占めている複雑な関係性の内部にあり、しかしある任意の部分だけを切り出せば異なったもの、もう一つの〈近代〉の布置として見えてしまう一群の事象であった。ごく短い15章は、この作業の含意を再論したものである。 |