内容要旨 | | 我々は,なぜ,4歳以前の乳幼児期のことをなかなか自覚的に思い出すことができないのであろうか.このように乳幼児期の出来事を思い出せないことを「乳幼児健忘(infantile amnesia)」という(Freud,1901;Schachtel,1947).この乳幼児健忘の原因を解明するため,本研究では「4歳前後を境に記憶に関連した認知機能のどのような側面が変化するのか」に焦点をあて,調査を行った.特に,「自覚的に報告できない」という点に注目し,意識的な記憶の発達的変化をとらえることに重点をおいた.さらに,意識的な記憶に関係すると思われる他の認知能力の発達過程にも注目して,実験と観察を行った. 本研究では,まず,記憶の発達的変化をとらえるため,近年の記憶研究で広く認められてきた,顕在記憶(報告可能な意識的な記憶)/潜在記憶(自覚的に報告できなくても行動に現れるような記憶)の区分を利用し,顕在記憶が4歳前後までは十分に発達していないことが乳幼児健忘の原因ではないかという仮説の下に実験を行った.ただし,単純に潜在記憶と顕在記憶の発達がずれるという観点からだけでは,乳幼児健忘が生じる具体的なメカニズムに関しては十分に説明することができないと思われた.そこで,より具体的なレベルで解明するために,本研究では,乳幼児健忘で自覚的に思い出すことのできない「過去の個人的な出来事の記憶」,すなわち,エピソード記憶(本研究での定義は「"自分自身が体験し"(Pemer & Ruffman,1995)かつ"ある特定の過去になされた"という認識を伴った,言語で報告できる,出来事の記憶」)の発達過程を詳細に調べることにした. 第2章では,再認(「以前に見たか」という質問に対して,意識的に以前に見覚えがあるか否かを判断すること)を指標として調査と実験を行った.最初に,縦断的に7人の幼児を対象に,2種類の再認課題(強制二肢選択課題,はい/いいえ型課題)を2,3ヶ月に1回の割合で実施していった.その結果,(1)成人と同じように質問を理解して,再認課題に正答できるようになるのは,課題の種類に関係なく,3,4歳頃であること,それ以前の段階では,質問にはそぐわない反応が多く,再認という行動そのものが理解されていないことが示された(調査1).次に,絵刺激を用いて4歳児(3歳半以上4歳半以下)を対象に再認課題と選好課題(旧刺激(一度見た刺激)と新刺激(一度も見たことがない刺激)を対提示して好きな方を選択させる課題)を実施した結果,(2)4歳児において,再認課題ができない場合は選好課題において新刺激を好むが,再認課題ができる場合には旧刺激を好む傾向がみられた(実験1-1).さらに再認ができず新刺激を選択的に好んだ子どもを追跡したところ(実験1-2),再認能力の成立に伴って,新刺激から旧刺激を好む傾向へ移行する可能性が示された(図1参照). 第3章では,エピソード報告(過去の個人的な出来事の報告)を指標として調査と実験を行った.調査2では,調査1と同じ被験児に対して2,3ヶ月に1回の割合でインタビューを実施し,毎回,インタビュー内で記録される言語報告と,母親に提出してもらう言語と記憶に関するチェックリストに書かれた具体的な報告事例を判断材料として,エピソード報告が開始される時期を特定した.その結果,(3)再認が可能になる時期(第2章の調査1で特定された)よりも,過去のエピソードを語り始める時期の方が早く(図2参照),特に初期の頃(2,3歳代)のエピソード報告にはしばしば,年長児や成人ではみられないような想像などに基づく事実誤認が含まれており,成人や年長児でみられる「エピソード記憶に基づいてなされるエピソード報告」とは明らかに異なることが示された.次に,実験3では,運動会の競技を体験をした後で,実験者が意図的に偽りの出来事の情報を,直接語りかける形で,4歳児と5歳児(4歳半以上5歳半未満)に吹き込んだ結果,(4)5歳児では確認されなかったが,4歳児では,実験者から聞いた偽りの出来事の方を自分自身が運動会で実際に体験した出来事として報告するケースが確認され,4歳以下では完全には,エピソード記憶が成立していないことが示された.ここで注目すべき点は,従来,区別されずに一体のものとしてみなされてきた「エピソード報告」と「エピソード記憶に基づいた報告」の発達には時間的なずれがあるということである.4歳以下では,エピソード記憶が十分に成立していなくても,過去のエピソードを語ることは可能なのである.発達初期のエピソード報告はエピソード記憶というよりは,むしろ言語能力に依存している可能性が高い.縦断的な調査により,初語の開始とエピソード報告の対応を調べると,初語を話す時期が早いほど,エピソード報告が開始される時期も早い傾向が確認された. 以上,再認,エピソード報告,エピソード記憶の発達過程において,4歳前後に大きな変化がみられることが示された.これらの発達過程において共通する重要な能力は「記憶の意識化」である.自分が記憶しているか否かを意識し,その内容を言語化するためには,少なくとも,"自分の"内面を意識し言語化するという能力が前提となる.そこで,第4章では,この能力を調べるため,幼児が内面を表す言葉をいつ頃から理解しはじめるのかを検討した.まず,調査3では,調査2と同様に,縦断的に2,3ヶ月に1回の割合で母子インタビューを実施し,インタビュー内で記録される言語報告と母親に提出してもらうチェックリストを参考に,「知る」「覚える」「忘れる」の3つの言葉が,それぞれ自発的に発話され始める時期を特定した.その結果,(5)「覚える」「忘れる」といった,記憶を意識していなければ使用できないと思われる,内面を表現する言葉が自発的に発話されるようになるのは,再認が可能になる時期よりも少し後の,ほぼ4歳から4歳半頃であることが明らかになった(図2参照).次に,幼児に,顔の表情が書かれた絵カードを提示し,「怖い人」(幼児にとって怖い人:怒りの表情を示す人)と「怖がる人」(恐怖の表情を示す人)を表現するカードを選択させる課題を,横断的な実験と縦断的な実験により実施した(実験4-1,4-2).その結果,(6)「怖い人」も「怖がる人」もほとんどの5歳児が正しく選択したが,4歳以下では,「怖い人」は5歳児と同様に多くの子どもが正しく判断できたにもかかわらず,「怖がる人」を正しく判断できない子どもが多くみられた(図3参照).すなわち,4歳以下では「怖い」という言葉を「他者一般の内面を表す言葉」として完全には理解していないことが示された.これらの調査や実験を通じて,記憶に関連した動詞や感情語の理解においても,4歳前後が重要な転換期である可能性が示唆された. 他の認知能力の調査として,第5章では,手続き的な学習に焦点をあて,その発達過程について検討した.手続き的な学習は,一般に無自覚的な過程が優位であるとみなされているが,学習の仕方に注目した場合,自分の学習方法を意識するか否かが行動パターンに差を生み出す可能性も考えられた.そこで,学習の仕方の違いをみるために,視覚運動協応学習課題(ボタンを押す順番を覚える課題)を利用し,片方の手で課題を学習した後に,もう片方の手でどれくらいその課題を遂行できるのかを4歳児,5歳児と成人を対象に調べ比較した(実験5).その結果,(7)5歳児と成人の右利きの被験者では右手から左手,左手から右手へのいずれの方向においても学習がほぼ完全に転移したが,右利きの4歳児では左手から右手へは学習がほぼ完全に転移したものの右手から左手へはほとんど学習が転移しなかった(図4参照).これは,4歳から5歳にかけて学習の仕方が変化する可能性を示している.このように,顕在記憶を中心に,それに関連する言語発達,さらには手続き的な学習において3歳半から5歳頃が重要な時期である可能性が示された. 以上のような調査や実験を通して示された,4歳前後の認知発達上の変化が,乳幼児健忘のメカニズムに関与している可能性が高い.しかし,乳幼児健忘が生じるメカニズムをより直接的にとらえるには,発達の初期(1,2歳代)から長期に渡り同じ子どもを追跡する調査が不可欠であろう.今後,エピソード報告開始時期,再認開始時期,エピソード記憶成立時期を各々の子どもにおいて特定し,これらの時期が,後に想起できるか否かにとってどれくらい重要であるかを検討していきたい. 本研究で得られた知見に基づくと,4歳以前の乳幼児期の記憶過程は次のようなものとしてとらえることができるだろう.「乳幼児期は"記憶"を意識化しないため,現実,非現実を問わず新しい情報を次から次へと受け入れることが可能である.これらの情報は,主に潜在的記憶として処理され,それらは連想記憶と言語能力を頼りに報告される.経験を意識的に区別して想起できないため,乳幼児の過去についての報告には,非現実の話,関連のない出来事,伝聞情報がよく含まれる」.今後,この仮説に基づき,実証的な研究として発展させていきたい. 図1 4歳における再認と選好の関係●は各被験児の反応を表わす.横軸は,選好課題で新刺激を選択した割合を示し,縦軸は再認課題で正しく反応した割合を示す.新刺激選好率と再認正解率の間に,有意な負の個人間相関関係がみられた(R=-0.7,p<.0001).●は各被験児の反応を表わす.横軸は,選好課題で新刺激を選択した割合を示し,縦軸は再認課頼で正しく反応した割合を示す.→の左側の●は実験1-1の時点での反応を表し,→の右側は実験1-2(再認が可能になった)時点での反応を表す.実験1-2での新刺激選好率は,実験1-1の時点よりも有意に低かった.(直接確率法,Combined direct probability p<<.001)図2エピソード報告開始時期,再認開始時期,「知る」「覚える」「忘れる」発話時期の関係図3"怖い人""「怖い」と言う人"の表情判断の3年齢群における正答者の比率図4 4歳,5歳,成人における段階ごとのボタン押し課題での平均エラー数(a)は右手-右手-左手の順に学習した群,(b)は左手-左手-右手の順で学習した群の成績を示している.それぞれの群において,各年齢につき,段階ごとの被験者間での平均エラー数をもとめて示した. |