問題の所在 東南アジア海域や中国大陸の南岸などに船を住居とし、主として漁業を営みながら生活している人々が分布しているのはよく知られていることである。これらの人々を指す言葉としては「漂海民」、「漂泊(漁)民」、「海洋民」、「水上居民」、「船上生活漁民」、「船世帯(漁)民」、「水上生活漁民」などが用いられてきた(英語ではSea Nomads、Sea Gypsiesなどと表現されている)。 日本列島においても、昭和の初め頃までは「家船(えぶね)」と呼ばれる、船を住居とし一年中海で生活する漁民が九州や瀬戸内海に少なからず存在していた。家船の起源については定かではないが、彼らは少なくとも倭寇の時代以降は盛んに活動をし、江戸時代に入ると、藩(特に大村藩の場合)からの漁業特許権などの積極的な保護政策も受け、独自の安定した世界を築いていた。しかし、農家との物々交換に(相互)依存していた彼らは、市場経済システムの発達や明治近代国家以後の様々な政策等の影響を直接間接に受けると、その生活の基盤が揺らぎ始め、やがては皆「陸地定着」することになった。陸に「上がって」からは他の漁民と区別がつかなくなり、近年の研究ではもはや昔の面影は見られなくなったとされている。 しかしながら、筆者の調査によると、現在(1998年2月)広島県豊田郡豊浜町豊島には310隻の漁船が主に県外出漁に携わっており、200隻以上の漁民がいまだに、夫婦で一年中船上で過ごす「船世帯」生活を送っている。彼らは漁法の点でも先祖伝来のものといわれる一本釣り・延縄漁を現在も行い続けている。以前の家船と異なる点はといえば、ほとんどの船がFRP(強化プラスチック)船に変わっており、その行動範囲も格段に広くなったことである。船には発電器・テレビ・カラオケ・ビデオ・冷蔵庫・プロパンガスなどはもちろん、魚群探知機・無線機・レーダー・GPS(衛星ナビゲーションシステム)・携帯電話などの先端科学装備までもが具備されており、船室には普通の家と同様に畳(2〜5畳)も敷かれている。さらに興味深い点は、豊島の漁民の船世帯生活が、以前の家船の「残存」というよりは、むしろ近代以降「新しく形成」されてきたという事実である。 一方でかつての家船がすべて「陸地定着」し、伝統的な生活様式を放棄したにもかかわらず、他方でこのように豊島の船世帯漁民が近代以降新しく「出現」し、現在もなおその多くが伝来の漁法や船世帯生活を続けていることを可能とした背景・条件は果たして何であろうか。「近代的家船」の出現の歴史的過程と現代社会における彼らの適応戦略を実証的に検討することで、現代に生きる豊島の船世帯漁民の存在条件を明らかにするのが本論文の目的である。 本論文の構成 本論文全体は2部構成となっている。第1部では「近代的家船」の出現に関して歴史的アプローチを取り、第2部では現代に生きる海の民-豊島漁民の現代社会への適応戦略を検討・分析する。つまり、第1部で豊島漁民の歴史・社会的背景を確認したのち、第2部において彼らの現代の生活戦略の諸相を具体的に検討する。 第1章では、従来の家船の歴史を陸(陸上民)との政治・経済的交換関係から再構成する。そして彼らが近代国家の形成と共に急激に「陸地定着」させられていくプロセスを明らかにするとともに、第2章以降での豊島漁民の歴史と現在の生活を考察するための基礎作業をする。 第2章では、今日もなお船世帯生活を続けている漁民が多数存在することになった歴史的背景を検討することで、これまで「陸上定着」・「解体」したと語られてきた家船(船世帯民)が、実は近代以後もこれまでとは別の形態で発生してきたことを明らかにする。 第3章では、日本帝国主義期の遠洋漁業政策の一環として行われていた豊島漁民による朝鮮海出漁を具体的に検討する。そして、終戦後再び狭い地元漁場に戻された豊島漁民がどのように新たな漁場開拓に挑んで行ったのかを考察する。 第4章では、豊島(漁民)について簡略に概観した上で、彼らの現代における「船世帯生活」のあり方を具体的に検討する。そこでは、豊島漁民の船世帯生活が決して生活のために仕方なく続けられているものでなく、むしろ自らの選択によるものであり、彼らが現在においても船世帯生活を積極的に活用していることが明らかにされる。 第5章では、伝統的漁法や生活形態を維持しながらも、他方で魚群探知機・無線機・レーダー・衛星ナビゲーションシステムなどの先端テクノロジーを積極的に導入・活用している今日の豊島漁民の漁撈活動のあり様を考察する。具体的には、道具や身体を媒介とした彼らの伝統的「わざ」や、その習得過程、さらに先端テクノロジーの導入・利用のプロセスなどを検討する。 結論では、第5章までの考察から得られた成果を総括したのち、これからの課題についても述べる。 船世帯民と陸 海-船で生まれ、海-船で暮らし、また海-船で死ぬ。陸地にしっかりとした屋根と壁のある住処(すみか)を設けないことを「不安」に感じてしまう我々陸地民にとって、このように海上の船だけに暮らすことは、ある意味で「不自然」とさえ思われることであり、そのような生活を営んできた船世帯民はまさに「不思議」な存在として感じられる。陸地民に比べれば極めて小数であり、特有の生活様式や特異な文化を持っている彼らは、時には陸地から差別の感情を、時には異人としての畏敬心さえ持たれてきた。また研究者の間では、一定の場所に縛られず「自由」に移動する彼らの姿はしばしば「漂泊の民」としてある種のロマンチシズムとともに表現されてきた。もちろんこれら全ては陸側の思考である。 一方、彼ら船世帯民は、自分自身と陸地との関係をどのように捉えていたのだろうか。このような彼ら自身の認識についてはその起源伝承からもある程度伺うことができる。伝承の中ではしばしば、彼らは「陸地の高貴な身分者の後裔」であり、陸地は「ある事情で失われてしまった故郷」であると語られる。このような陸地に対する意識は、彼らが生存のためには陸地との交換に依存せざるを得ないという状況から生じてきたものである。つまり交換の際、彼らは物の交換と同時に政治・経済・文化のあらゆる局面において陸地から圧力を受けることとなるが、伝承に表れた彼らの意識はこのような圧力に対する反発であるといえよう。しかし、意識の面においては自らの「根拠」を陸地に求めているとはいうものの、実際には彼らは常に陸地とある程度の距離を保ちながら独自の世界を築いてきたのである。このような優勢な陸地権力に対する付かず離れず的な(交換)関係は世界の船世帯民に一般的に見られるもので、倭寇に見る「以船為家」、朝鮮半島の頭無岳・鮑作干、藩政時代における九州・瀬戸内海の家船、また東南アジアのモーケン、バジャウ、そして中国の蜑民も同様の姿を見せている。 ところが、近代国家の形成や市場経済システムの拡大にともなって船世帯民は急激に「陸地定着」してゆくことになる。これもまた世界の船世帯民に普遍的に見られる過程であるが、それを考えると、今日においてもなお船世帯生活を続けている豊島漁民は極めて例外的な存在といえるかも知れない。しかし他方で、バジャウ(スルー諸島)などにおいても一度陸上がりした人々がまた海に「逆戻り」する場合もしばしばあったことや、豊島の船世帯民が実は近代以後新しく形成されてきたことも事実である。それに対して、船世帯民の「陸地定着」をそれまでの「不安定な仮の生活形態からの脱出」とみなしがちな研究がこれまでしばしば見受けられるが、このような事例を考えれば、船住居という生活様式をネガティヴにしか捉えていないという点で、いささか陸地民中心的に過ぎる考え方であるといえよう。 現代に生きる海の民 陸地との交渉の中で存在し続けてきた日本の家船が近代国家の形成・市場経済システムの拡大・技術の革新などにより急激に「陸地定着」することになったこと、またそのような「陸地定着」が世界中の船世帯民に共通した歴史的過程でもあったことから考えると、本論文で考察してきた豊島漁民の存在は奇妙にさえ思われるかもしれない。このような海の民の存在は、彼らが他の船世帯民たちが歩んでいった「近代化=陸地定着」とは違った近代化のプロセスを経験してきたことを物語っているのである。このような経験の違いは、それぞれの社会における近代化政策やその展開過程における差異のためというより、むしろ各集団の選択における差異によるところが大きいと考えられる。それぞれが取った選択の違いにより、日本の漁民が国家レベルにおいてはほぼ同一の近代化過程を経てきたにも関わらず、一方で家船が「定着」し、他方で豊島の漁民がなお活発に活動を行うこととなった。豊島の漁民が今日もなお海(船)に生きているのは、自己を取り巻く政治・経済などの様々な状況に対して行った主体的な選択の結果であり、それは時代を生きる「戦略(ストラテジー)」なのである。 |