学位論文要旨



No 113982
著者(漢字) 上原,泉
著者(英字)
著者(カナ) ウエハラ,イズミ
標題(和) 幼児期における記憶メカニズムとその発達 : 再認、エピソード記憶、言語発達、視覚的運動学習からの検討
標題(洋)
報告番号 113982
報告番号 甲13982
学位授与日 1999.03.29
学位種別 課程博士
学位種類 博士(学術)
学位記番号 博総合第200号
研究科 総合文化研究科 総合文化研究科
専攻
論文審査委員 主査: 東京大学 教授 長谷川,壽一
 東京大学 教授 繁桝,算男
 東京大学 助教授 丹野,義彦
 東京大学 助教授 酒井,邦嘉
 東京大学 助教授 里見,大作
内容要旨

 我々は,なぜ,4歳以前の乳幼児期のことをなかなか自覚的に思い出すことができないのであろうか.このように乳幼児期の出来事を思い出せないことを「乳幼児健忘(infantile amnesia)」という(Freud,1901;Schachtel,1947).この乳幼児健忘の原因を解明するため,本研究では「4歳前後を境に記憶に関連した認知機能のどのような側面が変化するのか」に焦点をあて,調査を行った.特に,「自覚的に報告できない」という点に注目し,意識的な記憶の発達的変化をとらえることに重点をおいた.さらに,意識的な記憶に関係すると思われる他の認知能力の発達過程にも注目して,実験と観察を行った.

 本研究では,まず,記憶の発達的変化をとらえるため,近年の記憶研究で広く認められてきた,顕在記憶(報告可能な意識的な記憶)/潜在記憶(自覚的に報告できなくても行動に現れるような記憶)の区分を利用し,顕在記憶が4歳前後までは十分に発達していないことが乳幼児健忘の原因ではないかという仮説の下に実験を行った.ただし,単純に潜在記憶と顕在記憶の発達がずれるという観点からだけでは,乳幼児健忘が生じる具体的なメカニズムに関しては十分に説明することができないと思われた.そこで,より具体的なレベルで解明するために,本研究では,乳幼児健忘で自覚的に思い出すことのできない「過去の個人的な出来事の記憶」,すなわち,エピソード記憶(本研究での定義は「"自分自身が体験し"(Pemer & Ruffman,1995)かつ"ある特定の過去になされた"という認識を伴った,言語で報告できる,出来事の記憶」)の発達過程を詳細に調べることにした.

 第2章では,再認(「以前に見たか」という質問に対して,意識的に以前に見覚えがあるか否かを判断すること)を指標として調査と実験を行った.最初に,縦断的に7人の幼児を対象に,2種類の再認課題(強制二肢選択課題,はい/いいえ型課題)を2,3ヶ月に1回の割合で実施していった.その結果,(1)成人と同じように質問を理解して,再認課題に正答できるようになるのは,課題の種類に関係なく,3,4歳頃であること,それ以前の段階では,質問にはそぐわない反応が多く,再認という行動そのものが理解されていないことが示された(調査1).次に,絵刺激を用いて4歳児(3歳半以上4歳半以下)を対象に再認課題と選好課題(旧刺激(一度見た刺激)と新刺激(一度も見たことがない刺激)を対提示して好きな方を選択させる課題)を実施した結果,(2)4歳児において,再認課題ができない場合は選好課題において新刺激を好むが,再認課題ができる場合には旧刺激を好む傾向がみられた(実験1-1).さらに再認ができず新刺激を選択的に好んだ子どもを追跡したところ(実験1-2),再認能力の成立に伴って,新刺激から旧刺激を好む傾向へ移行する可能性が示された(図1参照).

 第3章では,エピソード報告(過去の個人的な出来事の報告)を指標として調査と実験を行った.調査2では,調査1と同じ被験児に対して2,3ヶ月に1回の割合でインタビューを実施し,毎回,インタビュー内で記録される言語報告と,母親に提出してもらう言語と記憶に関するチェックリストに書かれた具体的な報告事例を判断材料として,エピソード報告が開始される時期を特定した.その結果,(3)再認が可能になる時期(第2章の調査1で特定された)よりも,過去のエピソードを語り始める時期の方が早く(図2参照),特に初期の頃(2,3歳代)のエピソード報告にはしばしば,年長児や成人ではみられないような想像などに基づく事実誤認が含まれており,成人や年長児でみられる「エピソード記憶に基づいてなされるエピソード報告」とは明らかに異なることが示された.次に,実験3では,運動会の競技を体験をした後で,実験者が意図的に偽りの出来事の情報を,直接語りかける形で,4歳児と5歳児(4歳半以上5歳半未満)に吹き込んだ結果,(4)5歳児では確認されなかったが,4歳児では,実験者から聞いた偽りの出来事の方を自分自身が運動会で実際に体験した出来事として報告するケースが確認され,4歳以下では完全には,エピソード記憶が成立していないことが示された.ここで注目すべき点は,従来,区別されずに一体のものとしてみなされてきた「エピソード報告」と「エピソード記憶に基づいた報告」の発達には時間的なずれがあるということである.4歳以下では,エピソード記憶が十分に成立していなくても,過去のエピソードを語ることは可能なのである.発達初期のエピソード報告はエピソード記憶というよりは,むしろ言語能力に依存している可能性が高い.縦断的な調査により,初語の開始とエピソード報告の対応を調べると,初語を話す時期が早いほど,エピソード報告が開始される時期も早い傾向が確認された.

 以上,再認,エピソード報告,エピソード記憶の発達過程において,4歳前後に大きな変化がみられることが示された.これらの発達過程において共通する重要な能力は「記憶の意識化」である.自分が記憶しているか否かを意識し,その内容を言語化するためには,少なくとも,"自分の"内面を意識し言語化するという能力が前提となる.そこで,第4章では,この能力を調べるため,幼児が内面を表す言葉をいつ頃から理解しはじめるのかを検討した.まず,調査3では,調査2と同様に,縦断的に2,3ヶ月に1回の割合で母子インタビューを実施し,インタビュー内で記録される言語報告と母親に提出してもらうチェックリストを参考に,「知る」「覚える」「忘れる」の3つの言葉が,それぞれ自発的に発話され始める時期を特定した.その結果,(5)「覚える」「忘れる」といった,記憶を意識していなければ使用できないと思われる,内面を表現する言葉が自発的に発話されるようになるのは,再認が可能になる時期よりも少し後の,ほぼ4歳から4歳半頃であることが明らかになった(図2参照).次に,幼児に,顔の表情が書かれた絵カードを提示し,「怖い人」(幼児にとって怖い人:怒りの表情を示す人)と「怖がる人」(恐怖の表情を示す人)を表現するカードを選択させる課題を,横断的な実験と縦断的な実験により実施した(実験4-1,4-2).その結果,(6)「怖い人」も「怖がる人」もほとんどの5歳児が正しく選択したが,4歳以下では,「怖い人」は5歳児と同様に多くの子どもが正しく判断できたにもかかわらず,「怖がる人」を正しく判断できない子どもが多くみられた(図3参照).すなわち,4歳以下では「怖い」という言葉を「他者一般の内面を表す言葉」として完全には理解していないことが示された.これらの調査や実験を通じて,記憶に関連した動詞や感情語の理解においても,4歳前後が重要な転換期である可能性が示唆された.

 他の認知能力の調査として,第5章では,手続き的な学習に焦点をあて,その発達過程について検討した.手続き的な学習は,一般に無自覚的な過程が優位であるとみなされているが,学習の仕方に注目した場合,自分の学習方法を意識するか否かが行動パターンに差を生み出す可能性も考えられた.そこで,学習の仕方の違いをみるために,視覚運動協応学習課題(ボタンを押す順番を覚える課題)を利用し,片方の手で課題を学習した後に,もう片方の手でどれくらいその課題を遂行できるのかを4歳児,5歳児と成人を対象に調べ比較した(実験5).その結果,(7)5歳児と成人の右利きの被験者では右手から左手,左手から右手へのいずれの方向においても学習がほぼ完全に転移したが,右利きの4歳児では左手から右手へは学習がほぼ完全に転移したものの右手から左手へはほとんど学習が転移しなかった(図4参照).これは,4歳から5歳にかけて学習の仕方が変化する可能性を示している.このように,顕在記憶を中心に,それに関連する言語発達,さらには手続き的な学習において3歳半から5歳頃が重要な時期である可能性が示された.

 以上のような調査や実験を通して示された,4歳前後の認知発達上の変化が,乳幼児健忘のメカニズムに関与している可能性が高い.しかし,乳幼児健忘が生じるメカニズムをより直接的にとらえるには,発達の初期(1,2歳代)から長期に渡り同じ子どもを追跡する調査が不可欠であろう.今後,エピソード報告開始時期,再認開始時期,エピソード記憶成立時期を各々の子どもにおいて特定し,これらの時期が,後に想起できるか否かにとってどれくらい重要であるかを検討していきたい.

 本研究で得られた知見に基づくと,4歳以前の乳幼児期の記憶過程は次のようなものとしてとらえることができるだろう.「乳幼児期は"記憶"を意識化しないため,現実,非現実を問わず新しい情報を次から次へと受け入れることが可能である.これらの情報は,主に潜在的記憶として処理され,それらは連想記憶と言語能力を頼りに報告される.経験を意識的に区別して想起できないため,乳幼児の過去についての報告には,非現実の話,関連のない出来事,伝聞情報がよく含まれる」.今後,この仮説に基づき,実証的な研究として発展させていきたい.

図1 4歳における再認と選好の関係●は各被験児の反応を表わす.横軸は,選好課題で新刺激を選択した割合を示し,縦軸は再認課題で正しく反応した割合を示す.新刺激選好率と再認正解率の間に,有意な負の個人間相関関係がみられた(R=-0.7,p<.0001).●は各被験児の反応を表わす.横軸は,選好課題で新刺激を選択した割合を示し,縦軸は再認課頼で正しく反応した割合を示す.→の左側の●は実験1-1の時点での反応を表し,→の右側は実験1-2(再認が可能になった)時点での反応を表す.実験1-2での新刺激選好率は,実験1-1の時点よりも有意に低かった.(直接確率法,Combined direct probability p<<.001)図2エピソード報告開始時期,再認開始時期,「知る」「覚える」「忘れる」発話時期の関係図3"怖い人""「怖い」と言う人"の表情判断の3年齢群における正答者の比率図4 4歳,5歳,成人における段階ごとのボタン押し課題での平均エラー数(a)は右手-右手-左手の順に学習した群,(b)は左手-左手-右手の順で学習した群の成績を示している.それぞれの群において,各年齢につき,段階ごとの被験者間での平均エラー数をもとめて示した.
審査要旨

 本論文は、4歳児期を境に、幼児の記憶およびそれに関連した認知機能が、どのように変化をするかという発達過程の解明を目的とし、さらにその先の問題として、なぜ人間が4歳以前の乳幼児期の出来事を思い出せないのか、すなわち「乳幼児健忘」がどうして生じるのかという機構の究明を目指すものである。

 近年の実験心理学や神経心理学では、人の記憶について、意識的な想起を伴い報告可能な顕在記憶と意識的な想起は伴わないが行動に現れる潜在記憶の二区分が用いられ、記憶発達の研究では顕在記憶が潜在記憶よりも遅れて発達することが示唆されている。しかし、具体的にどのような種類の潜在記憶や顕在記憶が、いつ頃からどのように発達するのかに関する実証的な研究は、未だに少ない。そこで、本論文では顕在記憶の中でも、とくに自覚的な記憶能力であるエピソード記憶に焦点をあて、その成立の機序の解明が目標とされている。さらにエピソード記憶に関連した他の認知能力の発達過程を詳細に記述することにより、幼児期における意識化という一般問題も研究の射程に加えられている。本論文のこのような研究アプローチは、グランドセオリーを切り拓くタイプのものではないが、未解明の現象を正確に記述しようと地道な試みである。記憶の発達を詳細に追った先行研究は非常に少ないので、本論文の研究意義は大きいと評価できる。

 エピソード記憶を厳格に定義すると「"ある特定の過去になされた"、"自分自身が体験した"出来事の記憶」ということになる。例えば、「デパートに行ったとき、おもちゃを買った」というような記憶である。しかし、幼児にとっては、二つの事象(デパートに行ったこととおもちゃを買ったこと)を組み合わせ、過去のある時点を特定することは必ずしも容易なことではない。そこで、第2章では、まずエピソード記憶の要件のうち"自分自身が体験した出来事かどうか"の側面に着目し、その成立過程を明らかにした。すなわち、エピソード記憶のもっとも単純な指標としての再認能力(過去に見覚えがあるか否かの判断能力)の成立時期とその時期の行動特性が検討された。7人の幼児を対象とした縦断研究の結果、再認課題(5〜10分前に見た絵の確認課題)に正当できるようになるのは、3,4歳頃であることが明らかにされ、それ以前では、質問にそぐわない反応が多く、再認という課題そのものが理解されていないことが示された。同時に、一貫して新刺激を見たことがあると主張する誤答パタンも見いだされた。ついで、4歳児を対象として、再認課題と選好課題を併せて実施した結果、再認能力の成立前は新刺激を選好するが、成立後は旧刺激を好む傾向へと移行する事実が分かった。すなわち、再認の成立を境に、幼児の選好バイアスの方向が新刺激から旧刺激へと変化することが示唆されたが、これはこれまでにない興味深い発見である。

 第3章では、本研究の中心課題であるエピソード記憶の成立過程が調査された。従来の研究では、過去の出来事に関する報告が、その出来事の真偽が問われることなくエピソード記憶として扱われてきたが、本論文では、過去の出来事に関する報告を「エピソード報告」と呼び、この報告が実際に"自分自身が体験したものかどうか"について入念に検証された。再認課題の縦断研究と同じ被験児では、エピソード報告それ自体は、再認が可能になる以前の2〜3歳の時期から開始されていた。しかし、この時期の報告内容には、想像に基づく事実誤認、伝聞情報が数多く含まれていた。そこで、意図的に誤情報を与え、幼児のエピソード報告が歪むかどうかを実験的に調査したところ、4歳児では偽りの出来事を自分の体験として報告することが多いが、5歳児ではそのようなことがないことが示された。すなわち、4歳以下では、過去のエピソード報告は自分の体験でないものを含むことが明らかになった。また、初語時期の早い幼児は、エピソード報告の開始も早いという傾向が見られたことから、エピソード報告は言語能力の影響を強く受けていることが示唆された。第2章の結果と併せると、真のエピソード記憶は、再認が可能にならなければ、完全には成立しないことが示された。

 4歳児では、再認が可能になり、自分の体験が想起できることが分かったが、その背景には、自分自身の内面を意識化し、言語化する能力が必要であると考えられる。そこで、第4章では、幼児が内面を表す言葉をいつごろから理解しはじめるかを検討した。「覚える」「忘れる」といった記憶の意識化にかかわる語の自発的な発話開始時期は、再認が可能になる時期よりも少し後の4歳〜4歳半の時期であった。また他者の内面を表す語として「怖い」という感情語の理解度を絵刺激を用いてテストした結果、5歳児では(幼児にとって)「怖い人」と(恐怖表情を示す)「怖がっている人」の区別ができたが、4歳以下では「怖い人」は判断できるものの、「怖がる人」を正しく判断できず、「怖い」という語を「他者の内面を表す語」として理解できないことが示された。これらの結果は、幼児の言語能力と内面理解の関係を一般的に論じるためには、未だ予備的な知見に止まるが、それでもこれらの内面にかかわる語の理解と産出の時期が、エピソード記憶の成立時期と前後しているという指摘は興味深い。

 第5章では、視覚運動協応課題を用いて4〜5歳児の学習の転移を調査した。この調査の狙いは、再認能力やエピソード記憶能力、内面語の理解の成立に伴って、学習方法にも意識化が関与しているか否かをみることにある。実験の結果、右利きの5歳児と成人被験者では、右手から左手、左手から右手のいずれの方向でも学習が転移したが、右利きの4歳児では左手から右手へは学習が転移したものの、右手から左手への転移は生じなかった。本論文ではこの違いに関する説明は十分に論じられておらず、現象の報告に止まっているが、この実験により4歳児が個別的な学習から一般的規則に基づく学習へと移行する段階にあることが示され、意識化の過程が関与している事が示唆された。

 以上、本論文の成果をまとめると、各章で行った調査が必ずしも明確に連関しておらず、究極目標である幼児性健忘の解明に関しては統合的な考察が不十分であるという不満が残るものの、各章でなされた検討には、先行研究にない方法論上の工夫や、新しい問題提起が含まれている。なにより、本論文は従来の発達心理学研究で立ち遅れていた記憶というテーマにさまざまな新事実を提供している点が評価に値する。本論文は従来比較的交流が少なかった発達心理学と認知心理学を橋渡しする意味で、意義のある研究だと言えるだろう。さらに、発達研究の重要な手法である縦断研究も長期間に渡って成し遂げられており、著者の執拗な研究努力も評価できる。

 よって本論文は、東京大学大学院総合文化研究科課程博士(学術)の学位請求論文として合格と認定された。

 なお、本論文の第2章、第3章、第5章の内容の一部は、それぞれ「認知科学」「教育心理学研究」、「Perception and Motor Skill」誌にすでに掲載されている。

UTokyo Repositoryリンク